イザヤ書31章1~9節 「この方以外に救いはない」

きょうは、イザヤ書31章から学びたいと思います。タイトルは「この方以外に救いはない」です。アッシリヤが攻めてくるという緊迫した状況の中でエジプトに頼ったイスラエル、南ユダを、主は「反逆の民」と呼びました。そんなことをしたらどうなるか。恥と侮辱がもたらされます。苦難と苦悩が襲います。そして破滅と破壊がもたらされるのです。解決の道はただ一つ。それは主により頼むことでした。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(30:15)のです。なのに彼らは、それを望みませんでした。そんなイスラエルに対して、主は再びこのエジプトにより頼むことの愚かさについて語ります。

Ⅰ.こころ尽くして主により頼め(1-3)

まず第一に、1節から3節までをご覧ください。「1 ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。2 しかし主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない。主は、悪を行う者の家と、不法を行う者を助ける者とを攻めたてられる。3 エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。」

「ああ」とは、災いを宣告する時のことばです。このイザヤ書には何回も繰り返されて出てきます。29章1節、15節、30章1節にも出てきました。神に従わないで自分の考えで、自分の判断で、自分勝手に生きようとしていたイスラエルを見て、主は「ああ」と嘆いておられるのです。しかし、それはただ災いを宣告しているだけではありません。忠告して、警告として、あらかじめ語っているのです。ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられる神は、常に救いの道を用意しておられます。ですから、このように災いが宣告されている時にはいつも神の救いの約束も備えられているということを見落としてはなりません。  では主が嘆いておられたことはどんなことでしょうか。それは、彼らがイスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めないで、エジプトを求めたことです。北からアッシリヤが攻めてきた時、エジプトに軍事同盟を求めました。助けを求めてエジプトに下りました。彼らはエジプトの軍事力を求め、それによって窮地を乗り切ろうとしたのです。目に見える力に頼ろうとしました。

私たちも何か困ったことがあるとき、すぐに目に見える力に頼ろうとします。目に見える人間の力、人間の能力、人間の技術力、頼りになりそうな人、何らかの専門家であったりその道のエキスパート、資格のある人、有名な人たち、そういう人たちに頼ろうとします。そういう傾向があります。ユダもまた同じようにエジプトに頼ろうとしました。多数の戦車、非常に強い騎兵隊、その軍事力に頼ろうとしたのです。それがあったら何とかなる・・と。聖書でエジプトというのはこの世を表しています。この世の象徴がエジプトなんです。かつてイスラエルはエジプトから解放されたのにこうした窮地に陥るとすぐにエジプトに逆戻りしたように、クリスチャンもこうした窮地になるとすぐにこの世にバックスライドする危険性があります。そのようなことがあってはなりません。

ピリピ人への手紙3章3節を開いてください。ここには、「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」とあります。皆さん、クリスチャンとはどういう人のことをいうのでしょうか。クリスチャンとは、神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みとしない人たちのことです。この時イスラエルが頼りにしていたものは人間的なものでした。馬、多数の戦車、非常に強い騎兵隊といったものでした。人間の力、軍事力でした。人間のはかりごとだったのです。そういうものに目を留めていました。しかし、クリスチャンが頼みとするのはそういうものではありません。クリスチャンが頼みとしなければならないのはイエス・キリストです。そして御霊によって礼拝する。それが信仰者の道なのです。

箴言3章5節も開いてみましょう。これは有名な聖書のことばです。ここには「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。心を尽くして主に拠り頼まなければなりません。自分の悟りに頼ってはなりません。イスラエルは自分の悟りに頼りました。エジプトと同盟を結べば守られると思ったのです。しかし、そこには恥と侮辱が、苦悩と苦難が、破滅と破壊がもたらされました。自分の悟りに頼ってはならないのです。あなたの行く所どこにおいても主を認めなければなりません。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださいます。

百選錬磨のダビデは、自らの戦力、軍事力に頼ることをせず、むしろ主を誇りました。彼は詩篇20篇7節でこう歌っています。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主を御名を誇ろう。」ダビデは、彼の神、主の御名を誇りました。心を尽くして主により頼んだのです。その結果、主は彼の道をまっすぐにしてくださいました。彼はイスラエルの王として確固たる王国を築き上げることが出来たのです。

それから約300年、このイザヤの時代に、イスラエルはそうではありませんでした。主に目を向けたのではなく、馬や戦車に目を向けました。彼らはこのダビデに習うべきでした。こういう時だったからこそ彼らは、イスラエルの聖なる方に目を向けるべきだったのです。

皆さん、こういう時にこそ私たちの信仰の真価が問われます。大変な時にその人がどこを見ているか、何を大切にしているかが浮き彫りになります。そういう意味では試練は信仰の試金石だと言えます。試練の時にその人が真っ先に主に向かうなら、その人の信仰は本物だと言えますが、しかし、試練の時にはその人が主ではなく主以外のもの求めるのなら、それがその人がほんとうに信じているものなのです。試練の時にどこを見るのか、何に頼ろうとするのかによってそれがわかるのです。ですから、主はあえてアッシリヤを彼らに送られたのです。その時に彼らがどこを見るか、何を頼るのかを浮き彫りにさせるためです。試練は私たちの信仰を試すために送られてきます。私たちがほんとうに何を信じているのか、何に頼るのか、どこを見ているのか、何を求めているのかを明らかにするために、あえて送られるのです。アッシリヤに囲まれた時だからこそ、こういう時だからこそ、私たちはイスラエルの聖なる方に目を向け、この方を求めなければならないのです。

2節をご覧ください。ここには、「しかし主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない。」とあります。なぜ主に目を向け、主を求めなければならないのでしょうか。なぜなら、主は知恵ある方であり、みことばを取り消さない方だからです。私たち人間は有限で未来のことを予測することさえできませんが、主は永遠なる方であり、時間の制約を受けることなく、すべてのことを見通され、すべてのことを瞬時に、的確に、正確に判断されます。主は知恵ある方なのです。

また、ここには「みことばを取り消さない」とあります。言われたことは必ず実行されます。有言実行ですね。だから力があるのです。人のことばはそうではありません。言っても実行されません。政治の世界でもマニフェストでどんなに「こうします」と言っても実行されることがありません。どんなにすばらしい政策を掲げても途中で頓挫してしまうのです。力がないからです。人のことばはいい加減で、無力です。エジプトも口では約束するというものの、実際のところはちょっとでも自分たちに不利になると、手のひらを返したかのような態度を取りました。言ったことを取り消してすぐに見捨ててしまうのです。けれども主はそのような方ではありません。みことばが取り消されることは決してありません。言われたことをは必ず実行します。これがほんとうの力ではないでしょうか。ヘブル4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり」とあります。なぜ力があるのでしょうか。それが必ず成るからです。100%実現します。これがほんとうの力です。この力のある方に目を留め、耳を傾け、より頼んでいく以上の安全、安心はありません。これほど確かな保障はないのです。

3節には、このことが対比によって説明されています。「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。」あたりまえのことです。このあたりまえの対比を通して何が言いたいのかというと、人間は肉にすぎないということです。肉は必ず朽ちて滅んでいきます。けれども霊は違います。霊は滅びません。神は霊です。ですから、朽ちることも、滅びることもありません。また肉はコロコロ変わります。頼りになると思っていたのに突然できませんと言われ、裏切られることもあります。親友だと思っていたのに、見捨てられてしまうこともあるのです。しかし、神はそうではありません。この方はいつまでも変わることがないのです。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。」(ヘブル13:8)とあります。イエス・キリストはいつまでも変わることがありません。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)たとえ私たちが不真実であっても、彼は、イエス・キリストは、神は常に信じであられ、約束されたことを必ず守られるのです。私たちが恐れなければならないのはこの方です。アッシリヤではありません。エジプトでもありません。この方です。イエス様はマタイの福音書10章28節で、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と言われました。からだを殺しても、たましいを殺せない人を恐れてはなりません。そんなものよりも、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなければなりません。  しかし、私たちは時として、こうしたものを恐れてしまいます。人を恐れてしまうことがあります。しかし、人間は肉であって霊ではありません。やがて朽ちて、滅んでしまうようなものなのです。そんなものを恐れてはなりません。それよりもたましいも肉も滅ぼすことのできる神を恐れなければならないのです。

あなたが恐れているものは何ですか?あなたにとってのアッシリヤは何でしょうか?たとえそれがどんなに強大なものであっても恐れてはなりません。そして、エジプトのような肉に頼ってはなりません。エジプトは人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではないからです。あなたが恐れなければならないのは神なのです。

Ⅱ.エルサレムを守られる主(4-5)

次に4節と5節をご覧ください。「まことに主は、私にこう仰せられる。「獅子、あるいは若獅子が獲物に向かってほえるとき、牧者がみなそのところに集められても、それは、彼らの声に脅かされず、彼らの騒ぎにも動じない。そのように、万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘を攻める。5 万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」

「獅子」とか「若獅子」とはアッシリヤのことです。ですから、「獅子、あるいは若獅子が獲物に向かってほえるとき」というのは、アッシリヤが南ユダに向かって攻めるときという意味です。そして「牧者」とはエジプトのことです。ここではエジプトが牧者にたとえられているわけです。なぜ牧者にたとえられているのかというと、牧者が羊を飼っているときライオンとか狼といった獣が襲ってくる場合、大声をあげて追い払っていたからです。まさにアッシリヤが南ユダを攻めていたときはそのような状態でした。そのユダを助けようと牧者であるエジプトが大声をあげて追い払おうとしましたが、獅子、あるいは若獅子であるアッシリヤはそんな声には全く動じませんでした。びくともしないのです。

ところが、その次のところにこのようにあります。「そのように、万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘を攻める。5 万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」どういうことでしょうか?シオンの山を、エルサレムを攻撃していたのはアッシリヤなのに、ここでは「そのように、万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘を攻める」というのです。

こういうことです。ここでは「獅子」や「若獅子」はアッシリヤのことを指して言われていますが、実はその背後にあってアッシリヤをあやつっていたのは主であったということです。主はアッシリヤを、ユダを懲らしめる道具として用いていたのです。ところがアッシリヤは高ぶってユダを滅ぼそうとしました。自分たちに与えられた立場をわきまえず、それを越えて、徹底的に滅ぼそうとしたのです。しかし、それは神のみこころではありませんでした。あくまでも主は、ユダを懲らしめるために彼らを用いただけで、その目的はユダが悔い改めて、主に立ち返ることだったのに、その神の御心からそれて、あたかも自分たちが王であるかのように高ぶったので、主はアッシリヤをさばかれ、その誇らしげな高ぶりを罰せられました。それが5節に書かれてあることです。

「万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」

エルサレムを滅ぼそうとアッシリヤがエルサレムを包囲したとき、朝起きて外を見ると18万5千人のアッシリヤ兵が倒れていました。当時のユダの王ヒゼキヤの祈りに、へりくだってささげたその祈りに主が答えてくださり、前の晩に主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き、一晩でそれだけの兵隊を倒したのです。そのことをここでは「飛びかける鳥のように、エルサレムを守り」とあります。まさに主は飛びかける鳥のように出て行き、エルサレムを守られたのです。

これは前701年にアッシリヤの手から守られただけのことではありません。世の終わりにも同じようなことが起こります。世の終わりには、この人類の最終戦争が起こります。こをハルマゲドンの戦いと言います。世界中の軍隊がメギドの丘、ハルマゲドンに集結し、主とその軍隊に戦いを挑むわけですが、その時にも主は飛びかける鳥のようにエルサレムを守られます。再臨のキリストは天から降りて来られるとエルサレムに着座され、ご自身に敵対する者を御口の剣によって滅ぼしてしまわれます。まさに鳥のように、エルサレムを守って救い出し、これを助けて解放してくださるのです。

そしてそれは前701年にアッシリヤの手からエルサレムを守られ、また、世の終わりにおいて再臨の主がご自身に敵対する者の手からエルサレムを守られるだけでなく、どの時代にも繰り返して起こることでもあります。主はいつの時代でも飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放してくださるのです。

たとえば、1917年にこのようなことが実際にありました。1917年といったら第一次世界大戦のまっただ中です。この時にエルサレム(イスラエル)を支配していたのはオスマントルコ帝国でした。オスマントルコというイスラム国です。イスラエルはその一部であったわけです。そしてこの第一次世界大戦の時、イギリスがこのオスマントルコと戦っていました。イギリスがオスマントルコに勝利することによって、イスラエルはイギリスの委任統治となりました。その時イギリスを率いていたのがエドモンド・アレンビーという将軍です。彼は敬虔なクリスチャンで、その枕元にはいつも聖書を置いて寝ていたというくらいですから、聖書の舞台でもあり、歴史的な建造物がたくさんあるこのこの町に爆弾を落としたり、ミサイルを打ち込んで破壊したくありませんでした。何とか無傷で開放したかったのです。  そこで彼のとった方法は、飛行機を飛ばして空からビラをまくという方法でした。そのビラにはこう書いてありました。「降伏か死か」そして、その下に彼のサインが書かれてあったのですが、オスマントルコはイスラム帝国でアラビヤ語を使っていたのでアラビヤ語でサインしたわけです。「エドモンド・アレンビー」をアラビヤ語で表すと「アラー・ネビー」となるのだそうです。アラーはイスラム教の神、ネビーは預言者という意味です。ですから、アラー・ネビーというのは「アラーの預言者」となるわけです。「降伏か死か」(アラーの預言者)それを見たとイスラム教の住民たちは非常に恐れました。まして飛行機などあまり見たことがない時代です。空から飛行機が飛んできてアラビヤ語のメッセージが書いてあって、しかもそれがアラーの預言者からであるというので、彼らは怯えきってエルサレムから退居したのです。それでエルサレムは無傷で英国の支配下に入ったわけです。まさに飛びかける鳥のようにやって来て、エルサレムを守られ、救い出され、解放しました。それによって十字軍以来初のキリスト教国による統治となったわけです。そしてその後1948年には国として独立を果たすわけです。イスラエル共和国となりました。

ですから神はいつの時代にもこのエルサレムの上に特別に御目を注いでくださり、これを守り、守って救い出し、これを助けて解放してくださいます。それは国としてのイスラエル、エルサレムだけでなく、神の民となったクリスチャンに対しても同じです。私たちは霊的イスラエルです。エルサレムそのものです。その私たちを主はいつも御目を注いで守ってくださいます。助けて解放してくださる。だから私たちはこの方に信頼し、ヒゼキヤのようにへりくだって祈り、この方の助けを待ち望まなければならないのです。

Ⅲ.この方以外に救いはない(6-9)

最後に6節から9節までをご覧ください。「6 イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方にもとに帰れ。7 その日、イスラエルの子らは、おのおの自分のために自分の手で造って罪を犯した銀の偽りの神々や金の偽りの神々を退けるからだ。8 アッシリヤは人間のものでない剣に倒れ、人間のものでない剣が彼らを食い尽くす。アッシリヤは剣の前から逃げ、若い男たちは苦役につく。9 岩も恐れのために過ぎ去り、首長たちも旗を捨てておののき逃げる。―シオンに日を持ち、エルサレムにかまどを持つ主の御告げ―」

ここには、イスラエルに対して、この方のもとに帰るようにと勧められています。この方は、親鳥が自分の身を惜しまずにひなを守るように、ユダを愛され、その愛によって守られる方です。その方のもとに帰らなければなりません。悔い改めて、正しい道に方向転換しなければなりません。悔い改めて、偶像を捨て、神のもとへ立ち返った結果、ユダはアッシリヤから解放されるという感激を味わいます。アッシリヤは人間のものではない剣に倒れ、人間のものではない剣が彼らを食い尽くしました。人間のものでない剣とは何でしょうか。それは主の使いのことです。彼らは人間のものではない剣に倒れたのです。

皆さん、救いは人間によるものではありません。あなたを究極的なさばきから救うことができるのは人間ではないのです。地獄の滅びからあなたを救うことができるのはイエス・キリストだけです。使徒の働き4章12節には次のようにあります。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

皆さん、この方以外にはだれによっても救いはありません。自分で自分を救うことも、だれかに救ってもらうこともできません。救うことができるのはイエス・キリストだけなのです。100%神であり、100%人であられたイエス・キリストだけがあなたを救うことができるのです。アッシリヤの手からイスラエルを救ったのはエジプトではありませんでした。アッシリヤの手からイスラエルを救ったのは主の使いでした。これは受肉前のキリストのことです。このキリストが彼らを救い出し、彼らを助けて解放したように、あなたを救い、あなたを助けて解放してくださるのです。

ですから、この方に立ち返ってください。あなたが今見ているものは何ですか。何に頼ろうとしているでしょうか。アッシリヤに囲まれ八方塞がりでも、上が空いています。どうぞ上を見上げてください。イスラエルの聖なる方に目を向け、この方を求めてください。その時神様は不思議をなさいます。人間のものでない剣で敵を打ち破り、あなたを守り、あなたを救いだし、あなたを助けて解放してくださいます。その方のもとに帰りましょう。その方により頼みましょう。この方があなたの道をまっすぐにしてくださるからです。