イザヤ書25章1~12節 「神を賛美しよう」

きょうは、イザヤ書25章から「神への賛美」についてお話したいと思います。1節を見ると、「主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。」とあります。すばらしい賛美です。イザヤは24章で、神の救いのご計画の全体を語りました。すなわち、世の終わりに、主は地をさばかれるということです。主は地を荒れすたらせ、その面をひっくり返されます。天変地異が起こるのです。わずかな者だけが残されます。残りの民、レムナントです。彼らは主がシオンの山、エルサレムで王になられるとき、主が治められるこの地上千年王国で過ごすようになるわけです。イザヤはこの光景を見たとき、この賛美の言葉がほとばしり出たのです。

まさに賛美は天国の言葉です。天国にはこのような賛美と感謝に溢れています。賛美でない言葉、つまり不平であったり、不満であったり、文句たらたら、恨み、つらみ、怒り、憤りといった言葉はありません。それらは天国のことばではなく、この地上の言葉なのです。天国ではだれ一人として不平や不満を言う人はいないのです。だれ一人文句を言う人もしません。そういった言葉は地に属するものだからです。天国ではだれもかれも賛美の言葉しか発しないのです。ですから、賛美は天国の言葉、天国の言語だと言えると思います。

その人がどんなことばを話すかによって、その人の出身地がわかります。ペテロは思わずガリラヤのまなりを発してしまったので、大祭司の女中から「あなたもあの人の仲間ではなでしょうか。ことばのなまりではっきりとわかります。」(マタイ26:73)と言われました。その人がどんなことばを発するかによって、その人の出身地がわかるのです。

私たちは神に救われて神の民、天国の国民として、天国の言葉を語らなければなりません。そのくちびるが賛美と感謝に満ち溢れていなければならないのです。きょうはこの賛美について三つのことを学びたいと思います。

Ⅰ.神は真実な方である(1-5)

まず第一のことは、私たちが神を賛美するのは、神が真実な方だからです。1節と2節をご覧ください。ここには、「主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町からうせ、もう、永久に建てられることはありません。それで、力強い民も、あなたをほめたたえ、横暴な国々の都も、あなたを恐れます。」とあります。

皆さん、いったい私たちはなぜ神を賛美するのでしょうか?それは、神は真実な方だからです。ここに、「あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。」とあります。この「忠実」と訳されたことばは「真実」とも訳されることばです。神が忠実であられるので、神が真実であられるので、私たちは神を賛美するのです。不思議なことに神様は、確かなご計画をもってこの歴史を導いてこられました。遠い昔から・・・。たとえば、神はイスラエルがエジプトに捕らえられていたとき大いなる御業をもって彼らをそこから救いだし、カナンの地に導き入れられました。また、バビロンに捕らえられ七十年の間捕囚の民であったときも、異教徒であったペルシャの王を立て、彼によってエルサレムに帰還することができるようにしてくださいました。主は遠い昔からの永遠のご計画を、忠実に成し遂げられました。これが私たちが神を賛美すべき理由です。あなたはどれだけこの神の真実を体験しているでしょうか。真実な神、忠実な神を体験すればするほど、神への賛美が溢れてくるのです。

それだけではありません。4節と5節を見てください。ここには、「あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。砂漠のひでりのように、あなたは他国人の騒ぎを押さえ、濃い雲の陰になってしずまる暑さのように、横暴な者たちの歌はしずめられます。」とあります。

来るべき大患難時代において、ユダヤ人がどれほどの迫害を受けるかを私たちは見てきました。それはかつてなかったほどのもので、それによって多くの者が滅びていきます。しかし、神はその中にもわずかな者を残してくださいました。そして、彼らが生きながらえることができるように守ってくださったのです。ここではそのことが言われています。「あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける影となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹き付けるあらしのようだからです。」

アメリカで「ピース」という題で絵画コンクールが開かれました。鏡のような湖面に浮かぶボート、平和そのものの緑の牧場に横たわる羊の群れなど、たくさんの作品が寄せられていました。ところが最優秀作品に選ばれたのは、何と激しい雷雨の中で、稲妻が光、波しぶきが高く上がる崖の上にある小さな空洞で、母ワシが翼を広げ、ひなワシをおおっている絵でした。

主はまさに私たちの隠れ場です。弱っている者のとりでであり、貧しい者の悩みのときのとりでです。あらしの時の避け所、暑さを避ける陰となられるのです。そこにどんなに横暴な者がいて、攻めて来ようとも、主は避け所として私たちを守ってくだるのです。最後の最後まで・・・。だから私たちはこの方をあがめ、この方の御名をほめたたえるのです。

以前にも何度か紹介したことがありますが、「あしあと」という詩があります。「ある夜、わたしは夢を見た。 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。 どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。 ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。 そこには一つのあしあとしかなかった。 わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。 このことがいつもわたしの心を乱していたので、 わたしはその悩みについて主にお尋ねした。 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、 わたしと語り合ってくださると約束されました。 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、 ひとりのあしあとしかなかったのです。 いちばんあなたを必要としたときに、 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、 わたしにはわかりません。」 主は、ささやかれた。 「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。 あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。 あしあとがひとつだったとき、 わたしはあなたを背負って歩いていた。」 (マーガレット・F・パワーズ)    主はあなたのとりで、あなたの避け所となってくださいます。最後まであなたを守ってくださいます。そのように真実な方なのです。それゆえに、神に信頼する者は、心からの賛美をささげることができるのです。

Ⅱ.神は豊かに祝福してくださる(6-8)

第二のことは、クリスチャンが主を賛美するもう一つの理由は、主が私たちを豊かに祝福してくださるからです。6節をご覧ください。ここには「万軍の主はこの山の上で万人のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。」とあります。

この日が待ち遠しいですね。もうコレステロールとか関係ありません。カロリーも気にする必要がありません。メタボとか、メタボ予備軍だといった健康指導も受けなくていいのです。焼き肉食べ放題、ステーキ食べ放題です。もちろん、これは文字通りの焼き肉食べ放題のことを言っているのではありません。これは豊かな祝福を意味しています。やがてくる千年王国において、主はそれ程の喜びや楽しみを与えてくださいます。だれでも、イエス様を信じ、救われた人々は、この救いの宴会に加わることが出来るのです。

そればかりではありません。7節と8節をご覧ください。ここには、「この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。」とあります。

どういうことでょうか?このおおいとは、主の栄光を見えないようにするために遮断していたものです。この山の上で、このおおいが取り除かれるわけです。いったいこのおおいとは何でしょうか。新約聖書コリント第二の手紙3章16節から18節のところでをご覧ください。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

このおおいは、キリストの栄光が輝かないように遮断していたものです。このおおいがあったために、主の栄光を見ることができなかったわけです。しかし、世の終わりの千年王国において、このおおいが取り除かれるのです。この目ではっきりと主のお姿を見ることができるようになるのです。そればかりではありません。鏡のように主の栄光の姿をを反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられるようになるのです。そして、永久に死を滅ぼされます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。神である主は、すべての顔から涙をぬぐってくださるからです。そのような栄光にあずかることができるようになるのです。

何という希望でしょうか。あなたには今、どんな悲しみや叫びがありますか。どんなことで苦しんでおられますか。その日、主はあなたの涙をすっかりぬぐい去ってくださいます。ここに「主が語られたのだ」とあります。必ずそういう時がやって来るということです。それは単なる希望的観測ではありません。必ずそうなるのです。ですから私たちは、その神をほめたたえるのです。

Ⅲ.主を待ち望んで(9-12)

ですから第三のことは、主を待ち望もうということです。9節をご覧ください。「その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。この御救いを楽しみ喜ぼう。」

ここには「その日」とあります。これは世の終わりの千年王国のことです。七年間にわたる患難時代が終わり主がエルサレムに着座されます。そして、すべての悪を一掃して、この地上に千年間にわたる神の王国を樹立されるわけです。その日、人はこう言います。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」

この方こそ、私たちが待ち望んだ神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主です。その名はイエス・キリストです。これまで話でしか聞いたことがありませんでした。いろいろな人の話を聞き、自分でも聖書を読んで確かめてみて、おぼろげながらの知識でしたが、この方を信じ、受け入れて、その救いが完成する時をずっと待ってきたのです。その主が来てくださいます。実際に目に見える形で、手で触れられる姿でおいでになられるのです。

来週は、娘の結婚式が行われます。娘にとってはどんなにかうれしいことかと思います。愛する人と結ばれるわけですから。それは私たちが主を待ち望む姿にも似ています。実際、聖書ではキリストの再臨のことを花婿が花嫁を迎えに来る時と言われていますから、まさにイエス様との結婚式であるわけです。仲島さんの場合は、どんな顔をしていて、どんな性格で、どんな話をするかとかがわかるので、そんなにワクワクもしないかもしれませんが、私たちの花婿であられるイエス様は完全な方です。完全な愛をもって私たちを受け入れてくださる方です。 再び戻って来ると言われてから、既に二千年以上も経ち、今に至るまでずっと待ち望んできた方です。その方が来られるのです。それはどんなにか私たちを興奮させることかと思います。

皆さん、待ち望んでいるから希望があるのです。そして、この希望によって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって待つのです。(ローマ8:24-25)ですから、待ち望むことはとても重要なことなのです。

しかし、待ち望むということは、そんなに容易いことではありません。どんなに主を慕い求めようとしても限界があります。朝から晩まで聖書を読んだり、祈ろうとしても、時間的な制約があったり、体力の限界があってできません。一日中ずっとみことばを聞み、祈り、主と交わっていたいと思っても、毎日忙しくてその時間をなかなか取ることができません。逆に時間があっても、眠くなったり、腰が痛くなったり、頭が重くなったりして集中して聞くことができません。右の耳から入ってもすぐに左の耳から出ていくようになって、何のために聞いているのかわからなくなってしまうこともあります。あるいは聞いている最中にお腹の虫が鳴くことがあります。お腹が空いて聞いていられない。メッセージが長いな。早く終わってお昼食べたいなとか、そうした体力の限界もあります。しかし、かの日にはそういったことがなくなります。思う存分みことばを聞き、主を慕い求めることができるのです。私たちは、時計が止まったらいいのにと思うことがありますが、それほどの楽しい時間がやってくるわけです。その日、私たちはイエス様と顔と顔を合わせてまみえるようになります。何も恥ずかしがらなくてもいいんです。別にあなたの顔がどうであるかということは問題になりませんから。安心してイエス様のお顔を見ることができます。ここに希望があります。私たちはその日を待ち望みたいと思います。

ところで、10節から12節までを見ると、ここに突然モアブの話が出てきます。「主の御手がこの山にとどまるとき、わらが肥だめの水の中で踏みつけられるように、モアブはその所で踏みつけられる。泳ぐ者が泳ごうとして手を伸ばすように、モアブはその中で手を伸ばすが、その手を伸ばしてみるごとに、主はその高ぶりを低くされる。主はあなたの城壁のそそり立つ要塞を引き倒して、低くし、地に投げつけて、ちりにされる。」    いったいこれはどういうことなのでしょうか?モアブというのは、シオンの山、エルサレムの東、死海の東にある国のことです。16章9節のところには、「わたしの涙であなたを潤す」と語られました。その先祖はアブラハムの甥ロトです。ロトと上の娘との間に産まれた子供です(創世記19:37)。下の娘との間に産まれた子供はアモンです(同19:38)。ですから、神はこのモアブが救われることを特別な思いで語られたわけですが、残念ながらそのモアブは悔い改めませんでした。栄光の主イエスがオリーブ山に立たれるのを見ても、彼らはへりくだることをしなかったのです。神の救いを求めませんでした。神があれほど救われることを臨んでおられたのに・・。

いったいどうしてでしょうか?彼らはイエス・キリストをその目の前で見ても、その肉眼で見ても、それでも自分たちの力に頼ろうとしたからです。そそり立つような要塞を作りました。自分たちの知力、軍事力、政治力、または経済力に頼って、イエス・キリストを拒否したのです。そうしたものは最後の最後にさばかれます。イエス・キリストを目の前に見れば信じますという人がいますが、そういう人は実際にその目で見ても信じません。モアブ人のように自分の力に頼ろうとする人は、目の前にイエス様を見ても信じないのです。イエスの救いを見ようとしません。最後の最後まで信じようとしないのです。それが人間の性(さが)というものです。生まれつきの性質。性格なのです。私たちはイエスの神々しい姿を見ればすべての人が信じるだろうと思ってしまいますが、必ずしもそうではないのです。高慢で、へりくだることをしない人は、いくら目の前にイエスを見ても信じません。モアブの人たちは、かつてイスラエルをかくまうというすばらしいことをしました。そのために祝福も受けたでしょう。イスラエルを祝福する者は祝福されるのです。その結果モアブは繁栄を極めるようになります。千年王国の時代には隆盛を極めるようになります。しかし、その結果、彼らは高慢になってしまうのです。主を待ち望むことをしないわけです。

それはモアブだけのことではありません。日本も同じです。日本人は勤勉に働く民族ですから、いつまでも自分たちの知恵と力に頼ろうとして、なかなか神に頼ろうとしません。これが人間の本質なのです。聖書はそうした人間の本質というものを赤裸々に告げています。そして同時に、そのような人たちには必ず神のさばきが下るのだということも告げています。そのような人たちは、わらが肥だめの水の中で踏みつけられるように、踏みつけられることになるのです。

あなたは主を待ち望んでいますか?やがて主はその輝かしい姿でシオンの山、エルサレムで王となられます。私たちはその主とまみえるようになるのです。あなたの目の涙をすっかりぬぐってくださいます。必ずその日がやって来ます。その主を待ち望もうではありませんか。そして、やがて終わりの日の患難時代においてご自身の民を完全に守って下さるように私たちを守ってくださると信じ、この方に賛美と感謝をささげようではありませんか。そのときたとえ現実がどんなに暗く険しくとも、この主が与えてくださる救いの希望のゆえに、力強く歩むことができるのです。