きょうは、イザヤ書24章の後半部分から学びたいと思います。タイトルは「残りの者の歌」です。1節には、「彼らは、声を張り上げて喜び歌い、」とあります。彼らとは、残りの者たちのことです。このイザヤ書24章は「イザヤの黙示録」と呼ばれている章で、神の救いのご計画全体があますところなく語られています。その中で全世界に対する神のさばきがやってくることが語られてきました。この地に住む人たちは神との契約を破ったので、神は地をさばかれ、地を荒れ廃らせます。世界はしおれ、衰えるのです。それが世の終わりの患難時代に起こることであります。これまで陽気にはしゃいでいた人たちもしおれてしまう、そんな時代がやって来ると警告したのです。
しかし、そのような中にもわずかな者が救われます。いわゆる「残りの者」と呼ばれている人たちです。残り物ではありません。残りの者です。この「残りの者」は、イザヤ書における重要なテーマの一つですが、神は、そのさばきが行われる患難時代にも残りの者を残してくださり、賛美をささげることができるようにしてくださるのです。きょうはこの「残りの者の歌」について見ていきたいと思います。
Ⅰ.残りの者の歌(14-16a) まず14節から16節の前半までをご覧ください。「彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。それゆえ、東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ。私たちは、「正しい者に誉れあれ」と言う地の果てからのほめ歌を聞く。」
「彼ら」とは、先程申し上げたように「残りの者たち」のことです。彼らは、これまで陽気に楽しんでいた人たちがしおれ、ため息をつく中で、それとは対照的に、彼らは声を張り上げて歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶようになります。
黙示録7章9節から17節に、そのときの様子が描かれています。ちょっと長いですが見てみたいと思います。
「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群集が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、 言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」(黙示録7:9-17)
彼らは、御座と小羊との前で、大声で叫んで言います。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」と。「賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。」と、叫ぶのです。その人たちはだれかというと、14節に「彼らは、大きな患難を抜け出た人たち」とあります。患者時代における神の激しいさばきが行われる中で悔い改め、主を信じて受け入れた人たちです。いわゆる残りの者たちなのです。彼らは、主に賛美と感謝をささげ、昼も夜も、神に仕えるのです。もちろん、ここには栄光のからだによみがえったクリスチャンたちもいます。クリスチャンは、イエス様が再臨するとき墓からよみがえり朽ちないからだ、栄光のからだ、復活のからだによみがえらされ、空中に一挙に引き上げられます。そこでいつまでも主とともにいるようになるのです。しかし、実際にはこの地上に七年間の患難がもたらされているとき、そのさばきを免れ空中にいるわけですが、その七年間の患難時代が終わるとき、イエス様とともにこの地上に下りて来て主とともに千年間支配するわけです。そして、患難時代を通り抜けた人たちと一緒に声を合わせて主を賛美するようになるのです。
ヘンデルが作曲した「メサイヤ」は、救い主イエスについて歌っている歌ですが、演奏時間が三時間にも及ぶ大曲です。そのなかに、有名な「ハレルヤ・コーラス」があります。何回も何回も「ハレルヤ、ハレルヤ」と繰り返すすばらしい合唱です。 十八世紀の中ごろ、イギリスのロンドンで初めて「メサイヤ」が演奏されたときのことです。救い主がおいでになるという預言から始まり、神様の愛と救いのご計画、イエス様のご生涯を歌っているこの曲が、全能の神を賛美する「ハレルヤ・コーラス」のなかに「全能の主である神は」というフレーズにさしかかると、神の威厳に心を打たれた聴衆は、たまたま臨席していた国王ジョージ二世と一緒に思わず立ち上がり、神に敬意を表しました。そして、コーラスが終わるまでずっと立ちつくしていたと言われています。それ以来、「メサイヤ」が演奏されるときはいつでも、「ハレルヤ・コーラス」のところで聴衆が起立するようになりました。この偉大な神を前に、座って聴いていることなどできないのです。世の終わりには、そのような賛美がささげられるのです。
ベートーベンは、「第九」を作曲しました。第九とは大工さんのことではありません。「第九交響曲」のことです。日本ではいまや年末恒例の演奏曲目になりました。これを歌わなければ年を越せないという人もいるほどです。 この合唱曲は「歓喜の歌」と呼ばれていますが、作曲者のベートーベンの生涯は、歓喜とはほど遠いものでした。楽団の歌手だった父親は大酒飲みで、息子に音楽を仕込んでひともうけしようと、練習を強制しました。もともと才能のあったベートーベンは、若い頃からピアノを教えたり演奏したりして家族を養っていました。1800年に「第一交響曲」を発表し、作曲家として認められるようになりましたが、三十歳のころ、作曲家として最も大切な耳が聞こえにくくなったのです。そのころベートーベンは、アメンダという牧師に手紙を書いて、「私はこの世で神が造られた最も惨めな人間だと感じることがたびたびあります」と言っています。二人の弟に宛てた手紙の中でも、「おお、神のみこころよ。私はいつまた喜びに出会えるのでしょう。その日はもう決して来ないのではないかと思っています。それはあまりにも残酷です。」と書き送っています。 勧められる治療をいろいろ試み、何度も手術を受けましたが聴力はほとんど回復することはありませんでした。その苦しみの中でベートーベンは神様の助けを求めて祈りました。天に召される二週間前に友達に宛てて書いた手紙の中には、「神様がこの苦しみから守ってくださるようにということだけを祈っています。私の人生がどんなに苦しく恐ろしいものであっても、神様のみこころに従うことによって、苦しみに耐え抜く力が与えられることでしょう。」と書いています。 あの第九は、彼が聴力を失ってからの作品です。「ベートーベンの生涯」の作者ロマン・ロランは、「第九交響曲」の合唱の部分を評して、「少しずつ歓喜は全体を手に入れる。それは一つの征服である。悲哀に対する戦いである。・・・・全人類が腕を天へ差し出し、強い歓声をあげて、歓喜に向かって飛びかかり、胸の上にそれを抱きかかえる。」と書いています。 苦しみの中から求めてやまなかった「喜び」を、ベートーベンは神様への信仰のうちに見いだし、力強く音楽に表現したのです。それは彼が、この天での礼拝、神への賛美の光景を知っていたからです。
私たちもこの礼拝へと招かれています。やがて残りの者たちとともに心からの賛美をささげるようになるのです。それこそ私たちの希望ではないでしょうか。たとえ今は辛いこと、苦しいこと、悲しいことがあっても、私たちはやがてそのような歓喜に満ち溢れるようになるのだということを信じて、この地上にあっても心からの賛美を主にささげる者でありたいと思います。
Ⅱ.止まらない神のさばき(16b-20) 次に16節後半から20節までをご覧ください。16節の後半のところをお読みします。「しかし、私は言った。「私はだめだ、私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者には裏切り、裏切り者は、裏切り、裏切った。」
どういうことでしょうか。確かに患難時代にも救われる人がいます。わずかな残りの者がいるわけです。そして彼らは賛美の歌を歌うようになります。しかし、手放しでは喜べません。なぜなら、そこに永遠に滅び行く人たちがいるからです。一部の人たちが救われることはすばらしいことですが、あまりにも多くの人たちが苦しみ滅んでいくことに、手放しで喜ぶことはできないのです。
17節と18節をご覧ください。ここには「地上の住民よ。恐れと、落とし穴と、わなとがあなたにかけられ、その恐れの叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴からはい上がる者は、そのわなに捕らえられる。天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。」とあります。
だれも神のさばきから逃れられないということです。たとえ隠れようとしても、たとえ逃れようとしても、隠れる場所がなく、逃れる場所がありません。というのは、天の窓が開かれ、地の基が震えるからです。「天の窓が開かれ」というのは、創世記7章11節にも出てきます。そこでは「天の水門が開かれ」とあります。あのノアの大洪水の時、天の窓、天の水源が開かれ、大量の雨が降って全地を覆い、すべての生き物を滅ぼし尽くしました。しかし、神はとこしえの契約によってもう二度と洪水によっては滅ぼさないと約束されました。ではこの天の窓が開かれとはどういうことなのでしょうか。これは大雨というより、天からもっと恐ろしいものが降ってくるということです。何でしょうか。雹です。巨大な雹が降ってきます。黙示録16章21節を見ると、それは1タラントほどの大きな雹とあります。1タラントというのは約35㎏です。それほど大きな雹が降ってくるわけです。よく農作物が雹の被害に遭ったというニュースを聞くことがありますが、その雹というのはあられ程度の大きさです。しかし、世の終わりの時に降ってくる雹はあられどころではありません。35㎏もある大きな雹です。よくスーパーで30㎏のお米を買いますが、あれほどのものがものすごい勢いで天から落ちてきます。そんな大きなものが降ってきたら家でも、畑でも、目に見えるすべてのものが破壊し尽くされてしまいます。
それからここには「地の基が震える」とあります。専門用語で「ポール・シフト」と言います。地軸が動くことです。ひどい場合には北極と南極が反転します。それによって気候変動が起こったり、地殻変動が起こったりするわけです。地軸が少しずれるだけでこの地球に大きな影響がもたらされます。多く人たちが逃げようとしても、逃げられないほどの災害となって現れるのです。
そして19節と20節には、「地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。」とあります。
大地震が起こるということです。黙示録16章18節には、「この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。」とあります。ものすごい規模の地震が起こるのです。東日本大震災もマグニチュード9の大地震でした。その爪痕はあまりにも大きく、人々の暮らしを一変させてしまいましたが、もっと大きな地震が起こるというのです。その結果、地は酔いどれのように、ふらふら、ふらついてしまいます。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかるからです。
イザヤは、それを見て嘆きました。わずかな者が救われて神を賛美するようになることはすばらしいことですが、その一方で、神のさばきによって滅んでいく人たちもいます。そういう人たちを見て、イザヤは「私はだめだ、私はだめだ。何と不幸なことか。」と嘆いたのです。
皆さんはどうでしょうか。確かに自分はイエス様を信じて救われました。どんな患難があっても大丈夫。永遠のいのち、天の御国の中に入れられました。そこで主に賛美をささげるようになります。今は小さな群れでの賛美ですが、やがてすべての国々の人々と、だれも数え切れないほどの大ぜいの人たちと、あらゆる言語で賛美する時がやってきます。それはものすごい感動と喜びをもたらすことでしょう。
私の一番下の娘はオーストラリヤからやってきた宣教師によって建てられた教会に通っていますが、そこでは毎週ヒルソングの曲を賛美するそうです。夜でもヒルソングです。何百人もの若者が集まって賛美するだけで感動しています。しかし、やがて世の終わりに持たれる賛美はそんなものではありません。何万人、何十万人もの人たちが一緒に賛美する大合唱です。そんな栄光の中に導き入れられます。しかしその一方で、こうした患難に苦しみ、滅んで行く人たちもいるのです。私たちはそういう人たちが救われるように祈らなければなりません。そのような人たちもこの救いの箱舟の中に入れられ、やがて神を賛美する人たちの中に加えられるように、神のさばきのメッセージを語っていかなければならないのです。
Ⅲ.王座に着かれる神(21-23)
最後に21節から23節までをご覧ください。21節と22節をお読みします。「その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、それから何年かたって後、罰せられる。」
ここにも「その日」ということばがあります。これは患難時代に起こることが預言されてあるわけですが、ここではその患難時代の最後に起こることが書かれてあります。それは人類最後の戦いです。その戦いをハルマゲドンの戦い、ギリシャ語ではメギドの戦いと言いますが、この戦いで、主は天の大軍と地上の王たちを罰せられるわけです。もちろん天の大軍というのは、サタンを頭とする悪霊の勢力のことです。エペソ6章12節やコロサイ2章15節にも出ています。地上の王たちとは、エルサレムの覇権を巡って集まってくる勢力のことです。東から2億にのぼる兵力が、西からも反キリスト率いるヨーロッパの勢力が、その他にも北から南から、みなこのメギドの丘、ハルマゲドンを目指してやって来ます。そして彼らは天から降りて来られる主に戦いを挑みますが、主は御口の息をもって彼らを吹き飛ばします。このことです。
その後彼らはどうなるのか?22節を見ると、「彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じこめられ、それから何年かたって後、罰せられる。」とあります。「囚人の地下牢」とはハデスのことです。天の大軍も地上の王達もみなその地下牢に投げ込まれ、鎖でつながれます。詳しくは黙示録の20章以降を参照してください。そして、ここには「それから何年かたって後、罰せられる」とあります。この何年かというのは千年間です。悪魔でありサタンである竜は、底知れぬ所に投げ入れられて千年間縛られているので、この地上には千年間平和な時代が訪れます。千年王国です。千年の間主イエスが王として君臨する平和な時代がやってくるのです。
しかしその千年が終わると罰せられます。千年の後に、竜と呼ばれるサタンが再び解き放たれるからです。なぜ神はそんなことをされたのでしょうか。永遠にサタンを地下牢に閉じこめておけば何の問題もないのに、そうやって自由にさせるからいろいろな問題が起こるんだ、とあなたは思われるかもしれません。しかし、人間はロボットではありません。自由意志を持つ者として造られました。その自由意志を用いて神を愛することを望んでおられるのです。ですから神がサタンを解き放たれるのは、千年間平和な時代を過ごした人間が、ほんとうに神を愛し神に従うのか、あるいは悪に従うのかの二者択一を迫るためなのです。栄光のからだに復活させられたクリスチャンは罪を犯すことはありません。イエスが再臨された空中に引き上げられたクリスチャンは朽ちないからだ、栄光のからだ、完全なからだを持っているので、再び罪を犯すことはないのです。これは患難時代を通った生身の人間、残された者がどうかということなのです。そして黙示録20章には海の砂ほどの人がサタンを選ぶとあります。(黙示録20:8)多くの者たちが惑わされサタンにつき従い、キリストに対抗しようとエルサレムを取り囲みます。そのときです。天から火が降ってきて、それらを焼き尽くします。そして永遠の火、ゲヘナに投げ込まれるわけです。これが白い御座のさばきという、神の最終的なさばきです。
そして新しい天と新しい地です。黙示録21章です。新しい天と新しい地がもたらされます。以前の天と、以前の地は過ぎ去ります。新しい天と新しい地が天から下ってきて、そこで永遠に主とともに過ごします。そこには太陽も月もありません。なぜなら、イエス様ご自身が都の太陽だからです。そのイエスの輝きがあまりにもすごいので、太陽や月の輝きもかげってしまうほどです。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前で輝くからであるとは、そのことを指しているのです。ですから、このイザヤ書24章が「イザヤの黙示録」と呼ばれているゆえんはここにあります。神の永遠のご計画の全体をあますところなく語っているからです。
そして、この箇所からわかることは、最終的に主は勝利されるということです。皆さん、なぜ私たちは主を賛美するのでしょうか。それはこの方が究極的な勝利を与えてくださるからです。イザヤが見た主は、エルサレムに着座された方は、究極的に敵であるサタンと世のすべての悪を滅ぼされる勝利の主です。その王座に着かれる主の姿こそ、私たちの希望です。私たちが主を賛美するのは、主が究極的な勝利を与えてくださるからです。
あなたはが今見ているのは何ですか。目の前のさまざまな問題ですか。それとも世の終わりにもたらされる究極的な勝利ですか。勝利者であらるイエスをあなたの心の王として迎え、この方に心からの賛美をささげようではありませんか。