きょうは、イザヤ書28章14節から終わりまでのみことばから学びたいと思います。14節には、「それゆえ、あざける者たち-エルサレムについてこの民を物笑いにする者たちよ。主のことばを聞け。」とあります。「あざける者たち」とは28章7節に出てきた酔いどれの祭司や預言者たちのことです。彼らはイザヤの語ることばを聞いて、「だれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。」(9節)と言って反発しました。全く幼稚な教えである・・と。自分たちを知識人だと思っていた彼らは聖書を額面通り受け止め、額面通り教えていたイザヤの話は幼稚な話だと全く興味も示さず、愚かしいものだと見下げていたわけです。もう聖書なんて一通り読んでわかっている。何度も同じことを聞いた。だからもう学ぶ必要なんてない。もう私は聞く必要がない。もう聞きたくない。だから彼らは聞こうとしなかったわけです。そんなイザヤをあざけっていた者たちに対してここで語られているわけです。
Ⅰ.これを信じる者はあわてることがない(15-16)
まず第一に、15節と16節をご覧ください。15節には、「あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」とあります。
この「死」とか「よみ」というのは、エジプトのことを指しています。当時、アッシリヤの脅威がエルサレムに迫っていました。既に北イスラエルはアッシリヤにのみ込まれ、その勢いが南ユダにも迫っていたのです。そのアッシリヤの脅威に対してどのように対抗していったらいいのか。彼らは、ただ神に信頼せよというイザヤの警告を無視し、隣国エジプトと同盟を結んだのです。そうすれば、たといにわか水があふれても大丈夫。それは自分たちには届かない。いざという時にはエジプトが守ってくれるから安心だと思ったのです。しかし、それは死と契約を結ぶようなものです。よみと同盟を結ぶようなものなのです。何の役にも立ちません。ここではアッシリヤのことが「にわか水」と表現されています。それは大洪水のようににわかに襲ってくるのです。ですから、どんなにエジプトと同盟を結んでも何の役にも立ちません。神のことばをないがしろにしていた彼らは、神様をあてにしなくても自分たちでやっていけると思っていましたが、それはまやかしであり、偽りにすきませんでした。やがて彼らはアッシリヤの脅威に脅かされることになります。神のみことばに聞こうとしない人の人生はこの通りです。自分は聖書を知っているから大丈夫だ。もう何回も聞いている。もう学ぶ必要はない。そのような人はまやかしを避け所とし、偽りに身を隠すことになるのです。ですから、聖書は何と言っているかというと、ペテロ第一の手紙2章1節、2節に次のようにあります。
「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋に、みことばの乳を慕い求めなければなりません。それによって成長し、救いを得るためです。生まれたばかりの乳飲み子は、おそらく何にも考えていないでしょう。ただお腹が空いて、母乳を求めているだけですが、そのように私たちも、純粋に、みことばの乳を慕い求めなければなりません。
では、そのみことばはいったい何と言っているのでしょうか。16節を見てください。ここには、「だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」とあります。
これはメシヤ預言です。なぜこれがイエス・キリストのことを預言している内容なのかわかるのかというと、これが新約聖書に引用されているからです。この16節の数字の脇に1)とあるのはそのことを表しています。下の欄外の脚注を見ると、その1)の説明として、これがローマ人への手紙9章33節と10章11節、そしてIペテロ2章6節に引用されていることがわかります。ローマ人への手紙の中にはこの箇所が二回も引用されていますから、パウロがこのみことばをどれほど重要視していたかがわかります。その引用箇所をちょっと見たいと思います。まずローマ人への手紙9章33節ですが、ここには、「それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」とあります。若干言い回しが異なっていますが、これはヘブル語で書かれてあったイザヤ書のみことばをギリシャ語に翻訳したからです。その翻訳されたものを今度は日本語に翻訳するわけですから、若干言い回しも変わってくるわけです。しかし、大筋にはもちろん変わっていません。それでおもしろいのはイザヤ書で「これを」というところを「彼」と読み替えられていることです。この彼というのはもちろんイエス・キリストのことです。このローマ人への手紙の流れを読んでくると、それはイエス・キリストのことであることは一目瞭然です。パウロはこの「堅く据えられた礎の、尊いかしら石」こそイエス・キリストのことであると理解したのです。
それはローマ10章11節も同じです。ここにも、「聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」とあります。この「聖書」とはもちろんイザヤ書28章16節のことです。ここでも「彼」と読み替えていますね。この「彼」とはもちろんイエス・キリストのことです。その前の9節のところに、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」とあるからです。いったいどうしたら救われるのでしょうか。どうしたらクリスチャンになれるのでしょうか。簡単です。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。ただイエスを主と信じるだけでいいのです。イエスは私のために十字架にかかって死んでくださいました。そして、三日目によみがえってくださったと、心に信じて口で告白するだけです。そうすれば、あなたも救われるのです。なぜなら、イエスこそあの堅く据えられた礎の、尊いかしら石だからです。
それでローマ人への手紙9章33節には、イザヤ書28章16節にはないことばがあります。それは、この石が「つまずきの石、妨げの岩」であるということです。これはどういうことかと言いますと、実はこれはイザヤ書8章14節からの借用なのです。読み替えているわけです。イザヤ8章14節には、「そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルにの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。」とあります。パウロはあえてイザヤ章28章16節とイザヤ書8章14節のみことばと組み合わせてローマ9章33節に引用しているわけです。これと全く同じ方法でペテロも引用しています。Iペテロ2章6節から8節をご覧ください。
「なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」
ここでペテロはイザヤ書28章16節のみことばにイザヤ書8章14節のみことばを組み合わせているだけでなく、さらに詩篇118篇22節のみことばも加えて解説しています。これはどういうことかというと、確かにイエスはあの旧約聖書のイザヤ書で言われているところの選ばれた石、尊い礎石であって、彼に信頼する者は失望させられることはないが、必ずしも皆が皆、信じるわけではないということを言っているわけです。信じる人もいれば、信じない人もいます。信じる人にとってはこれ以上信頼に足るものはない方ですが、信じない人にとっては逆につまずきの石、妨げの岩でしかないのです。そう言いたかったのです。
残念なことですが、皆が信じるわけではありません。神に選ばれたイスラエルの民でさえそうでした。このイザヤ書28章のみことばは、そのイスラエルの霊的指導者たちに対するさばきのことばですが、彼らはイザヤのメッセージをどのように受け止めたかというと、イザヤの語ることばをバカにし、幼稚だと言って、受け入れませんでした。イザヤの働きをないがしろにしていたわけです。それはいつの時代でも同じです。今から2,700年前のイザヤの時代も、今から2,000年前のパウロやペテの時代も、そして2,012年の現代でも、人間の本質は変わりません。信じない人は信じませんし、信じる人は信じます。そして信じる人は本当に救われるわけです。救いというのは非常にシンプルなものです。ただイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださった信じるだけでいいのです。しかし、これがなかなかできないのです。難しく考えてしまいます。あれもしなくちゃいけない。これもしなければならないと、いろいろと複雑に考えますが、聖書が私たちに教えていることは、私たちが救われるためにしなければならないことはそんなに多くはないということです。ただイエスを救い主と信じればいいのです。
ヨハネの福音書6章28節、29節をご覧ください。ここには、「すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」とあります。「彼ら」とは、イエスの時代のユダヤ人たちのことです。彼らはイエスのところに来て、「私たちは神のわざを行うために何をすべきでしょうか」と尋ねました。おもしろいことにこの「神のわざ」ということばは複数形で書かれてあります。神の業々です。何でこんなことをわざわざ言うのかというと、ここにとても重要なことが秘められているからです。すなわち、彼らは救われるためには、天国に行くためには、たくさんのわざをしなければならないと考えていたのです。これが人間の考えることです。救われるためにはいろいろなことをしなければならないと考えます。あれもしなければならない。これもしなければならない。そうしないと救われないと思うのです。たとえちょっとくらい悪いことをしても、それを帳消しにするようなすばらしいことや多くの良いことをしなければ救ってもらえないのではないかと思っているわけです。それが人間の性(さが)というものです。 しかし、イエスは何と言われたでしょうか。イエスは29節のところで次のように言われました。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」「神が遣わして者」とはイエス・キリストのことです。そのイエスを信じることが神のわざだと言われました。この「神のわざ」は単数形です。人は「神のわざ」はいろいろあると思っています。あれもこれもしなければならない。いろいろな犠牲を払わなければならないと思っていますが、救われるためにしなければならないことはたった一つしかありません。しかもそれは何かの努力をしなければならないということではないのです。ただイエスを信じればいいのです。それが神のわざだというのです。
私たちは自分自身を救うことはできません。全く無力な存在にすぎないのです。ですから私たちにできることは、自分よりも力のある、自分を救うことのできる方にただただすがるのみなのです。それがイエス・キリストです。でも多くの人はそんな救い主を必要とせずに、自分の力で、自分の働きで、自分を救おうとします。たたりだとか、呪いといったことからも自分の努力で身を守ることかできるんだと考えるわけです。ちゃんとお守りを買えば、ちゃんと神社にお参りに行けば、ちゃんと仏壇に手を合わせれば、ちゃんと神棚にお水を上げれば、と思うわけです。もしそのようなことで自分を救うことができるのではあればイエス・キリストは必要なかったわけですし、キリストはこの世に来ることもいらなかったわけです。イエス・キリストがこの世に来なければならなかったのは、それは私たちが全く無力な者だからです。もちろん、だからといって神は私たちを見捨てるような方ではありません。自分で自分の首を絞めてしまうような、自らに呪いを招くようなことをした私たちを自業自得だと言わないで、神はこんな私たちをあわれんで、そこから救うために救い主を送ってくださいました。それがイエス・キリストというお方であります。イエス・キリストでなければ私たちを救うことはできません。イエス・キリストは唯一の私たちの希望です
でも他にも救い主を名乗るような、救いを説くような偉大な人がいたじゃないですか。仏教のお釈迦さんはどうですか。儒教の孔子はどうでしょう。偉大な哲学者ソクラテスはどうですか。イスラム教の創始者ムハンマドはどうでしょう。創価学会を開いた日蓮聖人はどうでしょうか。彼らはイエス・キリストと同じでしょうか。違います。完全無欠で、罪を一つも犯さなかったかというとそうではありません。彼らは立派な人間、人格者だったかもしれませんが、だからといって全く罪がなかったわけではありませんでした。彼らもまた私たちと同じように罪がありました。また、死んでよみがえったでしょうか。いいえ、彼らは死んで墓に葬られたままです。イエス・キリストだけが唯一罪のない生涯を送られ、イエス・キリストだけが唯一死にも打ち勝ち、よみがえられました。イエス・キリストこそまことの救い主なのです。そのことをイザヤは何と表現しているでしょうか。彼は、「これは、試みを経た石」だと言いました。皆さん、これは何度も何度も検査して、証明済みの石なのです。どのような欠陥もなく、重圧に耐えるなどのテストを通った石だという意味です。だからこそ堅く据えられた礎の石であり、尊い石なのです。表向きは良く見えてもちょっとやそっとの試みによってすぐに倒れてしまうような石であったら不安定で家全体を支えることなどできません。イエス・キリストは全く傷も汚れもない方です。ただこの方にすがるだけで、あなたは救われるのです。ほんとうに単純明快なメッセージです。それをあなたはどう受け止めますか。そんな荒唐無稽な話だれが信じられるか・・。死人がよみがえる。そんなバカな・・。しかし、これが救いのメッセージなのです。あなたがこのイエスを信じるなら、神がこのイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです。これが私たちが救われるために必要なたった一つの救いの道として、神が私たちに与えてくださった道なのです。
いや他にも道があるんじゃないですか。エジプトと同盟を結べば何とかなるんじゃないですかキリスト、キリストって言ったらみんなから嫌われちゃいますよ。もっとこの世の力に頼ったらいいんじゃないですか。エジプトなんというのはどうでしょう。歴史と伝統があります。あのピラミッドを見てください。現代の建築様式を用いてもあれだけのものは作れません。そう考えるわけです。エジプトというのはこの世の象徴であります。この世の力を借りて、この世の専門家を動員して、この問題に、あの問題に対処すれば何とかなるんじゃないか。あの人に頼れば、この人に相談すれば、この力で、あの力で何とかなるんじゃないかと、イエス・キリスト以外のものに頼ろうとするのです。そうするとどうなるのでしょうか。聖書は、そのような人は必ず失望すると言っています。イエス・キリストに信頼する者は失望することはありません。しかし、彼に信頼しなければ、失望することになるのです。
ここには「これを信じる者は、あわてることはない」とあります。イエスを信じる者はあわてることがないんです。いちいちパニくりません。堂々としていられます。もう百人力、いや千人力、消臭力です。イエス・キリストがついているんだから何も怖いことはありません。何も恐れることはないのです。一番頼りになる方が一番そばにおられるわけですから、どんなことが起こってもどうっていうことはないのです。今月の支払いどうしよう。大丈夫です。イエス・キリストは宇宙一のお金持ちですから、すべてのものを持っておられる方ですから何の心配もいりません。病気になったらどうしましょう。大丈夫です。イエス・キリストは最高の医者ですから心配いりません。家庭は崩壊しそうだ、あの人との関係がギクシャクして苦しい。最高のカウンセラーであるイエス様に相談すればいいのです。すぐに相談の乗ってくださいます。そしてすぐに力になってもらえます。地獄から救ってくれたイエス・キリストがあなたのすぐそばにいてくださるのです。彼に信頼する者は、失望することは絶対にありません。しかし、彼以外に信頼するものがあれば、その彼以外のものは、必ずあなたを裏切ります。失望させます。がっかりさせます。その結果、あなたは傷つくことりなります。イエスは絶対にあなたを裏切りません。ですから、あれもこれもと複雑に考えないでください。イエス・キリストにすがっていただきたいのです。彼に信頼する者は、失望させられることはありません。これを信じる者は、あわてることがないのです。
Ⅱ.比類なき神のみわざ(17-22)
第二に、そのように神の警告を無視したユダに対する神のさばきのことばです。まず17節から19節をご覧ください。ここには、「わたしは公正を、測りなわとし、正義をおもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。それは押し寄せるたびに、あなたを捕らえる。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。」とあります。
ここには死と同盟を結ぶことが全く虚しいものであり、全く役に立たないということが語られています。雹とか水というのはアッシリヤの猛攻を指しています。神に頼らないで自分たちの力で対処しようとしたユダに対して、神はアッシリヤというスパンク棒を用いて彼らを懲らしめられます。それがにわか水となってあふれ、越えて来ると、彼らは踏みにじられることになるのです。まさにこれを信じる者は、あわてることがないが、信じない者はあわてることになります。失望することになってしまうのです。
そればかりではありません。20節にも次のようにあります。「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」
身を伸ばすには短すぎる寝床とか、身をくるむには狭すぎる毛布とは、エジプトのことです。身を伸ばそうとしても足がベッドからはみ出しているように、身をくるもうとしても毛布が小さすぎてちゃんと身をくるむことができないように、エジプトの助けは彼らに真の安心感を与えるには足りないのです。民がよりどころとしていたもの、ゆっくりと体を休め、体を温めるはずのものが、いざというときに何の役にも立ちません。この世と同盟を結んでも完全な安心はありません。私は生命保険に入っているから大丈夫です。銀行にこれだけ貯金があるから安心です。不動産があるから、株があるから何とかなります。私には健康があるから大丈夫です。健康だけが取り柄です。私にはこの資格、あの資格があるから何とか食べていけます。この仕事があるから、力があるからと、この世の安心という毛布で身をくるもうとするのですが、そうしたものは狭すぎるのです。ベッドから足が飛び出してしまいます。寒いときには暖めてくれるだろうと思っていても、いざという時には何の役にも立ちません。私たちの人生には、自分ではどうしようもないという時があります。それは死です。死という敵がやって来るとき、あなたがよりどころにしているこの世のものが、本当にあなたを守ってくれるものではないことに気がつくでしょう。そうしたものはあなたを本当に暖めてくれるものではないのです。それらのものは、短すぎます。狭すぎるのです。
その一方で、彼に信頼するなら守られます。イエスを信じ、イエスを主と告白するなら、あなたはいこいを得るのです。「ここにいこいがある。」「ここにいこいがある」からです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と、主は言われます。イエスのところにほんとうの安らぎがあります。イエスのところに行くなら、完全な守りと保護を受けるのです。21節をご覧ください。ここには、「実に、主はペラツィムの山でのように起き上がり、ギブオンの谷でのように奮い立ち、そのみわざを行われる。そのみわざは異なっている。また、その働きをされる。その働きは比類がない。」とあります。「ペラツィムの山でのように起き上がり、ギブオンの谷でのように奮い立ち」とは、かつてダビデがペリシテの攻撃を受けたとき、主がダビデを助け、ペラツィムの山でペリシテ打ち破った時の出来事です。(I歴代誌14:11-16)神は、水が破れ出るように、ペリシテを破られました。そのように主は、比類なき働きをされるのです。それはいつの時代も同じです。イザヤの時代もアッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲していました。B.C.701年のことです。その強大な力に彼らは何のなす術もありませんでしたが、そのような中でも主に信頼するなら、主は助けてくださるのです。具体的にはこの後の37章のところに出てきますが、その晩、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行って、18万5千人を打ち破られました。イザヤが、ヒゼキヤが何かをしたからではありません。彼らがただ神にすがり、神に祈り求めた結果、神が働いてくださったからです。その結果、アッシリヤの王セナケリブは立ち去りました。主に信頼するなら、主が守ってくださいます。それは短かすぎる寝床のようではありません。あるいは、狭くて暖められないような毛布でもないのです。完全な守りと保護を受けるのです。
それはダビデの時代やイザヤの時代だけのことではありません。いつの時代でも同じです。ここには、「私は万軍の神、主から、全世界に下る決定的な全滅について聞いているからだ。」とあります。これは何のことを言っているのかというと、イザヤの時代で言えばアッシリヤのセナケリブのことです。彼らがエルサレムを包囲しましたが、主はイザヤとヒゼキヤの祈りに答えて彼らを全滅させました。しかし、これはイザヤの時代のことだけではありません。世の終わりにもたらされるであろう出来事をも預言しているのです。やがて世の終わりにエルサレムが包囲される時がやってきます。エルサレムの覇権を求めて北から南から、西から東から、世界中からメギドの丘に集結します。そこで神に戦いを挑むわけです。そうです、ハルマゲドンの戦いです。そのときキリストが天から降りて来てエルサレムに着座されるわけですが、主は一息で彼らを吹き飛ばしてしまわれます。完全に勝利されるわけです。その預言です。ダビデの時代にはペリシテからの攻撃に勝利された主は、イザヤの時代にアッシリヤの攻撃に勝利されました。そしてこの世の終わりには、すべての悪の勢力からの攻撃に対して、圧倒的な勝利を治められるのです。主はいつの時代でも勝利者であられ、ゆえに彼に信頼する者を完全に守られるのです。ベッドが短いということはありません。毛布が小さいこともないのです。その比類なきみわざを行ってくださいます。
ですから、あざけり続けてはいけません。これまであざけり、神なんて信じても何にもならないと思っていた人は悔い改めなければなりません。悔い改めて、主こそ神であり、へりくだってこの神の救いを信じなければなりません。また、神のことばを聞いても、もうたくさんだと、何回も聞いて知っていると、神にことばに耳を閉ざしていた人は、幼子のような純粋な思いでみことばの乳を慕い求めていかなければならないのです。
Ⅲ.その奇しいはかりごと(23-29)
最後に、23節から29節までをご覧ください。ここには農作業のたとえが書かれてあります。イザヤは、「あなたがたは、私の声に耳を傾けて聞け。私の言うことを、注意して聞け。」と言って、この農作業のたとえを語りました。いったいこれはどういう意味なのでしょうか。この農作業のたとえは、これまでイザヤが語ってきたことのまとめになるところです。これまでイザヤは何について語ってきたのかというと、神に信頼することです。自分は何でも知っている、自分たちの考えで、自分たちの力で何とかなると人間的にならないで、いつでも、ただ神に信頼しなければならないことを語ってきました。ですから、この農作業のたとえは、そのまとめであると言えます。それでこのたとえではどんなことが語られているのでしょうか。まず24節から25節です。ここには、「農夫は、種を蒔くために、いつも耕して、その土地を起こし、まぐわでならしてばかりいるだろうか。その地面をならしたら、ういきょうを蒔き、クミンの種を蒔き、小麦をうねに、大麦を定まった場所に、裸麦をその境に植えるではないか。」とあります。 農夫は土地を耕したら、次にその土地に種を植えるわけですが、その植え方は穀物の種類によって違います。「ういきょう」とか「クミン」というのは香辛料になる植物です。そうした植物の種は手で蒔きますが、小麦、大麦、裸麦といった穀物はその種類に従って植える場所が違います。小麦はうねに、大麦は定まった場所に、裸麦はその境に植えるのです。つまり、農夫は種を蒔いたり植えたりするのを適当にはしないで、その穀物の種類に従って適した方法で、一番最適な場所に蒔いたり、植えたりするということです。
27節と28節には、今度は収穫の時の様子が描かれています。収穫する時はどうでしょうか。ういきょうは脱穀機で打たれず、クミンの上では脱穀車の車輪は回しません。ういきょうは杖で、クミンは棒で打たれるからです。というのは、ういきょうとかクミンの実は軽いため、脱穀機を遣うとつぶれてしまうからです。ですからつぶれないように棒で打って脱穀するわけです。しかし、堅い穀物の実は脱穀車と馬のかかとを利用して脱穀します。そうでないと、使い物になる穀物を得ることはできなません。
いったいこれはどういうことなのでしょうか。農作業にも作物によっていろいろな手順や法則があります。種を蒔く場所やタイミングが違えば、収穫する時も、そのやり方も違います。それと同じように、神が国家、または個人を扱う時にもいろいろなやり方や方法があるわけで、みな違うのです。しかし、最終的に神様は正義を樹立されます。私たちの歴史の背後には神が働いておられ、その計画にしたがって粛々と進めておられるのです。ですから、たとえ私たちの思いや考えでは愚かなことのように見えることでも、神はその状況、状況に応じて最善のことをされながら導いてくださるのです。それをイザヤは何と言ってるかというと29節で次のように言っています。
「これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしい。」
皆さん、主のはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしいのです。主はユダに対して最善の計画をもっておられたように、今の時代の、私たちに対しても、それぞれ状況は違っても、最善のことをしてくださるのです。ですから、私たちに必要なことは、私たちが理解できてもできなくても、この神に信頼し、この神にすべてをゆだねることです。人間的にはエジプトに信頼した方が安心であるかのようにみえる時でも、神は何と言っておられるのか、何が神のみこころなのかを知って、その神の御手にゆだねることが、いつの時代でも、だれに対しても共通の祝福の秘訣なのです。あなたはどうですか。死と契約を結んだり、よみと同盟を結んだりしていませんか。そうしたものはいざというときに全く頼りになりません。全く役に立たないのです。ただ神がシオンに据えた一つの礎の石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石こそ、決して揺らぐことのない確かな人生の土台です。救いです。これを信じる者は、あわてることはありません。この確かな礎の石こそ、イエス・キリストなのです。この方に信頼する者は、決して失望させられることはありません。あなたもこの方を信じ、この方をあなたの人生の礎の石としてください。そうすれば、あなたの人生にどんなことがあっても、主はあなたを守り、あなたにとって最善のことをしてくださいます。この方はあなたにとって全く信頼に足る、比類のないお方なのです。