きょうは、イザヤ書33章からご一緒に学びたいと思います。タイトルは「今、わたしは立ち上がる」です。10節のところに、「今、わたちしは立ち上がる」と主は仰せられる。」とあります。私たちが苦しみの中にある時、困難の中にある時、主のあわれみを求めて祈るなら、主は立ち上がってくださいます。立ち上がって救ってくださいます。ですから、私たちは苦難の時、主を待ち望まなければなりません。きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。
Ⅰ.主を恐れること(1-6)
まず最初に1節から6節までをご覧ください。1節をお読みします。「ああ。自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、自分は裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは。あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなた裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる。」
ここにも「ああ」ということばが出てきます。これも神のさばきの宣告です。ユダを滅ぼそうとするアッシリヤに対して、主は怒っておられるのです。「自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、自分は裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは。」この「あなた」とはアッシリヤのことであり、アッシリヤの王でセナケリブという人物のことを指しています。彼は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじりました。裏切られなかったのに、裏切りました。どういうことかというと、彼は自分たちが攻撃を受けたわけではないのにユダを踏みにじろうとしました。つまり、侵略目的でエルサレムを包囲したのです。また、自分は裏切られなかったのに人を裏切ったというのは、平和条約を結びながらも平気で破ったという行為のことです。Ⅱ列王記18章13節から17節までを開いてください。この背景となる出来事が書かれてあります。
「13 ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。14 そこでユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリヤの王のところに人をやって、言った。「私は罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。15 ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀を全部渡した。16 そのとき、ヒゼキヤは、ユダの王が金を張りつけた主の本堂のとびらと柱から金をはぎ取り、これをアッシリヤの王に渡した。17 アッシリヤの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところに送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らはエルサレムに上って来たとき、布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。」
ユダに攻めてきたアッシリヤの王セナケリブに対して、白旗を揚げて降伏したヒゼキヤは、賠償金を支払うことで解決を図りました。アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを要求したので、ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀と、主の本堂のとびらと柱に付いていた金をはぎ取ってセナケリブに渡しました。エルサレムを守るためには、住民のいのちを守るためには、それしかなかったのです。それで和平の約束を取り付けることができるならよいと考えたわけです。それなのに、アッシリヤの王セナケリブはどうしたかとうと、タルタン、ラブ・サリス、ラブ・シャケといった将軍に大軍をつけてヒゼキヤ王のところに送りました。「降参せよ」と伝えるために。彼らは平気でこの協定を破りました。裏切ったのです。
このような裏切りに対して、主は黙ってはおられません。必ず報復されます。ここに「あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなた裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる。」とあります。まさに「イスラエルを呪う者は呪われる」(創世記12:3)です。イスラエルを踏みにじる者を、主は必ず復讐されるのです。ローマ人への手紙12章19節には、
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
とあります。皆さん、神が復讐なさいます。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せてください。なぜなら、神は事を正しくさばかれる方だからです。神だけが正しい知識と完全な判断を持っておられるからです。人間は間違います。そうではないか、きっとそうだと自分で思い込んで判断してしまいます。しかし、神にはそのようなことはありません。神には間違いがありません。正しくさばくことがおできになります。ですから、この方に任せなければならないのです。
2節をご覧ください。ここには「2 主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。」とあります。
復讐は神に任せ、私たちがしなければならないことは、主のあわれみを求めて祈ることです。「主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。」皆さん、主はあわれんでくださる方です。このことは30章18節にもありました。
「それゆえ、主はあなたがたを恵もうとして待っておられ、あなたがたをあわれもうとして立ち上がられる。」
主に信頼しないで逃げまどうイスラエルに対して、主は「それゆえ、主はあなたがたを恵もうと待っておられる。あわれもうと立ち上がられる」と言われたのです。考えられません。驚くべき恵みです。アメージング グレースです。本来ならさばかれても致し方ないのに、そんなイスラエルを恵もうとして待っておられる。あわれもうとして立ち上がってくださるのです。だから私たちは大胆に、このあわれみを求めて祈ることができるのです。遠慮はいりません。こんなこと祈ってもいいのかな。こんなこと祈ったらおこがましいかな。そんなこと考えなくてもいいのです。
そもそもアッシリヤも悪いのですが、ユダも悪いのです。はたから見たら滅ぼされても文句は言えません。同じ罪人です。主のことばを平気で裏切り、主に背を向け、自分勝手に生きてきました。偶像礼拝に走りました。アッシリヤも人を踏みにじり、平気で約束を破るひどい人たちですが、ユダも似たり寄ったりです。五十歩百歩。何ら変わらない罪人なのです。そんな彼らであっても、主にあわれみを求めて祈るなら、主は立ちあ゛ってくださるのです。あなたも祈ることができます。あなたもあわれみを求めて、主に大胆に祈ることができるのです。
ここには「朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。」とあります。いいですね。それは「朝ごとに」与えられる恵みです。神様の恵みは一度祈って終わりではありません。それは朝ごとに注がれる恵みなのです。毎日、毎日祈り求め、毎日、毎日、新しい恵みを受けることができます。また「腕」とは力の象徴ですが、私たちは主に、「私たちの腕となってください」と祈ることができます。自分なんでもかんでもできると思ったら大間違いです。私たちは主の腕にすがって、主の力にすがって、主に助けを求めて祈らなければなりません。「苦難の時の私たちの救いとなってください。」いいんです。苦しい時の神頼みでも。もちろん、苦しくない時でも、順境の時でも神に頼ることが必要ですが、苦しい時にはなおのこと「主よ。私たちをあわれんでください」と祈らなければなりません。
3節から5節までを見てください。「3 騒ぎの声に国々の民は逃げ、あなたが立ち上がると、国は散らされます。4 あなたがたの分捕り物は、油虫が物を集めるように集められ、いなごの群れが飛びつくように飛びつかれる。5 主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。」
そのような祈りに主はすぐに答えてくださいます。主は立ち上がって事を行われます。この「騒ぎ」とは、主が動かれるのでそこにざわめきが起こるということを表しています。主が動かれると国々の民は逃げまどい、散らされます。ちょうどいなごがやって来たらすべて食い尽くすように、散らされてしまいます。徹底的にさばかれるのです。もはやだれも止めることはできません。主がそのように報復されるからです。主はいと高き方だからです。すべてを超越しておられます。たとえアッシリヤがどんなに強大であっても主はそれ以上の方です。それ以上にパワフルな方なのです。あなたの敵がどんなに強大であっても、このいと高き方に対しては何もできません。事実、この方は天地万物を創造された方、全能者なのです。この方がついていれば何も恐れることはありません。この方はシオンを公正と正義で満たされます。どんなに踏みにじられても、どんなに裏切られても、主は正義と公正で満たされます。ちゃんとさばきをつけてくださるのです。このような神様にすがることができるということは何と幸いなことでしょうか。いつまでも踏みにじられたままではありません。いつまでも裏切られたままではないのです。主が正しくさばかれます。私たちが苦難に会う時、そして、その苦難が長く感じられるとき、私たちの神に対する信仰は弱ってしまいます。しかし、このような時こそ、私たちはあわれみを求めて、恵みを求めて祈らなければなりません。他のものに拠り頼もうとする不信仰と絶望感を捨て、神の助けを待たなければならないのです。
6節をご覧ください。ここには、「あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。」とあります。何を言ってるのかさっぱりわかりません。残念です。この日本語の訳は。ここでは5節のことばを受けて主がどのような方であるのかを示しながら、その祝福の鍵は何なのかということが語られているのです。すなわち、主こそ、あなたの時代の確かなよりどころであるということです。主こそ知恵、知識であり、救いの富です。不安と激動の時代にあっても、信頼できるのはこの主だけであって、この主を恐れることがあらゆる問題の解決の鍵であり、豊かさの源なのです。ですから、この世の勢力を恐れるのではなく、主を恐れることこそ勝利の鍵なのです。おもしろいことに、この「救い」ということばは複数形で書かれています。「いろいろな救い」です。金魚すくいとかどじょうすくいのことではありません。アッシリヤから救われるというだけではないということです。私たちの人生には実に様々な苦難がありますが、そうした様々な苦難に対する救いが約束されているのです。大きな救いがあれば小さな救いもあります。永遠の滅びである地獄から救い出された主は、あなたの日々の生活における様々な救いを提供してくださるのです。この主を恐れることが鍵なんです。主を恐れるとは、主がおられることを認め、この方をあがめ、敬い、ひざまずいて礼拝することです。一言で言うなら、それは神を神とするということです。それがあなたの財宝になります。あなたの豊かさになるのです。
箴言3章5節から8節までを開いてください。ここには「5 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。7 自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。8 それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。」とあります。心を尽くして主に拠り頼まなければなりません。自分の悟りに頼ってはなりません。あなたの行く所どこにおいても主を認めなければなりません。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださいます。ここには「あなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける」とあります。心身共にすこやかになるのです。なぜでしょうか?主があなたの道をまっすぐにしてくださるからです。この主があなたの健康の源、祝福の鍵です。オロナミンなんとかではありません。
そしてコロサイ人への手紙2章3節も開いてみましょう。いったいこの主とはだれのことですか?ここには「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」とあります。はは~ん、この主とはキリストのことなのです。このキリストのうちに、すべての知恵と知識との宝が隠されているのです。つまり、イエス・キリストを知ることが困難に打つ勝つ秘訣であり、豊かさの鍵なのです。困ったとき、道に迷ったとき、どうしたらいいかわからなくなってしまったとき、まるで敵に囲まれて包囲されてしまい、もうにっちもさっちもいかず袋小路のような状態に置かれたとき、いったいどうしたらいいのか?自分の悟りに頼るべきでしょうか?これまでの経験を生かして何らかの対処を考えるべきなのでしょうか?専門家の人たちに、この世の力のある人にすがるべきでしょうか?いいえ、あなたがすべきことは主を恐れることです。イエス・キリストを知ることです。それがすべてです。すべての答えはイエス・キリストにあります。この一語に尽きます。イエス・キリストがすべてのすべてなのです。この方を知ることが知恵と知識の初めであり、ここにすべての宝が隠されているのです。自分に頼ってはいけません。自分の知恵、力、能力、経験、考え、そんなものは何の役にも立ちません。むしろ、あなたの道を妨げてしまうことになります。ただへりくだってイエス・キリストを求めること。ここに真の解決があるのです。 Ⅱ.主は立ち上がる(7-12)
次に7節から12節までを見ていきたいと思います。まず7節から9節までお読みします。「7 見よ。彼らの勇士はちまたで叫び、平和の使者たちは激しく泣く。8 大路は荒れ果て、道行く者はとだえ、契約は破られ、町々は捨てられ、人は顧みられない。9 国は喪に服し、しおれ、レバノンははずかしめを受けて、しなび、シャロンは荒地のようになり、バシャンもカルメルも葉を振り落とす。」
7節の「彼らの勇士」とは、南ユダ王国の名のある人たちのことです。また「平和の使者たち」とは、和平協定のためにユダからアッシリヤに遣わされた人たちのことです。彼らはちまたで叫び、激しく泣くようになります。せっかく和平協定を結びこれで安泰だと思っていたのに、アッシリヤがその和平協定を破ってしまったからです。結局、お金に頼ってもうまくいきませんでした。この世の力で、自分たちの力で何とかしようとしてもだめでした。それで彼らは号泣しているのです。今、まさに完全に滅ぼし尽くされようとしています。町々は荒らされ、国は喪に服したかのように、しおれてしまいました。その様子を9節で次のように表現しています。
「レバノンははずかしめを受けて、しなび、シャロンは荒地のようになり、バシャンもカルメルも葉を振り落とす。」
レバノンというのはレバノン杉で有名なように、緑が絶えない、いつもいのちに溢れている所です。そんなレバノンがはずかしめを受けて、しなびてしまいます。シャロンとはバラで有名ですが、それは義の象徴でもあります。そのシャロンも荒地のようになります。バシャンは牧草地で有名な所です。そこは肥沃な土地と称されていました。またカルメルは果樹園で有名です。多くの果樹を実らせました。そんなバシャンもカルメルも葉を振り落とすようになります。アッシリヤが契約を破棄し、一方的に裏切ったからです。しかし、その時ユダは主のあわれみを求めて必死になって祈りました。主の助けを求めて、へりくだって祈りました。その結果どういうことになったでしょうか。10節から12節にこうあります。
「10 「今、わたしは立ち上がる」と主は仰せられる。「今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう。11 あなたがたは枯れ草をはらみ、わらを産む。あなたがたの息は、あなたがたを食い尽くす火だ。12 国々の民は焼かれて石灰となり、刈り取られて火をつけられるいばらとなる。」
ユダが自分たちの力ではどうすることもできなくなって主に助けを求めたとき、主が答えてくださいました。主は、「今、わたしは立ち上がる」と言われます。「今、わたしは自分を高めよう」「今、あがめられるようにしよう。」と言われるのです。ここで主は「今」ということを三回も繰り返しています。それは、ユダが悔い改め、主に立ち返った「今」を表しています。先程もお話したように、主に立ち返り、主のあわれみを求めて祈るとき、主は立ち上がってくださいます。 苦難の時の救いとなってくださるのです。具体的には、ヒゼキヤ王の祈りに答えて、ある晩に、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き十八万五千人を打ち殺しました。そして、アッシリヤの王セナケリブは自分の国に帰ると、ニスロクという偶像の宮で拝んでいたとき、その子アデラメレクとサルエツェルが入って来て、彼を剣で打ち殺したのです(Ⅱ列王記19:35-37)。神のさばきの結果、アッシリヤの王セナケリブは惨憺たる結果に終わりました。(end in unspeakable tragedy)ここに記されてあるように、彼らはいのちのない枯れ草をはらみ、焚きつけのために使われるわらを生むだけになりました。彼らがエルサレムを攻めれば攻めるほど、逆にそれが自分たちの首を締める結果になってしまったのです。彼らは灰しか残らないほど焼き尽くされ、火の中に投げ入れられたいばらのようになりました。
これまで沈黙していたかのように思われた主が、エルサレムのために立ち上がってくださったからです。ヒゼキヤ王の必死の祈りに答えて、主が御業を行ってくださいました。皆さん、主はいつまでも黙っておられる方ではありません。あなたの祈りに答えてくださる方です。あなたがあわれみを求めて祈るとき、主は必ず立ち上がってくださるということを覚えていただきたいと思います。
Ⅲ.神を敬うこと(13-16)
最後に13節から16節までを見て終わりたいと思います。13節です。「 遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ。」今度は遠くにいる者たちだけでなく、近くにいる者たちにも語られます。近くにいる者とはだれのことでしょうか。シオンにいる人たちのことです。つまり、ユダの人たちのことです。せっかく主が立ち上がり、驚くべき方法で解決してくださるというのは、彼らの中にはイザヤの語るメッセージを無視した人たちがいたのです。
14節をご覧ください。「罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」
イザヤのメッセージを聞いて神にすがろうというより、あくまでも自分たちの力で窮地を脱しようとする人たちがいました。そういう人たちのことを、ここでは「罪人たち」とか、「神を敬わない者」と呼ばれています。「神を敬わない者」ということばは英語では「godless」、とか「hypocrite」と訳されています。これは「不信者」とか「偽善者」のことです。信じているといいながら、実はそうでない人たちのことです。そんな人がいるのでしょうか。いるのです。ただ物理的にシオン(エルサレム)にいれば自動的に救われるというわけではありません。民族的にはユダヤ人であっても、信仰を持たなければ滅んでしまいます。そういう人たちは、火で焼き尽くされてしまうのです。
「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えらよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」
だれも耐えられません。それは30章33節のところに「トフェテ」ということばが出てきましたね。「焼き場」「ゲヘナ」「地獄」のことです。そこは深く、広く掘られているので、その火は永遠に消えることはありません。硫黄の流れのように燃やすので、だれもその火に耐えることはできないのです。神を信じない人、信じていると言いながら実はそうでない人、偽善者は、この燃える火の中に投げ入れられるのです。
しかし、神を信じ、神を敬う人が、この火に焼き尽くされることは絶対にありません。イエス・キリストがその人の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったからです。キリストがその人の代わりに神のさばきを受けてくださったので、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは絶対にないのです。したがって、神を信じ、神を敬う人たちにとっては、この焼き尽くす火は全く恐怖にはなりません。
かつてバビロンに捕らえ移された人たちの中にシャデラク、メシャク、アベデネゴという3人の少年たちがいましたが、彼らはこの火を全く恐れませんでした。彼らは神を信じていたからです。あるとき、ネブカデネザルが自分の金の像を拝むように、もし拝まなければ火の燃える炉の中に投げ込まれる、という命じても、彼らは決して偶像を拝むことをしませんでした。たとえそのようになっても、彼らの信じる神は、火の燃える炉から自分たちを救い出すと信じていたからです。それを聞いたネブカデネザル王は怒りに満ちて、炉を普通よりも七倍熱くし、その中に上着や下着やかぶり物の衣服を着たまま縛り上げた彼らを投げ込みました。するとどうでしょう。その火があまりにも熱かったので、彼らを連れて来た者たちは、その火炎で焼き尽くされてしまいましたが、炉の中に投げ込まれた彼らは縛ったはずのロープは焼けただれて落ち、自由に歩き回っていました。何の害も受けていないのです。そしてよく見ると、そこに神の子のような第四の者がいるのが見えました。この神の子が彼らとともにいて、彼らを守ってくださったのです。この神の子とはだれでしょう。そうです、イエス・キリストです。受肉前のキリストです。キリストが彼らとともにいて、完全に守っておられたのです。
「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)
「神は焼き尽くす火です。」(ヘブル12:29)けれども、神を信じ、神を敬う者にとっては、もはやそうした恐怖の対象ではなく、救いの保障であり、安心と安全の確かな約束なのです。
15節と16節をご覧ください。「15正義を行う者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者、16 このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される。」
正義を行う者とは、正しい者です。まっすぐに語る者とは、ねじ曲がったことを言わない、嘘はいわない。半分だけ真実を語ってあとの半分は自分に都合のいいことを言って人をおとめるようなことを言わない人です。また、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者とは、ワイロを受け取らない人、お金に対してクリーンであるということです。耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない人というのは、悪に加担しないという姿勢のことです。そういう人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害となります。これはどういうことかというと、敵の攻撃を受けることがない安全で、安心な所に住むという意味です。また、そういう人にはパンや水といった日毎の糧が絶えないのです。これが神を信じる人、クリスチャンの姿です。イエス・キリストによって義と認められた者の姿です。神の恵みによってキリスト・イエスの尊い救いにあずかった者は、神を敬う者、正義を行う者、すなわち、神に似た者に変えられていくのです。それは御霊なる主の働きによります。「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうちだれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」だれも耐えられません。しかし、ただ神の恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰により、私たちキリストにある者は、価なしに義と認めていただけます。ですから、私たちはその恵みに答える者として、正義を行う者、まっすぐに語る者、ワイロを取ったりしない。血なまぐさいこと、人の悪口を言ったり、人の評判を悪くするようなうわさ話に同調して、自分もいっしょになって話しているということはしない。悪いものを見たり、聞いたりしません。私たちの回りには、私たちを毒するようなものがたくさんあります。そのようなものはには目を閉じ、耳を閉じます。そうでないと、あなたの足場は危うくなってしまいます。安全、安心でいられなくなります。ただ神のひとり子イエス・キリストを信じ、正義を行う者だけが、新しいエルサレムで神の守りと助けを楽しむことができるのです。
あなたはいかがですか?どんなに緊迫した状況の中でも、あるいはどんなに悪い時代に生きていても、私たちは主に目を向け、主のあわれみを求めて祈ろうではありませんか。主の助けを求めて、朝ごとに、祈りましょう。その時、主が立ち上がってくださるのです。