イザヤ書24章1~13節 「地をさばかれる神」

きょうは、イザヤ書24章の前半の部分からお話したいと思います。タイトルは、「地をさばかれる神」です。イザヤは、13章から23章にかけてイスラエルを取り囲む周辺諸国に対する神のさばきの宣告を語ってきました。きょうのところから新しい段落に入ります。ここには全世界に対する神のさばきの宣告が語られていくわけです。イザヤは、まず身内であるイスラエルに対して語りました。神のさばきは、神の家から始まるのです。まず神の民であるイスラエルが、クリスチャンが自分自身を吟味しなければなりません。今立っていると思っている人は、倒れないように注意しなければならないのです。もし罪を犯していれば悔い改めなければなりません。もし高慢であればへりくだらなければなりません。その次はだれでしょう。その次はイスラエルを取り囲んでいた周辺諸国に対する宣告でした。神のさばきは、神の民であるイスラエルからその周辺諸国へと広がっていることがわかります。そしてそのさばきの宣告は、今度は世界規模へと広がっていきます。周辺諸国を越え全世界へと拡大していくわけです。そればかりではありません。その時代を超えて世の終わりにおける神のさばきの宣告となって語られていきま。ですからこの箇所は、「イザヤの黙示録」と呼ばれているのです。ダニエル書やヨハネの黙示録のように、世の終わりのことが詳細に述べられているからです。  きょうは、この世の終わりの神のさばきの描写を通して、私たちが今、この時代にあっていかにあるべきかをみことばから学んでいきたいと思います。

Ⅰ.ひっくり返る世(1-4)

まず第一に、神様はさばきによってこの世をひっくり返します。1節から4節までをご覧ください。

「見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。 民は祭司と等しくなり、奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸す者は借りる者と、債権者は債務者と等しくなる。地は荒れに荒れ、全くかすめ奪われる。主がこのことばを語られたからである。地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。」

ここに「見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。」とあります。この「くつがえして」ということばは、「上下をひっくり返す」という意味です。まさに天変地異が起こります。世の終わりには、私たちの想像を越えた地殻変動が起こるのです。

このことは、イエス様も弟子たちに語られました。マタイの福音書24章21節と22節をご覧下さい。ここには、「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」とあります。それはいまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難です。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者がいないでありましょう、それほど大きな苦難です。

黙示録6章12節から14節までのところにも、このことが描かれています。「私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。」

イザヤが語っているのはこの大きな地震のことでした。昨年、私たちが経験した東北大震災は、マグニチュード9クラスの大地震でした。マグニチュード9というのはエネルギーに換算すると475メガトンに匹敵するそうです。475メガトンといってもあまりピンとこないかと思いますが、これは原油326万バレルに相当します。といってもまだピンとこないでしょう。これは全世界の石油消費量の四日分です。ですからものすごいすごいパワーなのです。三陸沿岸を襲った津波の力は、時速1,000キロで飛んでいるジェット機250機分に相当します。それほど力のある津波が押し寄せ防波堤を破壊したのです。それはあの阪神淡路大震災の1,000倍、ハイチ地震の5,000倍のパワーでした。けれども終わりの時に起こる地震はこれとも比べものにならないくらいの大きい地震です。すべての山や島がその場所から移されるような規模なのです。単なる震動や揺れではなく、地殻変動を伴うほどの大きさであり、また地域的ではなく世界的な規模で起こります。この地上で起こりうる最大級の地震はマグニチュード10だと言われていますが、それは昨年の東北大震災の何千倍もの大きな地震です。そのような考えられないような地震が世の終わりに起こるのです。

2節をご覧ください。ここには、「民は祭司と等しくなり、奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸す者は借りる者と、債権者は債務者と等しくなる。」とあります。これはどういうことかというと、上下関係がないということです。神のさばきはどんな人に対しても平等をもたらされます。金持ちであろうと貧乏人であろうと関係ありません。地位が高い人でも低い人でも同じです。見てくだい。ここにはまず民と祭司が等しくなるとあります。これは宗教的な差別がなくなるということです。それから奴隷と主人が等しくなるとあります。これは社会的な差別がなくなるということです。そして買い手と売り手も等しくなります。これは経済的な差別もなくなるということです。神のさばきは人々に平等をもたらすのです。

このことは神のさばきだけでなく、神の救いも言えることです。救いは、あなたがどのような立場にあるかとか、どれだけ裕福であるか、どれだけ能力があるかということと全く関係ありません。神の救いはただへりくだって、救い主イエス・キリストを信じことによってのみ救われます。イエス様を信じるならどんな人でも救われます。しかし、信じないなら罪に定められます。神の救いは私たちの身分や能力、財産といったことと関係なく、ただ救い主イエス・キリストを信じることによってのみもたらされるからです。そして、この神の救いは、あなたにも差し出されているのです。

そして、3節をご覧ください。ここには、この大地震によってもたらされる経済的損失がどれだけ大きなものであるかが書かれてあります。それはちょうどかすめ奪われた時のように、略奪された時のように、巨額の経済的損失を被ることになるのです。昨年の大震災による損失は、16兆円から25兆円にのぼると試算されています。復興のために必要なお金は、10年間で23兆円だと言われています。全く想像できない金額です。たった一つの地震でもこれだけの損失が出るのですから、これが全世界的な規模で、地球規模で起こったらどうなるでしょうか。まさに天文学的な数字になります。とても復興などできないという状況になるのです。

必ずこのような状況になります。なぜなら、これは主によって語られたからです。3節後半のところに、「主がこのことばを語られたからである」とあります。主によって語られたことは必ず実現します。ですから私たちは、いつも油断せずに祈っていなければなりません。ルカの福音書21章36節に「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」とあります。新聞の一面を見て、テレビのトップニュースを見て、世界で今起こっていることを知り、今がどのような時代なのかを悟り、心を砕いて、世の終わりに備えていなければなりません。いたずらに世の終わりの前兆に振り回されたりするのではなく、主イエスがいつ来られてもいいように、いつ私たちを迎えに来てもいいように、備えておかなければならないのです。

4節をご覧ください。ここには「地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。」とあります。ここには「しおれる」とか「衰える」といことばが繰り返して出てきます。たった一度の大震災でも、多くの人たちの心はしおれてしまいます。社会全体が衰えてしまうのです。これは経済的な面だけでなく精神的にも、感情の面でも、政治的な面においてもです。ここに「天と地とともにしおれる」というのは※がついています。下の説明を見ると、これは「地の民の天はしおれる」の読み替えだとありますが、どういう意味なのかさっぱりわかりません。これはどういうことかというと、地の民の天、すなわち地の民の高いところがしおれるということです。つまり上流階級が衰えるという意味にもとれるということです。いづれにせよ、そうした天変地異によって世界中のすべての人たちの心がしおれ、衰えるようになるということなのです。

あなたの心はどうでしょうか。あなたの心はしおれていませんか。衰えていませんか。使徒の働き17章6節を見ると、パウロとシラスがテサロニケで伝道していたとき、多くの人たちは彼らのことばをよく聞いて信仰に入りましたが、ねたみにかられたユダヤ人たちは、ヤソンと兄弟たちの幾人かを役人たちのところに引っ張って行き、大声でこのように言いました。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入りこんでいます。」クリスチャンのことを、「世界中を騒がせて来た者たち」と呼んだのです。これは世界中をひっくり返して来た者たちという意味です。クリスチャンは世界中をひっくり返すような存在なのです。そのような力が与えられているのです。聖霊の力です。世の終わりが近くなると、人々の愛が冷え、世界はしおれ、衰えていきますが、私たちにはこの聖霊の力が与えられていることを覚え、世界をひっくり返すような者でありたいと思います。

Ⅱ.契約を破った人間(5-6)

第二に、神がこの世をひっくり返すと言われた原因を考えてみたいと思います。5節と6節をご覧ください。ここには、「地はその住民によって汚された。彼らが律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからである。それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罪ある者とされる。それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。」とあります。

ここには天変地異の理由が書かれてあります。それは、地がその住民によって汚されたからです。キリストを拒絶する人たちの罪によって汚されたからなのです。私たちはしばしば、昨年のような大震災を経験すると、「なぜ神様はこんなひどいことを許されるのか」と言って神を非難します。しばしば起こっていることを見て、なぜ神はこんな悪を許されるのか、と責めます。けれどもそれは見当違いです。ここにはっきりと書かれてあるように、世界がこのように暗くなったのは神のせいではなく、この地に住む人間が律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破っているからなのです。すべての不幸は、人間の罪の結果もたらされたものです。ゆえに究極的には、そのような災害さえも罪の結果によると言えるのです。

「とこしえの契約」とは、ノアの契約のことではないかと考えられています。神はノアとその家族に、もはや大洪水で地を滅ぼすことはしないと約束されました。(創世記9:11)その契約のしるしが虹でした。虹が雲の中にあるとき、神はそれを見て、彼らとの契約を思い出し、大洪水をもたらすことはしないと約束されたのです。あのノアの契約、虹の契約です。

しかし、このノアの契約は神の恵みによる一方的な契約であって、人間によって破棄することはできません。人間によって破棄することができるのは、一方的な契約ではなく、法と規定を守ることを含んだ契約であるはずです。ですから、これはあのシナイ山でイスラエルと結ばれた戒め、十戒のことだと思います。6節に、この契約を破棄したことによってのろいが与えられるというのも、この契約の背後にシナイ山の契約があったことを示唆しています。おそらくイザヤは、あのノアのとこしえの契約にシナイ山の契約を合わせて地に住む住人を告発しているのでしょう。

6節には「それゆえ」とあります。この地に住む住人が、神との契約、とこしえの契約を破棄したので、のろいは地を食い尽くすようになりました。せっかく神がノアにとこしえの契約を与えたのに、ぶどう畑の農夫であったノアは、ぶどう酒を飲んで酔っぱらい、その家族にのろいをもたらしたように、この人類は神との契約を破棄したことで、のろいを招いてしまったのです。

そののろいとは何でしょうか。ここには「それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。」ということです。この地に住む住人が、飢饉や疫病、あるいは自然の災害によって激減するようになるのです。この「減る」ということばですが、これは直訳すると「焼かれる」です。世の終わりのさばきは、火によるさばきです。ペテロ第二の手紙3章3節から13節までをご覧ください。少し長いですが読んでみたいと思います。

「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」    世の終わりになると、神の火によるさばきが起こります。天の万象は焼けてくずれ落ちます。そのようにして地上の人口が激減するわけです。それは黙示録にも書かれてもあることです。そんなこと起こるはずがない。全然変わらないじゃないか。世界は今も昔もずっと同じだ。とあざける者たちは言うでしょうが、そういう人たちは、なぜそのことが起こっていないのかという理由を見落としているのです。それは、神が忍耐しておられるからなのです。神はひとりも滅びることを望まず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるのです。ですから、この火によるさばきに会わないように、悔い改めて、神に立ち返らなければなりません。神はそのために忍耐して待っておられるのです。

「サハラの炎」という本を書いたシャルル・ド・フーコーはフランスの軍人でした。しかし彼は、主に人格的に出会った後、カトリックに立ち返り修道士となりました。そして、サハラ砂漠で原住民のために宣教する中、原住民の銃に撃たれ殉教しました。  彼はその著書の中でこのような質問を投げかけています。「神を信じるクリスチャンにとって最も難しいことは何だろうか」皆さんはクリスチャンとして最も難しいと感じることは何でしょうか。その答えは人によってそれぞれ異なるでしょう。このフーコーは自らこのように答えています。  「神を信じるクリスチャンにとって最も難しいことは神を信じることだ」と。  実に的を射た答えではないでしょうか。私はこれを読んだとき本当に涙が溢れました。私たちは自分が神を信じていることを微塵も疑いません。いつも「神を信じている」と告白しています。にもかかわらず、ある決定的な瞬間に、神に法則よりも世の法則を信じてしまうのです。その時間、その場所に、その出来事の中に神がおられ、神が関わっておられるということを忘れているのです。「神が私たちとともにおられる」と口で言うほど、すべてのことにおいて、その事実を信じて行動することは容易なことではありません。であれば、神をあざける人たちが、そんなことが起こるはずがないと言うのも理解できます。神を信じることは、神を信じていない人だけでなく、神を信じているクリスチャンにとっても最も難しいことなのです。

私たちは、今も生きて働いておられる神をもっと意識しなければなりません。そこから始めることを忘れてはならないのです。これが神がこの世をさばかれる理由だということをしっかりと覚えておきたいと思います。

Ⅲ.喜びが消える(7-13)

第三に、この神のさばきの結果、この地はどのようになってしまうのかを見て終わりたいと思います。7節から13節までをご覧ください。「新しいぶどう酒は嘆き悲しみ、ぶどうの木はしおれ、心楽しむ者はみな、ため息をつく。陽気なタンバリンの音は終わり、はしゃぐ者の騒ぎもやみ、陽気な立琴の音も終わる。歌いながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒を飲んでも、それは苦い。都はこわされて荒地のようになり、すべての家は閉ざされて、入れない。ちまたには、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる。町はただ荒れ果てたままに残され、城門は打ち砕かれて荒れ果てる。それは、世界の真ん中で、国々の民の間で、オリーブの木を打つときのように、ぶどうの取り入れが終わって、取り残しの実を集めるときのようになるからだ。」

大患難は何もかも変えてしまいます。これまで大事にしてきた財産を失い、大切な家族をも失ってしまいます。そのような中で人々の喜びは取り去られ、悲しみが覆うようになります。陰気になってしまうのです。何をしても全く楽しくありません。酒を飲んで憂さを払おうとしてもそのようにはなりません。これまでお笑いを見て楽しんでいた人が青ざめるようになるわけです。別に楽しむことが悪いということではありません。あまりにも悲しくて楽しめない現実がそこにあるわけです。    10節を見ると、「都はこわされて荒地のようになり」とありますが、この「荒地」とは創世記1章2節の「茫漠」と同じ言葉です。何もないような状態を指します。本来であれば草木が生え、花が咲き、動物や人間が暮らすはずの地が、何もない状態になります。天地が創造される以前の何もない状態となるわけです。世の終わりになると、あるべきものがすべて無くなってしまいます。荒地の状態になるのです。

11節には「ちまたには、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる」とあります。あるのは悲しみだけです。世界中の都、世界中の町々、ちまたにあるのは悲しみの叫びだけです。

12には「城門は打ち砕かれる」とあります。これは町の要であった城門が砕かれるということで、安全も失われるということです。安全神話が断ち切れるのです。これまで安全だ、安心だと言われてきたものがそうでなくなるのです。軍事力で安全を確保しようとしてもできなくなります。喜びもなければ、頼れる人もいません。安心して暮らせる安住の地は消えて無くなってしまうのです。

13節のオリーブやぶどうの収穫のたとえは、神のさばきによってほんのわずかな実だけが残されるということを語っています。イスラエルでは小麦もそうですが、オリーブやぶどうを収穫する時も、すべてを収穫しないようにという教えがありました。貧しい人たちのために残しておくようにしなければなりませんでした。それは貧しい人たちを救済するための神の方法だったのです。しかし、それは本当にわずかです。わずかな者だけが残されます。残されますが、それでも大患難を通らなければならないのです。

ですから、今が恵みの時、今が救いの日なのです。もし今イエス・キリストを救い主として信じるなら、あなたは救われます。そして、イエス様が再び来られるとき朽ちないからだ、復活のからだ、永遠のからだによみがらされ、雲の中に一挙に引き上げられ、いつまでも主とともにいるようになるのです。この恐ろしい神のさばきに会うことはありません。なぜなら、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅱテサロニケ5:9)クリスチャンにもたらされるのは嘆きや悲しみではなく栄光と喜びなのです。

あなたはいかがですか。最近何をしても心に喜びがないということはありませんか。その理由が何であり、どうすれば喜びを回復できるのかを探ってください。それが世の終わりの審判から来ているものであるならば、主がおられないところから生じている空しさからであるならば、悔い改めて、主の再臨に備えてください。そしてやがて来る審判の日を恐れと不安の心で迎えるのではなく、栄光と喜びをもって迎えて