イザヤ書38章9~22節 「生と死を支えるもの」

きょうはイザヤ書38章の後半の部分から、「生と死を支えるもの」というタイトルでお話します。エルサレムがアッシリヤによって包囲され陥落寸前まで追い詰められていたころ、ユダの王ヒゼキヤにはもう一つの深刻な悩みがありました。それは、病気で死にかかっていたことです。そして預言者イザヤを通して、「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」と死の宣告を受けました。そのときヒゼキヤは顔を壁に向け、大声で泣きながら、主に祈りました。すると主はそのヒゼキヤの祈りを聞いてくださり、彼の寿命にもう15年加えてくださいました。きょうのところには、ヒゼキヤがその病気から回復したときにしるしたことばが記してあります。このところから、人の生と死を支えているものとはいったい何なのかということをご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅰ.ヒゼキヤの嘆き(10-16)

まず第一にヒゼキヤの嘆き見ていきたいと思います。10節から16節までに注目してください。まず10節をお読みします。

「私は言った。私は生涯の半ばで、よみの門に入る。私は、私の残りの年を失ってしまった。」

このときヒゼキヤは39歳でした。まさに「生涯の半ば」です。英語では「in the prime of my life」と訳されています。「prime」とは「最も重要な」とか「全盛期」という意味です。つまり「人生で一番脂がのった時」という意味になります。そのような時によみの門に入りました。「よみ」とは何でしょう。ここに※がついていますが、この※がついているイザヤ5:14をみると、これはヘブル語で「シェオル」であることがわかります。「シェオル」とはギリシャ語で「ハデス」ですが、それはこの聖書のあとがきを見ると説明が書かれてありますが、「死者が終末にもたらされる究極のさばきを待つ間の中間状態で置かれる所」のことです。よく「ゲヘナ」という言葉も出てきますが、ゲヘナとは神の究極のさばきによって、罪人が入れられる苦しみの場所のことです。いわば「ハデス」は裁判で刑が決まるまで留置されている所であるのに対して、ゲヘナとはその裁判によって最終的な刑が確定してから行く刑務所のようなところなのです。

皆さん、人は死んだらどうなるのでしょうか?旧約聖書の時代には、人は死んだらみな「シェオル」に行くと考えられていました。そこで死後のさばきを待っていたのです。しかし、ルカの福音書に出てくる金持ちとラザロの話を見ると、このハデスには区別があったことがわかります。アブラハムのふところと呼ばれるところと、火が燃えているために熱くて苦しい所です。ラザロは死んでアブラハムのふところへ行きましたが、金持ちは炎の燃えている苦しみの場所へ行きました。すなわち、旧約時代の人たちは死んだらみなハデスに行きましたが、神を信じていた人たち、すなわち、聖徒と呼ばれていた人たちは「アブラハムのふところ」と呼ばれる所へ行き、そこで神の慰めを受けていたのです。

ヒゼキヤがここで「私は生涯の半ばで、よみに入る。」と言ったのは、死んだ人がみな向かうよみの世界のことを指しています。人生で一番脂がのった時に、残りの人生を失ってしまうことは、どれほど悲しかったことでしょう。その悲しみが11節から14節までに四つの比喩を通して表されています。

まず第一に、それは牧者の天幕のようです。12節をご覧ください。ここには、 「私の住みかは牧者の天幕のように引き抜かれ、私から取り去られた。」とあります。人のいのちは、人の人生は、まるでテントのようにたやすく取り去られるというのです。それがたとえ王であろうと金持ちであろうと、人生ははかないのです。豪勢な宮殿での生活も健康そうな肉体も、牧者の天幕がたたまれて移動する時のように、あっけなく引き抜かれ、取り去られます。

第二に、それは機織りのようです。同じ12節の後半に次のようにあります。「私は、私のいのちを機織りのように巻いた。主は私を、機から断ち切る。」機織りが完成すると遠慮なく糸が切られるように、神はある日突然、人生の糸を切ってしまうわれるというのです。人のいのちはそれほどはかないものなのです。

第三に、それは雄獅子のようです。13節、「私は朝まで叫びました。主は、雄獅子のように私のすべての骨を砕かれます。」雄獅子はすべてのものを容赦なくかみ砕きます。それと同じように、主は病という苦痛をもって容赦なく臨むのです。そこには信仰者も不信仰者の区別もありません。すべての人が雄獅子にかみ砕かれるように砕かれます。それが死なのです。

そして第四に、鳥の鳴き声のようです。14節、「つばめや、つるのように、私は泣き、鳩のように、うめきました。」皆さん、つばめやつるが泣くのを聞かれたことがあるでしょうか?何とも悲しいような鳴き声です。鶴の恩返し。あの鶴はどんな鳴き声で着物を織っていたのでしょう。小鳥たちの鳴き声とは違います。小鳥たちは軽快なハミングを奏でますが、鶴は違います。鶴は心から絞り出すような鳴き声をします。また、ここには「鳩のように」とあります。鳩はヘブル語で「ヨーナー」と言いますが、「嘆く者」という意味があります。神の救いを知らない人は、死の宣告を受けるとき、このように衰え果てて嘆くのです。

いったいなぜヒゼキヤはこんなに落ち込んでいたのでしょうか?ここで有名な使徒パウロのことばを見てみましょう。パウロは次のように言いました。ピリピ1章23節を開いてください。

「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。」(ピリピ1:23)

何という告白でしょうか。パウロは、自分の願いはこの世を去ってキリストとともにいることだと言いました。これは先程見たヒゼキヤの嘆きとは全く違います。ヒゼキヤは死んだら終わりだ、よみに行く。もう主を見ることもない。どうせ私の人生は天幕と同じだから、機織りのようにすぐに切られてしまう。雄獅子のように粉々にかみ砕かれるだけだ。鶴です。鳩です。いったいこの違いはどこから来たのでしょうか?

それは死後にもたらされる復活の希望があったかどうかです。ヒゼキヤは死後のいのち、永遠のいのち、死者の復活についての信仰が希薄(きはく)でした。確かに旧約の時代にも死後の復活についての言及がなかったわけではありません(詩篇49:15,ダニエル12:2)。しかし、まだそれがはっきりしていませんでした。なぜなら、まだイエス・キリストが生まれていなかったからです。それがはっきりしたのはイエスが来られ十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえられたことによってなのです。イエスが死んでよみがえられたので、聖書が約束しているように、私たちも死んでよみがえるということがはっきりわかったのです。たとえ私たちのこの地上の住まいである肉体が壊れても、神がくださる永遠の家、天国があることが、はっきりわかったのです(Ⅱコリント5:1)。私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます(ピリピ3:20)。その時私たちは朽ちることのないからだ、栄光のからだによみがえるからです。

しかし、ヒゼキヤはそのことを知りませんでした。いや知ってはいましたがはっきりしていませんでした。イエス・キリストがまだ来ていなかったので、ぼんやりとしか見ることができなかったのです。ですから希望がありませんでした。死んだらよみに入ると嘆いたのです。

しかし、14節の後半のところを見ると、そのヒゼキヤの心に変化が生じていることがわかります。「私の目は、上を仰いで衰えました。主よ。私はしいたげられています。私の保証人となってください。15 何を私は語れましょう。主が私に語り、主みずから行われたのに。私は私のすべての年月、私のたましいの苦しみのために、静かに歩みます。16 主よ。これらによって、人は生きるのです。私の息のいのちも、すべてこれらに従っています。どうか、私を健やかにし、私を生かしてください。」

ヒゼキヤは主に「保証人」となってくださいと、祈っています。「保証人」とは、自分が支払わなければならない義務を支払えない時に、代わりに支払ってくれる人のことです。最近では一人暮らしのご老人が老人ホームなどに入所する際に、この「保証人」がいないために入れないというケースがあって問題になっています。ある意味で「保証人」というのは連帯保証人よりも重い責任があると言われていますが、その保証人になってくださいと言っているのです。借金の返済を要求する恐ろしいサラ金業者のような「死」に対して、神ご自身が保証人となってくださると確信しました。神が保証人となってくださるなら、何も恐れる心配はありません。この方にすべてをゆだねればいいのです。彼は、主が命を延ばしてくださるなら、その残された日々を静かに歩むと言いました。この信仰によって、人は生きるのだ、その信仰が人を健やかにするのだ、と言うことができました。 その保証人こそ十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストです。ヒゼキヤの時代にはそれがぼんやりしていてはっきり見ることができませんでしたが、彼はこの神の救いにゆだねることができたのです。

結局のところ、人の生と死を支えるものは何かというと、この信仰なのです。罪の赦しと永遠のいのちの信仰です。復活の希望なのです。Ⅰコリント15章56節から58節を開いてみましょう。

「56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことをしっているのですから。」

この希望があるとき、私たちはたとえ死に直面するようなことがあっても、神に感謝することができます。たとえ心が騒ぐようなことがあっても、堅く立って、動かされることなく、いつも主のみわざに励むことができるのです。何と大きな力でしょうか。

ヒゼキヤと大体同じ年に死の宣告を受けた方で飯島夏樹という方がおられます。この方は日本を代表する世界級のプロ・ウィンドサーファーでしたが、38歳の時に肝臓ガンでこの世を去りました。飯島夏樹さんはガンの宣告を受けたとき、人生がガラッと変わりました。最初は「ガンといっても不治の病ではないだろう」と悲観しませんでしたが、大手術を2回、130針の傷跡、17回の入院生活をしていく中で徐々に「うつ病」と「パニック障害」になり、だんだん引きこもりになりました。とても辛い時を過ごされました。そして、とどめと思われるような医者からの余命宣告を受けてしまいます。しかしクリスチャンだった彼は小説を書くことをすすめられました。残された家族への愛と慰めをどのように表したらいいかと思案した彼は、「天国で君に逢えたら」という小説を書きました。その小説を書いたのは、彼がクリスチャンだったからです。その小説の中で彼は、救われた人は天国へ行くと聖書に書いてあるから、この世の別れはつかの間の別れなのだ、と言っています。死が怖くないというと嘘になるが、私たちクリスチャンは天国への希望を持っている。そこでまた君と逢えると、天国の希望を書き綴ったのです。それこそ彼が伝えたかった真の慰めでした。そして、喜びと感謝のうちに見事に天に凱旋して行かれました。

神に希望を置く人は何と幸いでしょうか。たとえ病気になっても、たとえガンの宣告を受けても、そこに永遠のいのちがある。死は勝利にのまれた。天国に行くことができるという希望は、ほんとうの意味で人を励まし、人を立ち上がらせ、人を生かすのです。

私たちの人生には色々な困難があります。ヒゼキヤのように死の宣告を受けるようなこともあるかもしれません。どうすることも出来ない現実にぶつかることもあります。しかし、それがどのような困難であっても、イエス・キリストを信じる人には絶望はありません。そこに復活の希望、永遠のいのちが約束されているからです。その現実を受け入れ、なおかつその現実を神さまにゆだねつつ、静かに生きることができるのです。

Ⅱ.ヒゼキヤの賛美(17-20)

次に、ヒゼキヤの賛美の生涯を見ていきましょう。17節から20節までをご覧ください。「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。18 よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。19 生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。父は子らにあなたのまことについて知らせます。20 主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう。」

ヒゼキヤはここで、自分が苦しんだ苦しみは平安のためでした、と言っています。彼は神との祈りの中でこの希望を抱くことができるようになりました。自分の苦しみは苦しみだけのものではなく、むしろ、平安をもたらすためであったと受け止めることができるようになったのです。ヒゼキヤは今、自分の身に起こっていることが主の主権の中で起こっているのであって、主が最善に導いてくださるという信仰を持つことができました。自分の苦しみが、平安を与えようとする神の良いご計画であると悟ることができたのです。何よりもヒゼキヤはいやされたことで高慢になりませんでした。20節に、「主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう。」とあるように、神の一方的なあわれみに感謝して、心からの賛美をささげることができました。

9歳で集団赤痢にかかり、高熱が原因で脳性マヒになった水野源三さんは、以来、寝たきりになり言葉を発することができなくなってしまいました。首から下が全く動かなくなってしまったのです。コミュニケーションの手段はただ一つ、瞬きをするだけです。12歳の時に聖書に触れ、13歳の時に洗礼を受けました。47歳でこの世を去った水野源三さんは、その瞬きだけで詩を書きました。それで「瞬きの詩人」と言われましたが、その水野さんの詩の中に「キリストを知るため」という詩があります。

「病に倒れたその時には、涙を流して悲しんだが 霊の病いやしたもう キリストを知るためだとわかり 喜びと感謝に変わりました。  友にそむかれた時には 夜も眠れずに恨んだが 永遠に変わらない友なる キリストを知るためだとわかり 喜びと感謝に変わりました。  過ち犯したその時には 心を乱して悔やんだが すべてをば 償いたもう キリストを知るためだとわかり 喜びと感謝に変わりました。」

すべてはキリストを知るためなんだ。病気で寝たきりになったのも、キリストを知るためだった。病気だったからこそキリストを知ることができた。それがわかったとき、病気で倒れた悲しみが、喜びと感謝に変わったのです。

皆さんはいかがですか?病に倒れたその時に、それは霊の病をいやしたもうキリストを知るためであったとを知り、神に感謝し、神を賛美しているでしょうか?友にそむかれたその時に、夜も眠れずに恨んだのは、永遠に変わらないキリストを知るためであったと知り、感謝と賛美をささげているでしょうか?過ちを犯したその時に、心を乱して悔やむことがあったのは、すべての罪を償いたもうキリストを知るためであったことを知り、喜び、感謝しているでしょうか?逆に不平不満に満ちて、心が暗く、落ち込んではいないでしょうか?私たちが神を賛美し、神に感謝するのは、そこに神が働いておられ、すべてを最善に導いてくださるという信仰のゆえであり、その苦しみや艱難が逆に平安を与えようとする神の良い計画だと信じているからなのです。そのような人はどんなことがあってもつまずくことはありません。いつも神を見上げ、その神のすばらしい計画を見て、喜び、賛美し、感謝をささげることができるようになるのです。そのような信仰に主は応えてくださいます。

Ⅲ.いやすのは神(21-22)

最後に、主がヒゼキヤにどのように答えてくださったのかを見て終わりたいと思います。21節と22節をご覧ください。「イザヤは言った。「ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、腫物の上で塗りつけなさい。そうすれば直ります。」22 ヒゼキヤは言った。「私が主の宮に上れるそのしるしは何ですか。」

ヒゼキヤの信仰に応え、主は彼の病をいやされました。預言者イザヤは言いました。「ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、種物の上に塗りなさい。」ここに「腫物」とあるので、ヒゼキヤがかかっていた病気は何らかの皮膚病であったのではないかと考えられています。それが死に至るほどの病であったとすれば、皮膚ガンのようなものだったと考えてもおかしくありません。しかし、その病気が何であったにせよ、その病気をいやすために主は、干しいちじくを用いられました。主が全能者であられるならわざわざこのような方法を用いなくてもよかったはずなのに、あえてこのようにされたのはなぜでしょうか?

それは、このような方法によっても神はいやされることを示すためでした。実際、いちじくにはこのような効用があるらしいのですが、主はヒゼキヤの病をいやすためにこの方法を用いられたのです。主がいやされるのであれば何もしなくてもいやすことができたはずなのに、あえてこのような方法を用いられたのは、主はどのような方法によってもいやされる方であることを示すためだったのではないかと思います。    これと同じようなことが、聖書の中の至るところに見られます。たとえば、出エジプト記15章には、シュルの荒野にやって来たイスラエルの民がやっとの思いで水を見付けたかと思ったら、その水が苦くて飲めなかったということがありましたが、主はその水をどのように甘くされたかというと、何と一本の木をその水の中に投げ入れるという方法を取られました(出エジプト15:25)。

また、ヨハネの福音書を見ると、生まれつきの盲人がいやされたことが記されてありますが、どのようにいやされたのかというと、イエスが地面につばきをした、そのつばで泥をつくり、その泥を盲人の目に塗って、シロアムの池で洗うようにと命じる方法によってでした(ヨハネ9:7)。彼がシロアムの池に行って洗うと、この盲人の目は見えるようになりました。

主は何もしなくてもいやすことがおできになりますが、あえてこのような方法を用いられることがあるのです。それは、主はどのような方法によってであれいやすことができる方であるということを示すためだったのです。神さまは何もしなくてもいやすことができますが、時には医療行為を用いていやされることもあります。ですから、病院に行くのは不信仰だとか、薬を飲むのは信仰がないからだというのは間違っています。それはバランスを欠いた危険な教えです。なぜなら、神は医療を用いていやされることもあるからです。薬を用いていやすこともあるのです。

パウロの弟子のテモテの胃腸が弱かったとき、「これからは胃のために、少量のぶどう酒を飲みなさい。」(Ⅰテモテ5:23)と言いました。これもいやすために神が用いられた方法でした。あれほど聖霊に満たされていたパウロが、死人をも生き返らせることがてきたパウロが、その一方では「これからは胃のために、少量のぶどう酒を飲みなさい。」と言ったのです。それも神の方法だったのです。神はすべてのことを、いやしのために用いられるのです。神のみこころなら医者にかからなくても瞬時にいやされますが、と同時に、神のみこころなら、様々な方法によってもいやされるのです。主がいやしてくださると信じて、主が用意してくださる方法を通して、与えられた方法を感謝して受け取ること。それも信仰なのです。いずれにせよ、大切なのは神はいやし主であると信じて、この方に祈り、この方に信頼することです。

「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」(出エジプト15:26)

この信仰のゆえに、神は働いてくださいます。ヒゼキヤのように主に信頼して祈り、主のいやしを体験することができますように。そして、その生涯が嘆きや悲しみ、つぶやき、絶望の生涯から、主への賛美と感謝に満ち溢れた生涯となりますように。復活の希望、永遠のいのちの希望こそ、私たちの生と死を真に支えるものなのです。