イザヤ書33章17~24節 「この方が私たちを救われる」

新年あけましておめでとうございます。この新しい年をどのような祈りで始められたでしょうか。この新しい年の上に、主の祝福が豊にありますように祈ります。この新年の朝に私たちに与えられているみことばは、イザヤ書33章17節から24節までのみことばです。きょうはこのみことばから「この方が私たちを救われる」というタイトルでお話をしたいと思います。

Ⅰ.麗しい王(17-19)

まず初めに17節から19節までをお読みします。「17 あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。18 あなたの心は、恐ろしかった事どもを思い起こす。「数えた者はどこへ行ったのか。測った者はどこへ行ったのか。やぐらを数えた者はどこへ行ったのか。」19 あなたは、もう横柄な民を見ない。この民のことばはわかりにくく、その舌はどもって、わけがわからない。」

「麗しい王」とは、やがて来られるメシヤ、イエス・キリストのことを指しています。「あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。」イザヤは、やがてイエス・キリストがこの地上に再臨して千年王国を樹立する時のことを語っています。その時、あなたの目は、この麗しい王が、地の果てまで広がった、世界の隅々に至るまで支配した国を見るようになります。

「あなたの心は、恐ろしかった事どもを思い起こす」とは、アッシリヤに取り囲まれた出来事のことです。「数えた者」とか「測った者」、また「やぐらを数えた者」、「横柄な民」とは、もちろんアッシリヤのことです。彼らはユダを侵略しそこにあった金、銀、財宝を、あるいは、捕虜の数を数えていました。また、彼らが奪った土地を測量していたわけです。「やぐら」とはアッシリヤの攻撃を防御する見はり塔のことですが、アッシリヤがやって来たときそれを奪って武装解除していました。彼らは実に横柄な民でした。そんなアッシリヤはどこにもいません。どこへ行ってしまったのでしょうか。主がやって来て彼らを滅ぼしたので、彼らは自分の国に帰って行きました。ある晩、主の使いがやって来てアッシリヤの陣営にいた185,000人の兵士を打ち倒したので、彼らは命からがら逃げて行ったのです。麗しい王が来て彼らを打ち破られたので、彼らは命からがら逃げて行きました。

皆さん、麗しい王が来るとき、それまで自分たちを取り囲んでいた強大な敵がどこかへ行ってしまいます。これまで目の前に立ち立ちはだかっていたものが取り除かれて、遠くまで見えるようになるのです。麗しい王が来て、それらを滅ぼしてくださるからです。もしあなたがアッシリヤのような強大な敵に囲まれて四面楚歌のような状態になったとしても、あなたの目がこの麗しい王を見るなら、あなたがイエス・キリストを見上げるなら、あなたはそこから解放されるのです。遠く広がった国を見るようになります。目の前の問題がどこかに吹っ飛んでしまいます。今まで近視眼のように目先のことしか見えず、全然先のことが見えなかったのが、遠くまで見渡せるようになるのです。イエスを見た瞬間に、あなたの視界が広がるからです。これまでみたことがないような世界が広がってきます。狭い世界で縮こまって苦しんでいたのが、イエスを見た瞬間に、遠くまで見渡せるようになるのです。自分を脅かしていた人たち、恐ろしい出来事も、どこかに行ってしまいます。イエス・キリストを見れば、目の前の問題が吹っ飛んでしまうのです。問題は、あなたの目が何を見るかです。もしあなたの目が、麗しい王を見るなら、あなたは遠く広がった国を見るようになるのです。

ソウル・サーファーという映画を観ました。13歳のベサニー・ハミルトンは、暖かい家族と暮らすハワイのカウアイ島で、何よりサーフィンを愛する少女で、プロサーファーとして将来を有望視されていた矢先、練習中にサメに襲われて左腕を失います。将来が見えない不安の中、転機となったのは、スマトラ沖地震後、ワールド・ビジョンというクリスチャンの団体が行ったタイでの緊急支援活動にボランティアとして参加したことでした。津波で甚大な被害を受けた被災地での活動を通し、自分が頑張ることで、世界のこどもたちみんなに勇気と希望を伝えることができるいう想いを抱きました。これまでサーファーにしか見えなかった彼女が片腕を失ったことで麗しい王であられるイエスに目を向けたとき、将来と希望が与えられたのです。

もしあなたの目が麗しい王であられるイエスを見るなら、あなたも遠く広がった国を見るようになるのです。この新しい一年が、そのように年でありますように。

Ⅱ.祝祭の都(20-21)

次に20節と21節をご覧ください。ここには、「20 私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。 21 しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない。」とあります。

「祝祭の都」とはシオン、エルサレムのことです。エルサレムでは主を祝うための祭りがたくさん行われていました。特に過越の祭り、七週の祭り(別称ペンテコステ)、仮庵の祭りの三大祭りは、成人男性であれば世界中どこにいても、エルサレムに来て参拝しなければなりませんでした。ですから、エルサレムは祝祭の都と呼ばれていたわけです。そこは安らかな住まいです。天幕が取り払われたり、その鉄のくいが抜かれたりすることはありません。その綱が切られたりすることはありません。どんなに敵が強大であっても、エルサレムが破壊されたり、滅ぼされたりすることは絶対にないのです。今日、エルサレムほど危険な場所はないかのように感じます。連日のようにテロがあったとか、パレスチナとの戦闘があったという報道がなされています。いつ破壊されてもおかしくないような場所です。しかし、この町が破壊されることは絶対にありません。そこは安らかな住まいだからです。

イランのマフムード・アフマディネジャド(Mahmoud Ahmadinejad) 大統領は「イスラエルを世界地図から抹消する」と宣言しましたが、彼がどんなにそのように叫んでも、イスラエルが、エルサレムが抜かれることは決してありません。一説によると、彼がイスラエルを抹消しようと躍起になっているのは、彼自身がユダヤ人であったからだと言われています。彼の一族は500年前から続くユダヤ人の末裔で、その祖先はさらに遠く2600年前までさかのぼり、「バビロン捕囚」のユダヤ人を解放した紀元前593年に遡ると言われています。その時にペルシャに移り住んだらしいのです。(ゴードン・トーマス,「インテリジェンス・ジャーナリスト」2009年12月号)。改宗を経験した家族は、たいてい改宗前に信仰していた教義に批判的になると言われますが、彼の強烈な反イスラエル、反ユダヤ教の言動は、ユダヤ教から足を洗い、その事実を消したいという思いが働いているのだろう、と言うのです。しかし、どんなに彼が叫んでも、イスラエルが、エルサレムが抹消されることはありません。そこは祝祭の都とあるように、主なる神が礼拝される所なので、絶対に失われることはないのです。世の終わりになると麗しい王であられるイエス・キリストがここに降りて来られ、世界を治められます。ここは安らかな住まいです。私たちはいつの日か、ここに書かれてあることが本当だったということを見るようになるでしょう。

21節をご覧ください。ここには、「しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない。」とあります。威厳のある王とはイエス・キリストのことです。やがてイエス・キリストが天から降りて来られるとき、 私たちクリスチャンをも天から引き連れて来て、この地上を治めます。

不思議なのは、ここに「そこには多くの川があり、広々とした川がある。」とあることです。というのは、エルサレムには多くの川や、広々とした川はないからです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

ゼカリヤ書14章4節を開いてください。(新改訳聖書第三版旧約p1560)ここには「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」とあります。これは、主が再臨されるときの様子です。主はエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立ちます。するとオリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができます。そして山の半分は北に移り、他の半分は南に移ります。どういうことかというと、大きな地殻変動が起こるということです。そして、そのように地殻変動が起こった結果、8節にあるように、「その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。」ようになるのです。何とエルサレムからわき水が流れ出て、半分は東の海、死海ですね、もう半分は西の海、地中海です、そこに流れるようになるのです。それは夏にも冬にも流れます。チョロチョロした川、小川ではありません。夏にも、冬にも流れるような大きな川ができるのです。そこには櫓をこぐ船や大船も通りません。これは敵の船のことです。敵は離散していくので、そこを通ることはありません。世の終わりには、そのようになるのです。

それで、これは霊的にどういうことなのかというと、こういうことです。ヨハネの福音書7章37節から39節までをご覧ください。

「37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」    この祭りとは仮庵の祭りです。その祭りの大いなる日に、イエス様は立って、大声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が行っているとおりに、その人の心の奥底から、活ける水の川が流れ出るようになる。」実はこの「川」は複数形で書かれてあるんです。一本のチョロチョロとした川ではありません。小さな川が流れるということではないのです。大きな川が怒濤のように、まるで洪水のように流れ、それが溢れ、いくつもの支流となって流れるようになるということです。爆発的に水が湧き出て、その勢いが本流となって流れ、いくつもの川になって流れほどになるということです。これは何のことを言っていたのかというと、御霊のことです。イエスを信じる者が後になって受ける御霊、聖霊のことです。イエスを信じる人には、御霊が川のようになって流れるようになるのです。もしあなたがイエスを信じるなら、あなたの目が麗しい王を見るなら、あなたの心の中にもこの川が流れ出るようになるのです。そこには敵の船も通りません。そのような船も取り去られるからです。それが生ける水の川です。あなたの心にも聖霊が溢れるようになります。これを聖霊のバプテスマと言ってもいいです。そのような経験をするようになるのです。

けれどもここに、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので」とあります。この時はまだイエスは栄光を受けていなかったので、御霊はまだ注がれていませんでした。この栄光とは何かというと、第一義的には、十字架と復活のことを指しています。イエス様は十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられ、四十日の間、弟子たちに現れて、神の国のことを語られました。そして天に上って行かれました。この時にはまだイエス様が栄光を受けていませんでした。ですから、御霊はまだ注がれていなかったのです。いつ御霊が注がれるのかというと、イエスが栄光を受けられる時です。その時に御霊が注がれます。もう既にイエスは天に昇って行かれました。いつでも御霊が注がれます。しかし、ここには一つだけ重要なことがあるんです。それは、イエスが栄光を受けられる時に御霊が注がれるということです。もしあなたが自分の生涯を主にささげますと祈るなら、その瞬間に、あなたは御霊の注ぎを受けます。もしあなたがへりくだって、あなたのすべてを主にゆだねますと告白するとその瞬間に、あなたは御霊の満たしを受けるのです。これまでは自分の栄光ばかり求めてきました。自分のやりたいことを、自分の夢がかなえられることばかりを求めて生きてきました。でもこれからはイエスの栄光が現されるために生きます、と決心するとき、御霊が注がれるのです。大きな川となって、もうその川が溢れ出ていくつもの川になって流れくらいの川になって流れるようになるのです。その時あなたも聖霊の力を受けるようになります。聖霊のバプテスマを受けたいのなら、聖霊に満たされたいと願うなら、すべての栄光を主に帰するように生きようと決心することです。自分ばかりを見ていると、この御霊の注ぎを受けることはできません。ただ主の栄光が現されるようにと願って生きるところに注がれるのです。

そのためには、この主の招きに応答することが必要です。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」だれでも渇いているなら、イエスのところに行って飲まなければなりません。イエス・キリストを信じて、あなたの人生をすべてイエス様にささげますと決心してください。この新しい年の初めに最もふさわしい信仰の応答は、主よ、あなたを信じます。あなたに従います。あなたにすべてをささげます。そのような信仰の決心なのです。その時に御霊が注がれます。その時にすべての変化が始まるのです。それまではみんな渇いています。クリスチャンでも「こんなはずじゃなかった」とか、「なんかしっくりこない」、「なんだか力が感じられない」と思っています。自分のふがいなさに嫌気がさしているという方もおられるでしょう。しかし、ひとたびイエスを見るなら、イエスに栄光を求めて祈るなら、御霊が川のように流れるようになるのです。

Ⅲ.この方が私たちを救われる(22-24)

第三のことは、この方が私たちを救われるということです。22節から24節までをご覧ください。22節には「まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」あります。皆さん、この方が私たちをさばく方です。この方が私たちの立法者です。この方が私たちの王なのです。これはどういうことかというと、この方は司法において、立法において、また行政において正しく治められる方であるということです。民主主義においてはこの三権が分立していることが原則になっています。三権分立の原則です。日本国の憲法でも、国会、内閣、裁判所の三つの独立した機関が相互に抑制し合い、バランスを保つことによって、権力の濫用を防ぎ、国民の権利と自由を保障する「三権分立」の原則を定めています。 しかし、人は正しくさばくことができません。人はうわべを見るからです。人はうわべを見るが、主は心を見る。正しくさばくことができるのは主だけです。また内閣や国会を見ても、主権者である国民のニーズがいろいろなので、何が良いのかを判断することが非常に難しいわけです。いったい国としてどうあるべきなのかを正しく判断し、たとえそれが時には国民の不利益になることであることでもそのことを説得して理解を得、協力を得ていくということは至難の業です。そのような中で国を動かしていくということは無理です。ではどこに救いがあるのでしょうか。ここにあります。イエス・キリストです。この方が私たちを救われます。ヒゼキヤという王様ではありません。私たちを救うことができるのは、私たちの本当の王様は目には見えませんが、今も生きてすべてを治めておられる方、イエス・キリストです。この方が私たちを救われるのです。

23節と24節をご覧ください。ここには、「23あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足のなえた者も獲物をかすめる。24そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」 あります。ここにはこの方が支配される国はどのような国なのかが語られています。「あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。」というのは、敵が残していった軍隊のことです。神のさばきによってアッシリヤは壊滅的な打撃を受けました。完全に破壊されたわけです。「そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分けられ、足のなえた者も獲物をかすめる。」これはまさに征服者の姿です。人々がやって来て、それらを分捕り物としてかすめ奪います。そのようにして神は敵を一掃されるのです。悪をすべて滅ぼされます。

「そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」そこに住む者は、だれも「私は病気だ」と言いません。麗しい王であられるイエスが来られると、すべてが正常になります。今は足が不自由であったり、身体的にハンディキャップがあったりして不自由な生活を余儀なくされていても、肩がこったり、頭がこったり、腰や膝がこったり、内臓脂肪、中性脂肪、コレステロール、高血圧が気になったりします。しかし、その日には「私は病気だ」と言う人はだれもいなくなるのです。もう病院もいりません。サプリメントも必要ないんです。だれも病気だと言わないのですから。また、そこに住む人たちの罪は赦されます。だれも罪責感で悩んだり、罪悪感、自責の念で苦しむことはありません。罪はすべて赦されるからです。平和に満ちた世界がもたらされます。

どのようにしてこのようなことが起こるのでしょうか。麗しい王であられるイエス・キリストが来られることによってです。イエスが王としてこの国を治められるので、そこは麗しい国になります。それがこの地上の千年王国です。これは天国とは違います。天国はその後でもたらされる完全な国で、しかも永遠に続く国です。神様はその前にこの人類の歴史の最後に、一千年に及ぶ幸福な時代を持つように計画されました。なぜでしょうか。それは神の安息のためです。神様はかつて、天地創造のために六日間をさき、次の一日を安息とされました。同様に、神は救いの完成のために六千年の時をさき、次の一千年を安息の時代とされたのです。こうして人類の歴史は完成するのです。この千年王国においては、キリストが再臨される以前からクリスチャンであった人も、またそうであなかった人々も、豊かな恵みの時代を享受するようになるのです。その後で、全世界の人々に対して、最後の審判と呼ばれる裁きがあり、万物は更新されて「新天新地」を迎えるわけです。その前に私たちはこの至福の時を経験します。これが本当の至福の時です。それはイエスが来られることでもたらされます。ですから、イエス・キリストが来られるのが待ち遠しわけです。うるわしい王であられるイエスが来られるとき、すべてが変わります。ですから私たちはこの主を待ち望み、ただこの主をたたえて歩んでまいりたいと思います。

新聖歌427番の曲は「ただ主をあがめて」という曲ですが、これはクリスチャン・ミッショナリー・アライアンスの創始者A・B・シンプソンという人が作詞した賛美です。彼は37歳の時、重い病に倒れました。そのため、牧師としての仕事のすべてを放棄しなければならなくなりました。1年にわたる療養生活ののちに家に帰ったものの、心はぐっと沈み込むように重かったそうです。何しろ担当の医師が、あといくらももたないと宣告していたからです。  彼にとっての最後のよりどころは、神のおことばである聖書でした。真剣にみことばに取り組んでいるうちに、すばらしい真理に出会いました。それは、キリストは彼にとってすべてのすべてであるということでした。キリストは贖い主、聖め主、いやし主、そのほか彼の必要のすべてのすべてであるという真理を見いだしたのです。  ある金曜日の午後、彼は外に出ました。肉体の痛みと衰弱のため、足取りはおそく、息切れが激しかったものの、彼は松林の中に入って行きました。そして松の葉が敷き詰められたジュータンにひざまづき、石の代わりに丸太を祭壇にして祈り、主の御顔を尋ねたとき、突然、聖霊が激しく彼の上に注がれました。「私の魂のあらゆる部分が、神のご臨在を感じて高鳴っていた」と彼は告白しています。その時から彼はたましいだけでなく、肉体的にも全く変えられたのです。  それからというもの彼は、神の国のために様々なことを成し遂げました。彼が成し遂げた仕事の量は、パウロとウェスレーを除いては比べられる人はいないというほどの信仰の勇者になりました。その彼が、キリストはまさに生きておられることを実感して作詞した歌が「ただ主をあがめて」だったのです。

皆さん、キリストがすべてのすべてです。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(コロサイ2:9-10)この新しい年が、このキリストを待ち望み、キリストを見上げて歩む年でありますように。主は私たちの王、この方が私たちを救われるからです。