イザヤ書27章1~13節 「麗しいぶどう畑の歌」

きょうは、イザヤ書27章から学びたいと思います。タイトルは「麗しいぶどう畑の歌」です。24章から世の終わりに世界レベルでどんなことが起こるのかについて語ってきたイザヤは、25章と26章で残りの者たちの歌について語りました。きょうの27章は、その続きです。ここでは残りの者たちの歌ではなく、逆に神がイスラエルのために歌う歌が記録されています。それが「麗しいぶどう畑の歌です。きょうは、この麗しいぶどう畑であるイスラエルの回復について三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.麗しいぶどう畑(1-6)

まず1節から6節までを見ていきたいと思います。1節です。ここには、「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。」とあります。

これは26章20節と21節のカテゴリーに入れるべき内容です。26章20節では神の民であるイスラエル、その残りの者に、「憤りが過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。」と語られました。神の怒りとさばきが下るからです。キリストは今から二千年前に来られた時は救い主として来られましたが、世の終わりに再びこられる時にはさばき主として来られます。主の救いを信じない人たちをことごとくさばかれ、もう、その罪をおおうことはしない、そういう時がやって来るのです。しかし、神の民であるクリスチャンはそうではありません。そうした激しい神のさばきの中にあっても、神の救いと守りがあるのです。その流れの中で、このことばが語られているわけです。

その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げまどう蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺されます。逃げまどう蛇レビヤタンとか、曲がりくねる蛇レビヤタン、海にいる竜とはいったい何でしょうか?「海にいる竜」とはヘブル語で「タニーム」という言葉ですが、旧約聖書にはいろいろな言葉で訳されています。この言葉が最初に出てくるのは創世記1章21節です。ここでは「海の巨獣」と訳されています。すなわちこの「タニーム」というのは巨大な生き物、恐竜のことなのです。そして「レビヤタン」とはその一種です。詩篇74篇13節と14節には、この「海の巨獣」と「レビヤタン」という固有名詞が並記されて出ています。またヨブ記41章には、このレビヤタンがどのようなものなのかについての説明があります。すなわち、釣り針で釣り上げられるものではなく、やすでその頭に十分に突くことなどできない巨大な生き物で、それを見ただけで投げ倒されてしまうほど恐ろしい生き物であるということです。

もちろん、ここでは象徴的に使われています。何の象徴かというと、神に敵対する悪の勢力です。イザヤの時代背景で言えば、それはアッシリヤのことであり、またバビロンのことであり、エジプトのことです。すなわち、神の民であったイスラエルを脅かしていた勢力です。これが未来預言、終末との関係で言うと、悪魔、サタンのことであり、反キリストのことになるのです。黙示録12章9節を開いてください。ここには、「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされ、彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」とあります。この「巨大な竜」は悪魔とか、サタンとか呼ばれていて、古い蛇とも言われています。また、13章1節には、「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。」とあります。これは反キリストのことです。反キリストは一匹の獣と言われているように獣のような存在で、神に汚しごとを言って三年半の間ひどいことをするわけです。その額には象徴的な数字が刻印されています。それは666です。これは悪魔の数字、反キリストの数字です。ここには「海から一匹の獣が上ってきた」とあるので、多くの学者はこれはヨーロッパから出てくると考えています。この海とは地中海のことを指しているからです。しかし、これだけでそのように断定するのは危険だと思います。ただこの獣と言われているのが反キリストのことであるのは間違いありません。やがて世の終わりには、こうした悪魔、サタン、反キリストといった神に敵対する勢力が猛威をふるいますが、主は鋭い剣でこれらを殺されます。このような勝利が約束されているのです。

次に2節から6節までを見てください。ここには、世の終わりにイスラエルがどのように回復されるのかという預言が記されてあります。「その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」

2節の「麗しいぶどう畑」とはイスラエルのことです。前にもイスラエルをぶどう畑と呼んでいる記述がありました。5章です。神様はこのぶどう畑に良いぶどうの苗を植えたのに実ったのは酸いぶどうでした。甘いぶどうではありません。酸っぱいぶどうです。腐って食べられないような毒ぶどうです。そういうぶどうがなりました。そこで神はそのぶどう畑をどうしたかというと、その垣根を取り除き、石垣をくずして、踏みつけるままにすると言われました。もう荒れ放題です。そのようにして滅びるままにすると言われたのです。

しかし、ここでは違います。ここでは「麗しいぶどう畑」とあります。イスラエルが良い実を結び、神がそれを喜んでおられるのです。3節と4節には、「わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。」とあります。もうさばかれるとはありません。もしイスラエルに敵対する者があれば、神が守ってくださいます。いばらとおどろとはのろいとさばきの象徴ですが、そのようなものが来れば、神が踏みつぶし、焼き払ってくださいます。神の怒りはイエス様が十字架で負ってくださったので、私たちは救われているのです。私たちは神の怒りの対象ではありません。決してさばかれることはありません。もう神の怒りを恐れる必要はないのです。私たちには神の完全な守りがあるのです。

ですから、大切なのは5節にあるように、神と和解することです。ここには「わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。」とあります。これまでは他の国と和平条約を結んだり、貢ぎ物を納めたりして自分たちを守ってきましたが、そうした人間的なものは全く役に立ちません。人間の努力は何の解決ももたらさないのです。まことの解決はイエス・キリストだけです。イエス・キリストによってのみ神と和解して、神との平和を持つことができるのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

イエス様だけが道であり、真理であり、いのちです。この方によってでなければ、だれひとり父のみもとに行くことはできません。イエス・キリストによってのみ罪の赦しが与えられ、神との平和がもたらされるのです。もし神との和解がなかったら平安がありません。常に罪責感に悩まされ不安になります。死んだら天国に行けないかもしれない。地獄に行ったらどうしよう・・・と悩むのです。本当に天国に行けるかどうかわからず、死ぬのが怖くなります。しかし、イエス・キリストを信じて神と和解した人は、すべての罪が赦されます。もう罪に悩むことはありません。私たちの罪はイエス様が十字架で負ってくださったので、このイエスによって大胆に神のみもとに行くことができるのです。私たちはもはや神の怒りの対象ではありません。神の愛の対象になったのです。「アバ、父」「おとうちゃん」と言って父の胸の中に飛び込んで行くことができるのです。神が私たちの味方になってくださったので、私たちは何も恐れる必要はないのです。なぜなら、だれも私たちに敵対することができないからです。これこそグッド・ニュースではないでしょうか。だから神は、「わたしと和を結ぶがよい」と言っているのです。あなたは何と和を結ぼうとしていますか?何によって自分を守ろうとしていますか?ほんとうの解決は神にあります。神と和を結んでください。神と和を結ぶことによって、だれによってもそこなわれることがないように、神が見守ってくださるのです。

そればかりではありません。6節を見ると、神はそのような人を豊かに祝福してくださるとがわかります。ここには、「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」とあります。皆さん、時が来れば、実を結ぶのです。そのためにはまず根を張らなければなりません。地中深く根を張っていくのです。そうすると芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶようになります。ここではただ実を結ぶようになるというのではなく、世界の面に実を満たすとあります。その実を世界中に満たすようになるわけです。

まさにイスラエルはそうでした。1948年に独立してイスラエル共和国となるまでは、そこは全くの不毛地帯でした。何もない砂漠だったのです。しかし、1900年代初頭から世界中に散らばっていたユダヤ人が祖国の土地に帰り根を張ると、多くの花を咲かせ、世界の面を実で満たしていきました。今日イスラエルは農業の最先進国です。そこではハイテク農法が行われ、わずかな水で効果的に養分を与える技術を開発し、多くの収穫を得ています。農作物の自給率は何と93%です。日本の50倍の生産力です。そして多くの農作物を世界中に輸出するまでになりました。1948年に建国以来、わずか20年で輸出するまでになったことに、世界中が驚きました。ここには花とか実とありますが、これは文字通りの花や実(フルーツ)のことでもあります。花の輸出量は世界第四位、フルーツの輸出量は世界第三位です。主にスイーティーとかシャロンフルーツといった種なし柿ですが、ヨーロッパを中心に世界中に輸出しているのです。それほど祝福されているのです。なぜでしょう。神と和を結んだからです。神が彼らを守っていてくださるからです。世の終わりにはそれがもっと顕著になってくるでしょう。

しかし、ここで注意しなければならないのは、そのためには忍耐が必要であるということです。ここには「時が来れば」とあります。実を結ぶには時が必要なのです。即席ではできません。じっと待たなければなりません。ヤコブの手紙5章7節と8節に、「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」とあります。待たなければならないのです。農家の方はそのことがよくわかっています。私はそういう経験がないのでよく失敗します。待つことができません。待つことが苦手なのです。カップラーメンでも3分がとても長く感じられます。すぐに食べたくなります。まだ花が咲いていないのに実をもぎ取ろうとして失敗するのです。しかし、収穫には時間がかかります。種を蒔いて、芽が出て、花が咲いて、しっかりと実を結ぶまで待たなければなりません。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)

私たちは自分の姿を見て、イエス様を信じてもちっとも変わらないじゃないかとか、どうしていつまでも同じ生活をしていなければならないんだと思うことがありますが、しかし、あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださいます。まずは種を蒔いて、それから根です。しっかりと根を張りましょう。そうすれば芽が出てきます。それが花となって、実になるのです。下に根を張り、上に実を結ぶのです。ものには順序があります。時間がかかります。しかし、時がくれば必ず実を結ぶのです。そのことを覚えて耐え忍び、みことばの糧を与え続けましょう。そうすれば必ず実を結ぶようになるのです。

Ⅱ.神の懲らしめがある(7-11)

それだけではありません。7節から11節を見ると、神の懲らしめがあることがわかります。7節をご覧ください。ここには「主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺した者を殺すように、イスラエルを殺されただろうか。」とあります。

これは、異邦の国々に対する神のさばきと、イスラエルを懲らしめる時の神のさばきの違いを述べています。アッシリヤやバビロンがイスラエルを打ちましたが、それは神がアッシリヤやバビロンを打ったのとは訳が違います。アッシリヤやバビロンには完全な滅びが宣告されましたが、イスラエルはそうではありません。イスラエルが完全に滅ぼされることはないのです。そこに残りの民を残してくださり、その民によってやがて回復できるようにと、神の救いとあわれみが注がれていました。イスラエルが永遠に滅ぼされることはありません。なぜでしょうか?神の契約の民だからです。確かに罪の結果を刈り取らなければなりまん。しかし、それは彼らを滅ぼすことが目的なのではなく、彼らを救うことが目的なのです。そのように懲らしめることによって彼らが悔い改め、救われることを神は望んでおられるのです。

主はラオデキヤの教会に次のように言われました。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示録3:19)主は愛する者をしかったり、懲らしめたりするのです。もし叱ったり、懲らしめたりすることがないとしたらどうでしょう。ヘブル人への手紙によると、もしそういうことがあるとしたら、それはほんとうの子ではなく、私生児なのです。主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのです。

作家の大江健三郎さんは造詣の深い小説を書くことで有名ですが、彼のそうした小説はいったいどこから生まれてきたのでしょうか?それは彼の脳性マヒの息子のおかげだと言われています。人々は、一人では何もできない子どもを指して、彼は人生のお荷物だと言いました。しかし、大江健三郎さんはこう言いました。「もし私にこの面倒をみなければならない子どもがいなかったら、私は今このような作家になることはできなかったでしょう。私はこの子の世話をしながら、人の心の深い痛みが何であるかを理解し、見ることができるようになりました。」彼の痛みであった息子が彼の洞察力を深めるための祝福になったのです。神は愛する者を叱ったり、懲らしめたりするのです。短絡的に祝福だの呪いだのと語らないでください。神の目線で、信仰の目線で見るならば、今まで見ることができなかった、たくさんの価値を見ることができるのです。

その具体的な懲らしめとはどんなものだったのでしょうか?8節に、「あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された。」とあります。この東風とはアッシリヤとかバビロンを指します。アッシリヤによる侵略やバビロン捕囚のことです。あるいは、ローマによって全世界に散らされたことも指しています。彼らはまことの神ではなく偶像に頼ったので、神は彼らを約束の地から追放されました。それは彼らにとって激しい苦難の経験でした。しかし、それは彼らを絶滅させるさばきではなく、むしろ彼らを懲らしめて、罪を正しく悔い改めるように導き、主に立ち返らせるためだったのです。主の救い、主の贖いを得させるためだったのです。

その結果が9節です。「それゆえ、次のことによってヤコブの不義は赦される。祭壇のすべての石を粉々にされた石灰のようにし、アシェラ像と香の台をもう立てなくすること、これが、自分の罪を除いて得られる報酬のすべてだ。」  祭壇のすべての石を粉々にされた石灰のようにするとか、アシェラ像と香の台をもう立てないようにするとは、根底から悔い改めるということです。これまでこうした偶像によって全く生産性のない人生を歩んでいました。何の実も結ばなかったわけです。それを根底から悔い改め、根底からやり直すなら、神はその人の不義を取り除いてくださいます。その罪は赦され、全く新しい人生を始めることができるようにしてくださるのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られるのです。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。キリストにある新しい人生を始めていくことができるのです。これまでいろいろな偶像に支配されていた人もやり直すことができます。イスラエルが神のあわれみによってその不義が赦されたように、あなたの人生も同じようにしてくださるのです。あなたもイスラエルになれるのです。イスラエルとは神に支配された人という意味ですから・・。罪を悔い改めてイエス・キリストを信じるなら、イスラエルになれるのです。罪によって荒廃した心が、神の霊、聖霊に満たされるのです。そのために神は懲らしめを用いられるのです。

10節と11節は、アッシリヤ、あるいはバビロンによって打たれ、荒廃したイスラエルの様子が描かれています。「城壁のある町は、ひとり寂しく、ほおっておかれる牧場のようになり、荒野のように見捨てられる。」ようになります。「子牛はそこで草をはみ、そこに伏して、木の枝を食い尽くす。」のです。「その大枝が枯れると、それは折られ、女たちが来てこれを燃やす。これは悟りのない民だからだ。それゆえ、これを造った方は、これをあわれまず、これを形造った方は、これに恵みを与えない。    Ⅲ.神はイスラエルを回復させてくださる(12-13)

しかし、これはあくまでもイスラエルを懲らしめたるためです。こうした懲らしめによって彼らが神に立ち返るとき、神は彼らを回復させてくださいます。それが12節と13節に書かれてあることです。「その日、主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。イスラエルの子らよ。あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられる。その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。」

ユーフラテス川からエジプト川までというのは、アッシリヤからエジプトまでを指します。それはダビデがユダを治めていた時の領土であり、理想的な国境線を指し示す表現です。かつて神はアブラハムに、このエジプトの川からユーフラテス川までを、その子孫に与えると約束されました。(創世記15:18)その領土を回復し、一人も見落とすことなく、すべてのイスラエルを集められます。畑に落ちた穂を拾い集めるように、神は諸国に散ったご自身の民をひとりひとり拾い上げられ、エルサレムに連れてくるのです。

そればかりではありません。その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝するようになります。これはその地に散らされていたユダヤ人のことを指していますが、同時にそれは、アッシリヤとエジプトの地で失われていた人たちのことを指しています。すなわち、イスラエルだけでなく、そうした異邦人の中にも主に立ち返る人が起こされ、イスラエルと共に主をほめたたえるようになるということです。19章24節25節をご覧ください。ここには、「その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」とあります。このみことばが成就するのです。わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。そうした人たちもイスラエルと和睦して、神の祝福を受けるようになるのです。何とスケールの大きな神の祝福でありましょう。    私たちにはそのような回復の希望が約束されているのです。今はそのかけらも見えないような現実の中で、しばしの間うめき、苦しむこともありますが、やがて神の民であるクリスチャンには、このような回復と祝福がもたらされるのです。私たちにとってこの世での生活も大切ですが、これから先の永遠のことはもっと重要です。その永遠において私たちが受けるのは、こうした祝福です。ですから私たちは、究極的な望みを神の国に置かなければなりません。その望みがあるからこそ、今、力強く生きることができるのです。時が来れば、実を結ぶようになるという約束に信頼し、しっかりと根を張っていきましょう。やがて芽が出て、花が咲きますから。下に根を張り、上に実を結ぶ。それが私たちの信仰なのです。