きょうはイザヤ書34章のみことばから、「確かな主のことば」というタイトルでお話をしたいと思います。 Ⅰ.国々よ。聞け。(1-4)
まず最初に1節から4節までをご覧ください。1節をお読みします。「国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。」
ここで主は、すべての国々に対して語っておられます。南ユダの人たちだけではありません。すべての国々の、すべての人々が聞かなければならない大切なメッセージを語っておられるのです。それはどのようなことでしょうか。2節から4節までのところに、次のようにあります。
「2 主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ。3 彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。」
どういうことでしょうか?主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤る時がやって来るとは・・。これは、世の終わりにもたらされる患難時代と、その後に起こるこの世における最後の戦いであるハルマゲドンの戦いと呼ばれるものの預言です。「彼らを聖絶し」、「彼らが虐殺される」というのは、イザヤの時代で言えばアッシリヤに対する神のさばきのことを指していますが、それは同時に、この世の終わりに起こるハルマゲドンの戦いの描写なのです。それは、キリストを拒絶したこの罪の世界に対する神の怒りの時です。詳しい内容は黙示録6章から19章までのところに記されてありますので、後でご覧いただければと思います。その最後の戦いにおいて主は敵である悪魔を虐殺して、勝利するのです。そして「彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける」ようになるのです。
それだけではありません。4節をご覧ください。その時には天変地異も起こるということが語られています。「天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」
天の万象は朽ち果てます。そして、天は巻き物のように巻かれるのです。これはおもしろい表現ですね。巻物のように巻かれる・・。かつて第二次世界大戦の時に広島と長崎に原爆が投下されましたが、その時、天はどのようになりましたか?きのこ雲が空高く渦巻きました。そうです、天は巻き物のように巻かれるのです。やがて起こる世界規模の戦争においてはこの核も使用されるということです。そして世界中にあのきのこ雲がわき起こるようになるのです。その万象は枯れ落ちます。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように、いちじくの木から葉が枯れ落ちるように、枯れ落ちるのです。これは、空から惑星や隕石が落ちてくるということでしょう。その時になると天の万象は枯れ落ちて、ぶどうの木から葉が落ちるように、いちじく木から葉が枯れ落ちるように、いろいろなものが枯れて落ちてくるのです。
いったいなぜこのようなことが起こるのでしょうか。それは人間が罪を犯したからです。創世記3章17節を見ると、最初の人アダムとエバが罪を犯したとき、この地は呪われたものとなった、とあります。彼らが罪を犯したので、全世界が、自然界も含めて、呪われてしまったのです。ですから、もちろん、この地球環境のために私たちが働きかけることは大切なことですが、この地球が完全な状態に回復するためには神がこの罪を解決して、全く新しい環境を再創造されなければなりません。それが主イエスの再臨の時であり、キリストによって樹立される新しい神の国、千年王国の時なのです。ローマ人への手紙8章19節には「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」とありますが、それはこのイエスが再臨される時のことです。被造物全体が、切実なる思いで神の子たちの現れを待ち望んでいるのは、その時、罪に汚れたこの世が刷新され、全く新しい世界が創造されるからなのです。
すべての国々の、すべての民は、このメッセージを聞かなければなりません。これは神に敵対する物たちに対する神の警告です。ですから、神の民であるあなたは万物の創造者であり、主権者である神の前にへりくだり、この方だけを礼拝し、この方にすべての栄光と賛美と感謝がささげられるようにしなければなりません。あなたはこの万物の創造者である神の前らどんな存在でしょうか。自分の思いを捨てて、神のみこころに従うべきことはどんなことでしょうか。
Ⅱ.エドムに下る神のさばき(5-15)
次に5節から15節までを見ていきましょう。5節をお読みします。「天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。」
ここには、エドムに対する神のさばきが語られています。エドムというのはエサウという人を先祖に持つその子孫のことです。エサウというのはヤコブと双子の兄弟のお兄ちゃんの方です。兄がエサウで、弟がヤコブです。エサウはエドムと呼ばれる地に住んだので、後に「エドム人」と呼ばれるようになりました。そのエドムに対して神の怒りが注がれているのです。なぜでしょうか。8節をご覧ください。「それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。」どういうことかというと、このエドムは神の民であるイスラエルの敵であり、そのイスラエルの訴えのために仇を返されるからです。ご存じのように、エサウは長子でありながら肉的なものに心が奪われ、その長子の権利を弟ヤコブに譲ってしまいました。たった一杯のスープのために、たった一杯のシチューのために、たった一杯のカレーライスのために、その大切な長子の権利を売ってしまったのです。神の祝福を自ら放棄してしまいました。それゆえ「神はヤコブを愛し、エサウを憎また」(ローマ9:13)のです。それ以来、エサウは、エドム人は、神の敵となってしまいました。イスラエルの敵になったのです。このイザヤが活躍していた時代にも、エドム人はユダに侵略してはこれを攻めるというようなことをしていました。また、新約時代になるとイドマヤ人であったヘロデ大王はユダヤ人の王として生まれたイエスを殺すためにエルサレムに住む二歳以下の男の子を虐殺したという話が出てきますが、このイドマヤ人というのは実はエドム人のことです。エドム人は後に「イドマヤ人」と呼ばれるようになりました。彼はキリストを殺そうとしたのです。神に敵対する者でした。このようにエドム人は神の民イスラエルの親類でありながら、彼らに敵対するようになってしまったのです。すなわち、エドムとは神に敵対する者の代名詞なのです。そうしたエドムに対して、神は復讐すると言っておられるのです。
どのように復讐されるのでしょうか。9節と10節には、「9エドムの川はピッチに、その土は硫黄に変わり、その地は燃えるピッチになる。10それは夜も昼も消えず、いつまでもその煙は立ち上る。そこは代々にわたって、廃墟となり、だれも、もうそこを通る者はない。」とあります。
ここにはピッチとかわけのわからないことばが出てきますが、ピッチとは原油や石油を熱で分解してできる黒い残留物のことです。常温では固体ですが、高温で溶かすと黒色の液体になります。エドムの川はそのようなピッチに変わります。その土は硫黄に変わり、その地は燃えるピッチになります。それは夜も昼も消えることがありません。いつまでも煙が立ち上ります。もうだれもそこを通ることはできません。パイプラインが破壊され火がいつまでも消えないといったイメージです。エドムとは地理的には今のサウジアラビヤの北方に位置していますから、原油の量が中途半端ではなく多いのです。しかし、そうした原油を運ぶパイプラインが破壊されるので、そこはまさに火の海になってしまいます。その火は昼も夜も消えることがありません。本当に恐ろしい情況を目の当たりにするようになります。
さらに11節から12節を見ると、そこは完全に荒れ果てるということが言われています。「11 ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。 12 そのおもだった人のうち、王権を宣言する者が、だれもそこにはいない。すべての首長たちもいなくなる。」
ここに出てくるペリカンとか針ねずみ、みみずく、烏といった生き物は、荒れ果てた寂しいところに住む獣です。この「虚空」とか「虚無」と訳されたことばは、創世記1章2節のところで「茫漠」と訳されていることばと同じことばです。それは「荒野」のことです。「地は茫漠として何もなかった」混沌としていた。そういう状態になるということです。完全に廃墟と化してしまうのです。
そればかりではありません。13節から15節には、「13 そこの宮殿にはいばらが生え、要塞にはいらくさやあざみが生え、ジャッカルの住みか、だちょうの住む所となる。14 荒野の獣は山犬に会い、野やぎはその友を呼ぶ。そこにはこうもりもいこい、自分の休み場を見つける。15 蛇もそこに巣を作って卵を産み、それをかえして、自分の陰に集める。とびもそれぞれ自分の連れ合いとそこに集まる。」とあります。
ジャッカルとだちょうは、廃墟に住む代表的な動物です。また「野やぎ」はヘブル語で「サイール」と言いますが、「毛深いもの」を意味します。ここから悪霊を指すことばとして用いられるようになりました。よくやぎの顔をした動物が悪魔として出てくることがありますが、それはこのことです。また、「こうもり」も悪霊を指します。ヘブル語では「レリース」と言いますが、エドムに実在していた夜の女神のことです。蛇も悪の象徴として用いられています。すなわち、このエドムは荒れ果て、完全に廃墟と化してしまうというだけでなく、悪の力、悪霊も巣食うようになるという預言なのです。なぜでしようか。神に敵対したからです。神に敵対する者とその勢力は、このエドムのようになってしまいます。完全に廃墟と化するのです。
神に敵対する者に対して神は、このように復讐されるのです。ですから、神に敵対してはいけません。神に敵対するとエドムのようになってしまいます。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われます(創世記12:3)。ですから、アブラハムを祝福する者になりましょう。決して呪ってはいけません。エサウのように自らの欲望のためにこの世を愛するようなことがあってはならないのです。神を愛し、神の民であるクリスチャンを愛する者でなければなりません。あなたはどうでしょうか。
ローマ人への手紙8章31節から34節までのところに、次のようにあります。 「31では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。」
神が私たちの味方であるなら、だれも私たちに敵対することはできません。大切なのは、私たちが神の側にいるかどうか、あるいは、神が私たちの側にいるかどうかであって、それがいつも私たちの最大の関心事でなければなりません。神が私たちの側にいてくださるなら、神が私たちの味方であるなら、私たちは何も恐れることはないのです。だれも私たちに敵対することなどできないからです。
ですから、私たちの関心事は、どうしたら私たちが神の味方であるか、どうしたらいつも神のみこころに従うことができるかということです。神に従うとは、神の御心に従うことですから、そのためにはどうしても聖書に向かわなければなりません。聖書をよく読んで、しかもただ読みっぱなしではなく、それを実行することが大切です。みことばに従い、みことば生きる時、私たちは神の味方であるということ、神が私たちの側におられることを確信することができるのです。
Ⅲ.確かな主のことば(16-17)
最後に16節と17節を見て終わりたいと思います。「16 主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。17 主はこれらのもののために受ける割り当てをくじで定め、御手が測りなわで測ってこれを分け与えたので、とこしえまでも彼らはこれを所有し、代々にわたって、ここに住む。」
どういうことでしょうか?「主の書物」とは聖書のことです。特に、預言のことばと言ってもいいでしょう。これを調べて読め、というのです。口語訳ではここを「あなたがたは主の書をつまびらかにたずねて、これを読め。」と訳しています。「つまびらかにたずねて」すごい表現ですね。あまり使いません。「つまびらか」という言葉は。これは詳しく読めということです。細かいところまでよく調べて読むように。そうすればわかります。これらのもののうちどれも失われていないということが。何一つ欠けていないということが。すべての預言が一つもたがわず成就したことがわかるんです。なぜそのように言うことができるのでしょうか?なぜなら、それは「主の口がこれを命じ、主の御霊が、これを集めた」からです。これは人が書いたものではなく、主が命じて書かせたもの、つまり、神のことばだからです。実際には預言者イザヤが書いたわけですが、これを書いたイザヤは自分で書いたというよりも神の力強い導きと、御霊の力を感じながらこれを書いたのです。自分の知恵や知識によってではなく、神の口から出たことばが御霊によって彼に感動を与え、これらのことを書かせてくださったとうのです。
ペテロ第二の手紙1章20節と21節を見ると、「20 それは何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とあります。預言は決して人間の意志によってもたらされたものではありません。聖霊に動かされて人たちが、神からのことばを語ったものなのです。それゆえに聖書は神のことばであると私たちは信じてはばからないわけです。これがプロテスタント教会の信仰の中心です。いろいろな違いがあってもいいんです。しかし、これだけは違ってはまずのです。聖書は神のことばであるということです。それゆえ、聖書は私たちの信仰の道しるべであって、私たちにとって重要なことは、この聖書に何と書かれているか、聖書は何と言ってるかということです。あの人は何と言ってるかとか、自分はどう思うかということではなく、聖書は何と言ってるのか、それはどういう意味なのかということが重要なのです。
私は聖書を読むたびに思うのですが、特にこのイザヤ書などを読んでいると、これはどう見ても絶対に人が書いたものではないと思います。道徳的なことや倫理的なことは、ある程度他の宗教書やさまざまな教典と呼ばれるものの中にも同じようなことが書かれてありますが、預言となると、他の宗教書や教典には決して見られないものです。見られたとしてもハズレます。昨年12月21日はマヤの暦では世の終わりの日であったそうです。それで世界中が混乱しましたが、残念ながらその預言は外れました。これはとても人が書けるようなものではないのです。これは神の霊感を受けた人たちが、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った、神のことばなのです。
中には聖書なんて信じられないとか、そんなの人の創作であって、ただの神話だという人がいますが、そういう人は実のところ全然聖書を読んでいない人たちです。読んだとしてもそこに書かれてある内容をよく調べていません。もしよく調べて読むなら、つまびらかにたずねて読むなら、本気で聖書に向かうなら、その人は間違いなくその預言の驚くべき内容に、そして、これまでの歴史の中でそのことばが確実に成就してきたという事実に圧倒され、これがまさに神のことばであると確信することでしょう。
実はイザヤ書はこの後36章から39章までのところに、イザヤの時代に起こった歴史的な事実を記しています。イザヤ書は全部で66章ありますが、その前半の締めくくりの36章から39章までのところに歴史的な事実を記しているわけです。それはなぜかというと、これまでイザヤが預言したことが本当に起こったということを示すためです。すなわち、エルサレムを完全に包囲したアッシリヤに対して、神が超自然的に介入され一晩で18万5千人を打ち倒しました。イザヤが言ったことは本当に成就しました。それは世の終わりに起こることも同じように成就するということを表しています。世の終わりには患難時代があるとか、ハルマゲドンの戦いがあるとか、千年王国が樹立されるというようなことを言いましたが、聖書を知らない人にとってはまさにたわごとのような話でしょう。全く信じられないことです。しかし、それらのことは必ず起こります。聖書の預言は絶対成就するからです。それは一つもたがわず実現します。ですから、私たちは主の書物を調べて読まなければなりません。これをつまびらかにたずねて読まなければならないのです。
ぜひ今年は一年でこの聖書を全部読みたいですね。これを通読と言います。あまり深いことは考えないで聖書にはどんなことが書かれてあるんだろうといった気持ちで読み進めて行くことです。私も1月1日から実行していますが、毎日大体5章くらいずつ読むと1年で通読できるようです。ディリーブレッドのようなものには通読表がありますので、そのようなものを使うと読みやすいかと思います。しかしある時には、自分の心にひっかかったり、「これはすばらしいみことばだなぁ」と思うようなことばがあれば、それをつまびらかにたずねて読むことが大切です。礼拝や祈祷会でもそうですし、「幸いな人」や「リビングライフ」などのように聖書のみことばを解説しているものがあると便利です。そうしたものを用いてつまびらかに読んでいくなら、聖書の意味の深さというものを幾倍にも増していくことができると思います。
もちろん、そうしているからといって、「自分はだれよりも聖書を知ってるとか、わかってる」といってそこに立ちどまっていたら、そこから先に進んでいくことができません。どんなに学んでも、さながら学んだことがないかのように、へりくだって、いつも新鮮にみことばを聞こうとする態度、みことばに向かう姿勢が大切です。
ペテロは「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」(Iペテロ1:23)と言いました。この種は決して朽ちない種であり、いつまでも変わることのない、神のことばです。このことばがあなたにいのちを与え、新しく生まれ変わらせてくださいます。
千葉県の天然記念物に指定されている「大賀蓮(オオガハス)」という蓮の花をご存じでしょうか。この花は今から二千年前の蓮の種が奇跡的に発芽して咲いたものです。二千年前といったら、途方もなく長い間です。発見された時には固く石のようになっていました。もう命はないだろうと思われましたが、三粒のうち二粒は失敗しましたが、一粒の種が発芽して花が咲き実を結びました。その種の中には命があったのです。それに環境が整えられますと、芽を出して成長し、花を咲かせて実を結びます。これは大賀一郎という植物学者が発見したことから「大賀蓮」と呼ばれていますが、今では人々に幸せを運ぶ種として飛ぶように売れているそうです。
ペテロが、あなたがたが新しく生まれたのは、この朽ちることのない種が蒔かれたからだと解釈しました。なぜクリスチャンに永遠のいのちがあるのかというと、神の種であるみことばにいのちがあり、その種が人の中に蒔かれて芽を出すからなのです。なんてすばらしいことでしょう。新しく生まれ変わるということはそういうことなのです。それは生ける、いつまでも変わることのない神のことばによるのであって、主の書物を調べて読む、つまびらかにたずねて読むなら、やがてその種から芽が出て、豊かに花を咲かせることでしょう。
もしかすると、あなたの中にはまだこの芽が出ていないかもしれません。まだ何の変化も見られないかもしれません。しかし、この種は必ずやがてあたなのうちに芽を出し、美しい花を咲かせ、実を結ばせてくださいます。なぜなら、これはいつまでも変わることのない、生ける、神のことばだからです。ですから、主の書物を調べて読みましょう。つまびらかにたずねて読みたいと思います。イザヤを通して語られたみことばは必ず実現します。私たちは神が語られたことばをつまびらかに読んで、神のみこころにかなった歩みを求めていく者でありたいと思います。