きょうはイザヤ書30章の最後の部分から、「天国か地獄か」というタイトルでお話ししたいと思います。突然「天国か地獄か」と聞いてドキッとされた方もおられるかもしれません。きょうのところは、30章全体のまとめになります。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたは力を得る。」(15)と言われたのに、イスラエルはそれを望みませんでした。彼らはあくまでも馬に乗って逃げようとした。エジプトに信頼しようとしたのです。その結果は恥と侮辱です。苦難と苦悩です。破滅と破壊がもたらされます。しかし、主はそんなイスラエルをあわれまれました。そのように主に反逆を続ける彼らに対して、「それゆえ、主は恵もうと待っておられ、あわれもうと立ち上がられます。」(18)普通なら捨てられてもおかしくないのに、主はそんな彼らをあわれもうとされました。そして、主を待ち望む者にはものすごい幸いが注がれるということを、私たちは見てまいりました。きょうのところには、その結果が記されてあります。
Ⅰ.主の御名が遠くから来る(27-28)
まず第一に27節と28節をご覧ください。「見よ。主の御名が遠くから来る。その怒りは燃え、その燃え上がることはものすごく、くちびるは憤りで満ち、舌は焼き尽くす火のようだ。28 その息は、ほとばしって、首に達するあふれる流れのようだ。破滅のふるいで国々をふるい、迷い出させる手綱を、国々の民のあごにかける。」 これはイスラエル(ユダ)を苦しめていたアッシリヤをさばくために、主が来られるということです。主の御名が遠くから来るという表現は、聖書にはここにしか使われていない表現です。主の御名が来るというのは、全世界の主権者であり、神の民の救い主、贖い主が来られるということです。それが遠くからやって来るというのは、おそらく、今までユダを見捨てられていたような状態であった神がやって来られるということを表しているものではないかと思われます。彼らにとって神は、まさに遠くにおられるような方でした。そこには深い断絶がありました。神に頼らず人間に、エジプトに頼っていた彼らは「反逆の子ら」と呼ばれていました。(1節)彼らは罪に罪を増し加えるばかりだったのです。しかし、そんな彼らが主のことばに応答し、立ち返って静かにしたことで、主は彼らに答えてくださいました。落ち着いて、主に信頼した結果、彼らは力を得ることになったのです。それまで遠く離れていたかのように見えた神がやって来て彼らを助け、彼らの敵であったアッシリヤをさばくために来てくださるのです。これはイザヤの時代で言えばアッシリヤに対するさばきのことですが、同時に世の終わりの預言でもあって、イエス・キリストはご自分の敵である悪魔をさばくために再び来られることを預言しているのです。その時主はどのようにさばかれるのでしょうか。
「その怒りは燃え、その燃え上がることはものすごく、くちびるは憤りで満ち、舌は焼き尽くす火のようだ。28 その息は、ほとばしって、首に達するあふれる流れのようだ。破滅のふるいで国々をふるい、迷い出させる手綱を、国々の民のあごにかける。」
ユダの敵であったアッシリヤに対する主の怒りは、ものすごいものでした。ここには「その怒りは燃え」とか、「その燃え上がることはものすごく」とあります。その怒りは燃え上がる炎のようでした。神はアッシリヤを、ユダを懲らしめる道具として用いられましたが、それが懲らしめという目的を越えてユダに迫り、彼らをほしいままに侵略することをお許しにはなりませんでした。「その息は、ほとばしって、首に達するあふれる流れのようだ。」かつてイザヤはこのアッシリヤの襲来を洪水にたとえましたが(8:7-8,28:18)、ここでは主の息がそれ以上の規模と激しさで彼らを襲うというのです。また、「破滅のふるいで国々をふるい、迷い出させる手綱を、国々の民のあごにかける。」とあります。少々わかりずらい文章ですが、こういうことです。「破滅のふるい」とは「偽りのふるい」のことです。神はこの偽りのふるいで国々をふるい分け、その正体を明らかにされます。そして善と悪を正しくより分けられます。そして、向こう見ずの暴れ馬をギュと手綱で締めて制御するように、主はアッシリヤを扱われるのです。そのようにして神はご自分の民イスラエルがこれ以上苦しむことがないようにと、その偉大な力と権威をもって臨んでくださいます。それは今も、後も、同じです。世の終わりにも主に戦いを挑むこの世の軍隊がハルマゲドンに集結しますが、主はその口から出る剣によって完全に敵を打ち破られます。(黙示録19:11-21)いつの時代においても主は、ご自身の民を苦しめる敵を打ち破るために来てくださいます。そして主はあなたのところにも来てくださるのです。
ここには、「見よ。主の御名が遠くから来る。」とあります。あなたはこの主が来られるのを見なければなりません。主はあなたを助けるために来てくださいます。神が愛をもって選ばれたあなたのためにこのような計画を持っておられることを、あなたにもぜひ知っていただきたいと思うのです。
Ⅱ.喜びと楽しみを与えてくださる神(29)
次に29節をご覧ください。ここには「あなたがたは、祭りを祝う夜のように歌い、主の山、イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む者のように心楽しむ。」とあります。主はあなたのところに来てあなたの敵を打ち破られるだけでなく、あなたの喜びを回復してくださいます。あなたは祭りを祝う夜のように歌い、主の山、イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む者のように心楽しむのです。
これは、かつてイスラエルがエジプトから解放された時のようになるということです。イスラエルがエジプトを出たときもそうでした。彼らは紅海を目の前にしてエジプトが追ってくるという危機的な状況の中で、圧倒的な主の御業によって救われました。主は紅海を真っ二つに分け、そこにかわいた道を作り、その道を通らせることによって彼らを救い出されたのです。追ってきたエジプト軍は、主が海の水を彼らの上に返されたので、彼らはその水に投げ込まれて滅びました。その偉大な主の御業を見たモーセとイスラエルは、主に向かって心からの賛美しました。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。綿ははこの方をほめたたえる。」(出エジプト15:1-2)また、モーセの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンと踊りで主をほめたたえました。
この方があなたの主であるということを、あなたの神であるということを、知っていただきたいと思います。主は、あなたにも喜びを回復してくださいます。主は罪というエジプトからあなたを解放するためにイエス・キリストをこの世にお遣わしになられることによって、あなたにこの喜びをもたらしてくださったのです。これがクリスマスの出来事でした。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの待ちで、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10-11)
クリスマスはまさに「すばらしい喜びの知らせ」です。肉によっては無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためです。(ローマ8:3-4)どういうことかというと、自分の力によっては、自分の努力によってはだれもこの罪から救われないのを、神がしてくださったということです。イエス・キリストによって。キリストが十字架にかかって死んでくださることによって、私たちの罪をその身に負ってくださったので、この方を信じる者はみな、だれでも、天国に行けるようにしてくださったのです。この方を通してでなければ、だれも天国に行くことはできません。イエス・キリストは次のように言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
キリストを通してでなければ、だれひとり天国に行くことはできません。神はひとり子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、この方を信じることによって罪から救われる道を用意してくださったのです。これが道です。人生にはいろいろな道があって、どの道を行ったらいいか本当に迷いますが、これが道なのです。この道を行くなら、あなたは救われます。そして、かつてイスラエルがアッシリヤから救われた時に経験した喜びを、またエジプトから救われた時の喜びを、なたも持つことができるのです。
新聖歌266番には「つみとがをゆるされ」という賛美がありますが、この賛美はその喜びが歌われた歌です。「つみとがをゆるされ、神の子となりたる、わが魂の喜び、比べうるものなし。ひもすがら証しせん、夜もすがら主をほめん、み救いは妙なり、み救いはくすしと。」 この賛美はファニー・クロスビーというクリスチャンによって書かれた歌です。神様の救いは信じられないほどすばらしく、私はひもすがら、つまり一日中救いのすばらしさをを証し、主なるイエス様をほめたたえる、と言うのです。この中には彼女の喜びが溢れています。
この歌を書いたファニー・クロスビーは、実は生涯盲目で人生を送った女性でした。彼女は1820年にニューヨークで生まれましたが、生後6週間のときに医者のミスによって失明してしまいました。またその医者も人の批判に耐え切れず夜逃げして、行方不明となりました。さらに彼女は1歳になる前に父親を亡くしてしまいます。しかし彼女は、祖母や母親の愛と信仰によって育てられ、8歳のときにこのような詩を書きます。
「私は目が見えなくても何という幸いな身の上でしょう/私はこの世では/不平を言わないことにきめました/ほかの人たちが知らない/沢山の恵みを私は味わいます/目が見えないからといって/どうして嘆くことができましょう」
彼女はイエス・キリストの十字架の愛を伝えるために宣教師となりたいと願いましたが、それは叶いませんでした。叶いませんでしたが、自分の歌を通して百万人の人をイエス様のもとに導きたいと祈りました。彼女は作詞によって得る収入の殆どを貧しい人々に与え、天に召されるまでニューヨークのスラム街に近い貧しい家に住んでいました。 また彼女を盲人にしてしまった医者が、心を痛めていたことを知り、自伝に次のように書きました。「もし今、私が彼に合うことが出来たら、伝えたいのです。私の目を見えなくしたことで自分を責めないで下さい。あなたにとっては失敗だったかもしれませんが、神には失敗はありません。私が肉体的に暗やみの中で生涯を暮らすことは神のご計画だったと信じています。見えないことを通して多くのものを見ることができ、神への讃美を歌い、他の人々を励ませる者にしていただいたのですから。私は世界中で一番幸せな者だと思います。今しばらくは肉眼で見ることはできませんが、でも天のみ国に帰ったその時、私はこの目で最初に救い主イエス様を見ることができるのです。神様はすべてを働かせて私たちに益として下さいます。この神の愛に満たされて、私は讃美しつつこの世の旅路を歩んで行きたいと思います。」 彼女は生涯盲目のままでした。でも詩の才能を与えられ、神様の恵みに深く感謝して、十字架に現された神の愛を歌い続けました。彼女の心はいつも信仰による喜びが湧いていたので、その顔は輝いていました。人々が彼女のそばに行くと、その喜びが「伝染した」と言ったそうです。 この「つみとがをゆるされ」の2番の歌詞の中で、彼女はこう歌いました。「今、私の目の前は喜びの光景でいっぱいになります」と。なぜ彼女はそんなことを歌うことができたのでしょうか?どうして盲目の彼女に喜びの光景が見えたのでしょうか?それは彼女が肉眼では見えなくても、心の目で、信仰の目ではっきりと主を見ていたからです。
その喜びはあなたにも差し出されています。私たち人間はみな、この世に生きている限り多くの困難や苦しみがあります。その苦しみに対して不平を言って、不満の中で生きる人生もあるでしょう。困難があるのが当たり前だとあきらめ、希望なく生きる人生もあるでしょう。しかしファニー・クロスビーのように、困難の中に希望を見出し、喜びにあふれる生涯を送ることもできるのです。それはイエス・キリストを救い主として信じて受け入れる時から始まるのです。あなたもイエス・キリストによってこの喜びと希望を持つことができるということを知ってほしいと思います。
Ⅲ.アッシリヤはおののく(30-33) 最後に30節から33節をご覧ください。「しかし、主は威厳のある御声を聞かせ、激しい怒りと、焼き尽くす火の炎と、大雨と、あらしと、雹の石をもって、御腕の下るのを示される。31 主の御声を聞いてアッシリヤはおののく。主が杖でこれを打たれるからだ。32 主がこれに下す懲らしめのむちのしなうごとに、タンバリンと立琴が鳴らされる。主は武器を振り動かして、これと戦う。33 すでにトフェテも整えられ、特に王のために備えられているからだ。それは深く、広くされてあり、そこには火とたきぎとが多く積んである。主の息は硫黄の流れのように、それを燃やす。」
アッシリヤに対する主のさばきはユダにとっては喜びの回復の時ですが、アッシリヤにとってはそうではありません。彼らにとっては恐怖と嘆きの時です。アッシリヤに対する主の怒りは「威厳のある御声、激しい怒り、焼き尽くす火の炎、大雨、あらし、雹の石」となります。この神の怒りにアッシリヤは全く気力を失うようになるのです。神は定められた杖とむちでアッシリヤを打たれ、エルサレムを包囲していたアッシリヤの軍隊を壊滅させます。これは37章36節にありますが、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、18万5千人を打ち殺した出来事のことです。それは、前701年に起こりました。エルサレムを包囲したアッシリヤの陣営にある晩主の使いが出て行き、一晩で18万5千人ものアッシリヤ兵を打ち殺したのです。
そして33節を見てください。ここには「すでにトフェテも整えられ」とあります。そうしたアッシリヤはトフェテに送られるのです。「トフェテ」というのは地獄のことです。下の欄外の説明には「焼き場」とありますね。火葬場のことです。火葬場のように熱い火でやかれるのです。しかもその火は消えることがありません。それは深く、広くされてあり、そこには火とたきぎが多く積んであるからです。それは永遠に燃え続けます。永遠に燃え続ける火で焼かれるのです。それが「トフェテ」です。これはギリシャ語では「ゲヘナ」と言いますが、ここから「地獄」ということばが来ました。ここには地獄がどういう所なのかがはっきりと描かれています。それは永遠に燃え続ける火で焼かれる所です。多くの人が死んだら終わりだと考えていますが、実際は違います。死んだらその体は朽ちて滅びますが、たましいは天国か地獄に行くのです。天国はさきほども見たように喜びに見た溢れたところです。もはや悲しみ、叫び、苦しみもありません。なぜなら、以前のものが、過ぎ去ったからです。この地上のものを引きずることはありません。全く悲しみや叫びや苦しみがない所、それが天国です。もっと詳しくおしりになりたい方は、黙示録21章と22章を後でご覧になってください。そこに天国のことがよく描かれています。しかし、地獄は違います。地獄は決して消えることのない火が燃えていている所です。そこで永遠に苦しみ続けるのです。 こんなに苦しむならいっそのこと灰になって消えてしまいたいと願っても、その願いすら叶いません。永遠に火の中で苦しむのです。それが地獄です。アッシリヤはその中に投げ込まれるのです。
このアッシリヤとは反キリストのことを指しています。反キリストとその背後にいるサタンのことです。そして、そのサタンとともに神に反逆する人たちのことです。そのような人たちはみなトフェテに投げ込まれるのです。地獄に行くのです。
このように言いますと、中には「神が愛なら、どうして人を地獄に落とすようなことをするのか?」という人がいます。しかし、それは間違いです。聖書によると、地獄は人間のために用意されたものではなく、このサタンと悪霊たちのために用意された所なのです。マタイの福音書25章41節を開いてください。ここには「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。」とあります。この永遠の火は、悪魔とその使いたちのために用意された所なのです。神はこんな所に人間を送りたいなどみじんも思っていません。むしろ、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられるのです。そのために神はご自分のひとり子さえも与えてくださいました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
自分のいのちよりも大事なひとり子イエス・キリストを与えるほどに、神はこの世を愛されました。あなたを愛してくださったのです。それはだれも滅んでほしくないからです。だれも地獄に堕ちてほしくないのです。ひとりも滅びることなく、すべての人が救われてほしいと願っておられたからなのです。ですから、神が人間を無理矢理に地獄に落とすようなことはしないのです。
それならば、なぜ人は地獄に行ってしまうのでしょうか?それはその人が行きたいと願っているからです。別に天国なんかに行かなくてもいい、どうせ死んだら終わりなんだから。天国も、地獄もない、あるのは中国だ、などと言って信じようとしないのです。そういう人が地獄に行ってしまうのです。どんなに神は愛でも、無理矢理天国に入れることはできません。そんなことをすれば神様は私たちと自由な愛の関係を結ぶことができないからです。それは愛でも何でもありません。神は私たちと自由な愛の交わりを求めているからです。
ですから、神様が人を地獄に落としたいのではないのです。そのように決めているのは人間の側であって、残念ながらその数は私たちが思っているものよりも多いのです。
しかし、イエス様を信じる人は、絶対に地獄に行くことはありません。だれも地獄に落とされることはないのです。イエス様を信じる人はみな天国に行きます。イエス様はそのために天国に行かれました。場所を備えに行かれたのです。ヨハネの福音書14章1節から3節までのところに次のように書かれてあります。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
イエス様は場所を備えに行かれました。この場所はその辺の掘っ立て小屋とは違います。これはマンションです。マンションというと日本ではアパートみたいなところですが、アメリカでマンションといったものすごく豪華な家のことです。ブラジルでもそうだそうですが・・。そのような家に入れていただけるのです。そこには虫もさびもありません。ゴキブリが出てきたり、蜘蛛の巣が張ったりするということは全くありません。さびてペンキをしなければならないこともないのです。古くなって傷ついたり、汚れてしまうこともありません。もう建てて20年たったから建て直さなければならないということもないのです。また、盗人が穴を開けて盗むということもありません。天国は決して消えて無くなってしまうことがない永遠の住まいです。皆さん、ほんとうに価値あるものは朽ちることがないものです。天国こそ決して朽ちることのない所です。そこに入ることができるのです。
ですから今のうちに、チャンスがあるうちに、この天に宝をたくわえてほしいと思います。イエス・キリストを救い主と信じて受け入れ、神の子となって、この御国を受け継ぐ者になっていただきたいのです。そして、永遠の御国で喜び楽しみながら、主をほめたたえる恵みの中に入っていただきたいのです。あなたはどちらを選択しますか。天国ですか。それとも地獄ですか。
「立ち返って静かにすれば、あなたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたは力を得る。」
あなたが主に立ち返り、落ち着いて、主に信頼して歩めますように。エジプトに、この世に頼るのではなく、ただ主に頼り、主に従って歩めますように。そして栄光の御国、天国に共に行くことができるますように。そのための備えを今、整えてください。