きょうはイザヤ書37章のみことばから、「困難に直面する時」というタイトルでお話したいと思います。私たちの人生には大なり小なり、いろいろな問題が襲ってくるものです。そうした問題に対して、どのように対処していったらいいのでしょうか。 きょうのところには、南ユダに迫っていた危機的な状況に対して、ヒゼキヤ王がどのように対処していったのかが記されてあります。この時ヒゼキヤは、国家的レベルの最大な危機に直面していました。アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻め落としてこれを取り、エルサレムのヒゼキヤのもとに迫っていたのです。セナケリブから遣わされたラブ・シャケはあれやこれやと言って揺さぶりをかけ、ヒゼキヤ王に降伏を呼びかけました。いったい自分たちはどうすべきなのか、周りの国々のように、自分たちもアッシリヤによって滅ぼされてしまうのかといった絶望的な状況の中で、ヒゼキヤはどのように対処したでしょうか。
Ⅰ.主の宮に入ったヒゼキヤ(1)
まず1節をご覧ください。ここには「ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入った。」とあります。
ラブ・シャケの不遜なことばを聞いたヒゼキヤは、どうしたでしょうか。彼は、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入りました。荒布とは、喪に服する時に着たものです。それは悲しみと悔い改めを表すもので、自分は全く価値のないものですという、自己謙虚さを表すものでした。祭司たちが本気になって祈るとき、特に断食して祈る時に着たのがこの荒布でした。ヒゼキヤは王様であるにもかかわらずその王位も衣も脱いで、荒布を身にまとい、神殿に入りました。もうそこまで敵が迫っているのです。そんなことをしていたら敵に占領されてしまうかもしれません。それでもヒゼキヤは一切神の御前に兜(かぶと)を脱ぎ、神に対する信頼をもって主の御前に出て行きました。たとえ敵が自分たちの上を乗り越えていこうとも、たとえ自分たちがどうなろうとも、とことん祈り抜く覚悟だったのです。祈りというのは時間や断食も大切ですが、何よりもどのような心で神に向かうかです。神様はその心を見られます。ヒゼキヤは主の御前に、心を注いで祈りました。主はそのような祈りを蔑(ないがしろ)ろにされる型ではありません。あなたが主の御前に必死になって涙して祈る時、主はその涙の意味を知り、必ずや偉大なみわざを起こしてくださいます。
イスラエルが士師(さばきつかさ)の時代からサウル王によって始まる王制の時代をつないだ人物はサムエルですが、彼は、母親ハンナの涙の祈りのうちに生まれた神の器でした。 ハンナの状況は複雑でした。一つ屋根の下、一人の夫に二人の妻がいました。しかも、ハンナは不妊であったのに対して、もう一人のペニンナは子だからに恵まれているのをいいことに、意地の悪いことをハンナにしてくるのでした。ハンナの女性としてのプライドはズタズタに引き裂かれ、傷だらけでした。 逃げ場のない袋小路のようなところで生きる苦しみの中で、彼女は祈りました。彼女は主に祈って、激しく泣きました。彼女は心のうちで祈っていたので、くちびるは動いていましたが、その声は聞こえませんでした。それで祭司エリは彼女が酔っているのではないかと思いました。 「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」 「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んでおりません。私は主の前に、私の心を注いでいたのです。」「私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」 すると祭司エリを通して主のことばを受けます。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」 このようにしてあの偉大なサムエルが誕生するのです。苦しみは涙の祈りを生みます。そして芯の強い、不退転の決意を秘めた祈りは、やがて必ずや偉大な神のみわざを呼び起こすのです。
皆さんはどうでしょうか。ヒゼキヤのように危機的な状況に直面する時、主の宮に行って、主に向かって祈っているでしょうか。自分の衣を裂き、荒布を身にまとっているでしょうか。このような状況になっても私たちはいろいろな言い訳をして、主の宮に入ろうとしません。教会に行こうとしないのです。それもまたサタンの巧妙な策略であります。サタンは私たちが主の宮、教会に行かせないように、あの手、この手を使って攻撃してくるのです。教会に行かれると、主の宮に入られると、すべての企みがだめになってしまうことを知っているからです。だから何としても行ってほしくないわけです。「きょうは体調が悪いから行けない。休みにしよう」「行こうと思ったけど急にお客さんが来て行けなくなった」「こどもが風邪っぽいからやめよう」と、いろいろな理由で行かせないようにするのです。しかし、本当の解決はどこにあるのでしょうか。本当の解決は、あなたが自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入り、主の前で心を注いで祈ることから始まるのです。
ユダヤ人の歴史において、このイザヤの時代は本当に悲惨でした。他国の脅威にさらされ、国内の治安や道徳は乱れ、信仰は忘れられ、退廃と自暴自棄の嵐の中で、崩壊寸前でした。しかしそれは今の時代も同じです。今の時代もめいめいが自分勝手に生き、信仰は忘れられ、いつ主が再臨されてもおかしくないような状況です。しかし、だからこそ主を仰げと言うのです。すべてに絶望している今こそ、主にのみ期待して、主を待ち望むようにと。私たちは、いつでもどこからでも祝福を受けることができます。その鍵は、どこにへたり込んでいようとも、自在に引き上げることがおできになる方に向かって、祈り求めるか否かにかかっているのです。
Ⅱ.祈りをささげてください(2-4)
次に2節から4節までをご覧ください。2節をお読みします。「2彼は宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。」
ここでヒゼキヤ王は、宮内長官エルヤキムと、書記シェブナ、年長の祭司たちに荒布をまとわせて、イザヤのところに遣わしました。これはどういうことかというと、彼は自分がお祈りするだけでなく、自分のカウンセラーとしていつも指導を仰いでいたイザヤに、祈りの応援を求めたということです。
彼はイザヤにこう言いました。3節と4節です。「きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。4 おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。」
すごい表現ですね。子どもが生まれようとするのに、それを生み出す力がないというのです。陣痛の苦しみは、産んだ人でないと分からないと思いますが、一番痛いのは、一番苦しいのは、赤ちゃんが生まれる直前だと言われます。その時が、痛みが最高潮に達する時です。それで子どもが産まれてくればいいのですが、産まれようとしているのに出て来ないのです。すなわち、最高潮に達した痛みがずっと続いているままなのです。生み出す力がありません。本当にすごい表現です。もう恥も外聞もありません。
祈りというのは内容も大切ですが、その態度が重要です。「子どもが生まれようとしているのに生み出す力がない」と、彼は自分を本当にさらけ出して祈りました。私たちはこのように自分をなかなさらけ出すことが苦手です。どちらかというと、人の前ではある程度理性的に、社会性をもった人間であるかのようにふるまいたいので、自分の感情を抑制する傾向にあるのです。ですから神の前に出る時でさえ、ありきたりの、形式的な祈りで終わってしまうことが多いのですが、時にはこのように自分をさらけ出すことも必要なのです。
以前、韓国のオンヌリ教会に行った時、その教会の祈祷会に出席したことがあります。あまりにも人が多いので、その祈祷会は大学の体育館のような所で行われていました。約五千人くらいの人たちが集まっていましたが、それがなかなか終わらないのです。結局5時間くらい続きましたが、なかなか終わらないなどと思っていたのは私くらいかもしれません。みんな必死になって祈っていました。ある人は激しく泣きながら講壇にまで詰め寄ると、小さなこどもが両手を広げて父親のもとに行くように、「主よ、主よ。」と叫びながら出て行きました。隣にだれがいるかなんて関係ありません。だれがいようとも、ただ神の前にぐじゃぐじゃになりながら祈っていました。子どもが産まれようとするのに、それを生み出す力がない、自分は全く無力な者であるということを、正直に、ありのままに告白して祈っていました。
ヒゼキヤも同じです。自分は今、子どもが産まれようとしているのに、それを生み出す力がないと言いました。そうです、ヒゼキヤは自分が全く無力な者であることを正直に認めたのです。そして、そのように自分の無力さを悟ることのできる人は、次のように言うことができるのです。4節の最後のところを見てください。ここで彼はこう言っています。「あなたはまだいる残りの者のために、祈りをささげてください。」
苦難に会う時、もちろん自分で祈ることは大切なことですが、同時に、祈りの友に祈ってもらうことも大切です。「私はこんなことですから、どうか祈ってください。」と頼むのです。今は電話やコンピューターがありますから、ヒゼキヤの時のようにイザヤのもとに使いを送る必要はありません。ピッ、ポッ、パッで相手に通じます。「どうか私のために祈ってください」とお願いすればいいのです。 「いいよ、これはおれひとりで祈るから・・・」。これはあまりいいことではありません。心を許せる人、あるいは牧師にでもいいですから、何も恥ずかしいことはないのですから、「このために祈ってください」と、連絡してほしいと思います。実は、生きた信仰というのはこれなのです。神が祈りに答えてくださったという体験をした人は、生きる神との関係の中に生きることができます。これがキリスト教信仰なのです。今日の教会の弱いところは、そこにあるのではないでしょうか。祈れません。祈りません。お互いの生涯においても同じだと思います。それはまだ自分の中に力が残っていると思っているからなのです。残っていなかったらそんなふうには言えません。「自分には産み出す力がない。もうお手上げです。どうしようもないんです。」と言うでしょう。そのように認めた人だけが「祈ってください」とお願いすることができるのであって、そのような人こそ真に謙遜な人なのです。
パウロはいわば人間的に見たら力のある人でした。彼は知的にも、霊的にも、賜物においても、教養においても、あるいは、神が与えてくださった使徒としての権威、神の特別な召命などにおいては本当に優れた人で、そのようなものの力によって福音を広め、前進させることができるとしたら、まさにパウロその人だったでしょう。そのパウロが実に人の心を動かすようなやり方で、すべての聖徒たちに力を貸してくれるように求め、切望し、嘆願しました。彼はローマにいる兄弟たちに対して、このように手紙を書き送りました。
「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(ローマ15:30)
彼は、私のために、私とともに祈ってください、と言いました。彼がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムの教会に対する愛の奉仕を全うすることができるように、また、その結果として、彼が喜びのうちにローマに行き、彼らと会うことができるように祈ってほしいと願ったのです。この「私とともに祈ってください」というのは、「わたしとともに戦ってください」という意味ですが、パウロは祈りこそ戦いであると認識していました。そして、この祈りによってこそ戦いに勝利し、彼に与えられた使命を全うすることができると考えていたのです。だからパウロは、「私のために祈ってください」と言うことができたのです。しかし、これはなかなか言えることではありません。自分の弱さをさらけ出すようでできないのです。けれども彼はこのように言うことが彼の威厳を傷つけ、影響力をそこない、その敬虔さを低下させてしまうなどとは全く考えていませんでした。もしそうだとしたら、どうだというのでしょう。そんな威厳など消え失せてしまえ、そんな影響力などなくなってしまえと言ったでしょう。彼のように使徒の中でも特別に召された人であっても、人々の祈りによって支えられていなければ、彼のすべての能力は不十分だったのです。ですから彼はあらゆる人々に手紙を書き送って、彼のために祈ってくれるように頼んだのです。
ですから、私たちも互いにこう言わなければなりません。「私のために祈ってください」私も皆さんにぜひお願いしたいです。どうか、私のために祈ってください。この教会に対する神の奉仕を全うし、神が与えてくださった使命を忠実に果たすことができるように、さまざまな試練の中にあっても、ただ神様の御力によって力強くこの働きを全うできるように祈っていただきたいのです。かつてイスラエルがレフィデムの荒野でアマレクと戦った時、アロンとフルがモーセの手を支えたように、どうか私の手が下がるとことがないように祈っていただきたいのです。また、お互いのために祈ってほしいと思います。そうすれば、その一つ一つの小さな祈りが、水滴と同じように集まって、やがて逆らうすべてのものを寄せ付けないほどの大海のようになることでしょう。私はそう信じています。
Ⅲ.あのことばを恐れるな(5-13)
最後に、そのヒゼキヤの要請に対するイザヤの応答を見て終わりたいと思います。5節から13節までをご覧ください。まず7節までをお読みします。「5ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、6イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。 7 今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」
ヒゼキヤのことばに対して、イザヤは主のことばを告げました。それは、「あなたが聞いたあのことば、わたしを冒涜したあのことばを恐れるな。」ということでした。あなたが聞いたあのことばとは、具体的には36章のところでラブ・シャケが語ったことばです。特に18節から20節のところには、彼がイスラエルの神を冒涜し、主がアッシリヤの手からエルサレムを救い出すことはできないと言ったあのことばです。それはヒゼキヤ王やユダの住人をバカにしたというよりも、彼らが信頼していたイスラエルの神、主を冒涜することであったと、神は認識していたのです。これは私たちも注意しなければなりません。誰かを非難するつもりで何気なく言ってしまった事が、実は主を冒涜しているということがあるからです。しかし、それはその人を非難する以上に主を非難したり、冒涜していることになるのです。そんなことばをおそれることはありません。主はヒゼキヤに慰めに満ちたことばをくださいました。ラブ・シャケのことばを恐れるなと語られたのです。
これはヒゼキヤにとってどれほど大きな慰めと励ましとなったかわかりません。彼にとってこの神のことばは、おそらく彼が抱えていた問題のほとんどを解決に導いてくれるものだったに違いありません。というのは、「恐れ」こそ私たちの人生を弱くするものだからです。恐れるとき、私たちは力を失います。体から力が抜けた、腰が抜けた、立ち上がれず、へなへなになると、まるで風船から空気が抜けたように、萎えてしまうのです。立つこともできません。生きていくこともできなくなってしまうかもしれません。それほどに、恐れは私たちを弱くするのです。そんなヒゼキヤに対して、神は「恐れるな」と語って励ましてくださいました。
そればかりではありません。主はヒゼキヤに具体的にどのように働かれるのかを示してくださいました。それは7節にあるように、主はラブ・シャケのうちに一つの霊を入れるということでした。彼はあるうわさを聞いて、自分の国に引き上げるようになりますが、主はその国で彼を剣で殺すというものでした。
果たせるかな、それが実際に起こります。8節から13節のところにそのことが記録されてあります。8節を見ると「ラブ・シャケは退いて」とありますね。ラブ・シャケはこれまでエルサレムを包囲していましたが、あるうわさを聞いて退くのです。そのうわさとは、9節にあるように、クシュの王ティルハカが、彼らと戦うために出て来ているというものでした。クシュとはエチオピアのことです。その王ティルハカというのはエジプト第25王朝のタルハカ王のことです。このエジプト軍がアッシリヤと戦うために出てきているということでした。この 時アッシリヤは二手に分かれて戦っていましたので戦力が弱くなっていたんですね。それでクシュの王ティルハカに攻められたら負けるかもしれないと恐れたラブ・シャケは、一時退いてリブナを攻めていたアッシリヤの王セナケリブと合流したわけです。しかし、これはあくまでも噂にすぎないことでしたが、ラブ・シャケはこれを本気にして恐れ、退いたのです。主がヒゼキヤに言われた通りなりました。その後、アッシリヤの王セナケリブはリブナから人を遣わしてヒゼキヤを動揺しますが、最終的にどうなったかというと、主の奇跡的なご介入によってある晩主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き、一晩でアッシリヤの兵士185000人を打ち破られたので、アッシリヤの王セナケリブは自分の国に帰って行きましたが、そこで自分の二人の息子に殺されてしまうのです。これはⅡ列王記19章に書かれてあります。すなわち、ヒゼキヤに対して主が言われたとおりになったわけです。
主は単に「恐れるな」と語られただけでなく、実際に彼とともにいて戦ってくださいました。そして、勝利をもたらされました。だから、何も恐れることはありません。私たちが恐れなければならないのは、私たちのからだもたましいも、ともにゲヘナに投げ込むことのできる方だけです。この方を恐れなければなりません。この方があなたとともにおられるなら、あなたは何も恐れることはないのです。そのことをヒゼキヤに示したのは何かというと、イザヤを通して語られた神のことばでした。ヒゼキヤが自分の罪と弱さを認め、神の御前にひれ伏した時、彼はこの神のみことばを聞くことができたのです。そして、これが私たちを完全な解決へと導いてくれます。
あなたはこの神のみことばを聞いていらっしゃいますか?ヒゼキヤのように自分の衣を引き裂き、荒布を身にまとって、神の御前にひれ伏しているでしょうか?神のことばを預かっている人に、へりくだって、みことばを聞かせてくださと願い出ておられるでしょうか。あなたがそのようにして神の御前に出るなら、神はあなたにもみことばを語ってくださいます。そして、あなたが今置かれている悩みから解放し、危機的な状況から救い出してくださるのです。あなたがいつもこの真実な神の約束に信頼し、神の救いを経験することができるように祈ります。