イザヤ書29章1~24節 「アリエルのうめき」

きょうは、イザヤ書29章から学びたいと思います。タイトルは「アリエルのうめき」です。1節を見ると「ああ。アリエル、アリエル。」とあります。アリエルとはエルサレムのことです。そのエルサレムを、主はここで嘆いておられます。そこにはうめきと嘆きが起こります。なぜでしょうか。きょうはそのことについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.しいたげられるアリエル(1-8)

まず1節から8節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。「ああ。アリエル、アリエル。ダビデが陣を敷いた都よ。年に年を加え、祭りを巡って来させよ。わたしはアリエルをしいたげるので、そこにはうめきと嘆きが起こり、そこはわたしにとっては祭壇の炉のようになる。」

アリエルとは先程申し上げたようにエルサレムのことを指しています。意味は「神のライオン」とか、「祭壇の炉」という意味があります。なぜ神様はここでエルサレムを「アリエル」と呼んでいるのでしょうか。なぜなら第一に、この町がライオンのように勇ましく、壮健であったからです。1節には、「ダビデが陣を強いた都よ。年に年を加え、祭りを巡って来させよ。」とあります。この町は、ダビデの陣が敷かれた町です。ダビデによって都と定められました。ダビデは神の箱をこの町に運び入れたとき、力いっぱい踊ったとあります。(Ⅱサムエル6:14)それはまさに獅子のような、ライオンのような勇ましい姿であったことでしょう。しかし、それだけではありません。第二に、アリエルはしいたげられるので、祭壇の炉のようになるからです。祭壇の炉とは、いけにえをささげる炉のことです。そこで彼らは火のような試練を受けるわけです。なぜでしょうか?それは彼らの心が、神様から遠く離れていたからです。そのことについては後で触れたいと思いますが、ここでは彼らがどのようにしいたげられるのかを見ていきたいと思います。3節と4節です。

「わたしは、あなたの回りに陣を敷き、あなたを前哨部隊で囲み、あなたに対して塁を築く。あなたは倒れて、地の中から語りかけるが、あなたの言うことは、ちりで打ち消される。あなたが地の中から出す声は、死人の霊の声のようになり、あなたの言うことは、ちりの中からのささやきのようになる。」

これはアッシリヤがエルサレムを包囲した時のことです。B.C.701年に起こりました。アッシリヤの王セナケリブはエルサレムを包囲し、エルサレムはまさに風前のともしびのようになりました。彼らは地面に倒れうめき苦しみます。ほとんど死んだ人のようになりました。彼らは死者がよみで不平を言うように、かすかなうめき声を出しているかのようになるのです。

けれども、そんなアリエル、エルサレムでしたが、神の奇跡的なご介入によって救われます。何と神の使いが出て行き、一晩で185,000人のアッシリヤ兵を打ち破りました。そのことが5節に記されてあります。「しかし、あなたの敵の群れも、細かいほこりのようになり、横暴な者の群れは、吹き飛ぶもみがらのようになる。しかも、それはにわかに、急に起こる。」それは急に起こりました。たった一夜にして起こったのです。

6節から8節までをご覧ください。「万軍の主は、雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす炎をもって、あなたを訪れる。アリエルに戦いをいどむすべての民の群れ、これを攻めて、これを取り囲み、これをしいたげる者たちはみな、夢のようになり、夜の幻のようになる。飢えた者が、夢の中で食べ、目がさめると、その腹はからであるように、渇いている者が、夢の中で飲み、目がさめると、なんとも疲れて、のどが干からびているように、シオンの山に戦いをいどむすべての民の群れも、そのようになる。」

万軍の主は、雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす炎をもって、あなたを訪れます。あなたに戦いを挑むすべての民、あなたを攻めて、あなたを取り囲み、あなたを虐げる者たちをみな、そのようにされるのです。アリエルのことを「あなた」と言いましたが、そう言っても間違いではないではないでしょう。私たちは神を信じ、神の民とさせていただいたわけですから、神のイスラエルです。神のライオン、祭壇の炉のようになったのです。そのアリエルを神は完全に守ってくださいます。アリエルを侵略しようなんてとんでもない話です。それはまさに夢物語です。どんなに敵が襲って来ようとも、神はのどが干からびたのどのようにされるのです。エルサレムが異邦人によって滅ぼし尽くされるということは絶対にありません。なぜなら、エルサレムはダビデが陣を敷いた都だからです。ダビデの子イエス・キリストの都だからなのです。神の都を征服するなど、それこそ夢物語であります。全く非現実的なことなのです。そのような者たちはみな、夢見る者たちのように、干からびたのどのようになるのです。

それは、アッシリヤだけのことではありません。今日に至るまで、エルサレムは何度も何度も侵略を受けてきました。ダビデによってエルサレムが都として定められたのは1004年のことですが、それから今日に至るまで記録によると何と86回も征服を受けてきたのです。このアッシリヤの時は征服されそうになっても神の奇跡的なご介入によって免れました。しかし、アッシリヤの次に台頭してきたバビロンによってエルサレムは陥落します。バビロンの王ネブカデネザルによってソロモンによって建てられた神殿は完全に破壊され、こに住んでいたユダヤ人はバビロンへと捕らえ移されました。いわゆるバビロン捕囚です。B.C.586年のことでした。しかし、神はご自身の約束にしたがってユダヤ人をその縄目から解き放ちました。ペルシャの王クロスによって彼らをエルサレムへと帰還させたのです。しかし、その後も異邦人によるエルサレムの支配は続き、ローマ時代を迎えました。その時にイエス様が生まれたのです。人々はイエスがそのローマの圧政から救い出してくれるものと期待しましたが、イエスがもたらした支配はローマからの解放ではなく、そうしたもろもろの問題の根本的な原因である罪からの解放でした。やがてA.D.70年に、ローマの将軍ティトスによってエルサレムは破壊されそこに住んでいたユダヤ人は、全世界へ離散させられました。それから長い間イスラム帝国の支配が続き、1516年から1917年にはオスマントルコ帝国、これもイスラム帝国ですが、その支配の時です。もうエルサレムは異邦人に侵略されてしまったかと思っていたころ、1800年代ですが、全世界に住んでいたユダヤ人がエルサレムに帰還するようになりました。そして1948年にはイスラエルは国として再興したのです。それがイスラエル共和国であります。それはイザヤ書11章11~12節で主が約束してくださったことの成就でもありました。

「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。」

エルサレムの覇権を巡ってはその後も近隣アラブ諸国との対立が続きましたが、1967年に第三次中東戦争でイスラエルが勝利したことで、そうしたアラブ諸国の支配から、異邦人の支配から解放され、国際都市となりました。これはたった六日間の戦争だったので、六日戦争と呼ばれています。イスラエルは今や花を咲かせ、豊かな実を実らせています。なぜでしょうか。そこはダビデによって定められた神の都だからです。その神の都を征服するなど、それこそ夢物語なのです。そのような者たちはみな、夢見る者たちのように、干からびたのどのようになります。神の都であるエルサレムに、神の都とされたあなたに、だれも危害を加えることはできないのです。

Ⅱ.深い眠りの霊(9-16)

それにしてもなぜ神の都であったアリエルにこのようなうめきが起こったのでしょうか。それは彼らの心が神から離れていたからです。そのことについて次に見ていきましょう。9節から16節までのところです。まず9節と10節をお読みします。

「のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。主が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。」

ここに彼らの問題が何であったかが記されてあります。それは、彼らの目が閉じられ、あたまがおおわれていたことです。28章の前半のところにはエフライム、北イスラエルですね、そのエフライムの問題が記されてありました。それは彼らが酒に酔っていたことでした。彼らは酒のために混乱し、ふらついていました。そんな彼らを見て南ユダ王国、エルサレム、アリエルの人たちは物笑いの種にしていましたが、そんな彼ら自身にも問題がありました。彼ら自身も酔ったような状態であったわけです。それはぶどう酒によるものではありませんでした。強い酒によったのではありません。彼らには深い眠りの霊が注がれていて、主からの言葉を理解することができなかったのです。このことを聞いて皆さんの中にはパッと目を覚ました人もおられるかもしれません。11節と12節を見てください。

「そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「これは、封じられているから読めない」と言い、また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「私は、読み書きができない」と答えよう。」

彼らにとってすべての幻が封じられた書物のことばのようになりました。聖書がわからないのです。それを読み書きできる人に渡しても、「読めない」、「理解できない」と言うのです。じゃ、読み書きできない人はどうかと思って渡しても、やっぱり「できない」と言います。どんなに教育を受けていようと、あるいは全く教育を受けていまいと関係なく、聖書に書かれてあることがわからないのです。なぜでしょうか。この書物はそれほど難しいからでしょうか。そうではありません。理解したいと思っていないからです。悟りたいと思っていません。それが問題です。理解したいと思っていない人にどんなに聖書を渡してもそれは退屈きわまりない、無味乾燥な、どこを読んでもわからないミステリアスな書物でしかありません。ただ聖書を学びたい、もっと深く知りたいと願う人にとってのみ、理解が与えられるのです。どんなに無学な者であっても、みことばを知って、変えられたいと願う人には、読めるのです。主イエスは言われました。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

求める者には与えられ、捜す者は見いだし、たたく者には開かれるのです。現在、我が国の識字率は99%です。ほとんどの人が読めます。だれでも聖書が読めるのです。これは恵みではないでしょうか。かつてはそうではありませんでした。読みたくても読めないという時代があったのです。今でも世界では7億7600万人の成人が読み書きができないと言われています。なのに私たちは読み書きができるのです。いや、読み書きができるだけでなく自分の聖書を持っています。マイ聖書、しかも1冊だけでなく何冊も・・。中にはいろいろな訳で、いろいろな言語で書かれた聖書を持っている人もいます。だれにも反対されないで読むことが出来るのです。なのに読めない。本棚にきれいに飾ったままになっている。それは、学びたいと思っていないから、知りたいと切に願っていないからです。こんな無学な者でも聖書がわかるようにしてくださった神の恵みに感謝して、へりくだってこれを学び、これに聞き従う心を持ちたいと思います。

13節、14節を見てください。ここには、そのように聖書を読みたくないという人の本当の原因が書かれてあります。「そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」

このことばはイエス様によっても引用されていることばです。マタイの福音書15章8~9節、マルコの福音書7章6~7節に引用されています。手を洗わないでパンを食べた弟子たちに対して清めのしきたりを守らないで神の命令をおろそかにしているという律法学者たちの責めに対して、主はこの箇所を引用して、「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」と言われたのです。

皆さん、口先では神をあがめていても、その心が神から遠く離れていることがあります。ワーシップサービスではなくリップサービスになっていることがあるのです。心が伴っていない。心ここにあらずです。賛美しながら、今晩の夕食は何にしようかとか、祈っていても仕事のことや学校のことを考えています。ああ疲れたな。家に帰ったらおもしろいテレビがやってるのに・・。賛美しながらそのメロディーや雰囲気に呑み込まれ、その歌詞に思いを寄せることをしません。ただみんなに合わせて歌っているだけということはないでしょうか。それはただのリップサービスであってワーシップサービスではありません。くちびるで主をあがめていても、その心が離れているのです。彼らは人の教えを教えとしているだけなのです。

これがか問題です。人間の教えを教えとしているだけです。神のことばである聖書を聖書として教えていないのです。ある週はこの箇所、次の週はあの箇所と、いろいろな箇所から自分の主義主張を教えてしまう。これではその心が神から離れてしまうのも当然です。これは牧師や教師である私たちが本当に反省しなければならないことです。聖書を聖書として教えていく。たとえ難しい箇所であっても意味のない無駄なことはないと信じて、神のことばを学び、そこから教えていく。そして、そのみことばに従って歩んでいかなければなりません。

先日、エホバの証人の方がが久しぶりに家に来られました。「こんにちは。私たちは良い知らせを伝えるためにこうやって回っています。牧師さんですか。最近は地震とか、いろいろな災害がありますが、これから先はどうなると思われますか。」私も満面の笑みを浮かべて答えました。「これからのことですか。ええ、聖書に書いてあるとおりになります。」すると、「そうですか。やがて死もなく、悲しみ、叫びもない、目の涙がぬぐい去られる時が来ることをご存じですか。」と言われるので、「ええ、その時が来るのを信じています。ところで、それはいつですか。」と言うと、「いつというのは神様しかわからないことです。」「ええ、イエスが再び来られること、世の終わりについてはそれがいつなのかわかりませんが、目の涙がぬぐわれる時がいつなのかは聖書にはっきり書いてありますよ。黙示録21章にある新しい天と新しい地がもたらされる時です。千年王国の終わってサタンがその牢から解き放たれることが20章にあります。そのサタンに勝利して最終的に白い御座において神のさばきが行われますが、そのさばきにおいて小羊の書に名が書き記されてある人は、この新しい天と新しい地を受け継ぎます。そのように聖書に書いてあります。」  するとその方は、「牧師さんは聖書の記述を時間通りに解釈しているのですか。福音書に記されてあることは時間通りの出来事なのですか。」と話を変えられました。「いいえ、福音書に書かれてあることは時間的にどうかということではなく、何のために書かれたのかということを理解することが大切だと思います。たとえば、マタイの福音書はユダヤ人のために、ユダヤ人が旧約聖書の預言がイエスによって成就したことを知り、このイエスこそキリスト、メシヤ、救い主であることを知るために書かれました。あるいはルカの福音書は異邦人がよく理解できるように、ルカが綿密に調べて書いたのであって、それは異邦人である私たちが福音をよく理解するためでした。」  すると今度はバッグから「ものみの塔」という雑誌を取り出して、「伝道者の書3章11節に何が書いてあるかわかりますか」と言われました。「はい。神のなさることは時にかなって美しい」とあります。「神は人に永遠の思いを与えられたとあります」と答えると、永遠のいのちについてその雑誌から説明されました。回りくどくてポイントがずれていたので、「ところで、永遠のいのちとは何ですか」と聞くと、「それは人生の喜びです」とか「楽しみです」といった訳のわからないことを言われたので、「これは創世記1章26,27節にある神のかたちのことです。神は私たちに永遠を慕う思いを与えられました。これが霊とかたましいと呼ばれているものです。私たちの霊が神とつながっている状態が永遠のいのちです。しかし最初の人アダムが罪を犯したので、このいのちを失ってしまいました。しかし、あわれみ豊かなエホバは、そのひとり子イエスをこの世に遣わし、十字架によってその罪を赦し、救いの御業を成就してくださいました。ですから、だれでもこのイエスを主として、救い主として信じるなら救われるのです。永遠のいのちをいただけるのです。」  するとこの方は驚いて、こんなに聖書を学んでる牧師さんがいるとは思わなかったとか言って、「ところで、牧師の仕事は何ですか」と言うので、それに対しても、「エペソ4章に何と書いてありますか。聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのみからだなる教会を建て上げるために牧師が立てられているとあります。」と言うと、「今、皆さんでこの辺を歩いているので時間がありませんので、もっと聖書を学びたいのてあれば、後でまた来たいと思います」と言われました。でもそれは聖書の学びではないですよ。本当に聖書から学びたければ聖書だけで十分です。聖書から論じましょう。そうだったらいくらでも時間を割きますよ。といって別れました。

聖書を教えているようで、実際は聖書ではないのです。人間の教えを教えているのです。それではいくら熱心であっても、その心は神から遠く離れてしまいます。人間の教えではなく聖書は何を言っているのか。聖書に何と書かれているのかを知り、それに従うことが求められているのです。そうすれば、主が不思議を行われます。私たちが心に浮かばないこと、目で見たこともないこと、耳で聞いたこともないことを行われるのです。それは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを隠されるためです。神のことばを神のことばとして聞き、従っていくとき、そこに神のすばらしい御業が現れるのであります。

15節と16節をご覧ください。ここには「ああ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らはやみの中で事を行い、そして言う。「だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう」と。ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ」と言えようか。」とあります。

アッシリヤの侵略に対して、彼らはエジプトと同盟を結んで対処しようとしていました。それはイザヤの警告を無視した人間的な解決でした。彼らはそうした自分たちのはかりごと隠し、やみの中で事を行っていました。「だれも見ていない。」「だれも知らない」と。しかし、神はすべてのことをご存じです。だれも見ていなくても、神は見ておられます。詩篇139篇1~8節には、次のようにあります。

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。」

主はどこにでもおられます。何でも知っておられるのです。神様の目にすべては裸同然なのです。ですから、神には隠し事などできません。なのに、主は見ていないと、自分のはかりごとを隠すとしたら、それは物をさかさに見ているのと同じです。神様をただの人間のように見ていることに他なりません。それはまるで陶器が陶器師に向かって「彼は私を造らなかった」、「彼はわからずやだ」と言ってるようなものなのです。主客が転倒しているわけです。主客転倒です。

賀川豊彦は、「神が造られたこの世界によって神を見せてくれという人は、赤ん坊が母の胎内にあって母を見せてくれというのに等しい」と言いました。神なんていないと、神の存在を認めない人は、お母さんの胎内で母を見せてくれ、見るまでは信じないと叫んでいるようなものだというのです。非常におかしい。滑稽です。しかし、そのようなものなのです。神は私たちのすべての道を知っておられ、完全な御手をもって導いておられます。その神を信じ、神のみことばに従うこと。それが私たちにも求められているのです。口先だけで敬うのではなく、心から神を敬うこと、神を求めること、神に従うこと、神を愛することが求められているのです。それが信仰の本質なのです。

Ⅲ.つぶやく者もおしえを学ぶ(17-24)

最後に、そんなアリエルの回復について見て終わりたいと思います。17節から終わりまでをご覧ください。17節から21節までをお読みします。「もうしばらくすれば、確かに、レバノンは果樹園に変わり、果樹園は森とみなされるようになる。その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る。へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。横暴な者はいなくなり、あざける者は滅びてしまい、悪をしようとうかがう者はみな、断ち滅ぼされるからだ。彼らは、うわさ話で他人を罪に陥れ、城門でさばきをする者のあげあしを取り、正しい人を、むなしい理由でくつがえす。」

これはアリエル、エルサレム、イスラエルの回復の預言です。ここには「もうしばらくすれば、確かに、レバノンは果樹園に変わり、果樹園は森とみなされるようになる。」とあります。「もうしばらくすると」というのは、次の節にあります「その日」のことです。それは世の終わりのことを指します。世の終わりの時に、レバノンは果樹園に変わるのです。かつてレバノンは地雷が埋め尽くされていましたが、今では立派な果樹園に変えられました。あまり知られていませんが、このレバノンでは人口の40%がクリスチャンです。やがてレバノンが回復するという預言が少しずつ実現しています。世の終わりの時には、これが完全なかたちで現れることでしょう。

それはレバノンだけのことではありません。これまで耳が聞こえなかった人たち、目が見えなかった人たちが、こぞって神のことばを聞くようになり、理解するようになります。これまで「ああ、眠い。聖書はほんとうに退屈な本だ。何が書いてあるのかちっともわからない。読みたくない。」そう思っていた人たちが喜んでこの書物のことばを聞くようになり、何を言っているのかわからなかった人がはっきり見えるようになるのです。わかるようになります。聖書って本当におもしろい。もっと学びたい。知りたいと思うようになる。主はそのようにへりくだった人たち、貧しい人たちに喜びと楽しみを与えてくださるのです。横暴な者はいなくなります。悪をしようとうかがう者もみな、断ち滅ぼされます。うわさ話で他人を罪に陥れようとしていた人たちや、人のあげあしを取ろうとしていた人たちも、くつがえされます。なぜなら、主イエスが戻って来られるからです。その日、主はすべてをあきらかにされ、すべての不条理を正されるのです。

「それゆえ、アブラハムを贖われた主は、ヤコブの家について、こう仰せられる。「今からは、ヤコブは恥を見ることがない。今からは、顔色を失うことがない。 彼が自分の子らを見、自分たちの中で、わたしの手のわざを見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる方を聖とし、イスラエルの神を恐れるからだ。 心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶ。」(22-24)

その日、彼らはヤコブの聖なる方を聖とし、イスラエルの神を恐れます。心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶのです。どうしてよいかわからない。道に迷ってしまう。判断がつかないで、おろおろとうろたえとしまう。 欲に迷う。お金に迷う。心を惑わして、正常な判断がつかない。そういう人が悟りを得て、もう誘惑にたやすく負けることがなくなります。またつぶやく者もおしえを学びます。日々の試練に遭って、「なぜですか」、「なぜこんなひどいことが起こるんですか」といった苦々しい思いを持っていた人が、主の教えを学ぶようになるのです。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)と言えるようになるのです。試練が恵みに変えられるのです。何と感謝なことでしょうか。

神はあなたを必ずそのようにしてくださいます。なぜなら、あなたは神のアリエル、神の都エルサレムだからです。そこは神によって定められた神の都だからです。神があなたとともにおられ、あなたをすべてのわざわいから守り、とこしえの喜びで満たしてくださいます。アブラハムを贖われた主はあなたをも贖われ、この神の都に置いてくださいました。もうしばらくすると、あなたはレバノンの果樹園のように変えられます。そう信じて、へりくだって神のことばを聞き従いましょう。貧しくなって、神のことばを求めましょう。そうすれば主はあなたにも悟りが与えてくださいます。あなたの心は迷っていませんか。目の前のことでつぶやいていませんか。どうぞ神のみおしえを聞いてください。そして、それを悟ってください。そこにある神の深いご計画に目を留めていただきたいのです。主のおしえを学ぶ。それが私たちの祝福の原点なのです。