イザヤ書26章1~6節 「全き平安」

きょうは、イザヤ書26章の前半部分から「全き平安」というタイトルでお話します。3節に「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。」とあります。平安とか安心はだれものが求めているものです。平安こそ私たちが幸福だと感じる基礎だからです。平安や安心のない幸福はありえません。「私は幸せですけれど、不安でたまりません」というのはありません。幸せな人はみな平安に満たされています。いったいどうしたらこの平安を持つことができるのでしょうか?きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.私たちには強い町がある(1-2)

まず第一に、私たちには強い町があるということです。1節と2節をご覧ください。「その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。城門をあけて、誠実を守る正しい民を入らせよ。」

「その日」とはイザヤ書におけるキーワードの一つですが、世の終わりのことを指します。世の終わりにもたらされる千年王国と、その後に続く新天新地のことです。その時に歌われる歌がこれです。「その日、ユダでこの歌が歌われます。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁とで私たちを救ってくださる。」

「強い町」とは新しいエルサレムのことです。イエス様は、「わたしは場所を備えに行く」(ヨハネ14:2)と言われました。その場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます、と言われましたが、それがこの「強い町」です。それが新しいエルサレムです。黙示録21章1節、2節には、この待ちについて次のようにあります。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私たちはまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下ってくるのを見た。」とイエス様はこの町を備えて、再びこの地上に戻って来られるのです。

ここには、この町は「強い町」とあります。口語訳では「堅固な町」と訳されています。「われわれは堅固な町を持つ」と。なぜにこの町は堅固なのでしょうか?それは神がその城壁と塁で救ってくださるからです。神の救いが城壁であり、とりでです。エルサレムの城が石垣で築かれているように、神の救いで築かれている城の中に私たちは招き入れられるのです。それは敵が指一本ふれることができないような堅固な城壁です。そのような町に入れていただけるわけです。

いったいどのような人がその中に入れられるのでしょうか?ここには、「城門をあけて、誠実を守る正しい民を入らせよ。」とあります。「誠実」とは「忠実」とも訳される言葉です。誠実な人、忠実な人がそこに入ることができます。黙示録3章8節に、「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」とあります。これはフィラデルフィヤの教会に書き送られた言葉です。主が私たちに求めておられることは、私たちがどれだけ偉大なことをしたかではなく、どれだけ忠実であったかということです。忠実とは英語で「Faithful」と言います。Faith(信仰)でfull(いっぱい)のことです。神が私たちにゆだねている働きはみな違います。ペテロにはペテロの働きがあったように、また、ヤコブにはヤコブの働きがあったように、そしてパウロにはパウロの働きがあったように、私たちにも私たちの働きがあります。それを信仰によって忠実に果たしていくことが求められているのです。

Ⅱ.全き平安のうちに守られる(3-4)

第二のことは、その町に入る人の祝福についてです。3節をご覧ください。「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」

神は、志の堅固な者を、全き平安のうちに守られます。「全き平安」と訳されている言葉は、ヘブル語の「シャローム」というという言葉が二回繰り返されています。「シャローム、シャローム」です。「シャローム」という言葉は、もう訳さなくてもわかるくらいよく使われている言葉ですが、「平安があるように」という意味のことばです。それが二回繰り返されているので「全き平安」と訳されているわけです。英語ではこれを「Perfect peace」と訳しています。(NIV:New International Version)「完全な平安」です。神は、志の堅固な者に、完全な平安を与えてくださいます。

完全な平安、全き平安とはどのような平安でしょうか?それは何の欠けもない平安です。何物にも脅かされない平安です。私たちの世界では安心だと思っていても、それがいつ崩れてしまうかわかりません。今は幸せでも、いつ不幸がやってくるのかわからないという不安があるのです。ですから、「私は幸せですけれども、不安でたまりません」ということがあるわけです。「幸せで、幸せで恐いのです」ということがあります。それはいつ不幸が襲って来るかわからないからです。しかし、神が与えてくださる平安は、そのような心配のない完全な平安なのです。

イエス様は、このように言われました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)イエス様が与える平安は、世が与えるのとは違います。イエス様が与える平安は、神の平安です。シャローム、シャロームです。それは今は幸せでも、明日はどうなるかわからないという平安ではなく、どんなことがあっても奪われることのない完全な平安なのです。

カトリックの有名な言語学者にダフードという方がいましたが、この方はシャロームを「ビクトリー(Victory)」と訳しました。勝利ある人生こそシャロームだというのです。人生には敗北を経験したり、涙するようなことがいろいろありますが、その中で与えられる平安こそシャロームであり、勝利ある人生なのです。そのような平安で守ってくださるのです。

世界はこのような平和を求めています。いったいどうしたらこのような平和を得ることができるのでしょうか?ここには、「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。」とあります。「志の堅固な者」とはどのような人のことを言うのでしょうか?それは、自分の思いがしっかりと主に向けられている人のことです。神に焦点が定まっている人、神に集中している人です。他のものに心が向いていると平安がありません。  ペテロは、イエス様が湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思って恐ろしくなり、イエス様に「主よ。もしあなたでしたなら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」(マタイ14:28)と言いました。主が「来なさい」と言われたので、ペテロは舟から出て、湖の上を歩いてイエス様の方に行きました。けれども、風を見て怖くなり、沈みかけてしまいました。  風を見ると怖くなるのです。回りを見れば怖くなります。私たちはただイエス様だけを見ていなければなりません。ただイエス様だけを見て、その心と思いが一つになることによってのみ、この平安を受けることができるのです。なぜなら、「シャローム」は、元々、神が持っているご性質だからです。私たちの神観というのは、何か良いことをすれば御利益があり、悪いことをすれば罰が当たるというものですが、聖書の神はそのような方ではありません。聖書の神はシャロームです。慈愛に満ち溢れた方です。そしてこの方のもとに来る人をその慈愛で、愛と平和で満たしてくださるのです。

イザヤ書9章には、やがて来られるメシヤがこのような方であることが紹介されていました。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」(9:6)この方は平和の君です。ですからこの方に心が向けられ、この方と心と思い一つとなることによって平和がもたらされるのです、

パウロはローマ人への手紙5章1節の中で次のように言っています。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

ですから、私たちが神が与えてくださる完全な平安を得るためには、私たちがまず神との平和を持たなければなりません。皆さん、何が原因であなたがたの中に戦いや争いがあるのでしょうか?それは、あなたがたの中で戦う欲望です。ヤコブは次のように言っています。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」(ヤコブ4:1)元々の原因は私たちの内側にあります。私たちのからだの中にある欲望が原因で、それが心の中で繰り広げられていくうちに平安がなくなり、やがてそれが外側に表れてくるのです。それが他の人との関係に及ぶと争いになり、国家間の争いになると戦争になります。でも最初は個々人の心の問題なのです。臭い臭いは元から断たないとだめなように、私たちの間にある戦いや争いも元から直していかなければなりません。それが罪です。神から離れていることです。神にその心と思いが向いているのではなく、自分に向けられていることが問題です。聖書はそれを罪と言っています。その罪が解決されなければならないのです。

マザー・テレサは、次のようなことを言いました。「あなたが世界平和のためにできることは、家に帰って家族を愛することです。」世界平和というと大きなことなとても一個人にはできないように思えますが、実は個々人から始めていくことができるのです。まずあなたの中に平和がなければなりません。イエス・キリストを信じて、神との平和を持たなければならないのです。そこから始めていかなければなりません。イエス様がこの世に来られたのはそのためでした。イエス様は私たちの罪を赦すために私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。それはイエスを信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。ですから、このイエスを信じるなら、あなたが罪に問われることはないのです。これが神の救いの御業でした。だれでもこのイエスを救い主と信じるなら、あなたのすべての罪は赦され、すべての悪からきよめていただけます。そのとき、この神平安が堰(せき)を切るようにして、私たちの中に流れるくるのです。

Ⅲ.いつまでも主に信頼せよ(4-6)

第三のことは、いつまでも主に信頼せよということです。4節をご覧ください。ここには、「いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主はとこしえの岩だから。」とあります。本当の平安はイエスを信じ、神との平和を持つことによって与えられます。しかし、それでも平安がないとしたら、いったいどこに問題があるのでしょうか?それは、本当の意味で主に信頼していないことです。いったいどうしたら私たちは全き平安を持つことかできるのでしょうか?主イエスを信じ、主イエスにすべてをゆだねることによってです。ピリピ人への手紙4章6節と7節を開いてください。ご一緒に読んでみましょう。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)

皆さん、どうすれば人のすべての考えにまさる神の平安が与えられるのでしょうか?ここには、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。何も思い煩ってはいけないのです。これは神の命令です。何も思い煩うなと命じられているから、私たちは思い煩わないのです。これは意志の問題です。何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもって祈る。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださるのです。「それは私の置かれている状況がわからないから言えるんですよ」とか、「実際に大変なんです」と言うのを聞きます。大変でしょう。もし私もそのような状況に置かれたら否定的になるに違いありません。しかし、聖書は何と言っているかというと、「何も思い煩うな」と言うのです。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもって祈れ」と。問題はあなたの置かれている状況がどうであるかということではなく、どのような状況であってもあなたが神に信頼して祈るかどうかということです。というのは、信仰というのは私たちの全存在における意志の問題だからです。志がどうであるかなのです。感情ではありません。感情も大切な要素ですが、感情は信仰の結果もたらされるものです。ちょうど種を蒔けば芽が出て花が咲くように、信仰の種を蒔けば感情の花が咲くのであって、その逆ではありません。感情をあてにしないで信じることです。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。「牧師さん、それは私の置かれている状況がわからないから言えるんですよ」とか、「実際に大変なんです」と言うのを聞くことがあります。大変でしょう。もし私も同じような状況に置かれたら、きっと否定的になるに違いありません。しかし、聖書は何と言っているかというと、「何も思い煩うな」と言うのです。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもって祈れ」と。ですから、私たちはどのような状況であれ祈るのです。

しかし、人はいつも志が堅固であるとは限りません。何も思い煩わないで、すべてを神にゆだねなければならないということがわかっていても、なかなかゆだねることができなくて苦しむのです。いったいどうしたらすべてを主にゆだねることができるのでしょうか。それが「祈り」です。祈りの中で私たちは、もうだめだと思っていたようなことが、「神によってこうなっいく。ああにもなっていく」ということが信じることができるようになっていくのです。

あとは信頼すればいいのです。任せればいい。これはヘブル語で「バハタ」という言葉ですが、大の字になって横になるということです。日本語にはいい言葉がありますね。「まな板の上の鯉」になるということです。どんなことがあっても、煮られようが、切られようが、殺されようが、この方に私の生涯をお任せします」ということです。そういう人に、神はシャロームを与えてくださるのです。

私たちの人生には失望とか、とてもではないが信仰など持てないという時がありますが、そういう時にこそ、信仰を発揮してキラリと光る者でなければならないのです。しかし、ともすればそのような時に、私たちは神様から離れていくのです。起こっている出来事を見て、「ああ、もうだめだ」と船が沈没するかのように沈んでしまうのです。いくら牧師が「大丈夫ですよ」と言っても、「だめでしょう!」と言うのです。だめじゃないのに、「だめだ。だめだ」と思い込んでしまうのです。それは神が喜ばれることではありません。どこかで不信仰の悪循環を断ち切らなければ、どんどん深みにのめりこんで行くのです。ですからそういう時に大切なことは、神様なんかいないのではないかと思われるような時でも、「神様、あなたにすべてをおゆだねします。」と祈ることです。大の字になって、「主よ。私の人生をあなたに託して行きますから、どうかよろしくお願いします。」と言うことなのです。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

イエスの弟子たちは、イエス様が十字架で死なれた後で、部屋に鍵をかけ息をひそめるようにして隠れていました。自分たちも捕らえられて、牢に入れられて、処刑されるのではないかと恐れていたからです。そんな彼らのもとに復活されたイエス様が現れて「平安があるように」と言われました。「神のシャロームがあなたがたを囲んでいるのだから何も心配しなくてもいい。」と言われたのです。すると「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(ヨハネ20:20)とあります。主を見て、それまで彼らを縛っていた恐れから解放されたのです。全き平安で満たされたのです。するともう彼らの中に恐れはなくなりました。自分たちはどうなってもいい。この復活の主がともにいてくださるのだ。この方がともにおられるならば何の不安も、恐れもない。この方が最善に導いてくださると信じることができたのです。そして、ライオンの餌食にされようが、逆さ十字架につけられようが、喜んで死んでいきました。これが全き平安です。あなたもこの平安を持つことかできます。あなたもイエス・キリストを信じて神との平安を受け、この神にすべてをゆだねて祈るなら、神は人のすべての考えにまさる神の平安で、あなたの心と思いを守ってくださるのです。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られます。あなたもこの方に信頼して、このシャローム、シャロームを持ってください。