きょうは、イザヤ書26章後半部分からお話したいと思います。タイトルは「義人の道」です。1節を見ると、「その日、ユダの国でこの歌が歌われる」とあります。「その日」とは、イザヤ書におけるキーワードの一つですが、世の終わりの千年王国のことです。その千年王国で歌われる歌が、ここに記されてあるわけです。前回はその最初の部分から、誠実を守る正しい民に、神の救いが城壁であり、塁である都に入らせていただけるということを見ました。神の救いが城壁なので、そこはシャローム、シャロームです。そこには全き平安があるわけです。 そして、きょうのところでは、世の終わりの神のさばきにおいて、正しい者に対する主の守りがどのようなものなのかが歌われています。きょうは「義人の道」について三つのポイントでお話したいと思います。
Ⅰ.義人の道は平です(7-11)
まず第一に、7節から11節を見ていきたいと思います。7節には、「義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。」とあります。義人の道は平ですとは、義人の道はまっすぐであるということです。でこぼこそしいません。まつすぐです。それは義人の道には何の障害や困難もないということではなく、そうした障害や困難があっても主がその道をならして平にしてくださるので、つまずき倒れたり迷ったりすることないということです。
星野富弘さんの詩の中に「鈴の鳴る道」という詩があります。車椅子ででこぼこ道を通るのは大変でうんざりしていましたが、ある時、車椅子に鈴をぶらさげていたら、そのでこぼこ道で揺れるたびにチリン、チリンと鳴って、それが心を和ませました。そしたら、それまで嫌気がさしていた“でこぼこ道”が楽しくなった!と言います。主が義人の道をならして平にされるというのは、こういうことです。私たちの道はある意味でこのようなでこぼこな道かもしれませんが、主が平にして目的地まで導いてくださいます。そう信じて、この道を迂回せずに歩いていきたいものです。
ところで、義人とはどういう人のことを言うのでしょうか?8節と9節には次のようにあります。「主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行われるとき、世界の住民は義を学んだからです。」
「義人」という言葉を聞くと、私たちは何一つ悪いことをしたことのない正しい人というイメージがありますが、聖書が言っている義人とはそういう人のことではありません。聖書が言っている義人とは、イエス・キリストを信じて救われた人のことです。なぜなら、義人はいない。ひとりもいないからです。すべての人が迷い出て、すべての人がみな、無益な者となりました。ですから、善を行う人は、ひとりもいないのです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神は恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23)
そして、ここには義人の性質が記されてあります。それは主を慕い求める人です。「主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。」9節には、「わたしのたましいは、夜あなたを慕います。」とあります。つまり、「義人」とは自分自身が正しい人ではなく、どのような状態であっても神を慕い求める人のことなのです。
ここには「夜あなたを慕います。」とあります。「夜」は、反省の時であり、孤独の時です。あるいは暗やみと悩みの時です。そんな夜でも神を慕うというのは、いつでも神を慕い求めるということです。「まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。」とあります。これは「早くに」ということです。「朝早くから求めます」ということです。朝早くから夜遅くまで求めます。つまり、いつでも求めることです。それが義人の姿です。皆さんはどうでしょうか?
イエス様は、「義に飢え渇いている人は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)と言われました。私たちはまず始めにみことばによって自分の罪が示されたので、その罪を悔い改め、神の救いをいただきました。そこで罪の赦しを経験したのです。しかし、それで終わりではありません。そのように信仰によって義と認められた人は、今度は実際に義となる日、救いが完成する日を待ち望みます。それがイエス・キリストの再臨です。キリストが再臨されるとき私たちは復活のからだ、栄光のからだによみがえります。救いが完成します。その日を切に祈り求めなければならないのです。そういう人が満ち足りるようになるのです。
しかし、悪者はそうではありません。10節と11節をご覧ください。ここには、「悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは認めません。どうか彼らが、この民へのあなたの熱心を認めて恥じますように。まことに火が、あなたに逆らう者をなめ尽くしますように。」とあります。彼らはあわれみを示されても、義を学ばないのです。彼らは罪を犯すから悪者なのではありません。神のあわれみを示されても義を学ばないので悪者なのです。
皆さん、神様はあわれみ深い方です。神様は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さいます。悪者を直ちにさばいて滅ぼすようなことはしません。正しい人にも正しくない人にも恵みを与えて養ってくださるのです。しかし、そのように恵んでくださるのは何のためなのでしょうか。それはひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われるようになるためです。いつかそれには限界があることを覚えておかなければなりません。うしろの戸が閉ざされる時がやってきます。こうした神の慈愛をないがしろにして、神の忍耐を軽んじるなら、そのような人には神の怒りが下されるということを覚悟しなければなりません。それが世の終わりの患難時代に注がれる神のさはぎです。具体的には黙示録6章から19章に記されてある内容です。
最近、日本人の高ぶりということがよく言われます。第二次世界大戦に負けた日本は飢えの辛さは経験しましたが、そこから神のさばきもあわれみも学びませんでした。高度経済成長の波の中で物質的な豊かさを追い求めるも、たましいの豊かさを求めませんでした。その後も幾度も神は警告を発しておられますが、一向に神を見向きもしません。悪者はあわれみを示されてもそこから学ぼうとしないのです。そのような人には神の怒りが注がれるのです。
Ⅱ.義人の道には繁栄があります(12-15)
第二に、義人の道には繁栄があるということです。12節をご覧ください。ここには、「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。」とあります。
すばらしい賛美であり、すばらしい告白です。私たちには平和が備えられています。この平和については先週見てきました。この平和はただの平和ではありません。シャローム、シャロームです。全き平安です。そのような平和が備えられているのです。しかもそれは私たちの熱心によって勝ち取るものではありません。この平和は神の熱心によって、神が私たちのために備えてくださった平和です。平和の君であられるイエス様が、私たちのために成し遂げてくださいました。十字架の上で・・・。イエス様が十字架の上で死んでくださり、罪の処罰をしてくださったのです。イエス様は十字架の上で「完了した」と言われました。私たちがんばったからではなく、イエス様が罪の赦しのために必要な一切のことをしてくださったので、私たちはこの平和を受けることができるのです。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)
それはだれをも誇らせないためです。神が私たちに与えてくださった平和は、すべて神の贈り物、神の恵みによるものなのです。
ですから、イザヤはこう言っているのです。13節です。「私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が、私たちを治めましたが、私たちは、ただあなたによってのみ、私たちは、ただあなたによってのみ、御名を唱えます。」 これまでユダヤ人はいろいろな君主たちによって支配されてきました。まずバビロンです。ユダはバビロンによって滅ぼされ、捕らえ移されました。そして、七十年の間捕らわれの身となっていたのです。しかし、神はペルシャの王クロスを立て、彼らを解放し、エルサレムへと帰還させました。しかし、バビロンに代わる別の君主が彼らを支配しました。それがペルシャであり、ギリシャであり、ローマです。このローマの時代にユダヤ人は国を追われ、世界中に散り散りになりました。イスラエルがイスラエル共和国として建国したのはつい最近のことなのです。1900年もの間、彼らは世界中をさまよっていたのです。そして、神の約束のとおり、神は世界中に散らされていたユダヤ人をパレスチナに集めてくださいました。それがイスラエル共和国です。1948年のことです。それは本当につい最近のことなのです。それまで多くの支配者によって、長い間支配されていましたが、世の終わりには、彼らを支配する人はだれもいません。ただ主だけが彼らを治めるのだというのです。
私たちはどうでしょうか?私たちも地上の国々の統治の中に生きています。いや、国の統治だけでなく、この世の支配、社会的な支配、慣習など、いろいろな支配の中に生きています。そのようなさまざまな支配の中に生きていますが、神のみが私たちを治めると告白したいものです。
パウロは、ローマ人への手紙6章16節から19節のところで次のように言っています。「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」
私たちは、かつては罪の奴隷として、罪の支配の中にありましたが、今は違います。今は罪から解放されて義の奴隷となりました。ですから神の義によって、神にだけ支配されて生きるものでなければならないのです。
ですから、イザヤは14節で次のように言っているのです。「死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らについてのすべての記憶を消し去られました。」どういうことでしょうか? 「死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。」とは、終末における不信者の復活はないと解釈する方がおられますが、そういうことではありません。こうした多くの君主たちの勢力が、神に滅ぼされて全く再起不能にされるということです。コロサイ人への手紙1章13節をご覧ください。ここには「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」とあります。神は、私たちを縛っていたあらゆる罪の支配から救い出して、御子の支配の中に移してくださいました。もうそうした支配の中にはいないということです。これらのすべての記憶を消し去られましたとありますが、そうした記憶が全くないほどに完全に解放してくださったのです。何という平和でしょうか。まさに「シャローム、シャローム」です。完全な平和です。
それだけではありません。15節、「主よ。あなたはこの国民を増し加え、増し加えて、この国民に栄光を現し、この国のすべての境を広げられました。」どういうことですか?終末の時代には、神の民にとって脅威であったこれらの異教の国々は、全く記憶が消し去られるほど影もなくなりますが、逆に、神の民はどうなるかというと、栄えに栄えるというのです。主は、ご自身の民を増し加え、増し加えて、栄光を現し、すべての境を広げられるのです。
これは世の終わりの神の民の姿ですが、すべての圧政から救い出された私たちクリスチャンの姿でもあります。ですから、私たちは主イエスの救いにあずかった者として、同じ告白をすることができるのです。「主が、この私も増し加えてくださる。すべての境を広げてくださる。」そう告白していいのです。「いや、それは私の性分ではないから」とか、「私には大した能力はないから」と言って、小さくまとまってはいけないのです。私は本当に小さな者にすぎないが、神が私を救ってくださった。神が増し加えてくださる。この私を通して神の栄光を最大限に現すことかできるように。どうか、この私を最大限に広げてください。大きくしてください。私の中に凝り固まったものがあれば、どうかあなたが広げてください、と祈らなければなりません。
心理学者によると、私たちはいつも自分に語りかけながら生きていると言われています。私たちは他の人と会話をするとき、1分間に150個から200個の単語を使うそうです。ところが、私たちが自分と会話する時にはそんな程度ではありません。私たちが自分と会話する時には1分間に1,300個の単語を使うのです。どうやって調べたのかはわかりませんが・・・。 それで、いったいどんなことを自分と会話しているかというと、驚くべき事に、自分自身を卑下する会話を多くしているのです。自分を肯定するような会話よりも否定的な会話、自分を卑下するような会話をしているのです。皆さんも自分が一人で散歩している時のことを考えてみてください。大抵は「何であのときあんなことを言ってしまったんだろう」「何で優しくできないんだろう」というように、過去のことを思い出しては自分を責め、自分を卑下しながら会話しています。そうすると、さらに落ち込んで病気になってしまうのです。ですから元気になりたければ教会に来るのがいいのです。そうすれば考える余裕がありませんから・・・。一人で散歩していると落ち込みます。「何であんなことを・・」「なんでこんなことを」
けれども、そんな私たちを主イエスが暗やみの圧政から救い出してくださいました。私たちは罪の奴隷ではなく、義の奴隷になりました。私たちは、イエス・キリストによって新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。イエス・キリストにある新しい自分を見なければなりません。それは、やがて終わりのときにもたらしいくださる栄光の姿です。私たちはやがて神の子としてご自身の栄光を現す者になりました。そのようなキリストにある自分の姿を見ていかなければならないのです。キリストにある自分として、神のみことばに満ち溢れ、神のみことばによって永遠のいのちを受けた神の子どもらしい健全な思いを抱かなければならないのです。
歴代誌I4章9節に「ヤベツ」という人物が登場します。「ヤベツ」という名前の意味は「痛み、悲しみ、苦しみ、」を表わしています。母親が彼の名前を「ヤベツ、悲しみ」と名づけたのは、悲しみのうちにこの子を産んだからでした。おそらく、ヤベツが生まれた時には、父親が亡くなっていたのでしょう。ヤベツの母親は、まだ、夫を亡くした悲しみの中にあったのかもしれません。夫を亡くし経済的にも、精神的にも大変な苦しみ、悲しみの中で、子どもを産み、育てなければならなかったのかもしれません。ともかく、彼は逆境の中に生まれました。生まれながらにして彼は、家庭的に重いハンディキャップを背負わされたのです。ヤベツは心の中に大きな傷を負い、思春期には、自分の名前を呼ばれる度に、悩んだかもしれません。「悲しみ君、苦しみ君」と呼ばれたはずですから、ばかにされないはずがありません。しかし、そんな彼が兄弟たちよりも重んじられたのです。なぜでしょう。それは10節にあるように彼が神様に祈り、そしてその祈りに神様が答えられたからです。ただそれだけの理由です。ヤベツはこう祈ったのです。
「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」(I歴代誌4:10)
この祈りに神が答えてくださいました。神は彼の願ったことをかなえられたので、彼は祝福されたのです。私たちもこのように祈るべきではないでしょうか。私たちはかつて罪の中にあった悲しみ君であり、苦しみさんでした。しかし、今はそこから解放されてキリストにある者とされたのです。それゆえに神にこう祈ることが許されているのです。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。」「主よ。あなたはこの国民を増し加え、増し加えて、この国民に栄光を現し、この国のすべての境を広げられました。」と。
Ⅲ.義人の道には守りがあります(16-21)
第三のことは、義人の道には守りがあるということです。16節から18節までをご覧ください。ここには、ここには、「主よ。苦難の時に、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。子を産む時が近づいて、そのひどい痛みに、苦しみ叫ぶ妊婦のように。主よ。私たちは御前にそのようでした。私たちはみごもり、産みの苦しみをしましたが、それはあたかも、風を産んだようなものでした。私たちは救いを地にもたらさず、世界の住民はもう生まれません。」とあります。
イザヤはこれまでイスラエルの栄光について語ってきたのに、ここから急に「苦難」について語っています。いったいこの苦しみとは何の苦しみなのでしょうか?これは大患難の苦しみです。イザヤはここで、大患難の苦しみを思い出して、「主よ。苦難の時に、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。」と言っているのです。この「つぶやきました」とは不平不満を述べているのではありません。これは、彼らの心を祈りで注ぎだしたという意味です。あまりにもひどく苦しめられたのでひそやかな言葉でしか表すことができなかったのです。
その苦難の目的は何だったのでしょうか?ここには「あなたが彼せを懲らしめられので」とあります。大患難の目的は不信者のさばきとともに、イスラエルを懲らしめることでした。エレミヤはこれを「ヤコブの苦難」(エレミヤ30:7)と呼んでいます。「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。」と。それはヤコブにとっては苦難の時ですが、それによって彼らは主を仰ぎ見るようになるのです。すなわち、この懲らしめは彼らにとっては救いのためであったわけです。
私たちは順境の時には祈ろうとしませんが、逆境の時や苦難の時には真剣に、切実に祈るようになります。苦難は私たちを祈りへと向かわせるのです。英語にPain produces prayer.という言葉があります。痛みが祈りを生み出すのです。現代では痛みがあるとすぐに薬に頼ろうとするのであまり痛みがありません。クリスチャンですら痛みから逃れ、苦しみのない世界が当たり前であるかのように思うようになりました。 ボンヘッファーという神学者は、このように言っています。「苦痛はわれわれの大部分と無関係なものになってきた。できるだけ苦痛のないことがわれわれの生活の無意識のモットーの一つとなった。」(現代キリスト教思想書6,p325) しかし、神は安楽な生活を通してよりも、苦しみを通して多くのことを学ばせられるのです。苦しみがあるからこそ私たちは祈り、その祈りによって成長していくことができるのです。ですから、詩篇の作者はこう言いました。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)
神の民であるイスラエルはどうだったでしょうか?彼らは、神の懲らしめの苦難の中から救いを求めて祈りました。先程も申し上げたように、この「祈ってつぶやく」というのは不平不満ではなく、ハンナのようにくちびるは動いていても声にならないような祈りを意味しています。その苦しみは妊婦にたとえられています。17節には「子を産む時が近づいて、そのひどい痛みに、苦しむ妊婦のように。」とあります。それはひどい痛みと苦しみなのです。それなのに、18節を見てください。「それはあたかも、風を産んだようなものでした。」どういうことでしょうか?「風」とは、むなしさとか、何もないということを表しています。つまり、それほど苦しんだのに、何も生み出すことができなかった。自分の力では何もできません。自分を救い出すことも、まして人々に主の救いをもたらすことなどできないのです。何も生み出すことができません。ではそこには何の希望もないのでしょうか?いいえ、あります。19節をご覧ください。
「あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。」
ここには、イスラエルがよみがえることが語られています。神はイスラエルの死んだ者たちを生き返らせ、再び回復させてくださいます。終末の時代を生きる者たちの希望が、もう墓を越えて復活へと広がっているわけです。イスラエルに究極的な勝利である救いが臨むのです。いったいどうやってそのようなことが起こるのでしょうか?いのちを与えてくださる神の力がこれを可能にします。私たちには子を産み出す力もありませんが、神は死者たちを生き返らせることがおできになるのです。神がイスラエルの上に降らせる露は、いのちをもたらす露であり、死者たちを生き返らせることができるのです。
その方法とは何でしょうか?20節と21節をご覧ください。「さあ、わが民よ。あなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はその上に流された血を現し、その上で殺された者たちを、もう、おおうことをしない。」
「わが民」とはユダヤ人のことです。ユダヤ人のある者たちは、世の終わりの7年間の患難時代に、自分たちが突き刺した方を見て、悔い改めます。そのようにして主の救いの中に入れられていくわけです。彼らは主を信じて受け入れるようになりますが、それでも激しい苦難を通らなければなりません。しかし、通り抜けることができるように、神は隠れ部屋を備えてくださり、彼らをかくまってくださいます。残りの者と言われる人たちが、神によって守られるのです。それが「あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。憤りが過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。」ということです。ちょうど、イスラエルがエジプトから出てきた過越の時のように、神の民は贖いの主の血が塗られた家に入り、戸を閉じ、身を隠すようにと命じられたのです。その間にさばきの主が出て来て、不信者の罪を罰せられます。あらゆる罪が明らかにされ、さばきによって正当な罰が与えられますが、神の民は、守られ、滅びから免れるのです。すなわち、神の民が救われるのは彼らの行為によるのではなく、過越の小羊がほふられ、その血の贖いによるのです。彼らにはもはや産み出す力は残っていません。ただ神の一方的な恵みにより、小羊の血によってのみ、神のさばきを免れて救われることができるのです。ここに私たちの希望があります。苦難の中にあっても、私たちは神のさばきに会うことがないように守られるのです。ですから、これはユダヤ人のことだけでなく。クリスチャンのことでもあるのです。クリスチャンは、最後の患難時代に隠されます。どこに隠されるのかというと空中にです。雲の上にです。これを空中軽挙と言います。テサロニケ第一の手紙4章15節から18節にこうあります。
「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
まず既に死んだ人たちです。その人たちが墓から一気に引き上げられます。次に生き残っている人たちです。パウロはそのときまで自分が生き残っていると信じていましたので、ここで「生き残っている私たちが」と言っています。その人たちがたちまち彼らと一緒に一挙に引き上げられるのです。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。その時地上ではどんなことが起こっているでしょうか?神のさばきです。恐ろしい神のさばきが行われています。しかし、クリスチャンは神の怒りの対象ではありません。神の怒りに定められていないのです。なぜなら、すべての怒りはイエス・キリストが身代わりに受けてくださったからです。ですから、テサロニケ第一の手紙5章9節にはこのように約束されているのです。
「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」
私たちはこの神の怒りに会うことがないように定められているのです。これは希望であり、慰めです。あなたにはこの希望がありますか?イエス・キリストによって完成した救いの御業を受け入れておられますか?それともまだ自分の力に頼っているでしょうか。私たちはみごもって子を産んでも風を産んだようなもので、何の力もないのです。救いはイエス・キリストにあります。この方を信じて救いを受けてください。そして、さまざまな困難に直面しても、この方が助けてくださることを期待して祈りましょう。挫折と苦痛が絶えない状況にあっても、神とつながる望みの綱を決して放さないでください。義人の道には必ず救いがあるからです。