きょうはイザヤ書35章から、「やがて来る神の国の祝福」というタイトルでお話したいと思います。33章からアッシリヤが滅ぼされ平和な世界がもたらされるということを語ってきたイザヤは、この35章で再びその平和な世界について語っています。それはイザヤの時代で言えばアッシリヤからの解放のことですが、遠い未来のことで言うと、世の終わりに起こる七年間の患難時代の後にもたらされる千年王国のことです。主イエスが王の王、主の主としてこの地上に再臨され、エルサレムに着座されねと、この地上に千年にわたるメシヤの王国を樹立されるわけです。それが千年王国です。その時にはすべてが変わります。それはさながら天国にいるかのような麗しい世界です。主イエスが来られるとき、この地上はそのように祝福に満ちた世界に変わるのです。きょうはこの神の国がやがて来るとき、千年王国において、この地上がどのように祝福に満ちた世界に変わるのかを見ていきたいと思います。
Ⅰ.荒野は楽しみ、荒地は喜ぶ(1-2)
まず最初に1節と2節をご覧ください。「1 荒野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜び、サルランのように花を咲かせる。2 盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。」
その時、この自然界が変えられます。「荒野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜び、サルランのように花を咲かせる。」荒野とか砂漠というのは一切植物が育たない乾いた地を意味します。そのような荒野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜び、サフランのように花を咲かせます。レバノンとかカルメル、シャロンというのは33章9節にも出てきましたが、自然の豊かさを表しています。レバノンは杉の木で有名ですが、それは常緑のしるし、いのちのしるしです。またカルメルとかシャロンも果樹とか花で有名ですが、それは豊かな実のしるしです。罪によってしおれてしまったレバノンやカルメル、シャロンが、再びいのちと豊かさに満ち溢れるようになるのです。というのは、自然界がしおれてしまったのは、人間が罪を犯したからです。最初の人間アダムが罪を犯してしまったので、その影響が自然界全体に及んでしまいました。本来、自然界が人間にきばを向くということはありませんでした。自然災害とか、弱肉強食といったものはなかったのです。それらはむ人間が罪を犯した結果もたらされたものなのです。自然界をはじめ被造物全体が人間の罪によって巻き添えをくってしまったのです。ですから、その罪が贖われれば、自然界も元の姿に回復します。荒野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜び、サフランのように花を咲かせるようになるのです。
ローマ人への手紙8章19節から23節までのところを見ると、被造物全体がその時を待ち望んでいるとあります。
「19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。 20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
それが主が再臨される時です。その時、クリスチャンの肉体が贖われます。クリスチャンは既に霊においては贖われていますが(救いを受けていますが)、肉体においてはまだ贖われていません。いつそれが贖われるのかというと、イエスが再び来られる時なのです。その時キリストにあって死んだ人たちがよみがえり雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会います。このようにして、いつまでも主とともにいることになるのです(Iテサロニケ4:15-17)。この時、クリスチャンは朽ちないからだ、栄光のからだによみがえります。つまり、肉体も贖われるわけです。その時、人間の罪によって巻き添えをくった被造物全体も贖われるわけです。なぜなら、被造物が虚無に服したのは自分たちの意志によってではなく、服従させた方、すなわち、人間の罪によるものだからです。ですから人間の罪が贖われるとき被造物全体も贖われ、まだ罪が犯されていなかった創造時の世界に回復するのです。荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせるようになるのです。何とすばらしいことでしょうか。
皆さん、主が再び来られるとき、神の国があなたに臨むとき、あなたはサフランのように花を咲かせるようになります。それは荒れ果てた大地に、神が無限に恵みの水を注いでくださることによってのみ可能なことなのです。それは決して人の力によってできることではありません。人にはこのような無限の力はないからです。あなたがどんなに砂漠に水を注いでも、そこが潤されることは絶対にありません。ただ神の恵みの水が注がれることによって、そこに恵みの泉が湧き出ることによってのみ、砂漠が緑の草原に変わるのです。そして、これまでカラカラに乾いていた地が潤され、多くの花を咲かせ、実を結ばせてくださいます。
あなたの心はどうでしょうか。あなたの心は荒野や砂漠のように乾いていませんか。荒地のように荒れ果ててはいないでしょうか。もしあなたの心が乾いているなら、それはこの神の恵みに満たされていないからです。あなたがどんなに自分で自分の心を満たそうとしてもできません。ただ神だけが、砂漠のように乾いた心を満たすことができるのです。神の愛と神のいのちである聖霊があなたに臨むとき、あなたの心もシャロンのように豊かな花を咲かせるのです。
アメリカのボストンの地下病棟に、一人の少女が隔離されていました。少女はひどい心の病に侵されていて、人が近寄ると奇声をあげ、恐ろしい毒舌を浴びせました。医師たちは全力を尽くしましたが、結局回復不可能という診断を下しました。少女の両親も放棄してしまい、面会にさえ来ませんでした。誰一人として彼女に関心を示す人はいませんでした。 しかし、年老いて退職した一人の看護士が彼女に福音を伝え始めました。この看護士は六ヶ月間、ずっと主の愛を彼女に伝えました。すると少女の心が変わり始めました。心の暗やみが晴れ始め、徐々に世の中に向かって心を開き始めました。そして、ついに彼女の心が癒されたのです。心の光を取り戻した少女は自分と同じような心の病気で苦しんでいる人たちに尽くそうと決心しました。この少女こそあのヘレン・ケラーを世の中へと導いたサリバン先生でした。アン・サリバン・メイシーです。彼女はイエスに出会い全く変えられました。回復不可能だった彼女が世の中を変える偉大な生涯を歩むことができるようになったのは、ただ神の力によることでした。
あなたもキリストに出会うなら全く変わります。キリストを通して注がれる神の聖霊は回復不可能なあなたの心を、豊かな花を咲かせる野のような心に変えることができるのです。
Ⅱ.強くあれ、恐れるな(3-7)
次に3節から7節までを見ていきましょう。まず3節と4節をお読みします。「3 弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
主が再び来られる時、どのようなことが起こるのでしょうか?ここには「神が来て、あなたがたを救われる」とあります。霊的な救いだけではありません。肉体的にも、物質的にも救ってくださいます。具体的にはどのようなことかというと、5節と6節の前半のところに次のようにあります。「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。6 そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」
やがて神の国が臨むと自然界ばかりでなく、人間にも変化が起こります。目の見えない人が見えるようになり、耳の聞こえない人が聞こえるようになります。足のなえた人、動かない人も、鹿のようにとびはね、口のきけない人の舌は喜び歌うようになるのです。
これらのことは、二千年前にイエス様が来られた時、実際にこの地上においてなされた事柄です。ルカの福音書7章19節から23節までのところをお開きください。ここには、「19 すると、ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか」と言わせた。20 ふたりはみもとに来て言った。「バプテスマのヨハネから遣わされてまいりました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか』とヨハネが申しております。」21 ちょうどそのころ、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。22 そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。23 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」とあります。 実は、これらのことは来るべきメシヤの証拠でした。主イエスは来るべきメシヤとしての証拠を示すためにこれらの奇跡を行われたのです。ですから、バプテスマのヨハネが「来るべき方はあなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」と尋ねたとき、主イエスが言われたことは、「あなたがたは、自分たちの見たり、聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい」ということでした。目の見えない人が見えるようになり、足のなえた人が歩くようになり、ツァラートに犯された人がきよめられ、耳の聞こえなかった人が聞こえるようになり、死人も生き返っています。貧しい人たちにも福音が宣べ伝えられています。これを見ればわたしが何者であるかがわかるでしょう。旧約聖書に、来るべきメシヤはどういう方であり、どのような働きをされるかがちゃんと書かれてあるではないか。それとよく照らし合わせてみるように。そうすれば、きっとわかるはずだ。わたしがだれであるかが・・。ですから、主イエスはそのように言われたのです。主イエスは、ご自分の力によって既に神の国が臨んだことを宣言されたのです。
しかし、その時イエスが成されたことはそのほんの一部にすぎませんでした。その完全な現れは神の国が到来するまで待たなければなりません。主イエスが再び来られる時まで待たなければならないのです。その時、それが完全な形でもたらされることになります。主イエスはこの地上での公生涯において、それをチラッと見せてくださったわけです。ちょうどテレビの予告編みたいですね。次の時にはどうなるかをめまぐるしく変わる画面によってチラッチラッと見せるわけですが、実際どうなるかはその時に全体を見て「ああ、こういうことだったのか」と気づくわけですが、それと同じです。イエス様は二千年前に千年王国に起こることをチラッと見せてくださいましたが、それは実際に千年王国がもたらされる時の予告だったわけです。その時、私たちは完全な形で神の国の到来を見るようになるわけです。何とすばらしいことでしょうか。
ですから、イザヤはこう告げるのです。「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神を。復讐が、神の救いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」(3-4)と。こうした将来の希望は、今を生きる私たちに励ましを与えます。さまざな苦しみや圧迫によって弱った手を強め、よろめいたひざをしっかりさせます。いろいろなことで思い煩って、心騒ぐ人たち、パニくっている人たち、ひっくり返っている人たちに勇気と力を与えるのです。主イエスが来られるというメッセージは、主イエスが来て、あなたがたを救われるというメッセージは、真にあなたを強めるのです。
オランダに50年間たばこを吸い続けていたおばあさんがいました。エリーナという人です。彼女はそのたばこをやめるためにあらゆる努力をしてきましたが、なかなかやめることができませんでした。そんな彼女も78歳になりましたが、彼女が78歳になったとき、一つ年上のジェイソンというご老人と愛し合うようになりました。たばこを吸わないジェイソンが、「私は君と結婚したいのだが、君のたばこのために決心がつかないんだ」と言うと、エリーナはどうしたと思いますか?彼女はジェイソンのその言葉を聞いた瞬間、たばこをやめたのです。50年もなかなかやめられなかったたばこを、ジェイソンの言葉を聞いた瞬間にやめることができたのです。まさに愛の力ですね。愛の力は意志の力よりも偉大です。クリスチャンの生活に起こる驚くべき変化の秘密は、道徳ではなくこの愛にあります。一方、幸せのために変化を追求する人々の姿を指摘するこのようなことばがあります。「ご飯を食べれば一日幸せで、新しい携帯を持つと一週間は幸せで、新しい車を買うと一ヶ月は幸せです。そして新しい家を買うと一年は幸せです。」
しかし主イエスを信じ、この神に望みを置く人は永遠に幸せです。詩篇146篇5節には、「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。」とあります。主に望みを置く人は何と幸いでしょう。いつもこの励ましと力を受けることができるからです。
今、この中に弱っている人がいるでしょうか。よろめいている人がいらっしゃいますか。心騒いでいる人がいますか。その人はこの方を見てください。この方とは主イエス・キリストです。主は来て、あなたがたを救われます。あなたのからだと心を完全なものに回復してくださいます。それこそ本当の希望です。この希望があなたを奮い立たせてくれるのです。
Ⅲ.そこにある大路(8-10)
最後に8節から10節までを見て終わりたいと思います。「8 そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。9 そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。10 主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」
荒野や砂漠には道がありません。道がないからつまずくのです。また、道がないからさ迷うのです。ですから、荒野の中に入った人は道を失い、さ迷い、いのちを失うことがあるわけです。神はそのような荒野に道を造られました。神が造られる道は「大路」です。その道は「聖なる道」と呼ばれます。汚れた者はそこを通ることができません。それは贖われた者たちのものです。罪が贖われたきよい人々だけが通ることができます。旅人も愚か者、これは罪人のことですか、そこを通ることはできません。そういう人たちがこの道に迷い込むことはないのです。そこには獅子もおらず、猛獣もいません。この「獅子」とか「猛獣」というのは悪魔、サタンのことです。サタンも千年間縛られ底知れぬ所に入れられるので、そうした悪魔の誘惑に会うこともありません。先日、高速道路を運転していたら熊の標識を見ました。この近くですよ。こんなところに熊が出るのかなぁと思いましたが、熊が出たら大変です。襲われてしまいます。今、私たちが住んでいる世界では、いろいろなものが出てきます。そういうものが道に出てぶつかったり、つまずいたり、転んだり、するのです。中には酔っぱらって運転する人もいます。しかし、その道にはそうしたものが迷い込むことはありません。ただ贖われた者たちだけがそこを通ります。神によって救われた人は、その道で迷うことも、いのちを失うこともありません。永遠の喜びを味わい、楽しむことができます。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去るのです。これが救われた者の姿です。主イエスの血潮によって救われた人は、決して再び失われることはありません。その人たちの前には永遠の喜びだけが溢れているのです。私たちの救いはまさにこのようなものなのです。
あなたはどうですか?あなたにはこのような楽しみと喜びがありますか?あなたの心の中には、このシオンへの大路があるでしょうか?詩篇84篇5節と6節には、「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」とあります。この大路を行く人は、涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。
その大路こそイエス・キリストです。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来るとはありませんる」(ヨハネ14:6)この「道」は「the way」です。その道です。神のみもとに行くことができるたった一つの道です。それがイエス・キリストです。人生にはいろいろな道がありますが、神のもとに行くことができる道はたった一つしかありません。それがイエス・キリストなのです。その道を通って行かなければ父のもとに行くとはできません。自分の知識や経験では行けないのです。
有名な賀川豊彦という伝道者がこのように言いました。「道というのは、踏まれることによってのみ、その務めを果たす。イエスさまが「おまえたちの足がどんなに汚れていても、泥だらけの足であろうが、私を踏んで通ったら私の父のもとに行けるぞ。私は道だ。さあ、足がきれいになってからではない。そのままで踏むのだ。と天と地の間に立ってくださった姿が十字架だ。」
あなたがどんな存在であってもイエスを道として受け入れ、この方にあなたの人生のすべてをゆだねて歩んで行くなら、あなたも贖われた民としてその道を歩くことができます。そこにはあなたの道を妨げたり、行く手を遮るような物は何もありません。あなたは喜び歌いながらシオンに入り、とこしえの喜びをいただくのです。悲しみと嘆きとは逃げ去り、楽しみと喜びがついて来ます。まさにダビデが言ったように、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるのです。
どうかあなたもこの道を歩んでください。イエスが備えてくださった大路を歩みながら、やがて来る神の国の祝福に備えていただきたいと思うのです。その時が来ると、すべてが祝福に変わるからです。