イザヤ書30章1~15節 「反逆の子ら」

きょうは、イザヤ書30章1節から14節までのみことばから学びたいと思います。タイトルは「反逆の子ら」です。1節を見ると、「ああ。反逆の子ら」とあります。これは南ユダの民のことです。当時、南ユダ王国はアッシリヤに攻め込まれていましたが、そうした窮地の中で彼らは神ではなくエジプトに助けを求めました。そうした彼らの姿をここで「反逆の子ら」と呼んでいるのです。彼らは人にではなく神に、自分たちの考えではなく神のはかりごとを求めなければならなかったのにそうではありませんでした。  きょうは、この反逆の子らイスラエルの姿から、私たちクリスチャンはどうあるべきなのか、私たちが持つべきでない態度とはどのようなものなのかを学びたいと思います。

Ⅰ.何しないラハブ(1-7)

まず第一に、1節から7節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。「1ああ、反逆の子ら。―主の御告げ―彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。2彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。」

ここに、「彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。」とあります。これはイザヤの時代、北からアッシリヤがやって来て南ユダ王国を滅ぼそうとしていた時のことです。アッシリヤはすでに北イスラエルをのみ込み、破竹の勢いで南ユダ王国までやって迫っていました。そしてエルサレムを包囲しようとしていたのです。いったいどうしたらいいものか。どのようにしてこれに対抗したらいいのか。彼らはいろいろとはかりごとをめぐし、エジプトに助けを求めました。エジプトなら何とかしてくれるに違いない。アッシリヤがどんなに力があっても、エジプトにはかなわないだろう。そのエジプトと組めば何とかなると思ったのです。それでエジプトと同盟を結ぼうとしました。しかし、それは神のみこころではありませんでした。神を抜きにしたはかりごとでした。神の霊によらない、自分たちの考えだけで進めたことだったのです。ですから、彼らは反逆の子らと言われているのです。この「はかりごと」と訳されていることばは、英語の聖書では「plans」(NIV)と訳されています。計画です。彼らはいろいろな計画、計略を立てますがそのどれもが神によるものではなく、神抜きに立てられたものだったのです。

皆さん、人がはかりごとをめぐらすこと、計画を立てることは自体は悪いことではありません。神がこの天地万物を造られた時もちゃんと計画を立てて造られました。神は最初の人間を造られた時もその前に人間に必要なすべてのものを用意してから造られました。お膳立てされたわけです。神は計画的な方です。ですから神のかたちに造られた人間も計画的な存在なのです。はかりごとをめぐらすことは人間らしいことだと言えます。動物はそうではありません。動物はただ本能だけで動きます。思いついたら動くのです。この中にも動物的な人がいらっしゃいますか。はい、私もそうです。こう思ったらすぐに動いてしまう。それは動物的です。あまり考えない。しかし、人間は違います。人間は神のかたちに造られ、神のように、はかりごとを立てて行動します。ですから、はかりごとを立てること自体は悪いことではないのです。いろいろと計画を立てて実行することは大切なことです。いろいろな人に相談をするのもいいでしょう。セカンド・オピニヨンを聞いて総合的に判断しようとすることも大切なことなのです。問題は、それが神によらないことです。神を抜きにして、自分であれこれとはかりごとをめぐらすことが問われているのです。彼らははかりごとをめぐらしましたが、「わたしによらず」だったのです。それは「罪に罪を増し加えるばかり」なのです。

私たちはまず神に求めるべきです。神によってはかりごとをめぐらすべきなのです。私たちは自分たちがはかりごとをめぐらす前に、神には計画があることを認めなければなりません。私たちが生まれる前から、神は私たちに対して計画をもっておられることを認め、その計画に、むしろ私たちが参画していくようにすべきなのです。しかし、残念ながら神を抜きにしてはかりごとをめぐらすのです。神ではなくこの世に解決を求めてしまいます。たとえば、心理学に基づいたカウンセリングなどはその一つでしょう。あたかも聖書に基づいているかのようにみせかけたアプローチをとっても、それはこの世の知恵、この世の考えに基づいたものなのです。それは人の考え、人のはかりごとにすぎません。それは罪に罪を増し加えることになるのです。

それからここには「同盟を結ぶがわたしの霊によらず」とあります。これはエジプトと同盟を結ぶことを指しています。それは、「はかりごとをめぐらすこと」と同じ事です。彼らは同盟を結びますが、わたしの霊、神の霊によるものではありません。それはあくまでも自分たちの考えに基づいたものです。

この「同盟」と訳されたことばは、文字通りには「毛布」とか「ブランケット」のことです。同じことばが28章20節で使われていました。そこには、「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」とあります。この「毛布」と訳されたことばが「同盟」です。アッシリヤが攻めてくるがどうするか?どのように対処したらよいものか。エジプトと同盟を結べばいい。しかし、それは短すぎる。足りない。不十分だ。というのです。毛布というのはおおってくれるもの、カバーしてくれるものです。彼らは自分たちをカバーしてくれるものがエジプトだと思いました。おおいとなる存在、守ってくれる存在、保護してくれる存在を神の霊、聖霊ではなく、エジプトに求めたのです。これも罪です。神の御霊によらないで、神以外のものにおおってもらおうとすることは罪なのです。

スヌーピーで有名な「ピーナッツ」という漫画をご存じですか。その漫画に登場するライナス(Linus)という少年は、いつも毛布を持っています。毛布がないと安心できません。彼は世の中に「安心毛布(セキュリティ・ブランケット)」という言葉を広めました。その毛布を持っていると安心します。彼にとって毛布はなくてはならないものです。ないとイライラしてしまう。パニクッテしまいます。これをブランケット症候群と言います。これがないと安心できない。それが彼に安心をもたらすのです。南ユダはそれをエジプトに求めました。2節にあるように、彼らはエジプトに下って行こうとしましたが、神の指示をあおごうとしませんでした。エジプトの王パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとしたのです。しかし、これもまた罪でした。

あなたを常にカバーしてくれるものは何ですか?あなたを常に保護し、常に守ってくれると思っているものは何でしょうか?あなたに安心感を与え、これがないとイライしてしまう。これがないとバニクッテしまうというものは何でしょうか?ある人は携帯電話かもしれません。携帯がないと落ちつかない。携帯依存症です。いつでも、どこでも携帯の画面を見ている。携帯を持っていると安心しますが、持っていないと不安になります。朝、妻にかけることばで一番多いのは「あなた携帯持った?」です。それは私たちの場合ですが・・・。スマホがないと生きていけない。スマホがない人生なんてあり得ないという人がいます。これも立派な依存症です。スマホ依存症です。スマホ症候群。それは安全毛布と同じです。安全携帯、安全スマホです。ある人はテレビがないと生きていけないという人がいるかもしれません。コンピューターがないとだめです・・・とか。そうしたものに依存してしまう。それはエジプトと同盟を結ぶことと同じです。毛布は持つが、わたしの霊にはよらない。皆さん、私たちの中には神の霊、聖霊が住んでおられます。イエスを信じる者の心の中には神の霊が住んでおられるのです。私たちのからだは神から受けた聖霊の宮なのです。なのにその聖霊によらないで毛布に頼ろうとしてしまう。神の霊によらないで、携帯に、スマホに、テレビに、コンピューターに、人に安心感を求めてしまう。そこに自分をカバーするものを求めようとする。それはエジプトと同盟を結ぶことと同じなのです。

ゼカリヤ4章6節を開いてください。ここには、「すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。」とあります。ユダは権力に頼ろうとしました。能力に頼ろうとしました。でも神の霊に頼ろうとはしませんでした。どんなにはかりごとをめぐらしてもそれが神によらず、神の霊によるものでなければ、それは罪なのです。罪に罪を増し加えるばかりなのです。

あなたはどうでしょうか?あなたにはどんなアッシリヤの脅威が迫っているでしょうか?ある人にとってそれは経済的な問題であるかもしれません。また他の人には仕事上の問題かもしれません。またある人には人間関係のトラブルがあるかもしれません。そうした問題にどのように対処しているでしょうか。もしあなたがユダのように神なしに、自分の考えで、自分の計画で事に当たろうとすれば、あるいは、いろいろな人に相談して、いろいろな人の力を借りようと権力や能力に頼り、神の霊に求めなかったら、そこには平安はありません。神によらず、神の霊によらなければ、罪に罪を増し加えるだけなのです。

3節から5節までのところを見てください。ここには、そのように神に頼らないでエジプトに頼ってしまった結果が語られています。「3 しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。4 その首長たちがツォアンにいても、その使者たちがハネスに着いても、5 彼らはみな、自分たちの役に立たない民のため、はずかしめられる。その民は彼らの助けとならず、役にも立たない。かえって、恥となり、そしりとなる。」

パロの保護にたよることは、彼らに恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらします。アダムとエバはどうでしたか。食べてはならないと命じておいた木から取って食べたとき、彼らは自分たちが裸であることを知りました。恥がともないました。神の知恵ではなく、自分たちで善悪を知ることができると思っても、結果は恥だったのです。世の知恵に頼ると、私たちは初めに考えていた安らぎではなく、恥が、侮辱が伴うのです。

4節の「その首長たち」とか、「その使者たち」というのは、エジプトと同盟を結ぶために南ユダ王国から遣わされた使者たちのことです。今日でいうと外務大臣のような人たちのことでしょうか。「ツォアン」とか「ハネス」というのはエジプトの都市のことです。彼らがそこに着いても、何の役にも立ちません。かえって、恥となり、そしりとなります。神によらず、神の霊によらないで、自分の知恵、自分の考え、自分の論理で動こうとすると必ず失敗することになるのです。

それだけではありません。6節をご覧ください。ここには「6 ネゲブの獣に対する宣告。「苦難と苦悩の地を通り、雌獅子や雄獅子、まむしや飛びかける燃える蛇のいる所を通り、彼らはその財宝をろばの背に載せ、宝物をらくだのこぶに載せて、役にも立たない民のところに運ぶ。」とあります。

「ネゲブ」とは地名です。ユダの南にあった荒野をネゲブと言いました。通常、ユダからエジプトに下る時にはこのネゲブを通りません。そこには獣が出たり、山賊が出たりしたので危険が伴ったからです。ですから通常は海岸沿いのペリシテの地域を通りました。その方が安全で、ずっと早く行くことができました。けれども、そちらを通ればエジプトに下って行ったことがバレてしまいます。できれば内密にエジプトと同盟を結びたかった彼らは、あえて危険な道を通って行きました。それがネゲブです。しかし、そこには危険が伴いました。雌獅子、雄獅子が襲ってきます。また、まむしや飛びかける燃える蛇もいました。これは翼竜のことです。翼のある大きなトカゲのことだと思われます。そうしたものが襲いかかるのです。ですから、そのようなところを通るのは大変なのです。苦難と苦悩が伴います。エジプトに頼ることには、そうした苦難や苦悩が絶えないのです。

かといって、彼らがエジプトと同盟を結べば自分たちの身を守ることができたでしょうか。7節をご覧ください。ここには「7 そのエジプトの助けはむなしく、うつろ。だから、わたしはこれを『何もしないラハブ』と呼んでいる。」とあります。「ラハブ」とはエジプトの地名です。意味は「騒ぎ立てる」「威張り散らす」「怒鳴り散らす」です。エジプトは怒鳴り散らすおやじのように、騒ぎ立てるおやじのように、いかにも強そうなので頼りになるかなぁと思ったら「何もしない」というのです。それがこの世です。エジプトはこの世の象徴なのです。「何もしないラハブ」、ここの別訳は「病気で休んでいるラハブ」です。寝たきりで何もできない状態であるということです。口では怒鳴ったり、威張ったりして、いかにも強そうでも、実際には何の役にも立ちません。病気で寝ている状態なのです。それがこの世です。それが私たちが頼りたがっているものなのです。でもそれは何の役にも立ちません。私たちはまず神に尋ねなければなりません。神が願っておられることは何か。何が良いことで神に受け入れられることなのか。神がなそうとしておられることは何なのかを求め、その通りに歩んでいかなければならないのです。真に助けになるのは、全能なる神だけです。この方に尋ねなければならないのです。

Ⅱ.主の小道を歩もう(8-11)

次に8節から11節までをご覧ください。「8 今、行って、これを彼らの前で板に書き、書物にこれを書きしるし、後の日のためとせよ。世々限りなく。9 彼らは反逆の民、うそつきの子ら、主のおしえを聞こうとしない子らだから。10 彼らは予見者に「見るな」と言い、先見者にはこう言う。「私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの証言をせよ。11 道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ。」

神はイザヤにご自分のみことばを書物に書き記すように、記録するように言われました。後の日に、それが神から出たことであり、彼らの苦難や苦悩は、彼らが神のことばに従わなかった結果もたらされたものであるということを彼らがはっきりと理解するためです。神は前もって警告を発し、そのことばの通りになるということを示すために、ご自分のみことばをきちんと書き記すようにと言われたのです。それは神のことばである聖書と言ってもいいでしょう。聖書の言葉は世々限りなく続くものであり、必ず実現するのです。イエス様は次のように言われました。

「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせないかぎり、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:18)

皆さん、神のことばは決してすたれることはありません。全部が成就します。この永遠に変わらない神のことば、聖書こそ唯一信頼に値するものであり、私たちが唯一頼るべきものなです。

なのに反逆の民である彼らは、このみことばをどのように受け止めたでしょうか?9節をご覧ください。ここには「彼らは反逆の民、うそつきの子ら、主のおしえを聞こうとしない子らだから。」とあります。「彼ら」とは南ユダの人たちのことです。彼らは神のことばを聞こうとしませんでした。神のことばなんでどうでもいい。聞いてなんていられない。そんなものよりももっと現実的で、効率的な方策があるではないかと、一切聞こうとしませんでした。そういう彼らを聖書は何と言ってるかというと、「反逆の民」、「うそつきの子ら」と言っています。

それだけではありません。10節と11節を見ると、彼らは予見者には「見るな」と言い、先見者には「私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。」と言っていました。「予見者」とか「先見者」とは、イザヤを始めとした神のことばを取り次いでいた人たちのことです。彼らは神のことばを預かって語っていました。そういう人たちのことを予見者とか、先見者、あるいは預言者と呼んでいました。そういう人たちに向かって彼らは、「見るな」とか「それを自分に語るな」と言っていたのです。なぜでしょうか?それはイザヤを始めとしたそうした予見者、先見者が正しいことを言っているのを知っていたからです。しかし、それは自分たちの都合に合わない。気に入らなかったわけです。だから自分たちが気に入るようなことを語ってもらいたかったのです。あえて「偽りの預言をせよ」と言いました。これはひどいですね。聖書をねじ曲げて、自分たちに都合がいいように語れというのですから・・・。

11節を見てください。そういう人たちは結局のところ、次のように言うことになるのです。「道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ。」何ということでしょうか。すごいですね。ここまで来ると・・。イスラエルの聖なる方を消せ、というのですから。この「道」とか、「小道」とは主のみことば、主の道のことです。イザヤ書2章3節にこうあります。「多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」すなわち、これは主の道、主のみおしえのことなのです。そこからそれてしまう。神のことばを退けてしまうのです。それは神ご自身を退けてしまうことにほかなりません。神のみことばを拒否することは、神ご自身を拒否することなのです。「私はクリスチャンです。でもみことばは聞きたくありません。」ということはあり得ないのです。その人は実のところ神を退けているのです。口では神を信じるとは言っても、神のことばを退けるなら、それは実質、神を退けていることと同じです。ですから彼らは「反逆の民」とか「うそつきの子ら」と呼ばれているのです。神を信じているというのはうそで、クリスチャンであるというのもうそだということになります。ただそのふりをしているだけなのです。

イエス様は、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23)と言われました。恐ろしいことです。主よ、主よと、主の御名を呼んだのだからクリスチャンに違いない。主の名によって悪霊を追い出し、奇跡をたくさん行ったのに、「わたしはあなたを全然知らない」というのです。何が問題なのでしょうか。みことばを聞いてもそれを行なっていなかったことです。道からそれていたのです。そのようにしてイスラエルの聖なる方を消していたのです。自分でもわかりませんでした。自分ではクリスチャンだと思っていたのに、実際のところは神を退けていたわけです。自分に都合のいい神を造っていました。それをイエス・キリストと呼んでいたにすぎなかったのです。

皆さん、人は自分にとって都合のいい話を聞きたいものです。嫌なことを聞きたくありません。自分のひどい現実に向き合うのは嫌です。できればいいことを言ってもらいたい。なめらかなことば、受け入れやすいことを話してほしいと願います。しかし、そこには何の変化ももたらされません。

トーマス・ワトソンというピューリタンの説教家は、次のように言いました。「悪魔は人々を平安のゆりかごに乗せて揺さぶります。人々が地獄の絶壁に立っていても、悪魔は平安を叫びます。しかし神は罪を悔い改めさせ、たましいを低くし、その後に平安を語られます。多くの人々が語っている平安は嵐の前ですか、それとも後ですか。まことの平安は苦しみの後に来るということを忘れないでください。神は傷ついた心に最高の平安を与えてくださいます。」

箴言27章5節には、「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」とあります。あからさまに責められるのは嫌です。私たちの中には間違いを指摘する人から避けようとする傾向がありますが、しかし、あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさるのです。私たちは、そうした愛のむちを感謝して受け取れるようになりたいものです。

神のことばは生きていて、力があります。それは両刃の剣のように鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。そこには心にグサッと刺さるような痛いことばもあれば、「わたしは涙であなたを潤す」というような優しいことばもあります。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます」といった慰めのことばもあります。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」といった励ましのことばもあります。しかし、どれもみな同じ神のことばなのです。この神のことばを神のことばとして受け入れそれに従うことがその道を歩むということです。そこに祝福があります。私たちは主のことばを退けたり割り引いたりすることなくそのまま受け入れ、それに従うものでありたいと思います。

Ⅲ.立ち返って静かにせよ(12-15)

最後に、12節から15節までを見て終わりたいと思います。14節までお読みします。「12 それゆえ、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「あなたがたはわたしの言うことをないがしろにし、しいたげと悪巧みに拠り頼み、これにたよった。13 それゆえ、このあなたがたの不義は、そそり立つ城壁に広がって、今にもそれを倒す裂け目のようになる。それは、にわかに、急に、破滅をもたらす。14 その破滅は、陶器師のつぼが容赦なく打ち砕かれるときのような破滅。その破片で、炉から火を集め、水ためから水を汲むほどのかけらさえ見いだされない。」

ここには、主の教えを聞こうとしない反逆の子らがどうなるのか、その結果が記されてあります。「わたしの言うこと」とは聖書のことです。聖書の言うことをないがしろにし、しいたげと悪巧みとに拠り頼むとどうなってしまうのか。「それゆえ、このあなたがたの不義は、そそり立つ城壁に広がって、今にもそれを倒す裂け目のようになる。」みことばをないがしろにし、自分の生活から神を除外する。そして、自分のライフスタイルを続けようとすると、必ず自己崩壊につながっていきます。破滅をもたらすことになります。それはちょうど城壁の裂け目のようにです。ほんのわずかな亀裂でも城壁に裂け目があったらどうなるでしょうか。そそり立つ城壁全体を崩してしまうことになります。ほんのわずかなひび割れで、ほんのわずかな不義で城壁が崩れ、自分も崩れてしまいます。守りを失って、その城壁が自分の方に倒れて来て、自分の首をしめてしまうことになるのです。自分を破滅に導く、墓穴を掘るようなことになっていくのです。神のことばを退ける人は必ず墓穴を掘ります。先程は恥を見るとか、侮辱を受けるということを言いましたが、それだけでは済みません。破滅に至ることになるのです。

それはにわかにやって来ます。急にもたらされます。しばらくは自分は守られて大丈夫だと思っています。エジプトと手を組めば安心だと思っています。自分の考えでうまくいってると思っているわけです。しっかりと城壁に囲まれていて何の問題もない・・と。神のことばを聞かなくても私はこんなに頑張ってるし、こんなによくやってる。何も不自由していない。満たされている。安全である。平安であると、言い張るわけです。しかしいつの日か、そのわずかな割れ目から大崩壊が始まるのです。にわかに、急に、です。破滅をもたらします。ちょっとしたことで破滅するんですね。ちょっとした亀裂、侮ってはなりません。

その破滅は、陶器師のつぼが容赦なく打ち砕かれるときのような破滅です。陶器師のつぼが容赦なく打ち砕かれるときのような破滅とは、どのような破滅なのでしょうか。グチャグチャです。その破片で、炉から火を集め、水ためから水を組むほどのかけらさえ見いだされません。そのかけらで、まだ道具に使われそうなものが残ればいいのですが、まだ役に立つかもしれませんが、あまりにも粉々に砕かれるので、他の目的のために再利用することができないくらいになるのです。それほど粉々に破滅されます。もう人生がやり直せないほどに、これまでの人生が一つも役に立たないほどに砕かれるのです。

これは警告です。反逆の子らにこの警告がなされています。皆さん、いかがですか。彼らははかりごとをめぐらしますが、神にはよりません。たくさんの計画を持っています。やりたいことがいっぱいあります。窮地になれば私にはこんな計画があります。こんな打開策があります。こうすればうまくいく。これに頼れば何とかなる。十分蓄えがあるから大丈夫。この知恵で、これまでの経験を生かせば何とでもなる。それは明らかに罪です。その結果は恥をかくだけです。侮辱を被ります。遠回りして、苦労して、さまざまな危険にさらされても何の役にも立たないというリスクを背負った人生です。そして、そのまま歩むなら最後は小さな裂け目からすべてが崩壊してしまいます。粉々になります。今までの人生はいったい何だったのかと思うほど、粉々に砕かれてしまうことになるのです。これまで蓄えたものも役に立ちません。得た資格も役に立ちません。あんなに健康に留意してビタミン剤をいっぱい飲んで、ジムに通って、運動して、健康なからだを手にしていたのに、それもあるとき、何の役にも立たないときがやってきます。

それではいったいどうしたらいいのでしょうか。いったいどこに救いがあるのでしょうか。15節をご覧ください。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」ここにあなたの救いがあります。主に立ち返って静かにすれば、あなたは救われます。あなたが主に信頼すれば、力を得るのです。あなたにはアッシリヤのような強大な敵が迫っているかもしれません。回りが敵に囲まれてもう逃げ場がないような状況かもしれません。経済のことや健康のこと、あるいは人間関係のことや仕事のことでいったいどうしたらいいものかと悩んでいるかもしれません。しかし、立ち返って静かにすれば、あなたは救われます。これまでの生き方を悔い改めてまことの神に方向転換をすれば救われます。落ち着いて、この方に信頼すれば、力を得るのです。エジプトに逆戻りしてはいけません。エジプトとはこの世を象徴しています。この世を信頼してはいけないのです。あなたはこの世から救われたのです。せっかくこの世から救われたのにそこに逆戻りするようなことをしていけません。そうではなく、神に信頼しなければならないのです。そうすれば救われます。力を得ます。  南ユダは悔い改めて、神に立ち返ることで救われました。アッシリヤが彼らを取り囲みましたが、主の使いが出て行って一晩に十八万五千人のアッシリヤの軍隊を滅ぼされました。そうしてユダは救われたのです。それはあなたも同じです。主に立ち返って静かにすればあなたは救われます。落ち着いて、主に信頼すれば、あなたは力を得るのです。このことを忘れないでいただきたいと思います。どうか反逆の子にならないで、神に従う子、神に信頼する子になってください。そこに神の確かな救いと力があるからです。