イザヤ書38章1~8節 「祈りは壁を突き破る」

きょうは、「祈りは壁を突き破る」というタイトルでお話したいと思います。私たちの人生には、とても背負いきれないと思うような試練が襲ってくることがありますが、そのような時いったいどうしたらいいのでしょうか?きょうの箇所に出てくるユダの王ヒゼキヤは、病気にかかって死にかけていたとき、死の宣告を受けましたが、それで彼は絶望したり、あきらめたたかというとそうではなく、顔を壁に向けて祈りました。神に集中して祈ったのです。その結果、その祈りが聞かれ、彼の寿命に15年が加えられました。絶望の死の壁にいのちの扉が開かれたのです。どんなに試練が襲ってきても絶望してはいけません。そのような時こそ神に向かって祈らなければなりません。そうすれば主はその祈りを聞かれ、御業を行ってくださいます。本当の絶望とは祈れないことです。もし私たちに少しでも祈る信仰が残されているなら、そこにはまだ希望があることを覚えていただきたいのです。きょうは、祈りは壁を突き破るというテーマで、三つのことをお話たいと思います。

Ⅰ.あなたの家を整理せよ(1)

まず1節をご覧ください。「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」

「そのころ」とは、エルサレムがアッシリヤに取り囲まれていたころのことです。それは前701年のことでした。ヒゼキヤが死んだのは前686年でしたから、これに15年を加えるとちょうどこの年になります。まさにそのとき、ヒゼキヤは病気にかかって死にかかっていたのです。それが何の病気であったのかははっきりはわかりませんが、21節を見ると、ここに「ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、腫物の上で塗りつけなさい。そうすれば直ります。」とありますので、これはどうも皮膚ガンのようなものだったのではないかと考えられています。悪性の腫瘍ですね。それが悪化して死にかかっていたのです。ヒゼキヤはこのとき、アッシリヤに包囲されていただけでなく、病気にもかかっていて死にかけていたのです。このことからも彼がいかに苦しんでいたかがわかると思います。試練が同時に二つも三つも押し寄せていたのです。「いったいなぜこんなことが起こるのか」「なぜ神はこのようなことを許されるのか」彼は相当苦しんでいたに違いありません。

しかもそれに追い打ちをかけるかのように、自分が師として仰ぎ、いつも相談していた預言者イザヤがやって来て、こう告げました。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」死の宣告です。この病気は直らないから、あなたはもうすぐ死ぬのだから、あなたの家を整理するように。何とショッキングな言葉でしょう。直らないかもしれないとか、覚悟をしておいた方がいいかもしれない、ではありません。「あなたは死ぬ。直らない。」とはっきり告げられたのです。だから、あなたの家を整理しておくようにというのです。これは家を片付けておくようにということだけではありません。ちゃんと遺言を書いておきなさいということです。あなたが死んだ後、残された人たちが混乱しないように、ちゃんと遺言を書いて整理しておきなさいということです。またそれだけでなく、そういうことも含めた上で、神と会う備えをしておきなさいということです。アモス書4章12節を開いてください。

「それゆえ、イスラエルよ。わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」

神に会う備えをすること。キリストの御座のさばきに着く備えをすること。それが一番大きな備えです。なぜなら、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)からです。どんなに健康に留意しても、毎日運動してダイエットに励んでも、無農薬の有機野菜を食べても、人は皆必ず死にます。そしてその日は思いがけない時にやって来るのです。ですから、その前にあなたの家を整理しなければなりません。財産の管理、不動産の整理も必要でしょう。しかしそれ以上に必要なことは霊的なこと、永遠のいのちについて考えなければなりません。あなたの家は整理されているでしょうか?

ヒゼキヤはこの時39歳の若さでしたが、その39歳の時にこのことを問われたのです。よっぽどショックだったと思います。外側から来る試練も辛いものがありますが、それ以上に自分の病気が治らないということは、どんなに自分を苦しめていたことかと思います。しかし、彼はそれで終わりませんでした。ヒゼキヤは主に祈りました。ここが神を信じている人とそうでない人の違いです。神を信じている人にとっては、それは辛く、悲しいことですが、むしろそのようなときこそ神の栄光が現されるチャンスだと受け止め、神に向かうのです。というのは、神の御業はしばしば私たちが調子よく物事を行っているときよりも、むしろ人間的に見たら絶望でお手上げの状態の時こそ発揮されるものだからです。

たとえば、イエス様がガリラヤのカナで婚礼に招かれたとき、ぶどう酒がなくなってしまうということが起こりました。婚礼の祝いの席でぶどう酒がなくなるというのは親類縁者の恥にもなります。さてどうしましょうか。母マリヤはイエスのところへ行き、イエスの耳元でつぶやきました。「ぶどう酒がありません」普通ならぶどう酒がなくなって終わりとなりますが、このときこそ神に対する信仰が発揮される時です。イエスは手伝いをする者たちに、そこに置いてあった大きな石の水がめに水を満たすように言われました。1,2,3,4,5,6,それは全部で6つありました。彼らはその水がめの縁までいっぱい水を満たしました。そして、それを宴会の世話役のところに持って行くようにと言われると、それは甘いぶどう酒になっていました。人々は言いました。「だれでも初めに良いぶどう酒を出して、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものなのに、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておいたものだ。」それほど良いぶどう酒に変わっていたのです。彼らはそれがどこから来たのか知りませんでしたが、水を汲んだ手伝いの者たちは知っていました。イエスがそれをぶどう酒に変えたということを。  これがイエスの行われた最初の奇跡です。その奇跡によってご自分の栄光を現されたのです。ぶどう酒がなくなった時こそ、神の栄光が現される時でもあったのです。

まさにヒゼキヤはそのような状況に置かれました。自分ではどうしようもない絶望的な状況に置かれたその時が、神の栄光が現される時でもあったのです。あなたにとってもなかなか受け入れられない、辛いこと、苦しいことが襲ってくることがあるかもしれませんが、いや、まさに今がそのような状況の中にいるという人もおられるでしょう。しかし覚えていただきたいことは、そのようなときこそ、神の栄光が現される時でもあるのです。私たちがいつも神様から愛されている、神を信じて愛しているといういのちの関係が、こういうところに輝き出てくるのです。

Ⅱ.壁に向けて祈ったヒゼキヤ(2-3)

では、この時ヒゼキヤはどうしたでしょうか?2節と3節をご覧ください。「2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、3 言った。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。」

ここに「そこで」とあります。「そこで」というのは、ヒゼキヤが死の宣告を受けたのでということです。ヒゼキヤは死の宣告を受けた時、ただうろたえて絶望していたのではありません。彼は立ち上がり、神のもとに走っていき、神に祈りました。ヒゼキヤが壁に向かって祈ったのは、彼が病気で神殿に行けなかったからではありません。彼の置かれていた状況が壁に囲まれた八方塞がりのようだったということであり、他のものが自分の視野に入ってくるのを拒絶するかのように、ただ神に集中して祈ったということです。

これこそ、困難に直面するときに私たちが取らなければならない態度です。私たちの人生にもヒゼキヤが経験したような試練や、いろいろなことで心を騒がせるような出来事が起こることがありますが、そのような時にしなければならないことはただ神に向いて、神に集中して祈ることです。ほんとうの祈りとは言葉や内容ではありません。ほんとうの祈りとは神に向かうこと、神に信頼して自分を集中することなのです。

ヒゼキヤはどのように祈ったでしょうか。彼はこう言いました。3節です。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」

これはどういうことでしょうか?ある人は、ヒゼキヤはここで自分の良い行いを神の前に並び立て、自分の要求を聞いてくれるように神と取引をしているのだと言っていますが、そうではありません。全く逆です。ヒゼキヤがこのように言ってるのは自分の力ではどうすることもできないことと認め、ただ神のあわれみにすがっていたからなのです。

ここでヒゼキヤは、「神さま、どうか、私がまことを尽くし、全き心、真心をもって仕えてきた、この生涯を覚えてください。顧みてください。」と言いました。それは普段神さまとそのような関係がなければ言えない言葉です。もし神さまとの関係が希薄であれば、このような祈りは出てこないはずです。しかしそれはヒゼキヤが全く罪を犯さなかったとか、完全であったということではなく、神のあわれみに信頼して、まごころをもって仕えてきたというありのままのことを申し上げているだけのことです。事実、ヒゼキヤはこれまでも何度も失敗を重ねてきました。アッシリヤに攻撃された時には、自分たちは滅ぼされてしまうのではないかと恐れて、内密のうちにエジプトと同盟関係を結びました。またアッシリヤの王に貢ぎ物を送っては、お金で問題を解決しようとしました。しかし、そうした人間的なはかりごとはことごとく失敗に終わりました。彼は決して完全ではありませんでした。その彼が「私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきた」と言ったのは、神の恵みの契約に対して心を込めて仕えてきたということであって、神のあわれみにすがっていたからなのです。

これは私たちも忘れてはならないことです。ここ一番という時、どうしても神に聞いていただきたいという祈りをする時、私たちはどのように祈ったらいいのでしょうか?私たちはみなすねに傷をもっている者です(心にやましいものを持っている者という意味)。イエスさまを信じてからも、何度イエスさまを裏切ってきたことでしょう。そういう者が神に訴えて、神に祈るとき、いったいどのように祈ればいいのでしょうか。自分がどれだけ信じてきたかとか、自分がどれだけ仕えてきたかということではなく、神がどれほどあわれみ深く、真実であられるかに信頼することです。この神は私がどんなに失敗しようが、どんなにつまずこうが、そういうことで私を退ける方でない。むしろ、そこからずり落ちることがないように、あわれみをもって守ってくださると信頼することです。

日本人の宗教観の中には、「こんなことをしたら罰があたる」とか「あんなことをしたら呪われる」といったものがありますが、イスラエルの神、この天地を造られたまことの神は、そういう方ではありません。私たちの神さまは無限に私たちを愛し、私たちに恵みとあわれみを注いでくださる方です。それが聖書の神であり、聖書の信仰です。この方は私たちがどうであれ、絶対に私たちを退けることはされません。ですから、いろいろな試練に遭うとき、さまざまな苦しみに直面するとき、自分がこんなことになったのはあんなことをしたからだとか、こんなことをしたからだと思わないで、神は無限の恩寵者であって、だれが忘れても決して私を忘れることはなさらない方であると信じて祈らなければなりません。

ちょっと前に「レ・ミゼラブル」(ああ、無情)のDVDを観ました。それを観て考えさせられたことは、その中に登場する神父の態度です。一切れのパンを盗んだがために投獄され、19年にわたる強制労働を強いられたジャン・バルジャンが修道院を訪ねてやって来ましたが、神父は彼を客として迎えました。「あんたを殺すかもしれない」というジャン・バルジャンの言葉に対して、神父は「互いに信用し合おうじゃないか」と言って、彼を受け入れます。暖かい部屋で、暖かい夕食をもってもてなし、暖かいベッドを提供したにもかかわらず、ジャン・バルジャンはその神父の好意を仇で返すようなことをしました。銀食器を盗んで逃亡しました。やがて捕まり、神父のもとに連行されてきたとき、「神父様からもらった」と嘘をいたジャン・バルジャンを、「そうとも、彼にやったものだ。ついでに燭台も持って行くようにと言ったのだが、急ぐからと持って行かなかった。」そう言って彼を守るのです。「なぜこんなことを」と聞くジャン・バルジャンに対して、神父はこう言いました。「昨夜、こう言ったことを忘れるな。」「新しい人になる」と。「兄弟ジャン・バルジャンよ。君は悪と縁を切ったのだ。私は銀食器で君の魂を買い戻した。恐怖と憎しみから君を救い、神の御手に君を返す」と。

私はこの神父の慈しみとあわれみに、深く心を打たれました。彼はどこまでもジャン・バルジャンを信じて受け入れました。その愛に心打たれたジャン・バルジャンは見事に変わります。やがてある町の市長になった彼はひとりの女性との約束を守り、命がけで彼女の娘を守りました。また、敵であった警察署長を心から許してあげるのです。

これが神の憐れみです。私たちがどんなに不誠実であり、神を無視するような行動があったとしても、神はあわれみ深い方であって、イエス・キリストによって私たちを買い戻してくださいました。神の御手の中に。イエス・キリストの贖いのゆえに、私たちは神の子とさせていただいたのです。この方を「お父さん」と呼べるようにしてくださいました。「お父ちゃん」と呼ぶとき、神は私たちをご自身の子として受け入れてくださるのです。それが神に対する私たちの根本的な信仰でなければなりません。神は全能者であられるということも大切ですが、その前に神はあわれみ深い方であるということを忘れないでいただきたいのです。

ですからヒゼキヤはこう祈ったのです。「神さま、私はあなたのあわれみによって選んでいただいたあなたの民です。あなたが約束してくださった恵みとまことに対して、私の全身全霊をもって答えます。欠けがあるかもしれません。失敗も多いかもしれませんが、神よ、あなたのあわれみのゆえに、聞いてください。」

こうしてヒゼキヤは大声で泣きました。人前に「大変です。助けてください」と泣いたのではありません。「痛いよ。苦しいよ」と泣いたのでもないのです。神の前に泣いたのです。ありのままの姿で、自分の全存在を神にぶつけ、神のあわれみにすがったのです。涙をもって、自分が自分ではいられなくなるような思いで神に訴えたのです。そのような祈りを、神が聞かないわけがありません。このような祈りは必ず神の心を動かします。このような切なる祈りは、八方塞がりの壁に希望の扉を開くのです。

Ⅲ.わたしはあなたの祈りを聞いた(4-8)

では、ヒゼキヤが祈ったその祈りに、神はどのように答えたでしょうか。4節から8節までをご覧ください。「4 そのとき、イザヤに次のような主のことばがあった。5 「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。6 わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。』7 これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたこのことを成就されます。8 見よ。わたしは、アハズの日時計におりた時計の影を、十度あとに戻す。」すると、日時計におりた日が十度戻った。」

主はイザヤを通して語られました。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」何という慰めに満ちた言葉でしょう。すばらしい神のあわれみです。神はヒゼキヤの祈りを聞かれ、その涙を見たと言われました。そして、彼の寿命にもう15年を加えてくださいました。そればかりではありません。神は彼が祈らなかったことまで答えてくださいました。それはアッシリヤの手から彼とエルサレムを救い出すということです。これが私たちの信じている神です。これが聖書の神なのです。

エペソ人への手紙3章20節を開いてみましょう。ここには「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、」とあります。私たちの神は、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことができる方なのです。この方が私たちの祈りに答えてくださるのです。なぜでしょうか?なぜなら、この方はあわれみ深い方だからです。結局、ヒゼキヤの祈りが答えられたのは彼の功績に基づくものではなく、また、彼の人格に基づくものでもありませんでした。あるいは、彼の信心深さ、敬虔さといったものでもなかったのです。ヒゼキヤの祈りが答えられたのは、ただ神があわれみ深く、真実な方だからです。神は約束されたことをどこまでも守られます。神が祈りに答えられるのはあなたがすばらしいからではありません。あなたががんばっているからでもない。ただ神があわれみ深い方だからであって、そのご性質に基づいて、神はあなたの祈りに答えてくださるのです。

またそのしるしとしてアハズの日時計の影を10度あとに戻すと言われました。この「アハズの日時計」はヒゼキヤの父であったアハズ王が作ったものです。これがどのような時計であったのかはよくわかりませんが、下の欄外を見るとこの「日時計」という言葉に※がついていて、直訳で「階段」とありますから、おそらく、宮殿に上る階段の影のことではなかったかと思われます。360度の中の10度であれば、時間にして24時間では40分になります。それだけの時間が戻ったということになります。ヨシュア記には太陽が1日止まったという記事が出てきますが、このように時間が止まったとか、戻ったということを聞いて、「だから聖書は信じられないんだ」とか、「ほんとうに荒唐無稽な非科学的なことだ」という人もいます。しかし、神さまは科学で証明できないようなこともされるのです。時間を創造された神さまは、時間を支配したり、コントロールしたりすることもおできになるのです。時間を延ばすことも、縮めることも、長くすることも、短くすることも、何でもおできになるのです。神さまは神さまであって、時間に縛られる方ではないからです。「初めに、神は、天と地を創造した。」(創世記1:1)このみことばを信じられるなら、このこともたやすく信じられるでしょう。時間をコントロールされる神さまは、ヒゼキヤの寿命も伸ばされたのです。

何とすばらしいことでしょう。神はヒゼキヤの泣き叫ぶ祈りと涙を見られ、ヒゼキヤの祈りに豊かに答えてくださいました。ヒゼキヤは自分の病を癒してくださいと祈りましたが、神はヒゼキヤの病を癒すだけでなく、15年寿命を延ばしてくださいました。さらに、ユダをアッシリヤの手から救い出され、エルサレムの町を守るという約束まで加えてくださいました。そして、日時計の影があとに戻るというしるしもくださいました。たとえ自分には背負い切れないと思うような試練が襲って来ても、あなたが神に向かって切に祈り求めるなら、神はあなたの祈りを聞いて、豊かに答えてくださいます。八方塞がりの壁 にいのちの扉が開くのです。

マーガレット・ミッチェルは、足を痛めてから小説を書き始め、7年かかって一つの小説を書き上げました。彼女は原稿をもってあちこちの出版社を訊ね歩きましたが、はねつけられました。誰もミッチェルの小説に関心を示しませんでした。普通の人ならそこであきらめて他の仕事を探したでしょうが、彼女はあきらめませんでした。ミッチェルはマクミラン出版社のレイソン社長がアトランタに出張に来るという話しを聞き、汽車の駅まで駆けつけました。そして、自分が書いた原稿の束を社長に渡しながら懇願しました。「お願いです。この原稿を読んでください。」レイソン社長は面倒だという表情で原稿をカバンに放り込みましたが、原稿を読む気など毛頭ありませんでした。レイソン社長は道中に電報を受け取りました。ミッチェルからでした。「お願いです。私の原稿を読んでください。」一日経って、また電報が来ました。「どうか、読んでください。」次の日もまた電報が来ました。レイソン社長はミッチェルの執念に感動し、原稿を読み始めました。ところがその後、列車が目的地に到着したことにも気づかないほど、社長はその小説に深く没頭していました。その小説こそ「風と共に去りぬ」(Gone with the Wind)です。

「風とともに去りぬ」は、ミッチェルの粘り強い執念による産物です。私たちの祈りもこうあるべきです。どんな試練が襲って来ても絶望してはいけません。そのときあなたがすべきことは、あなたの顔を壁に向けて祈ることです。神のあわれみにすがって祈ってください。そうすれば、神はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見て、豊かに答えてくださいます。神の子供としての特権と祝福を、祈りを通して体験することができますように。そのような祈りは必ずや壁をも突き破るようになるのです。