きょうは、イザヤ書36章のみことばから学びたいと思います。タイトルは「敵の攻撃をうける時」です。敵というのは悪魔であり、サタンのことです。パウロは、「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみに対する世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)と言っておりますが、私たちには、日々、この悪魔との戦いがあるわけです。その悪魔が攻撃してきた時、いったい私たちはどのようにして対処していったらいいのでしょうか。
きょうの箇所は、イスラエル、これは南ユダ王国のことですが、そこにアッシリヤという国の将軍でラブ・シャケという人が攻撃してきた時、ユダの王ヒゼキヤがどのようにそれに対処したかについて記されてあります。
前にもお話したように、この36章から40章までの箇所は、このイザヤ書の前半部分と後半部分をつなぐような役割をしている箇所です。イザヤ書は全部で66章ありますが、66巻から成っている聖書が旧約聖書39巻と新約聖書27巻に分かれているように、このイザヤ書も39章までの前半部分と40章から始まる後半部分の27章に分けられています。その中でイザヤはこの36章から39章までのところにその時代に実際に起こった出来事を書き記すことによって、これまでイザヤが預言したことが必ず実現することを示そうとしたのです。
その実際に起こった出来事というのが、アッシリヤの攻撃からユダが奇跡的に救われ、守られたという出来事だったのです。いったいユダはどのようにして守られたのでしょうか。
Ⅰ.恐れない(1-12)
まず第一に、敵の巧みな策略を見ていきたいと思います。まず1節と2節をお読みします。「1 ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。2 アッシリヤの王は、ラブ・シェケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムに、ヒゼキヤ王のところへ送った。ラブ・シャケは布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。」
「ヒゼキヤ王の第十四年」というのは、歴史的には前701年のことです。アッシリヤの王セナケリブは、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取りました。具体的には、この時セナケリブが取った町々は46にのぼったことが、セナケリブが残した文献(「ティーラ・プリズム」大英博物館に貯蔵)に記されてあります。
そこでアッシリヤの王セナケリブは、ラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムに、ヒゼキヤ王のところへ送りました。降伏を迫るためです。この「ラブ・シャケ」というのはシャケの愛好家ではありません。(冗談)これは、役職の名称です。意味は「献酌官の長」です。献酌官というのは王の側近にいて、酒の毒味をし、王の杯が空いたらすかさず酒を注ぐという任務でした。それゆえ、王の信頼も厚く、高い地位にありました。いわばセナケリブ王の側近中の側近であり、彼の右腕であったわけです。ラキシュは、エルサレムから南西に50㎞くらいのところにあった町です。そこからラブ・シャケに大軍をつけて、ヒゼキヤ王のところに送ったのです。
ラブ・シャケがエルサレムにやって来て立った「布さらしの野への大路のある上の池の水道のそば」は、かつてイザヤがヒゼキヤ王のお父さんであったアハズ王に会った場所です(7:3)。アラムとエフライム(北イスラエル)の連合軍が南ユダに攻めてくるという知らせを聞いた彼は、どうしたらいいものかと悩んでいましたが、そのとき主がイザヤを通して次のように語られました。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない。」(同7:4)と。なのにアハズ王は、そのイザヤのことばに信頼しませんでした。主に信頼しないでアッシリヤに頼ったのです。アッシリヤに助けてもらってその難局を乗り越えようとしました。しかし、そんなことをしたらどうなるでしょう。昨日の友はきょうの敵ということばがあるように、今度はそのアッシリヤによって攻められることになるのです。案の定、それが現実になりました。北イスラエルとアラムを滅ぼしたアッシリヤは隣国をも呑み込み、破竹の勢いで今度は南ユダ王国に攻めてきたのです。アッシリヤの将軍ラブ・シャケは、その布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばでヒゼキヤ王に告げるのです。
ヒゼキヤはこの時どんな思いだったでしょう。自分のお父さんが神のことばに従わないで目に見える力に頼って失敗しました。そして同じ過ちを今度は自分も犯してしまったわけです。彼もまたそのアッシリヤに攻撃された時エジプトに頼りました。エジプトに頼れば何とかなる思ったからです。しかし、その安心毛布(シークレットブランケット)も十分ではありませんでした。ユダを守るには短かすぎたのです。 そこで彼が目をつけたのは金でした。アッシリヤの王にお金を渡して和平条約を結びました。しかし、その和平条約も簡単に裏切られてしまいます。アッシリヤの王セナケリブはヒゼキヤ王との間に結んだ契約を破棄し、ラブ・シャケに大軍をつけてユダに迫ったのです。この時ヒゼキヤは、自分のお父さんと同じ失敗を犯したことに気づいたと思います。お金でうまくいくと思ったのに、ちゃんと約束したにもかかわらず裏切られてしまった。自分の考えで何とかなると思ったのに、それがうまく行かず空回りしました。わかっていても、人は同じ失敗を繰り返してしまうものです。結局のところ、主に頼る以外に本当の解決はありません。私たちの前には主に信頼する以外に道はないのです。
3節をご覧ください。「そこで、ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、および、アサフの子である参議ヨアフが、彼のもとに出て行った。」 宮内長官、書記、参議とは、イスラエルを代表する人たちです。彼らは、ヒゼキヤ王の代理として今、ラブ・シャケに接見しているのです。
そうした彼らに向かってラブ・シャケはこう言いました。4節から10節までのところです。まず4節から6節までのところです。「4 ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。5 口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか。6 おまえは、あのいたんだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに拠りかかる者の手を刺し通すだけだ。エジプトの王、パロは、すべて彼に拠り頼む者たちにそうするのだ。」
「いったい、おまえたちは何に拠り頼んでいるのか。」このことが私たちにも問われています。このようなピンチの時、いったいあなたは何に拠り頼んでいるでしょうか?何に信頼していますか?だれを信頼していますか?ヒゼキヤは人間的なものに頼りました。彼が頼ったのはエジプトの軍事力でした。しかし、そのエジプトのするこというのは、それに寄りかかる者の手を刺し通すだけです。それは何の解決にもなりません。本当の解決は何がというと、主に拠り頼むことです。それでヒゼキヤは、南ユダの人たちは、「われわれは、われわれの神、主により頼む」と言いました。悔い改めるのに遅いことはありません。どんなに失敗しても、自分が失敗を示されたその時に悔い改めればいいのです。ですから、ヒゼキヤは自分の態度を悔い改めて、主にだけ拠り頼むことを、主にだけ従うことを決心しました。
ところがです。ヒゼキヤがそのように決心すると、ラブ・シャケは変なことを言って彼らを揺さぶってきました。7節です。「おまえは私に『われわれは、われわれの神、主に拠り頼む』と言う。その主とは、ヒゼキヤが高き所と祭壇を取り除いておいて、ユダとエルサレムに向かい『この祭壇の前で拝め』と言ったそういう主ではないか、と。」
ここでラブ・シャケは、おまえ達は「我々の神、主に拠り頼む」と言っているが、その主とはどの主なのか、というのです。どううことでしょうか。Ⅱ列王記18章4節を見ると、ここでラブ・シャケが言っていることがどういうことだったのかがわかります。Ⅱ列王記18章4節には、「彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。」とあります。ヒゼキヤが取り除いた高き所とか、偶像というのは、異教の神々のことであって、イスラエルの神のことではありませんでした。また、ラブ・シャケが言っていたイスラエルの高きところを取り除いてというのは、モーセの作った青銅の蛇、つまり迷信のようなものでした。ヒゼキヤはそうした異教の神々とか、迷信といったものから聖めるために、そうしたものを取り除いたのです。ラブ・シャケはそのことを利用して、「ヒゼキヤが礼拝している神とは、彼自身が高きところを取り除いた神だ」と言いがかりをつけたのです。それはラブ・シャケの完全な誤解でした。彼はそうしたことをうそぶいて、イスラエルに混乱を持ち込もうとしていたのです。 いったいなぜラブ・シャケはこんなことをしたのでしょうか。それはその背後にサタンの力が働いていたからです。神の敵である悪魔がイスラエルを憎んで滅ぼそうと彼らを混乱させようとしたのです。サタンはしていないのに、そんなことやってもいないのに、あたかもやっているかのように平気でうそぶいてきます。これがサタンの常套手段です。「あの人はあんなことを言った」「こんなとをやった」そう非難して脅してくるのです。
それだけではありません。8節と9節をご覧ください。「8 さあ、今、私の主君、アッシリヤの王と、かけをしないか。もしおまえのほうで乗り手をそろえることができれば、私はおまえに二千頭の馬を与えよう。9 おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来のひとりの総督をさえ撃退することはできないのだ。」
ここでは、イスラエルを完全にバカにしています。ラブ・シャケはユダの人々に、馬に乗ることのできる人を準備するなら馬二千頭をあげようと言いました。ユダ王国は一時多くの馬を持っていましたが、アッシリヤによって城壁のある町々を取られた今、その大半の兵力を失い、エルサレムで孤立無援の状態でした。馬をもらってもその馬に乗れる兵士がいないという有様だったのです。ヒゼキヤの率いる軍隊では、アッシリヤの王セナケリブの一番低い階級の指揮官ですら退けることができない状態でした。ヒゼキヤはエジプトの戦車と騎兵の助けに拠り頼まなければならない哀れな状態でした。そこには圧倒的な軍事力の差があったのです。ラブ・シャケはその圧倒的な軍事力の差というものを、まざまざと見せつけているのです。そんな神に信頼したって何にもならない。そんな神を拝んでも、どんなに礼拝をささげても全く効果なんてないし、むだなことだ。何の役にも立たない。そう言って責め立ててくるのです。
さらに10節を見ると、「今、私がこの国を滅ぼすために上って来たのは、主をさしおいてのことであろうか。主が私に『この国に攻め上って、これを滅ぼせ』と言われたのだ。」と言っています。何と、彼らがこうやって南ユダ王国を滅ぼすために上って来たのは、主のみこころによることだと言っているのです。本当にアッシリヤが南ユダ王国を、イスラエルを滅ぼそうとしていることが神のみこころによることなのでしょうか。違います。確かに神はこのユダ王国を懲らしめる道具としてアッシリヤを用いましたが、それはあくまでも道具としてであって、ユダを滅ぼすためではありませんでした。彼らがそのように言っているのは彼らが高ぶり、自分たちの立場を忘れ、逆にイスラエルの神を冒涜しているからなのです。確かに神はアッシリヤを通してユダに罪を示されましたが、それはユダが滅びるためではなく、そのことによって悔い改め、罪の滅びから免れるためだったのです。そのように主張するのは悪魔であって、それはまさに悪魔の巧妙な策略でした。
こうしたサタンの巧妙な策略に対して、南ユダの高官たちはどのように対処したでしょうか?11節をご覧ください。ここには「11 エルヤキムとシェブナとヨアフとは、ラブ・シャケに言った。「どうかしもべたちには、アラム語で話してください。われわれはアラム語がわかりますから。城壁の上にいる民の聞いている所では、われわれにユダのことばで話さないでください。」とあります。ラブ・シャケにユダのことばで話さないで、アラム語で話してくださいと頼みました。なぜでしょうか?それは、ユダの人々がこのラブ・シャケの語る言葉を聞いて意気消沈するのを恐れたからです。住民はこれを聞いてみな怯えてしまうのではないか。当時はアラムが世界の共通語でした。ユダの高官たちはそのアラム語を話すことができたので、そのアラム語で話してくださとお願いしたのです。
しかし、このことは逆にラブ・シャケに弱みを握られる結果となってしまいました。ラブ・シャケはヒゼキヤのしもべたちの頼みを一蹴し、もっと大きな声で、だれにでもわかるヘブライ語で叫び続けました。しもべたちの要請はむしろ自分たちの欠点をさらけ出すことになり、ラブ・シャケの気勢を高めることになってしまったのです。ラブ・シャケは逆にユダの民に「自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになる」と言って恐怖を引き起こすだけでなく、これ以上の抵抗がどれほどの悲劇的な結果をもたらすかの強い警告となってしまいました。
皆さん、敵である悪魔を甘く見てはいけませんが、過度に恐れてもなりません。敵があなたの弱みにつけこんであざけり、攻撃してきたとしても、その脅かしにおびえたることなく、主の御名によって大胆に立ち向かっていかなければならないのです。
皆さん、「恐れ」の反対語は何でしょうか。恐れの反対語は平安とか、安心ではありません。恐れの反対語は「信頼」です。たとえば、道の途中に一本橋があってそこを渡らなければならないとき、その橋が壊れるのではないかと思うと恐れが襲ってきます。しかし、その橋の内側に強力な鉄筋が打ち込まれていることを知ったら、何の恐れもなく渡ることができます。そこには決して壊れないという信頼があるからです。このように、私たちの人生において恐れに打ち勝つ秘訣は神への全き信頼です。信仰がある人は自分の力や知恵で生きようとせず、神の無限の資源と能力に頼って生きているので恐れません。何でも自分の手でやらなければならないと思うとき、私たちの中に心配と恐れが絶えません。ただ神に御手に頼って生きることによってのみ、その恐れから解放されるのです。 聖書に最も多く記されている単語は「愛しなさい」とか「謙遜になりなさい」ではなく「恐れるな」です。この単語は聖書の中に366回使われています。ある人は365回だという人もいますが、正確には366回です。ある人は、この単語が聖書に365回ではなく366回記されている理由は、それはうるう年まで計算されているためであると言います。神様は一日に一回毎日「恐れるな」と言っておられるのです。うるう年までも計算に入れて・・。恐れることは不信仰です。
あなたの人生にも、完全に敵に取り囲まれていると思うような時があるかもしれません。自分の考えでうまくいくと思ったのにそれが空回りして、にっちもさっちもいかないという時があります。しかし、たとえあなたがどのような状況にあったとしても、たとえ敵である悪魔があなたの弱みにつけ込んで襲ってくるようなことがあっとしても、あなたは恐れてはなりません。あなたは、あなたとともにおられる主を見なければならないのです。主があなたを愛しておられること、そしてあなたのために戦ってくださることを信じ、この方にすべてをゆだねしなければならないのです。それが敵に攻撃された時に、あなたがまず第一にしなければならないことなのです。
Ⅱ.信仰に堅く立って(13-17)
次に13節から20節までを見ていきたいと思います。まず13節から15節をお読みします。
「13 こうして、ラブ・シャケはつっ立って、ユダのことばで大声に呼ばわって、言った。「大王、アッシリャの王のことばを聞け。14 王はこう言われる。ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを救い出すことはできない。15 ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。」
ラブ・シャケはエルサレムのすべての民に聞こえるように、大声でアッシリヤの王のメッセージを伝えます。ヘブライ語で・・。彼がまず言ったことは、ヒゼキヤにごまかせるなということでした。ヒゼキヤはあなたがたを救い出すことはできない。ヒゼキヤは、主が必ず自分たちを救い出してくれると言ってあなたがたを主に信頼させようとしているけれども、そんなことは絶対にないと断言しています。つまり彼は民を煽動して、ヒゼキヤに背を向けさせようとしているのです。ヒゼキヤの反アッシリヤ政策に懐疑的だった一部のエルサレムの住民たちは、このラブ・シャケのことばに少なからず動揺した人もいたことでしょう。
それだけではありません。16節と17節を見ると、ここでラブ・シャケは彼らに甘いことばをかけて、巧みに誘惑していることがわかります。もしイスラエルの主に信頼するのをやめるなら、そしてアッシリヤの王と和を結び、降参するなら、あなたがたは自分のぶどうと、自分のいちじくを食べることができる。また、自分の井戸から水を飲むことができる。その後であなたがたをあなたがたと同じような国に連れて行くが、そこは穀物とぶどう畑の地で、パンとぶどう酒を食べることができる・・。どうですか。食べ物に弱いのは私だけでないでしょう。ペコペコにお腹がすいているときに、カラカラにのどが渇いているときに、自分のぶどうを食べることができるとか、自分の井戸から飲むことができると言われたら、そうしようかなと思うのが普通です。これは、彼らにとって本当に大きな誘惑でした。
かつてイエス様が四十日四十夜断食した後で荒野に導かれた時、サタンは同じアプローチをとってイエスを誘惑しました。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」(マタイ4:3)これはどういうことでしょうか。これは、イエスよ、おまえが本当に神の子であるなら、その証拠を見せなさい、というものです。そんな必要などありません。イエスが神の子であるのは事実であって、そのようにして父なる神を疑うようなことは、父との信頼関係を揺るがすことであり、罪を犯すことになるからです。そのことを十分承知の上で悪魔はイエスを誘惑しましたが、さすがにイエス様はそんな悪魔の策略を見抜き、こう言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と書いてある」と(同4:4)。」お腹が空いているときにこのようなことを言われると、ついついその誘惑にのってしまいそうになりますが、それがサタンの常套手段です。サタンはいつも甘いことばをかけて誘惑してきますが、それはすべて偽りにすぎません。
この時もラブ・シャケはユダの民に向かい、甘いことばで誘惑しました。それはまさにユダの民にとって大きな誘惑であったに違いありません。こんなに苦しんでイスラエルの神に信頼するなんてバカみたい。かなりリスクが伴うことだ。自分の糞を食べ、自分の尿を飲まなければならないというみじめな生活をしなければならないなんてまっぴらごめんだ。そんな恐れや不安を抱きながら絶望的に生きるよりも、さっさと降参して彼らの言うことに従うべきだ、と思う人たちも少なからずいたことでしょう。それは私たちをたぶらかせようとするサタンの常套手段なのです。私たちは困難な時であればあるほど、信仰に堅く立たなければならないのです。
Ⅲ.ただ黙って、主を待ち望む(18-22)
最後に18節から22節までを見て終わりたいと思います。18節から20節までをご覧ください。
「18 おまえたちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出してくださると言っているのに、そそのかされないようにせよ。国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。19 ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。20 これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか。」
ラブ・シャケは、ヒゼキヤのことばにそそのかされないようにと、続けてユダの民に叫びます。どの神々もアッシリヤの王の手から救い出すことなどできない。それはユダの神も然りである。ヒゼキヤが信じる神も、エルサレムをアッシリヤの王の手から救い出すことなどできないというのです。当時、アッシリヤの征服を妨げることができた民族など一つもなかったため、ラブ・シャケが言っていることは現実的に妥当なものであるかのように感じられました。そうした彼の働きかけに対して、ユダの民はどのように応じたでしょうか。21節と22節をご覧ください。
「21 しかし人々は黙っており、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。22 ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、アサフの子である参議ヨアフは、自分たちの衣を裂いてヒゼキヤのもとに行き、ラブ・シャケのことばを告げた。」
ラブ・シャケのことばに対して、ユダの民は黙っていました。沈黙を通したのです。なぜでしょうか?「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからです。これはとても賢いことです。私たちはよく沈黙すべき時に沈黙することができずに失敗したり、不利益を被ることがあります。悪魔の攻撃に対していちいち耳を傾けて議論する必要はありません。そのような時に一番いい方法は沈黙することなのです。黙って一言も答えないで、全く相手にしないことです。相手にするから問題なのです。
たとえば、最初の人アダムとエバはどのようにして罪を犯してしまったのでしょうか?悪魔はとても賢いので、どうしたら彼らが罪を犯すのかを知っていました。それはエバを誘惑すねことです。「あなたがこれを食べるその時、あなたの目が開け、神のようになるということを、神は知っているのです」と言ってアダムを誘惑しても、アダムがその話しにのることはないことを知っていました。なぜなら、アダムの関心は肉的なことであって、どうしたら金持ちになれるかとか、 どうしたら有名になれるかといったことでした。彼の関心は目が開かれて神のようになれるかどうかということよりも、どうしたらエバに気に入られるかということだったのです。しかし、エバは違います。彼女は霊的なことにとても興味がありました。ですから、「あなたの目が開け、神のようになり・・」ということを聞いたら、その話にのっていく傾向があったのです。ですからサタンはアダムではなくエバに、そしてエバを通してアダムを誘惑しようとしたのです。 エバはどうしたでしょうか。彼女は「あなたの目が開け、神のようになり・・」と言われたとき、その話に乗ってしまいました。彼女がしなければならなかったのは黙ることです。全く相手にしないことでした。サタンがどんなことを言って来ても彼女が何を言わなかったら、サタンは「こりゃ話しても無駄だ」と思って離れて行ったことでしょう。なのに彼女はその話しに答えてしまいました。その結果、彼女は禁じられていた木の実を食べ、それを夫にも与えたので、夫も食べたのです。サタンのことばに応答したことが、失敗の原因だったのです。
現実の生活の中では、このように一言もしゃべらないということは難しいことかもしれませんが、そのような時にはう言えば良かったはずです。「そのことについては私の夫に聞いてください。私はあまりよく知りませんので。」「あっ、そのことですか。そのことについてはアダムのところへ行ってください。彼はそのことについてよく知っていますよ。」「すみません。私はよく内容がわからないので、わかる方にお話してください。私がそのことで話すことは何もありません」そうすれば、それですべては終わったはずです。あるいは、イエスのように、「・・と書いてある」とみことばによって応答すれば良かったのです。しかし、そうではなかった。それが彼らが罪に陥ってしまった最大の要因です。
敵の攻撃を受けるとき、それに対処する一番いい方法はただ沈黙することです。一言も答える必要はありませんし、答えてはならないのです。ただ沈黙するだけでいいのです。沈黙は相手と同じレベルで立ち向かうのではなく、神に目を向け、その方に頼る機会を与えることです。
ダビデは、サウル王に憎まれ、命を狙われ、ユダの荒野を10年間もさまよいました。その荒野の試練の中で彼はどこに希望と救いを置いたのでしょうか。彼はこのように告白しました。
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」(詩篇62編1-2,8節)
彼が希望を置いたのは主ご自身でした。主こそわが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して、ゆるがされない、と言ったのです。そして、彼はただ黙って、主を待ち望んだのです。神の御前に心を注ぎだして祈ったのです。
皆さん、私たちは待つことがあまり得意じゃないというか、好きではありません。「今すぐ欲しい!」のです。そういう社会に生きています。すぐに解決を見たいのです。しかし、時には待たなければならないこともあります。ただ黙って待ち望まなければならないことがあるのです。沈黙すべきときに沈黙することができなくて、私たちはどれほど失敗してきたことでしょう。沈黙すべき時と立ち向かうべき時を見分けなければなりません。
戦いが激しく、敵が目の前に立っていて、自分が今にも倒れそうだと思うとき、私たちがすべきことはただ黙って主を待ち望むことです。ただ主に信頼すればいいのです。自分が最も無力で弱く絶望的な存在であるということを悟り、子どものように御前に出ればいい。いつでも神が私たち見ておられるということ、そして、私たちを救い、守る準備をしておられるということを信じてください。それが敵の攻撃を受ける時の最善の対処法でなのです。