きょうは、イザヤ書32章から学びたいと思います。タイトルは「義は平和をつくり出す」です。31章のところで、アッシリヤの威嚇を受けていたユダは、神ではなくエジプトに頼りました。神はそのようなユダを罰せられますが、最後には親鳥が羽を広げてひなを守るようにユダを守られ、アッシリヤを滅ぼされます。それはこのイザヤの時代だけのことではなく、世の終わりの預言でもあります。その日、アッシリヤは人間のものでない剣に倒れ、人間のものでない剣が彼らを食い尽くします。再臨の主が神に敵対する者たちに勝利され、神の民に平和をもたらすのです。千年王国をもたらします。その預言がこの32章に記されているわけです。それはどのような御国なのでしょうか。
Ⅰ.高貴な人は高貴なことをする(1-8)
まず第一に1節から8節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。「1 見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。2 彼らはみな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、かわききった地にある大きな岩の陰のようになる。」
1節の「ひとりの王」とは、イザヤの時代ではヒゼキヤ王のことを指していますが、究極的にはメシヤであられるイエス・キリストのことを指しています。その日、すなわち、千年王国ではキリストが正義によってこの世界を治めます。彼はあらしの避け所のように人々を守られ、砂漠の川のようにいのちを与え、かわききった地にある大きな岩陰のように安息を与えます。ですから、その時には完全な平安、完全な憩いがもたらされるのです。イエス・キリストを信じる人には今も霊的な面で平安が与えられていますが、千年王国の時には、それが文字通りの平和がもたらされるようになるのです。
また、そのひとりの人によって治められる王国は、外的な環境の変化だけでなく、民の心まで新しくします。3節と4節をご覧ください。「3 見る者は目を堅く閉ざさず、聞く者は耳を傾ける。4 気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。」これはどういうことかといと、霊的に無感覚だった者の心が変化し、はっきりと見聞きできるようになるということです。「気短な者」とは、軽率で、頑固な者のことです。罪深く、かたくなな性質のゆえに神のみことばを悟れなかった者が悟れるようになり、真理を明確に語るようになるので。すべてが刷新されます。それは王であられるキリストが治められるからです。
このことについては、既にイザヤ書で何度か語られてきました。たとえば、イザヤ書9章6節と7節には、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。「みどりご」とは赤ちゃんのことです。やがて来られるメシヤは赤ちゃんとして来られます。それは人としてお生まれになられたイエス・キリストによって成就しました。その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれます。この方は力ある神です。この方はダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえます。
また11章1節から5節にも次のように記されてありました。「1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。2 その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。3 この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。」
「エッサイ」とはダビデ王の父です。やがて来られるメシヤはこのダビデの子孫から出てくるというのです。しかもここには「その根から若枝が出て実を結ぶ」とあります。この「若枝」はヘブル語で「ネイツァー」といいますが「ナザレ」の語源になった言葉です。このメシヤはガリラヤのナザレから出て実を結ぶようになるのです。この預言のとおりにイエス・キリストはダビデの子孫であるヨセフから生まれました。ナザレから出て実を結ばれました。そしてイエス様は神の知恵によってみことばを語られました。それはこの方の上に主の霊が祖ぞかれていたからです。やがて世の終わりにこの方は再び来られ、その神の霊によって正しくこの世を治められるのです。
ところで1節を見ると、ここには「首長たちは公義によってつかさどる」とあります。この「首長たち」とはだれのことかというと、実は私たちクリスチャンのことなのです。その時、クリスチャンはキリストとともにこの地上を治めるようになるのです。ローマ人への手紙8章18節を見ると「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」とありますが、その時私たちは御霊のからだによみがえり、再臨の主とともにこの地上を治めるようになるのです。(マタイ19:28,黙示録1:6,5:10)
また、5節には「もはや、しれ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が上流の人と言われることも」(5)ありません。「しれ者」とはヘブル語で「ナバル」と言いますが、意味は「愚か者」です。愚か者は神を恐れず、主に向かって迷いごとを語り、飢えている者を飢えさせ、渇いている者に飲み物を飲ませません。また、「ならず者」とありますが、これは「無節操な者」とか「悪いことをたくらむ者」という意味です。彼らは神の御心に逆らい、みだらなことをたくらみ、貧しい者をないがしろにします。千年王国ではこのような人が高貴な人と呼ばれたり、上流の人と呼ばれることはありません。今はしれ者が高貴な人と呼ばれたり、ならず者が高く評価されたりすることがありますが、来るべき千年王国ではそういうことは絶対にないのです。ひとりの王であられるメシヤが正義によって正しくさばかれるからです。
ですから、そのことでいちいち心を痛めたり、怒りに燃えてその人たちに復讐しようとしてはいけません。何とかその立場から引きずり下ろそうとする必要はありません。その時が来れば、主がひっくり返してくださるからです。政治の力でひっくり返そうとか、みんなの力でひっくり変えそうとしても無意味なのです。ある程度はできたとしても限界があるからです。ではどうしたらいいのでしょうか?8節をご一緒に読みましょう。
「しかし、高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。」
ここに「高貴な人」という言葉が出てきます。、高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもします。「高貴な人」という言葉ですが、これは出エジプト記35章5節と22節にも出て来ることばで、「心から進んでささげる者」という意味です。つまり、その心が神に向かっている人のことです。自発的に心から主に礼拝をささげる人のことなのです。しれ者はそうではありません。ならず者は違います。彼らは神を敬うことをしません。主に向かって迷いごとを語ります。しかし、高貴な人は賛美をささげます。自ら進んで礼拝をささげます。不法をたくらむのではなく飢えている人たちに、渇いている人たちに愛の手を差し伸べ、彼らに神の愛を示すのです。これが高貴な人です。これがクリスチャンです。これが信仰者であり、真の礼拝者と呼ばれている人たちです。私たちは高貴な人でなければならないのです。
奴隷解放運動を行ったマルチン・ルーサー・キング牧師は、1968年4月3日にテネシー州メンフィスにある教会(メイスン聖堂)で行った生涯最後の説教の中で、次のように言いました。 「過去の私たちは辛く苦しい時を過ごしました。しかし、そんな過去は全く重要なことではありません。今、私は山の頂上に登ったからです。もちろん私も、普通の人たちのように長生きすることを願います。しかし、長生きすることは私の任務ではないようです。とにかく今、私はそこに感心はなく、神の御心のとおりに従いたいだけなのです。その方は、私が山に上るようにされました。そして私は遠くに約束の地を見下ろしました。おそらく私はみなさんと共にその地に入ることはできないかもしれません。しかし、私たちが一つの民として約束の地に入ることを、皆さんが今夜確信できることを切に願います。今、私はとても幸せです。何も心配することはありません。何も私を脅かすことはできません。私の目が再び来られる主の栄光ある姿を見たからです。」(アリスター・マグラス、「天国の希望」)
キング牧師は実に高貴な人でした。彼の心はいつも神に向かっており、ただ神の御心に従うことを求めていました。高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。あなたのしていることはどんなことでしょうか?あなたが見ているもの、あなたが計画していることは何でしょうか?高貴な人は高貴なことをします。あなたが神を敬い、主に向かって賛美をささげ、主の御心に歩めますように。あなたの心がいつも神に向かい、神を見上げて生きることができますように。
Ⅱ.のんきな女たち(9-14)
次に9節から14節までを見ていただきたいと思います。9節をお読みします。「のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。」
ここに急に女性たちが出てきます。「のんきな女たち」と「うぬぼれている娘たち」です。「のんきな女たち」とは、直訳では「安らかな女たち」です。いい意味では安らかな女たちですが、ここでは悪い意味で用いられていて、「安逸をむさぼっている女たち」という意味になります。これはイスラエル、南ユダに対する警告でした。彼らはエジプトに、人間的な力に頼り、イスラエルの聖なる方に目を向けませんでした。何度も災いがあると警告してもその恥ずべき行いと生活を悔い改めることをせずに、のんきにしていました。悔い改める気配すら見せない霊的に無感覚で、無頓着な状態だったのです。また「うぬぼれた女たち」とは、直訳では「信じる女たち」です。これもいい意味ではすばらしいように聞こえますが、その信じている対象が問題でした。彼らが信じていたのは神ではなく自分自身でした。自分を信じていたのです。さばきが目の前に迫っているのに「大丈夫よ。全然問題じゃないわ」と、自分の力を過信していたのです。「神様なんていなくてもへっちゃらさ」とうぬぼれ、自己満足の中に生きていたのです。そういう女たちへの警告でした。
これは別に女性だけの問題ではありません。男性も同じです。人間は男でも女でもみな同じ性質を持っています。ですから、女性に限らず男性も、このような傾向があるわけです。うぬぼれているのです。なのにここで「女たち」と言われているのは、実は女性はその社会の道徳的基準になるからです。女性をみればその社会がどういう社会であるかがわかります。女性が道徳的に倫理的に堕落していると、その堕落した姿が社会に如実に表れるのです。これは事実です。別に女性を蔑視しているのではありません。女性を見ればその社会がどんな社会であるかが一目瞭然なのです。そういう意味で「女たち」と言われているだけで、これは男も同じ事です。目の前にさばきが迫っているのに、「大丈夫だ。何の問題もない。今は平和じゃないか。何一つ不自由なことなんてない」と言って過信し安逸をむさぼっていると、間違った安全意識を持っていると、やがて悲惨な結果を招くことになるのです。
テサロニケ第一5章1節から3節までを開いてください。ここにものんきでうぬぼれた人たちが出てきます。「1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦の産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」とあります。主は盗人してのようにやって来られます。それがいつであるかはだれにもわかりません。人々が「平和だ。安全だ」とのんきなことを言っているような時に、突如として滅びが襲うのです。
10節から14節までを見てください。ここにはそのようなのんきな女たち、うぬぼれた女たちに襲うさばきが語られています。「うぬぼれている女たちよ。一年と少し日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。11 のんきな女たちよ。おののけ。うぬぼれている女たちよ。わななけ。着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。12 胸を打って嘆け。麗しい畑、実りの多いぶどうの木のために。13 いばらやおどろの生い茂るわたしの民の土地のために。そして、すべての楽しい家々、おごる都のために。14 なぜなら、宮殿は見捨てられ、町の騒ぎもさびれ、オフェルと見張りの塔は、いつまでも荒地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となるからだ。」
豊かな収穫を期待し、喜びに酔っていた女たちが、胸を打って、嘆くようになります。ですから、のんきにしていてはいけません。うぬぼれていてはいけないのです。目を覚まして、慎み深くしていなければなりません。かしこまって主のみ声を聞き、主の言われることに耳を傾けなければなりません。クリスチャンはイエス・キリストを信じて救われ平安をいただいた者ですが、のんきな者ではありません。主がいつ来られてもいいように、いつ来られても恥ずかしくないように、目をさまして、慎み深くしていなければならないのです。主が来られてからでは遅いのです。その前に供えておかなければならないのです。あなたはどうですか?何の問題もないからといって安逸をむさぼっていることはありませんか。その安逸が霊的無感覚となり、主から遠く離れていることにも気づかなくなっていることはないでしょうか。
黙示録にはアジヤにある七つの教会に宛てて主は手紙を書き送りましたが、エペソの教会に対して主はこのように言われました。「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」(黙示録2:2-5
どこから落ちたかを思い出して、悔い改めて、初めの行いをしなさい。目を覚まして、死にかけているほかの人たちを力づけなさい。熱いか、冷たいかであってほしい。それが主が私たちに求めておられることなのです。
Ⅲ.義は平和をつくり出す(15-20)
最後に15節から20節までのところを見て終わりたいと思います。15節から18節までをお読みします。「15 しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。16 公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。17 義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。18 わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」
ここでは「しかし」ということばが強調されています。懲らしめの期間が過ぎれば、神は祝福してくださるという約束です。神は聖霊を注いでくださいます。神の霊は天地を創造された霊であり、人間にいのちを与えた霊です。また、神の霊は神の人が大いなるみわざをなすことができるように力を与える霊でもあります。この霊が注がれるときすべてが変わります。まず荒野が果樹園になり、果樹園が森とみなされるようになります。これは神が造られた世界が全く帰られるということです。罪に汚れたこの世界が果樹園のように、また森のように麗しい世界に、最初の人アダムとエバが罪を犯す前に置かれたあのエデンの園のように回復するのです。
それだけではありません。そうした自然の変容に次いで、道徳的、霊的な原則が確立します。16節に「公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。」とあるように、公正や義といった健全な規則と習慣が、荒野や果樹園を覆うようになるのです。 そればかりではありません。17節を見てください。ここには「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。」とあります。「義」とは神との関係です。神との正しい関係が平和をつくり出し、とこしえの平穏と信頼をもたらします。とこしえの平穏と信頼です。これはとこしえの平安と安全のことです。
皆さん、だれもがこの平安と安全を求めています。平穏でいたいのです。平安がほしいと思っています。いったいどうしたらたらされるのでしょうか。「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたら」します。それは神と正しい関係を持つことによってです。神との絆がなければならないのです。「絆」とは昨年の流行語にもなったことばですが、人と人の強い結びつきのことです。この絆がないと、平和を持ちことができないのです。ですから、悪者には平和がありません(イザヤ48:22)。神との関係が正しくないと平和がありません。神との関係がズレていたり、ゆがんでいたり、何か障害物があると、平安がないのです。不安になります。義が平和をつくります。ですから平和がほしければ、平穏でいたければ、神との関係を求めなければならなりません。ローマ人への手紙5章1節には、
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
とあります。私たちが神と正しい関係を持つためには、イエス・キリストを信じて罪を赦してもらわなければなりません。生まれながらの人間はすべて神から離れ、罪を犯しているので、神からの栄誉が受けられなくなっています。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となってしまいました。善を行う人はいません。ひとりもいません。人間の力によってはだれも神の前に義と認められないのです。そこで神は律法とは別の義、神の義を示してくださいました。それがイエス・キリストです。キリストは神のひとり子であられながら、私たちと同じような人間の姿をとってこの世に生まれてくださいました。神が人間となられたのです。これがクリスマスです。神が人間になるなんて考えられない。そんなたわいもないような話をだれが信じるか、という人がいますが、その信じられないようなことを神はしてくださいました。これはあまりにも大きな出来事だったので、この人類の歴史が二つに分かれたほどなのです。B.C.とA.D.に。しかし、事実神はユダヤのベツレヘムというところで処女マリヤの胎から男の子を与えてくださいました。そして33年の生涯を送られ、最後に私たちの罪を一身に受けて十字架で死んでくださいました。それはこの方を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この方によって神の怒りがなだめられました。人間の罪に対する神の怒り、神の敵意は、この方によって取り去られたのです。ですから、この方を信じる者はだれでも罪がゆるされ、神と和解することができるのです。神との平和を持つことができるのです。そして、その義は平和をつくり出し、その義はとこしえの平安と信頼をもたらすのです。
あなたは、この義を持っているでしょうか。「わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」罪が赦された人、クリスチャンは「わたしの民」と呼ばれます。神の民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住むようになるのです。これがクリスチャンライフです。あなたの家庭はどうですか?あなたの家庭は平和な住まいになっているでしょうか?安全な家ですか?安らかないこいの場でしょうか?あなたの職場はどうですか?学校はどうですか?ちっとも心が安まらないとか、まるで泥沼だ、というようなことはないでしょうか。「わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む」あなたがイエス・キリストを信じて神と和解し、神との平和を持つなら、あなたもこの約束のとおりになるのです。
その日が近づいています。二千年前には文字通り上から聖霊が注がれ、力強い神の働きによってキリストの教会が誕生しました。世の終わりには同じように顕著な聖霊の注ぎが起こるでしょう。その時私たちは、この平和を完全な形で享受することになります。平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住むという約束が実現します。ですから、その前にあなたもこの平和の約束を信じてほしいと思います。その日私たちがともにこの平和な住まいに住むことができますように。そのために来られた平和の君であるイエス・キリストを信じ、その約束を自分のものにすることができますように。キリストはそのために生まれてくださいました。あなたが神との平和を持ち、やがて平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住むようになるために・・・。義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらすということを、あなたにも知ってほしいと思います。