イザヤ書28章1~13節 「ここにいこいにがある」

きょうは、イザヤ書28章の前半の部分からお話したいと思います。タイトルは「ここにいこいがある」です。イザヤは24章から27章にかけて、世の終わりに全世界に起こる神の救いの計画について語ってきましたが、ここから再びイスラエルとユダ、特にユダとエルサレムに話が戻ります。ここでイザヤは、これまで彼が語ってこなかった彼らの問題について語ります。それは、誇り、プライドに関することです。

Ⅰ.エフライムの酔いどれ(1-6)

まず1節から6節までをご覧ください。まず1節と2節を読みします。「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠、その美しい飾りのしぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある。見よ。主は強い、強いものを持っておられる。それは、刺し通して荒れ狂う雹のあらしのようだ。激しい勢いで押し流す豪雨のようだ。主はこれを力いっぱい地に投げつける。」

ここに「エフライム」とあります。この「エフライム」とはイスラエル12部族の一つですが、北イスラエルのことを指しています。イスラエルはもともと統一国家でしたが、前931年に今の朝鮮半島のように北と南に分かれました。北に10の部族、南にユダとベニヤミンの2部族が属していましたが、北イスラエルの最大部族、最強部族がエフライムでしたので、北イスラエルのことを指してエフライムと言いました。一方南ユダ王国のことは、「ユダ」と言いました。ここではその北イスラエルに対する宣告です。「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠、その美しい飾りのしぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある。」

「ああ。」とは、「災いなるかな」とも訳される言葉ですが、主はこの北イスラエルを嘆いておられます。なぜでしょうか?それは彼らに誇り、プライドがあったからです。ここに「酔いどれの誇りとする冠」とあります。これは酒宴に明け暮れて酔っぱらっていた彼らの姿を描いています。アッシリヤが攻めてきているという危機的な状況にあっても、彼らは大丈夫だ、自分たちは豊かだから心配することはないと言って、神の警告に耳を傾けませんでした。事実、このエフライムの土地は豊かで、農業が盛んでした。ここには「花」とか「肥えた谷」とあるのはそのことを表しています。エフライムは花の生産が盛んで、酪農も活発に行われていました。シャロンの花などもこのエフライムで生産されました。経済的に豊かだったのです。それゆえに彼らは高ぶり、酔いどれのようになってしまいました。自分たちは豊かになったから大丈夫だ。アッシリヤが攻めて来たって問題ない。何が攻めて来ても大丈夫。何の脅威も感じないと、鈍感な心になってしまったのです。主はこれを「酔いどれ」と呼んでおられます。酒を飲んで酔っぱらい、物事を正しく判断することができないように、そうした彼らのプライドが、自己過信が、彼らの心を酔いどれのように狂わせていたのです。

ヨハネの手紙第一2章16節をご覧ください。ここには「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」とあります。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは御父から出たものではありません。それらはこの世から出たものです。特にエフライムにおいては、この暮らし向きの自慢がネックになっていました。それは御父から出たものではありません。この肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を、自分たちの頼りにしていました。それらのものをまるで神のように頼りとしていたので、聞くべきことが聞けない状態になっていました。酔いどれになっていたのです。酔っぱらっている時には状況がわかりません。酔いどれの状態では現実が見えないのです。大丈夫、大丈夫、全然問題はない。おもしろおかしくヘラヘラ笑って日々過ごすわけですが、そのプライドは必ず打ち砕かれます。3節と4節に「エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ、肥えた谷の頂きにあって、これを美しく飾る花もしぼみ、夏前の初なりのいちじくの実のようになる。」とありますが、粉々に砕かれるのです。

それはこの時代も同じです。神はこの時代にも警告を発しておられます。私たちはそれに耳を貸さなければなりません。エフライムと同じ鉄を踏んではならないのです。私たちの中にも彼らと同じような自慢があるかもしれません。自分たちは大丈夫だと。何の脅威も感じない。テポドンが飛んできても怖くない。神様の言葉なんて聞かなくても十分楽しくやっていける・・・。それはエフライムと同じです。酔いどれの状態です。自分の状態が見えなくなっているのです。そのようなプライドは必ず砕かれます。私たちは神の声に耳を傾け、それに従順に従わなければならないのです。

5節と6節をご覧ください。しかし、そのようなエフライムにも、主は慰めを与えておられます。残りの者を用意しておられるという約束です。「その日、万軍の主は、民の残りの者にとって、美しい冠、栄えの飾り輪となり、さばきの座に着く者にとって、さばきの霊となり、攻撃して来る者を追い返す者にとって、力となられる。」

「その日」とは、世の終わりの患難時代とその後に続く千年王国のことを指しています。その日、万軍の主は、残りの者にとって、美しい冠、栄えの飾りの輪となります。エフライムの大多数の人たちは「酔いどれの誇り」として、神のさばきによって滅んでいきますが、神はその中にも残りの者を用意してくださり、彼らによって、美しい冠、栄えの飾り輪になるのです。6節はわかりずらい文章ですが、この残りの者たちは、主がさばきの霊となり、力となってくださるので、主の御声を聞いて物事を正しく判断できるようになるということです。酔いどれとは違います。酔いどれはわかりません。何が良いことで神に受け入れられることなのか、今、自分がどういう時代に生きているのか、どういう状況にいるのかを悟りません。酔っぱらっているからです。しかし、残りの者たちは違います。彼らは神のさばきの霊によって、また神の力によって、正しく判断することができるのです。私たちは残りの民です。自分の状態に自慢したり、過信することなく、ただひたすら主のみこころを求め、それを正しく判断するために、いつも目をさまし、神のことばに耳を傾ける者でありたいと願わされます。

Ⅱ.戒めに戒め、規則に規則(7-10)

次に、7節から9節までを見ていきましょう。まず7節と8節をご覧ください。ここには、「しかし、これらの者もまた、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、祭司も預言者も、強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱し、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、さばきを下すときよろける。どの食卓も吐いた汚物でいっぱいで、余す所もない。」    どういうことでしょうか?「しかし、これらの者もまた」とは、南ユダ王国の指導者たちのことです。エフライムだけではなく、南のユダも酔いどれの状態でした。祭司や預言者といった人たちは霊的リーダーでありながら、酔っぱらっているような状態だったのです。おそらく、彼らは祝い酒に酔っていたのでしょう。アラムとエフライムの連合軍が攻めてくるということを聞いて、彼らはアハズ王に、ただちにアッシリヤに援助を求めるように進言しました。そうすれば、南ユダは守られることでしょう・・・と。けれども、それは神のみこころではありませんでした。彼らはただ神にのみ信頼し、神の救いを待ち望むべきだったのに、人間的なものに頼ってしまいました。彼らの判断は間違っていたのです。なぜでしょう?酔っぱらっていたからです。確かに、そのことによってアッシリヤとの間に密約が交わされ、南ユダはアラムとエフライムの同盟軍から守られることになりましたが、その結果、今度はそのアッシリヤによって苦しめられることになるのです。昨日の友が今日の敵になるわけです。人間の社会はいつもそうです。人はみな自分に都合がいいように動くからです。そんなことも知らないで、ユダの霊的、宗教的指導者であった祭司や預言者は祝いの酒に酔っていました。そこに真の預言者であったイザヤが現れて、神のことばを告げました。彼らにとってイザヤの存在は、まさに目の上のたんこぶでした。イザヤは彼らに、「これらの者もまた、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、祭司も預言者も、強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱し、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、さばきを下すときよろける。」と告げました。

彼らは物事を霊的に判断し、正しくさばかなければならないという立場にあったのに、なんとそんな彼らまでも酔っぱらっていたのです。祭司や預言者までも強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱していました。強い酒のために、幻を見ながらよろめき、さばきを下す時によろけていたのです。牧師が酔っぱらって説教しているようなものです。

旧約聖書を見ると、律法では、祭司とか預言者といった霊的リーダーは酒を飲むことがで禁じられていました。レビ記10章9節を見ると、「会見の天幕に入って行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたがたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。」とあります。祭司やレビ人など神に仕える者は、ぶどう酒や強い酒を飲んではいけなかったのです。なぜでしょうか?常に正しい判断、冷静な判断をするためです。アルコールが入ると正しい判断ができなくなります。なぜ飲酒運転をしてはいけないのでしょうか?アルコールが入ると正しい運転ができなくなるからです。そのことによって命に関わる大事故を引き起こしてしまう危険性があります。それは霊的にも同じことが言えます。アルコールが入ると判断を鈍らせてしまうのです。テモテ第一の手紙3章3節には、監督の資質が記されてありますが、その一つは酒飲みではないということです。「酒飲みではなく、暴力をふるわず、穏和で、争わず・・・」です。なぜ酒飲みではだめなのでしょうか?判断が鈍るからです。霊的リーダーであればなおさらのこと、ありとあらゆる局面で民の運命を預かっている者として、正しい判断が求められるわけですから、酔っぱらっていては正しい判断ができません。その結果、破壊と大きな悲劇をもたらすことになってしまいます。だから酒を飲んではいけないのです。

しかし、これは何も教会のリーダーだけに限ったことではありません。人の上に立つすべての人に求められていることです。家庭のリーダーであれば、家族を霊的にしっかりと守り、導いていくために酔っぱらっていてはいけません。職場で重要な立場にある都費が酔っぱらうと、破壊と悲劇をもたらします。いや、お酒はコミュニケーションの一つだ・・・と。酒がないと本音で話せないとか、酒を飲まないと人と向き合えないとか、憂さ晴らしができないという人がいますが、そういう人は既にお酒に飲まれているのです。そうでしょ。クリスチャンはお酒を飲まなくても本音で話せます。十分楽しいし、十分満たされています。ルンルンです。そうでしょう?酒を飲んで憂さ晴らししなくても、ストレス解消できるのです。聖書は禁欲主義を押しつけるものではありません。しかし、それ以上の祝福を約束しているのです。酒に酔わなくても、それ以上の喜びをもたらしてくれます。なのに酒を飲まなければ人生はつまらない。祭司や預言者といった霊的リーダーまでもが、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらついていたのです。8節には、「どの食卓も吐いた汚物でいっぱいで、余す所もない。」状態でした。コンビニの駐車場みたいになってるわけです。

それだけではありません。彼らは次のように言っているのです。9節と10節です。「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離さない子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」

どういうことでしょうか?この「彼」とはイザヤのことです。イザヤの鋭い指摘に、酔いどれていた連中が激しく反発しているのです。「我々をいったいどなたと心得る。赤ん坊や幼子に教えるように語るなんて・・。我々が神の啓示を知らないとでも思っているのか。口を開けば、やれ戒めだの、それ規則だとばかりに、なんだかんだうるさいな。」と酔いがまわった口調でイザヤの教えはあまりにも単純で、幼稚だ、まるで子供に語っているようだと非難しているのです。

この「戒めに戒め、戒めに戒め。規則に規則、規則に規則」というのは、新共同訳ではヘブル語をそのまま表記しています。「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ」です。「規則に規則」は「カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ」です。同じことばが並んでいます。実に単純明快です。それは幼子にもわかります。それでイザヤの教え方はレベルが低いとバカにしているわけです。実に幼稚でくだらない・・・と。これは実に興味深いことですね。この祭司や預言者たちは幻を見ながら酔っぱらい、さばきを下しながら酔い潰れていたのに、もっと高尚なことを語れと言っていたのですから。

テモテ第二の手紙4章1節から5節までを開いてください。そこには次のようにあります。「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

世の終わりが近くなると、イザヤの時代の祭司や預言者たちのような人が現れます。健全な教えに耳を貸そうとしません。みな自分に都合のいいことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、教師たちを自分たちのために寄せ集めようとするのです。そして真理から耳を背け、空想話にそれて行くような時代になるのです。ただ単純に聖書に書いてあることを聞くというのは幼稚だと言うのです。もっと自分たちに都合のいいような話、欲望を満たしてくれるような話、自己実現をもたらしてくれるような、そういう話を聞きたい。どうしたら成功した輝いた人生を送ることができるのか、そういう話が聞きたいのです。世の終わりにはそういう人たちでいっぱいになります。だから教会にも行きません。聖書の話はあまりにも単純すぎる。退屈だ。もっと刺激的で、感動的な話が聞きたい。1分間の深いいい話です。30分の退屈な話はいいのです。3分でいい。グットくる、深い話が聞きたいのです。しかし、聖書はそのまま読んでいくのに値するものです。なぜなら、聖書は聖霊によって書かれてものだからです。ちょいとそこらの人が書いたのとは違います。聖霊なる神によって書かれたものなのです。その聖霊によって私たちの欠けが示され、戒めを受け、思いが変えられ、よって行動が変えられるのです。

アメリカ第16代大統領のアブラハム・リンカーンは、「聖書は、神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書の中に含まれている」と言いました。それはこの聖書の著者が人間ではなく、この生けるまことの神だからなのです。どんなにつまらないようで退屈な話のようでも、これこそが真理であり、私たちにいのちをもたらしてくれるものなのです。

イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。だれもわたしを通してでなければ、だれ一人父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)と言われました。イエス様が道であり、真理であり、いのちなのです。もしあなたがいのちをいただきたければ、イエスのもとに行かなければなりません。もしあなたが父なる神のもとに行きたければ、イエスを信じなければなりません。それを提供してくれるのが聖書なのです。

パウロは、高尚な知恵を求めて彼のことを見下げていたコリントの教会に対して、次のように言いました。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」(Ⅰコリント1:18-20)

皆さん、真理は単純なのです。そんなに複雑ではありません。十字架のことばは滅びに至人たちには愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。十字架のことばである聖書そのものを読んでいかなければなりません。そこから教えられていく。それで十分です。これが私たちに必要とされていることなのです。    私たちは自分の生活に何らかの危機が迫ると、神のことばよりも何らかの解決策を求めます。すぐに専門家に相談するとか、だれかの助けを借りようとするとかして、何らかの手立てを講じるわけです。そのこと自体は問題ではありませんが、その前にしなければならないことがあります。神に聞くことです。自分の力や知恵に頼もうとしないで、神に聞かなければなりません。神は何と言っておられるのか?その神の御声を聞かなければならないのです。そうでないと、虚しい結果に終わってしまいます。ですから、「戒めに戒め、規則に規則」で十分です。神のことばに聞くなら、あなたは必ず変えられます。そこに神の力が働くからです。

Ⅲ.ここにいこいがある(11-13)

最後に11節から13節までを見ていきましょう。「まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。主は、彼らに「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある」と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。主は彼らに告げられる。「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。」これは、彼らが歩くとき、うしろざまに倒れ、手足を折られ、わなにかかって捕らえられるためである。」

おもしろいですね。イザヤを批判するユダの霊的リーダーたちに対して、主は彼らのことばを引用してさばきを発しておられるのです。「もつれた舌」とか、「外国のことば」とは、彼らが理解できない言葉です。意味不明の言葉です。その言葉で語られました。これはいったいどういうことでしょうか?第一義的に、これはアッシリヤのことを指していると思われます。何を言っているのかわからない、意味不明の言葉を語る者をもってさばきを行うということです。申命記28章49節に、次のようなことばがあります。「主は、遠く地の果てから、鷲が飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。」これは、主がモーセを通して語られた言葉です。主は、遠く地の果てから、鷲が飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせるのです。その国民は、彼らにとってその話していることばがわからない国民です。それはアッシリヤであり、バビロンであり、ローマです。そうした国に襲われようになるわけです。それがもつれた舌、外国の言葉で語られるということです。神は彼らに「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある」と語られたにもかかわらず、それを聞こうとしなかったので、神はそうした国々にによってさばこうとされたのです。

ところが、このことばがコリント人への第一の手紙14章に引用されているのです。14章21節です。開いてみたいと思います。「律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない』と主は言われる。」ここで引用されているわけです。これはどのような文脈で語られているのかというと、異言という御霊の賜物についての説明の中で用いられているのです。異言というのは御霊の賜物の一つですが、人が理解できない言葉です。4節には「異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます」とあります。異言は個人的なものです。自分の徳を高めます。預言は教会の徳を高めます。教会全体を建て上げるために用いられますが、異言は違います。異言は自分の徳を高めるのです。魂が疲れているとき異言で祈ったらいやされます。異言で賛美したら解放されるのです。異言は自分の言葉ではなく霊の言葉です。霊で祈り、霊で賛美します。時々、私たちはどのように祈ったらいいかわからない時があります。祈りたいんだけども言葉が出て来ない。祈りたいんだけれども言葉がみつからない。そういう時に、この異言の賜物が発揮されます。どんなに疲れていても勝手にくちびるが動きます。勝手に神を賛美するのです。ここにいこいがあります。知性においても祈りますが、霊においても祈るのです。通常私たちは知性において祈り、知性において賛美しますが、異言の賜物が与えられると、霊においても祈れるのです。ですから、どんなに疲れていてもいこうことができるのです。

ところが、これは霊の言葉なので一般には理解できません。ですから、23節にあるように、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると思ってしまいます。ですから異言を話すとしたら、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、一人は説き明かしをしなければなりません。もしだれも説き明かす者がいなければ、教会では黙っていなければならないのです。気が狂っていると思われて、そうした人たちの妨げ、つまずきになってしまうからです。では、いったい異言は何ために与えられているのでしょうか。22節を見てください。ここには、「それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。」とあります。それは信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。ちょっと待ってください。23節には「初心者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が来るっていると思ってしまうから、教会全体が一箇所に集まっている時には異言を話さないようにと言われていたのに、ここではその「不信者のためのしるし」だというのです。いったいこれはどういうことでしょうか?

そこで、このことを理解するために文脈をよく見なければなりません。これはどういう文脈の中で言われているのかというと、21節でイザヤ書のことばが引用されている中で語られているのです。つまりこの「不信者」というのは「初心の者」とか、「信者でない者」のことではなく、イザヤ書で語られているところの「わたしの言うことを聞き入れない」人たちのことです。つまり、神のことを信じていない人たち、聖霊の賜物も信じていない人たちのことです。イザヤ書の中で言えば、酔っぱらった祭司や預言者たちのことです。そういう人たちにはもつれた舌で語られる必要がありました。外国の言葉で語られる必要があったのです。それによって彼らがショックを起こし、目が開かれるようになるためです。ですから、この不信者というのは初心者とか、信者でない者ではなく、神を信じていてもそのことばを信じない人たち、聞こうとしない人たちのことだったのです。

そういう人たちにはいこいはありません。そういう人たちはいつも人間的になります。そこに生きて働いておられる神が認められないのです。まことの救い、まことのいのち、まことのいやし、まことのやすらぎはここにあります。イエス・キリストにあります。主はそのように語っておられます。それを信じなければならないのです。

マタイの福音書11章28節から30節をご覧ください。ここには、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」とあります。これは日本の教会で案内板に最も多く掲げられているみことばです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」あなたは信じますか。イエス様のところに行くなら、本当のやすらぎがあります。イエス様のところに行き、イエスのくびきを負い、イエス様から学ぶなら、あなたはいこいが得られるのです。たとえあなたが異言の賜物が与えられていなくてもイエス様のもとに行くなら、 いこいが与えられるのです。問題は、あなたが神の言葉に聞くかどうかです。神のことばを信じて従うかどうかなのです。イエス様のもとで、イエス様のくびきを負い、イエスから学ぶなら、あなたには安らぎが来ます。なのにプライドのために受け入れられなかったり、自分の思いが強すぎて、神のみことばに聞こうとしなければ、やずらぎは来ません。私たちに必要なのは、「戒めに戒め、規則に規則」です。単純にみことばに聞くことです。神に信頼することです。そうすれば、やすらぎが来る。いこいがあります。十字架のことば、救いのことば、神のみことばに信頼を寄せ、主イエスから学ぶ者でありたいと思います。