きょうは、イザヤ書30章15節から26節までのところから学びたいと思います。タイトルは「主を待ち望む者の幸いです。18節の終わりのところに、「幸いなことよ。主を待ち望むすべの者は。」とあります。主を待ち望む者がどのような幸いを得るのかを、ご一緒に見ていきたいと思います。
Ⅰ.驚くべき神の恵み(15-18)
まず第一に15節から18節までのところを見ていきたいと思います。15節をご覧ください。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。しかし、あなたがたは、これを望まなかった。」
イザヤはこの30章前半のところで、神によらないではかりごとをめぐらすイスラエルの民、これは南ユダのことですが、反逆の子と呼びました。彼らは神の指示をあおごうとしないで、エジプトに下って行こうとしました。彼らはパロの保護に身を避け、エジプトの陰に隠れようとしたわけです。しかし、その結果は恥と侮辱でした。苦悩と苦難でした。非常に危険でリスクの伴うものだったのです。いったいどうしたらいいのでしょうか。主に立ち返ることです。主に立ち返って静かにすればあなたがたは救われ、落ち着いて、主に信頼すれば、力を得るのです。立ち返って静かにするとは、英語でIn repentance and restです。repentanceは悔い改めること、 restとは休息することです。悔い改めて神に立ち返る、悔い改めて正しい方向に向きをかえるなら、そして、神のもとで休息するなら、あなたは救われるのです。落ち着いて、主に信頼すれば、あなたは力を得るのです。アッシリヤという強大な敵が差し迫っていても、神に立ち返って静かにすれば、あなたは救われるのです。
しかし、彼らはこれを望みませんでした。15節の後半をご覧ください。「これ」とは何でしょうか。「これ」とは神に信頼することです。神に信頼することを望みませんでした。あくまでも自分たちの考えで、自分たちの力で解決しようとしたのです。エジプトと同盟を結び、エジプトの保護のもとに頼ろうとしました。彼らは次のようにいいました。16節です。「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」皆さん、神のことばを聞いても逃げる人がいます。逃げて、逃げて、あくまでも自分の考えを押し通そうとするのです。そういう人がいます。そういう人はどうなるでしょうか。16節の後半から17節にかけて、次のように言われています。「それなら、あなたがたは逃げてみよ。「私たちは早馬に乗って。」それなら、あなたがたの追ってはなお速い。17 ひとりのおどしによって千人が逃げ、五人のおどしによってあなたがたが逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗ぐらいしか残るまい。」
何も残らなくなります。主はもっと早い馬に乗って追いかけるので、最後には旗ざおくらいしか残らなのです。逃げてばかりの人生には何も残りません。それは何の解決にもなりません。解決の道はただ一つ。それは主に立ち返ることです。落ち着いて、信頼することなのです。そうすれば、あなたがたは救われるのです。しかし、なかなか信じないで逃げ回るイスラエルに対して、神様はアッと驚くようなことを言われました。18節をご一緒に読みましょう。「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」
「それゆえ」とは何ゆえでしょうか。主が「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」と言われたにもかかわらず、これを望まなかったので、それゆえにということです。もう何も残っていません。旗ざおくらいしか残っていないので。そんなみじめで、さびしい彼らに対して、「それゆえ」と言っておられるのです。「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。」彼らが従順に神のことばを聞いて従っているからではありません。従わないで、嫌だ、望まないと言って逃げ回っているのにもかかわらず、恵もうとして待っておられるのです。あわれもうと立ち上がられるのです。皆さん、これが恵みです。恵みとは全く受けるに値しない者が受ける過分の親切です。そのような者に一方的に注がれる賜物なのです。しかもここには「それゆえ」ということばが2回使われているのです。「それゆえ、主はあなたがたを恵もうと待っておられ、それゆえ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。」です。神のことばを平気で無視するような人に対して、主は「それゆえ」と言って恵もうとしておられるのです。それが私たちの神です。
ルカの福音書に出てくる放蕩息子は、お父さんからもらった財産を使い果たし、最後には豚の世話をするまでになり、食べるものにも事欠くようになった時、「父のもとに帰ろう。」という気持ちになりました。父のもとに帰って、使用人のひとりとして使ってもらおう。そして「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」と詫びようと思いました。こうして彼は立ち上がって、父のもとに行きました。しかし、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見付けるとかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしたのです。そして一番いい着物を着せ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせて言いました。「肥えた子牛をひいて着てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなったのが見つかったのだから。」(ルカ15:23-24)
このお父さんこそ私たちの信じる天の神だと、イエス様は言われました。自分勝手に家を出て行き、やりたい放題のことをした結果がこの様です。食べるにも困り果て、臭いヨレヨレのあかだらけの着物を着て帰った来た息子の姿には、かつての面影などなかったでしょう。全く愚かです。自業自得です。しかし、そんな息子の姿を見た父親は家を飛び出して出て行き、彼を抱き抱えて口づけすると、最上の着物を着せて、再び自分の子供として迎え入れたのです。
皆さん、神は高いところにいて、ふんずり返っているような方ではありません。上から目線で、祝福が欲しければ自分で取りに来なさいというような方ではないのです。自分の罪で苦しんでいるのを見て「自業自得だ」と、遠くから、冷ややかな目で見ているような方ではないのです。そのような姿を遠くで見付けると、走り寄って、抱き抱え、口づけして、受け入れてくださる方なのです。いくら言っても同じ過ちを繰り返す愚かな者をを、あわれもうとして立ち上がられる方なのです。
私たち日本人は特に、悪いことをすると罰が当たるとか、たたりがあると教えられてきてますから、神がこのような方であることに驚きを感じ得ません。そして、神に率直に、ありのままの姿で出て行くことができず、「もっと立派になったら教会に行きます」と言うのです。しかし、主はあなたを恵もうとして待っておられ、あなたをあわれもうとして立ち上がられます。あなたが主に立ち返るなら、あなたはいつでもこの恵みを受け取ることができるのです。神はそれを待っておられます。ですから、自分のちっぽけな考えに固執しないで、自分の限られた能力に頼ったりしないで、この方を待ち望まなければならないのです。ここには「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」とあります。もしあなたがこの神を待ち望むなら幸いを得るのです。
Ⅱ.主を待ち望む者の幸い(19-24)
その幸いはどのようなものなのでしょうか?19節から24節までをご覧ください。まず19節です。ここには「ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。」とあります。
シオンに住む民も、エルサレムに住む者も、同じ人のことを指しています。もうあなたは泣くことがありません。この中に泣いておられる方がいらっしゃいますか?人生に絶望し、気が狂わんばかりに泣き叫んでいる方がおられるでしょうか?もうあなたは泣くことはありません。主は必ずあなたに恵みを与えてくださいます。あなたの祈りを聞かれ、その祈りに必ず答えてくださいます。それが何年先のことであっても、いますぐに答えられなくても、主は必ずあなたの祈りに答えてくださるのです。
サムエル記第一1章10節、11節を開いてください。「10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますならば、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」 ハンナの心は痛んでいました。嘆き悲しんでいました。なぜなら、彼女は不妊の女だったからです。当時は後継ぎを産めない女は価値がないと、社会的にも蔑視されていました。生きる価値がないと思っていました。もうひとりの妻からの嫌がらせもありました。そのような状況の中で彼女の心はひどく痛み、主に祈って、激しく泣いたのです。そして、もし神様がはしためを顧みて男の子を授けてくださるなら、その子の一生を主にささげますと誓いました。これはナジル人の誓願と言いますが、このようにしてささげられた子の頭にはかみそりを当てませんでした。 するとどうなったでしょうか。17節、18節です。「17 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」エリというのは祭司です。彼はハンナが心を注いで祈っている姿を見て最初は酔っているのかなと思いましたがそうではなく、心を注いで祈っていたことを知り、「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださる。」と宣言しました。ハンナは、自分の祈りがかなえられると確信しました。すると彼女の顔は、もはや以前のようではありませんでした。希望と確信に変えられたのです。そのようにして与えられたのがサムエルでした。彼はイスラエルの歴史上最も偉大な預言者となっていきます。主は、彼女の祈りが答えられるのをずっと待っておられました。それはただ彼女が自分の息子がほしい、後継ぎがほしいというちっほけな祈りではなく、イスラエル全体に祝福をもたらすような器を与えてくださいと祈ったからでした。それこそ神様が与えたいと願っておられたものなのです。
「14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(Iヨハネ5:14-15)
皆さん、これこそ私たちの確信です。何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださいます。私たちの思いをはるかに越えてすばらしいことをされます。あなたを恵もうと、すばらしい計画を立てておられるのです。もうあなたは泣くことはありません。
ニューヨーク・リハビリテーションセンターの壁に、南北戦争の時に負傷したある無名の戦士の祈りが貼ってあるそうです。それは「病者の祈り」です。
「大事をなそうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに 慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった
より偉大なことができるように 健康を求めたのに よりよきことができるようにと 病弱を与えられた
幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに 神の前にひざまづくようにと 弱さを授かった
人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに あらゆることを喜べるようにと 生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた 神の意にそわぬ者であるにもかかわらず 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ」
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすへて聞き届けられた。かなえられた。神の意にそぐわないものでも、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられたと知ったとき、彼はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたと告白することができたのです。皆さん、主は必ずあなたを恵み、あなたに答えてくださいます。あなたはもう泣くことはないのです。
そればかりではありません。20節、21節をご覧ください。「20たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。21 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。」
ここには、たとえあなたが物質的には乏しくても、現実的には不自由な状況であっても、あなたには祝福が与えられると約束されています。それはあなたが神のみ声を聞くことができるという祝福です。神のことばを聞くことが、キリスト教信仰の最高の祝福です。皆さん、キリスト教信仰において最も大きな祝福は何でしょうか。それは立派な会堂を持っていることではありません。華やかな活動をすることでもないのです。キリスト教の信仰において最も大きな恵みは、神のことばを聞いて、そのことばによって生かされることなのです。神の言葉によって生かされていくとき、私たちのたましいが満たされるのです。しかし、それがないとどんなに物質的に恵まれていても虚しさを感じます。イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と言われました。(マタイ5:4)皆さん、私たちはこの神のことばによって生かされているのです。そして、私たちが主を待ち望むなら、神はご自身のみ声を聞かせてくださるのです。
「あなたの教師はもう隠れることがなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう」とはこのことです。この「教師」は複数形です。ですからこの教師とは預言者を指しているのではないかと考えられますが、この教師というのは神ご自身だといってもいいでしょう。なぜなら、預言者たちは神の言葉を語るからです。ですから、この教師とは神のことであり、また、イエス・キリスト、聖霊の三位一体の神のことです。この神が、あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから、「これが道だ。これに歩め」ということばを聞くようになるのです。主のみ声を聞きながら歩める人生は何と幸いでしょうか。主のみ声を聞いて従う人生には間違いがありません。皆さんもそうでしょうが、私もこれまで何回か人生の岐路に立たされたことがありますが、そのような時、ほんとうに祈り込むように、神に叫びながら、自分が進むべき道を求めたことがありますが、その度に主は「これが道だ。これに歩め」と言って導いてくださいました。何と感謝なことでしょうか。
ところで、これは牧者が羊を導くときの様子を表していると言われています。いわゆる牧羊語です。主は羊飼いとして、その羊が迷うことがないようにうしろから御声をかけて導いてくださるのです。ダビデはそんな羊飼いなる主を、次のように告白しました。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」
主があなたを導いてくださいます。主があなたに御声をかけてくださいます。それゆえにあなたは何も畏れることはありません。主があなたを緑の牧場に、水野ほとりに伴ってくださるからです。
ですから22節にはこのようにあるのです。「あなたは、銀をかぶせた刻んだ像と、金をかぶせた鋳物の像を汚し、汚れた物としてそれをまき散らし、これに「出て行け」と言うであろう。」
「銀をかぶせた刻んだ像」とか、「金をかぶせた鋳物の像」とは偶像のことです。あなたがイエス・キリストと出会うと、これまで頼りにしていたものがちりあくたのように感じます。もう必要なくなるわけです。これがないと生きていけないと思っていたもの、それはアルコールであったり、薬、お金、車、あるいはブランド品であったかもしれません。これまで頼っていた人であるかもしれません。そういうものが必要なくなるのです。本物を持つと偽物は必要なくなるのです。それらはちりあくたです。もういらないので「出て行け」と言うようになるのです。
使徒パウロは何と言いましたか?使徒パウロは、ユダヤ人として家柄も学歴もそして宗教人としてもエリートでしたが、そうしたものを「ちりあくたと思っています」(ピリピ3:11)と言いました。それは彼がキリストのすばらしさを知ったからです。キリストとの出会いは、一度経験すると、価値観がまったく変わってしまうほどの、それまで価値あると思っていたものがまるでちりあくたのように思えるほどの満足を受けるのです。あなたはこのイエス・キリストを知っているでしょうか。イエスを知り、このイエスに心が満たされていれば、他のものはちりあくたと思えるほどに、全く必要なくなるのです。
そればかりではありません。23、24節をご覧ください。ここには「23 主は、あなたが畑に蒔く種に雨を降らせ、その土地の産する食物は豊かで滋養がある。その日、あなたの家畜の群れは、広々とした牧場で草をはみ、24 畑を耕す牛やろばは、シャベルや熊手でふるい分けられた味の良いまぐさを食べる。」とあります。
ここには、その祝福が物質的な面にも及ぶということが言及されています。「キリスト教というものは精神的なもので、ご利益宗教ではありませんから、そうしたものは全くありません・・。」とうのではなく、私たちが主を待ち望み、主を第一にして行くとき、種を蒔く時に雨を降らせて、その産物を豊かに実らせ、家畜産業も祝福されて、最良の家畜が育つのです。神の祝福は物質面にも及ぶのです。主を待ち望む人にはほんとうに良いもの、栄養になるもの、力になるもの、ためになるもの、益になるものが祝福として与えられるのです。何という幸いでしょうか。
Ⅲ.究極のいやし(25-26)
しかし、25節と26を見ると、そればかりではないことがわかります。ここには、「25 大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる日に、すべての高い山、すべてのそびえる丘の上にも、水の流れる運河ができる。26 主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。」とあります。これはどういうことかというと、究極的ないやしが与えられるということです。
「大いなる虐殺の日」とは、イザヤの時代で言えば、アッシリヤの脅威からの解放のことです。アッシリヤがエルサレムを包囲したとき、主の使いが出て行って一晩で十八万五千人の軍隊を滅ぼされました。その時のことを表しています。しかし、これは世の終わりの預言でもあります。この世の終わりにもそれと同じような状況が、しかももっと大きなスケールで臨みます。それは世の終わりの時の患難時代です。その日、キリストに立ち向かう世界中の軍隊がエルサレムに集結して戦いを挑みます。これをハルマゲドンの戦いといいます。世界中の軍隊が主に戦いを挑むわけです。しかし、主は御口からでる剣で彼らを滅ぼされます。そして、千年にわたる平和な時代をこの地上に樹立されるのです。これが千年王国です。その日、すべての高い山、すべてのそびえる丘の上にも、水の流れる運がができる。つまり、豊かな水が流れるようになるということです。そして主は究極的ないやしを与えられるのです。主はその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされるのです。もちろん、肉体のいやしは当然のことですが、そればかりでなく、神に反逆したことによって傷ついた心を十分にいやし、慰めてくださるのです。
黙示録21章4節をご覧ください。ここには「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」とあります。これは新しいエルサレム、天国のことです。天国では神ご自身が彼らとともにいて、彼らの目の涙をすっかりかぬぐい取ってくださいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。以前のものが、過ぎ去ったからです。キリストは死からよみがって、その死を滅ぼされました。キリストを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてキリストを信じる者は、死ぬことがありません。その人には永遠のいのちが与えられるからです。これこそ究極のいやしです。その日、主は彼を信じるすべての者の傷を包み、その打たれた傷をいやされるのです。
そこには太陽も、月もありません。なぜなら、神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらないからです。それでもそこは日の光の七倍のように光るのです。そして、都の中央にはいのちの木があり、その木の葉が彼らをいやします。(黙示録22:1-2)イザヤは、これを預言していたのです。
主を待ち望む者はこのような幸いが与えられるということを、あなたにも知ってほしいと思います。そして、この主を待ち望んでほしいのです。主はあなたを恵もうと待っておられます。あなたをあわれもうとして立ち上がってくださるのです。主に立ち返って静かにすれば、あなたは救われます。落ち着いて、信頼すれば、あなたは力を得るのです。神の約束を信じて、あなたも主に信頼してください。そうすれば、あなたもこの幸いを受けることができるのです。あなたはもう泣くことはありません。主は必ずあなたを恵み、あなたに答えてくださいます。あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから、「これが道だ。これに歩め」ということばを聞くようになるでしょう。その主のみ声を聞きながら歩んで行くようになります。それはもうこの世のすべてが「ちりあくた」だと思えるような経験です。それほどすばらしい恵みです。そして最後は天国です。そこで完全ないやしを受けるでしょう。そのような祝福が約束されているのです。立ち返って静かにすれば、あなたは救われ、愛知着いて、信頼すれば、あなたは力を得る。あなたもこの救いを体験してください。これは主を待ち望むすべての人に約束されているのです。