イザヤ書37章30~38節 「完全な勝利」

きょうは、イザヤ書37章の最後の箇所から「完全な勝利」というタイトルでお話したいと思います。アッシリヤの王セナケリブの言葉を聞いたユダの王ヒゼキヤは、主の宮に上り、主の御前にひれ伏して祈りました。すると主はイザヤを通して言われました。「あなたが祈ったことを、わたしは聞いた」(21)と。そして、主がヒゼキヤに語られたことは、神がすべてを支配しておられるということでした。すべてを知り、すべてを支配しておられる神が計画し、神がなさっておられることならば安心です。なぜなら、神はすべてのことを働かせて益としてくださるからです。ですから、安心することができるわけです。そればかりではありません。神は完全な勝利をもたらしてくださいます。きょうのところには、その神の完全な勝利がどのような形でもたらされたのかが記されてあります。

Ⅰ.あなたへのしるし(30-32)

まず30節から32節までをご覧ください。「30 あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。31 ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。32 エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。」

まず30節から32節までをご覧ください。すばらしい約束がヒゼキヤに伝えられます。それは、アッシリヤは撤退するがユダは生き延びるようになるというメッセージです。そのしるしは何でしょうか?そのしるしは、一年目は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べることができるということでした。46もの城壁のある町々が滅ぼされ、土地はかなり荒廃するため、すぐには収穫は望めないというのです。最初は落ち穂から拾って食べ、二年目も同じです。しかし、三年目になると自分で蒔いた種から収穫できるようになります。最初はそれほど収穫を期待することはできませんが、徐々に回復していき、やがて安定した生活ができるようになるというのです。これが神の原則です。最初は何もありません。落ち穂から拾って食べなければなりません。しかし、徐々に実を結ぶようになるのです。

KDK(国内開拓伝道会)の委員をしておられる板倉邦雄先生は、今から四十年前に、奥様と二人で開拓伝道を始められました。四十年といったらイスラエルが荒野をさ迷っていた期間と同じ期間です。荒野では、田畑を耕し、種を蒔いて、収穫することはできません。その日その日を天から降ってくる「マナ」を食べて生活をしのぎました。そのことによって彼らは、誰が自分たちを養ってくれるのか、誰が着る物や住む所を用意してくださるのかを徹底的にわからせて頂いたのです。板倉先生も開拓伝道を始めて二年目の暮れには、年を越すモチ代もありませんでした。牛乳配達は、一本配って何円です。どこにも頼るところがなくて祈っていたとき、一通のクリスマス・カードが、アメリカの恩師から届きました。そこには、「クリスマスおめでとう。今年のクリスマスプレゼントは、君に贈ります。」と書かれてあって、その中にドルの小切手が入っていたそうです。  あれから四十年、主は先生と教会を豊かに祝福してくださいました。このみことばの約束の通りです。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べますが、三年目には、自分で種を蒔いたものから刈り入れるようになる。これが神の約束です。神は少しずつ、少しずつ、しかし確実に回復させてくださり、やがて安定した実を結ぶようにしてくさるのです。ですから、自分の思うようにいかないことがあったとしても、いちいちつぶやいてはいけません。神の約束を信じて、忍耐して、その時を待たなければならないのです。

また、そのためには、下に根を張らなければなりません。31節には、「ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。」とあります。これは、ユダの町々はアッシリヤによって滅ぼされますが、神は残りの民を残してくださり、この民によってユダを回復させ、やがて増え広がるようにしてくださるという約束です。それを支えていくものは何でしょうか?根です。下にしっかりと根を張ってこそ、上に実を結ぶことができます。ですからここに、「ユダの家の逃れて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。」とあるわけです。

1992年、箱根駅伝で優勝した山梨学院大の上田監督は、「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ」と言いました。私もこの言葉が好きです。山梨学院大学は創部6年目に箱根駅伝に出場すると、15位から11位、7位、4位、2位と順位を上げて行き、そしてこの年優勝にまで上り詰めることができました。その背後には、どれほどの練習と、実としては現れない下積みの期間があったことかと思います。

確かに、やればすぐに成果が現れるというわけではありませんが、上に実が結ばない時でも、黙って手をこまねいているのではなく、見えない大地の下深くに、下へ下へと根を伸ばせというのです。根を張らずして実はなりません。実は目に見えますが、根は外から見えません。ややもすると私たちは、たちどころに成果が現れるものを求めがちですが、大地にしっかりと根を張るというプロセスなしには実は結ぶことはできません。下に根を張ってこそ上に実を結ぶことができるのです。あなたにとって今成すべきことは何でしょうか?私たちにとってしなければならないことは何でしょうか?それは下に根を張ることです。そうすれば、主が実を結ばせてくださいます。

32節をご覧ください。ここには「万軍の主の熱心がこれをする」とあります。どういうことかというと、イスラエルの回復は一方的な主の恵みによるということです。あなたの熱心ではありません。あなたの努力によるのでもありません。あなたがあれをしたから、これをしたからでもないのです。それはただ神の恵みによります。万軍の主の熱心によるのです。ですから、私たちはただこの神の約束を信じて、忍耐しつつ、へりくだって、忠実に主の御業に励まなければなりません。下に根を張っていかなければならないのです。そうすれば、時が来て、やがて回復させてくださいます。神が実を結ばせてくださるのです。

これがヒゼキヤに与えられたしるしでした。彼はどんなに苦しくてもこのしるしを受け入れて、神の約束を待ち望みました。一方、彼のお父さんだったアハズ王はどうだったかというと、しるしを求めなさいという主のことばを断って、アラムとエフライムの連合軍が攻めて来た時、アッシリヤの力に拠り頼んで失敗しました。皆さん、これがあなたへのしるしです。あなたはこれを受け入れなければなりません。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も同じです。しかし、三年目になると、自分で蒔いた種から刈り入れをして、食べるようになります。最初はそれほど収穫を期待することはできませんが徐々に回復していき、やがて安定した生活ができるようになります。この神からのしるしを受け入れましょう。そして、下にしっかりと根を張りながら、神の時を待ち望みたいと思います。

Ⅱ.彼はこの町に侵入しない(33-35)

次に33節から35節までをご覧ください。「33 それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。34 彼はもと来た道から引き返し、この町には入らない。―主の御告げ―35 わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」

ここで主は、アッシリヤの王について、はっきりと語られました。「彼はこの町に侵入することはない」と。一本の矢も放つことなく、エルサレムをまともに攻撃することができずに撤退するようになります。なぜそのようなことになるのでしょうか?主がこの町エルサレムを守っておられるからです。主がこの町を救ってくださるからです。万軍の主の熱心がこれをしてくださいます。主ご自身のために。そして、主のしもべダビデのために。

主はダビデに約束されました。「12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル7:12-13)その約束のゆえにです。もし南ユダが、イスラエルが滅ぼされるようなことがあれば、この約束は無に帰してしまいます。その結果、ダビデの身から出る世継ぎの子によって、イエス・キリストによってもたらされる永遠の神の国が、彼の王国をとこしえまでも堅くするという神の約束が果たされなくなってしまいます。そのようなことは絶対にありません。主は約束されたことを必ず成し遂げてくださいます。主が語られたことは一つもたがわず実現するのです。神は真実な方だからです。万軍の主がこれをするのです。

Ⅲ.完全な勝利(36-38)

最後に、その結果どうなったかを見て終わりたいと思います。36節から38節までをご覧ください。「36 主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。37 アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。38 彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。」

何と主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、185,000人を打ち殺しました。一晩のうちに・・。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていたのです。学者たちの間にはこれがどういうことだったのかの議論がありますが、これがどういうことだったのかを議論することには全く意味がありません。ある学者はユダヤ教の歴史家にヨセフスという人がいるのですが、これは実際的には「疫病」であったと記していることから、食中毒によってアッシリヤの陣営に多くの死者が出たと結論付けていますが、それは全く意味がないことです。なぜなら、それがどのようにしてであれ、主の使いが出て行って、打たれたからです。人間的な思惑を超えたところで、主が働いてくださり、主が成してくださったことだからです。万軍の主がこれをされたのです。

詩篇46篇は、このときヒゼキヤが感極まって歌った歌だと言われています。開いてみましょう。

「1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ4 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。 5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。6 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。7 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ8 来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。9 主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」11 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ」

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助けです。ヒゼキヤはこれを体験したのです。マルチン・ルターはこれにメロディーをつけました。それが「神はわがやぐら」(新聖歌280番)です。「神はわがやぐら、わが強き盾。苦しめる時の、近き助けぞ。」いかに敵が強くても、そんなのはやがて朽ちていく人の力にすぎない。われらと共におられ、戦ってくださる方は、万軍の主であり、天の大神なり。そう歌ったのです。これは歴史を動かした祈りです。これは文字通り神が祈りに答えて下さった結果であって、決してフィクションではありません。歴史的な事実なのです。そしてその勝利は、ただ今救われて、敵がいなくなったというレベルではなく、その敵がニスロクという偶像を拝んでいた時に、自分の息子たちたちによって剣で殺されるという結果の、完全な勝利だったのです。神がイザヤの、またヒゼキヤの祈りに答えてくださって、このような完全な勝利をもたらしてくださったのです。

そして、それはヒゼキヤだけではなく、神の栄光を求め、神のために生きようと、必死になって祈り求める者たちすべての人に言えることなのです。神は、そのような者たちの祈りを聞いてくださいます。時にサタンは脅しをかけてきたり、不信仰に誘ったり、まともなことを言って惑わして来たりしますが、そうした危機にあっても、主の臨在を確信し、主がすべてを働かせて益としてくださる方であることを信じて、ただ主をあがめて祈り求めるなら、主はその祈りに答え、今日でも事態をひっくり返してくださるのです。

アメリカのアラバマ州エンタープライズとう村に、ワタミハナゾウムシという害虫の記念碑が立っているそうです。その祈念碑にはこう書かれています。

「我々は我々の綿花を蝕んでいた害虫に心から感謝を表する。彼らは我々に繁栄の機会を与え、また何であれ、成せばなるという信念を呼び覚ましてくれた。」

どういうことかというと、本来アラバマ州は綿花の栽培で有名な土地でしたが、20世紀初頭、突然ワタミハナゾウムシという害虫が大量に発生し、綿花を蝕んでしまいました。どれだけ手を尽くしても無駄でした。そして、かつては国内で最も裕福であり政治的にも力をもっていたこの地域は、国内で最も貧しい地域となってしまいました。そこで仕方なく住民たちは涙して祈り、数十年も耕してきた綿花畑を完全に掘り起こし、そこにアーモンドを植えることにしました。それで彼らはアーモンドで収益を得るようになったわけですが、ちょうどその頃、世の中は値の張る木綿の代わりに、質が良く、安価な化学繊維を求めるようになったのです。綿の栽培に頼っていた他の州は大きな打撃を被りましたが、アラバマ州は既に繁栄を味わっていました。それはこのワタミハナゾウムシのおかげたというわけです。もしワタミハナゾウムシがいなかったらこの村は綿花だけに依存し続けていたことでしょう。この害虫が襲ってきたおかげで、涙して祈り、神に信頼してその地を掘り起こしてアーモンドを植えたおかげで、経済の活性化に成功したのです。長期的視点に立てば、ワタミハナゾウムシは綿花の収穫に大きな被害をもたらしましたが、神様は彼らのその涙の祈りに答えて事態をひっくり返し、村全体に恩恵をもたらしたのです。    私たちの人生にもワタミハナゾウムシに蝕まれるようなことがあるかもしれません。アッシリヤに完全に包囲されるような事態に遭遇することがあるかもしれない。しかし、どのような事態になっても神があなたの避け所であって、そこにある助けであり、この神の栄光を求めて祈るなら、神はその祈りに答えて、あなたを救ってくださいます。完全な勝利をもたらしてくださるのです。問題は、あなたがこのことを信じるかどうか、本気で祈り求めるかどうかです。理屈ではダメです。昔はそういこともあったなではダメです。今、このとき、この瞬間にも神は働いておられる。神は助けてくださると信じて祈り求めることです。この生ける神を体験することです。神はそれを求めておられます。神はわが力、そこにある助けと信じ、この神に向かって、祈り求めましょう。神はあなたにも完全な勝利をもたらしてくださるのです。