イザヤ書37章14~29節 「ヒゼキヤの祈り」

きょうはイザヤ書37章のみことばから、ヒゼキヤの祈りについて学びたいと思います。エルサレムを完全に包囲したアッシリヤの王セナケリブは、ユダの王ヒゼキヤに手紙を送り、彼を脅迫します。「おまえは、エルサレムがアッシリヤの王の手に渡されないと言っているが、おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたことを、それらを絶滅させたことを聞いているはずだ。それでも、おまえは救い出されるとでも言うのか。」先には全権大使として交渉に出て来たラブ・シャケの暴言に対して、彼は預言者イザヤに人を遣わして祈ってくださいと、祈りを要請しました。それに対して語られた主のことば「あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。」(37:6)ということでした。しかし、状況は一向に変わらず、むしろもっと深刻になっていきます。問題の当初は、自分の信仰と祈りで乗り越えることができましたが、それが続くと乗り越えることが難しくなっていきます。いったいヒゼキヤはどのようにしてこの難局を乗り越えたのでしょうか。

Ⅰ.まず主の前に(14)

まず第一に、ヒゼキヤは主の前に行きました。14節をご覧ください。「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。」

ヒゼキヤは、自分を傷つけるひどい内容の文書を見たとき、主の宮に上り、それを主の前に広げました。彼はまな板の鯉のように自分を主の前にさらけ出して祈ったのです。これは信仰者の模範的な姿ではないでしょうか。私たちは自分が傷つくような文面を見た時、あるいは容赦ない言葉を浴びせられる時、いったいどうしたらいいのでしょうか?そのような時にはまず主の前にそれを持って行き、それを主の前に広げることです。すぐに弁護士のところへ行って相談するとか、消費者ローンに、カウンセラーに相談するというのではなく、まず主のところへ行き、主の前にそれを広げなければなりません。「主よ。ご覧ください。こんな文書が送りつけられてきました。こんなひどい脅迫めいたことが書かれているんですよ。どうぞご覧になってください。」と。主はすべてのことをご存じであられますが、あえてそれを神の前に広げ、神に知っていただくようにするのです。というのは、私たちは意外に人の言葉に弱いからです。ちょっとした些細な言葉でも、一晩中眠れないこともあります。舌は小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。そして、人生の車輪を焼き尽くします。言葉は小さなものですが、非常に強い力を持っています。そうした言葉で傷ついたり苦しんだりするときそれを自分で解決しようとしないで主のもとに持って行き、主に知っていただくようにすればいいのです。主は私たちの弱さに同じようできない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じようになられました。ですから、私たちの弱さを十分理解することがおできになられます。そして、それに見合った助けを与えてくださるのです。ですから、そのような時にはまず主のもとに行き、主の御前でそれを広げ、すべてを打ち明ければいいのです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)

どうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が与えられるのでしょうか?何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただくことによってです。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守っていただけます。皆さん、私たちには祈れるという特権が与えられているのです。なのに、なかなかそれを用いようとしないのはなぜでしょうか。その問題を神のみもとに持って行こうとしないのはなぜでしょうか?それは、神を信じていないからです。神よりも自分を信じているので、神よりもそれ以外のものを信頼しているので祈ろうとしないのです。「いろいろやってみてだめだったら祈ってみます」とか、「そんな祈っている暇があるなら、いろいろやってみた方がいいんじゃない?」と言うのを聞くことがありますが、逆です。いろいろやってみる前に、まず神のところに行き、その思いを知っていただかなければなりません。そうすれば、あなたは問題から解放され、人のすべての考えにまさる神の平安を得ることができるのです。ひとたびヒゼキヤのように主の前に自分をさらけ出し、「主よ。これを見てください。」と祈るなら、主はあなたにご自身がどんなに偉大な方であられるかをはっきりと見せてくださり、立ち上がる勇気と力を与えてくださいます。それまではアッシリヤの王の前の言葉に立ち上がることができず、顔を伏せ、布団の中にじっと閉じこもったままであったかもしれませんが、ひとたび主の御前に心を注ぎだして祈るなら、すべてが変わり始まるのです。その祈りがあなたを変え、あなたの状況も変えるのです。

Ⅱ.ヒゼキヤの祈り(15-20)

では、ヒゼキヤはどのように祈ったでしょうか?15節から20節までをご覧ください。ここにはヒゼキヤのすばらしい祈りが記録されています。彼は自分の思いを神に打ち明けると、口を開いてこう祈り始めました。16節です。

「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」

ヒゼキヤはまず祈りの中で神を神として認め、その神をほめたたえました。「ケルビム」とは天使たちの最高位にある天使のことです。エデンの園で、いのちの木を守るために火の剣を持っていた天使(創世記3:24)であり、また契約の箱の贖いのふたの上でそれを守っていた天使(出エジプト25:20)です。そのケルビムの上に座しておられるイスラエルの神というのは、イスラエルの神、主がそうした天使たちとは比較にならないほど偉大な方であるこという意味です。ヒゼキヤはそのように告白したのです。ご存じのように、アッシリヤの王はイスラエルの神を他の偶像の神々と同じレベルにまで引き下げましたが、イスラエルの神はそうではありません。イスラエルの神はすべての神々に優る神であって、この天地万物、全宇宙を造られた創造主なる神なのです。すなわち、ヒゼキヤはその祈りにおいて、まず神を神として認めたのです。神を神として認め、その神をほめたたえたました。これが祈りにおいて私たちが真っ先に行うことです。特にあなたが窮地に置かれた時、ピンチに陥った時、まず主を認め、主を賛美してほしい思います。

これはイエス様が弟子たちに教えられた「主の祈り」にも共通していることです。主は祈ることを教えてくださいという弟子たちの願いに、次のように言われました。「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。・・』」(マタイ6:9)

「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」これがイエス様が教えられた祈りです。まず主の偉大さに目を留め、その偉大さをほめたたえなければなりません。なぜなら、このように真っ先に神の偉大さに目を留め、その偉大さをほめたたえることによって、いつの間にか自分の抱えていた問題がいかにちっぽけなものであったかに気づかされるからです。それまではこんなに大きな問題はないと思っていたのに、偉大な神をほめたたえているうちにその問題がいかにも小さく、いかにもちっぽけなものであるかがわかってくるのです。あんなに悩んでいた問題が、実は問題でもなかったということに気づかされるのです。私たちの神はケルビムのはるか上に座しておられる方で、この方だけが天地を造られた創造主の神であることがわかるとき、そして、この方はひとり子イエス・キリストを与えるほどに私を愛してくださった方であることがわかるとき、絶対に私を見捨てるようなことはなさらないし、私のために最善のことをしてくださるという確信が生まれてくるのです。そうであれば、もう悩む必要はありません。何の心配もいりません。恐れてはなりません。すべてをこの神にゆだねればいいのです。それができるのは、神の偉大に目が留められ、そのことに気づかされる時なのです。

神は天地を造られた全能者だということを、あなたは信じているでしょうか?神は何でも知っておられ、何でもおできになられる方であることを信じていらっしゃるでしょうか?そう信じているなら、あなたが本気でそのことを信じているなら、決して悩むことはいりません。この請求書どうしようとか、この支払いはどうしよう・・・。でもあなたが本気で神は世界一の大富豪であると信じているなら、もう悩む必要はないのです。神が何とかしてくださるからです。神様はあなたの天の父です。そのパパに頼めばいいのです。パパが何とかしてくださいます。もう私は絶望です。この病気はだれにも治せない。本当でしょうか?違います。この天地を造られた創造主なる神は、全能者なる神は、あなたの病をも癒すことがおできになられます。あなたの救い主であられる神が、文字通り神の手を持って癒してくださいます。スーパードクターと呼ばれている人でさえ治せない病気さえも、神は完全に癒すことがおできになられるのです。(高崎の金井先生が癒されました!)

「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」(出エジプト15:26)

もちろん、病院に行って適切な治療を受けることも大切です。神はそのような方法によってもお癒しなさるからです。ですから、この神を信じる人には「絶望」の2文字はありません。「あなたに信頼します。あなたにすべてをゆだねます。癒すのはあなたです」と祈るなら、主はあなたをいやしてくださいます。お金が解決するのではありません。薬が解決するのでもありません。医療や技術が解決するのでもないのです。解決してくださるのは神です。この神を信じるなら、信じて祈るなら、もう悩む必要はありません。現状がどうであれ、たとえ貧乏のどん底にあっても、たとえ余命何ヶ月という宣告を受けたとしても、天地を造られた主があなたのために最善のことをしてくださるからです。

次に17節をご覧ください。ここには、「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。」とあります。

ここでヒゼキヤは、主に耳を傾けて聞いてください。目を開いて見てください、と言っています。神が全知全能であられるのなら、何でも知っておられるのなら、なぜこのように祈るのでしょうか?それは、主は私たちと向き合って、私たちの心の叫びを直接聞きたいからなのです。主はあなたからどんなことでも聞きたいのです。あなたの叫びに耳を傾け、あなたが悩んでいること、困っていること、苦しんでいることを聞いて、あなたに答えてあげたいのです。あなたからもっと頼りにされたいと願っておられるのです。

以前テレビで中高生になった自分の娘の携帯に、ひっきりなしにメールを送りつけてくる父親の存在を報じていました。中高生の娘にとっては父親からのメール、しかも絵文字とかついているメールがくるとウザイと感じるらしいのですが、それなのに父親がメールを送りつけてくるのはどうしてなのかを聞いてみたところ、娘と会話がしたい、もっと娘と交わりたいと思っているからです。父親にとってはいつまでも小さな娘のままなのです。その娘が小さな時にはいつでも「パパ」と言ってきたのが、少しづつ大きくなり、思春期の頃になると全く自分から離れていき、会話もなくなってしまう現実にどことなく寂しさを感じているらしいです。父親は、娘のことを知っているのです。なのにあえてメールまでして、嫌われるのを承知のうえでそうやってメールを送りつけてくるのはなぜか?それは娘との交わりを求めているからなのです。

同じように神は、あなたと交わりたいのです。あなたが神に語りかけ、神に頼り、神と共に歩むことを願っておられるのです。だからあなたがもっと神に祈るように、神に叫ぶようにされるわけです。私たちは問題を自分の中に閉まっておくようなことをしないで、ヒゼキヤのように神に聞いていただくように、神に見ていただくように、「主よ。御耳を傾けてください。主よ。御目を開いてご覧ください。」と祈らなければなりません。

18節と19節をご覧ください。ヒゼキヤは続いて次のように祈りました。「主よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。19 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。」

どういうことでしょうか?ヒゼキヤは偶像の神々の現実を述べています。アッシリヤの王たちは、すべての国々と、その国土を廃墟にしたのは事実です。なぜなら、それらはみな神ではなく、人の手による細工にすぎないからです。たとえそれがどんなに荘厳なものであっても、国宝とか重要文化財に指定されるようなものであっても、そんなものは人の手によって造られたものであって、木や石にすぎないものです。だから簡単にアッシリヤの王たちでも焼き尽くすことができたのです。だが、イスラエルの神、万軍の主は違います。この方は木や石で造られた偶像の神々などとは訳が違うのです。この方は天地を造られた「生ける神」です。これが20節に見られるヒゼキヤの祈りにつながるわけです。

「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」(20)

これが祈りの究極的な目的です。ここには「あなただけが主であることを知りましょう」とあります。つまり、ヒゼキヤは神の御名があがめられることを求めていたのです。これが私たちが祈るその祈りの目的です。ヒゼキヤが受けていた圧迫は、自分たちの神が他の神々と同列に扱われていることでした。そのようにして神の栄光が隠されていたのです。だから彼は、すべての国々があなたこそ主であることを知ることができるように、と祈ったのです。もちろん、アッシリヤから救われたかったでしょう。その問題から何とか解放されたいというのは当然のことです。しかし、それよりも何よりも、彼はこのアッシリヤからの救出劇によって、主に栄光が帰されることを願ったのです。イスラエルの神こそ真の神であるということを、内外に知らしめることができるようにと祈ったのです。

皆さん、私たちの重荷は何でしょうか?主の栄光が隠されていることです。多くの人がイエスを信じていないことは、主の栄光が隠されていることなのです。まだ主にすべてを明け渡すことができず、何か他のものを握りしめているものがあるとしたら、それも主の栄光が隠されていることになります。私たちはもっと神の栄光が現されるように祈らなければなりません。

しかし、ほとんどの場合、私たち日本人の祈りは願掛けです。祈りという言葉を聞くと、大抵の場合は困った時の神頼みです。それでも祈らないよりはましかもしれませんが、本当の祈りとは神とのコミュニケーションであって、一方通行ではないのです。その中で私たちが祈る究極的な目的は、すべての栄光を主に帰することなのです。

この時ヒゼキヤがアッシリヤの脅威から逃れるためには、神にしかできない方法をもって救出されることが必要でした。これがもしヒゼキヤの力によって打ち勝つことができるとしたら、それはヒゼキヤの力によってということになってしまい、神に栄光を帰することにはなりません。その中でヒゼキヤが求めたのはどういうことかというと、ただあなたの方法によって救ってくださいということでした。あなたにしかできない方法によってアッシリヤの手から救い出してくださいということだったのです。たとえ自分たちがアッシリヤに包囲され、そのまま苦しみ続けることになったとしても、それでもあなたに栄光が帰せられるのであればそのようにしてください。そう祈りました。彼はただ助けてください、この窮地から救ってください、この問題から解放してください、この病気を癒してくださと祈ったのではなく、ただ神に栄光が帰せられるようにと祈りました。たとえ問題が解決しなくても、たとえこの病気が治らないでこのまま死ぬようなことになったとしても、それでも神に栄光が帰せられるようにと祈ったのです。

ここでマタイの福音書26章を開いてください。ここにはイエス様のゲッセマネの園での祈りが記されてあります。十字架を前に悲しみもだえられたイエスは、弟子のペテロとヨハネ、ヤコブに、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」(26:38)と言われると、イエスは少し進んで行かれ、ひれ伏して祈って言われました。その時に祈られた祈りがこれです。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(同39)

これこそ祈りの真髄です。「できますならば・・・」「しかし、私の願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」ヒゼキヤの祈りも同じです。「私たちの神、主よ。私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、すべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」私の願いではなく、あなたのみこころが成されますように。あなたの栄光があがめられるようにしてください、と祈ったのです。

Ⅲ.ヒゼキヤの祈りの答え(21-29)

このようにヒゼキヤが祈った結果、どうなったでしょうか?最後に21節から29節までを見て終わりたいと思います。まず21節をご覧ください。「アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人をやって言わせた。「イスラエルの神、主は、こう仰せられます。あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。」

主はヒゼキヤが祈ったことに対して、「わたしは聞いた」と言われました。これは大きな慰めではないでしょうか。主は、私たちが祈る時、それを聞いてくださいます。それだけではありません。主はアッシリヤの王セナケリブについて、次のように語られました。22節から29節までにある内容です。22節、「処女であるシオンの娘はあなたをさげすみ、あなたをあざける。エルサレムの娘は、あなたのうしろで、頭を振る。」

「あなた」とはアッシリヤ(アッシリヤの王セナケリブ)のことです。処女であるシオンの娘は、アッシリヤをさげすみ、あざけるようになります。エルサレムの娘は、アッシリヤの後ろで、頭を振ります。これは、アッシリヤがエルサレムや他の国々対して取った態度です。それがそっくりアッシリヤに返って来るということです。マタイの福音書7章2節に、「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」ということばがありますが、まさにそのことです。アッシリヤはシオン、エルサレムに対してさげすみ、あざけり、頭を振りましたが、それと同じように、今度は自分たちもされるのです。

「あなたはだれをそしり、ののしったか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。」(23)

このところの「あなた」もアッシリヤ(アッシリヤの王セナケリブ)のことです。アッシリヤはまさか自分たちが神に対して高ぶったという意識は持っていなかったでしょう。彼はあくまでもヒゼキヤに対して語っていると思っていました。しかし、事実は違います。それはヒゼキヤに対してではなく、ヒゼキヤの信じていた神に対する高ぶりだったのです。たとえノンクリスチャンであっても神のことを聞いているのです。なのにその神を神としてあがめていないとしたら、その神を冒涜することがあるとしたら、それは神に対する反逆であり、高ぶり以外の何ものでもありません。注意しなければなりません。

24節から26節までをご覧ください。「あなたはしもべたちを使って、主をそしって言った。『多くの戦車を率いて、私は山々の頂に、レバノンの奥深く上って行った。そのそびえる杉の木と、美しいもみの木を切り倒し、私はその果ての高地、木の茂った園にまで入って行った。25 私は井戸を掘って水を飲み、足の裏でエジプトのすべての川を干上がらせた』と。26 あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしたことを。それであなたは城壁のある町々を荒らして廃墟の石くれの山としたのだ。」

26節のことばは非常に重要なことばです。アッシリヤは自分たちの業績を誇らしげに語りましたが、彼らがそのことを成し遂げたのは、すべて神の摂理の中で、神が計画され、神が成し遂げられたことであるということです。しかもそれは大昔から神が計画しておられたことなのです。彼らはただ神の道具として用いられたにすぎません。すべては神の御手の中にあることなのです。

皆さん、この神の主権を知ることはとても大事なことです。すべてのことは主が計画され、主がしておられることだということを受け入れるとき、私たちは安心することができます。たとえ悪いこと、辛いこと、苦しいこと、不都合なこと、理不尽なことがあったとしても、そこにも神の御手が働いておられることを知るなら、その状況さえも受け入れることができるようになるのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」(ローマ8:28)

私は今年の1月からまた聖書の通読を楽しんでいますが、聖書を読みながら心に残ったことばがあります。それは出エジプト記6章1節の「今にあなたにわかる」ということばです。私は通読の時は現代訳を使っていますが、現代訳ではここを「今にわかる時が来る。」と訳しています。今はわからないかもしれない。神がパロにしようとしていることを。いくら神のことばを伝えても、彼はかたくなになって聞こうしません。それはわたしが彼の心をかたくなにしているからであって、そのことによって神の大いなる御業がなされ、主こそ神であるということをすべての人が知るようになるためなのです。今はわからないかもしれません。しかし、後にわかるようになる、と言われたのです。そして、私たちはその結末を読んで知っているように、そのことばのとおりに主はエジプト中の初子という初子をすべて殺すことによって、イスラエルがエジプトから出て行くようになるわけです。その時点ではわかりませんが、今にわかるようになるのです。とすれば、私たちはむしろ目の前の状況を楽しむことさえできます。神様はどのようなことをしてくださるのかと思うと、ワクワクした気持ちになります。そして、すべてのことを主にゆだねることができるのです。

27節から29節をご覧ください。特に28節をお読みします。「あなたがすわるのも、出て行くのも、入るのも、わたしは知っている。あなたがわたしに向かっていきりたつのも。」

これもすばらしいみことばです。主はアッシリヤの王セナケリブの一挙手一投足まですべてご存知です。彼が立つのもすわるのも、彼が出るのも入るのも、彼がいきりたつのもすべてご存じなのです。ごまかしはききません。今何を考えているのか、神様はすべてをご存じなのです。「そんなこと信じられるか。」「そんな絵空事、起こるはずがない」そう思われた方がここに二人おられます。どんなに神に対して反抗しても、どんなに心の中でつぶやいても、神はすべてのことをご存じなのです。その上で神は今ここに私を招いてくださった。その上であなたを導いてくださったのです。そこには神の意図があり、計画があるのです。神の主権が及ばない領域は一つもありません。神はすべてのことを計画しておられ、そこに関わっておられます。だから私たちはそこに深い安堵感を置くことができるのです。何もやきもきする必要はありません。いきり立つ必要もありません。恐れることもいりません。むしろ安心して主にお任せすればいいのです。

これがヒゼキヤの祈りに対する主の答えでした。何かで悩み、苦しんでいるとき、そこにも神の御手が働いているということを知るとき、それほど大きな安心はありません。ヒゼキヤは祈りの中で、このことを確信することができました。高慢なアッシリヤを滅ぼしてくださるという約束を受けたのです。私たちの生涯にもヒゼキヤが受けたような脅かしを受けることがあるかもしれません。けれども、主を冒涜するあのことばを恐れてはなりません。むしろヒゼキヤのようにそれを主の前に広げ、主に向かって祈らなければなりません。そうすれば、主がその祈りを聞いてくださいます。そして、主がご自身の御手の中で、すべてを益に変えてくださるのです。だから祈りましょう。あなたの悲痛を祈りに変えてください。そのとき驚くべき神のみわざがなされ、その悲痛をも神の祝福へと変えられるのです。