きょうはイザヤ書前半の最後の部分である39章から「主のことばはありがたい」というタイトルでお話したいと思います。病気で死にかかっていたユダの王ヒゼキヤは、主に向かって、泣きながら祈りました。その結果、主は彼の祈りを聞かれ、彼の寿命にもう15年を加えてくださいました。死から救われたヒゼキヤは喜びのあまり主に感謝と賛美をささげましたが同時に彼は愚かなことをして、神のさばきを招いてしまいました。それがきょうのところに記されてあることです。しかし、彼は最後に「主のことばはありがたい」と言ってその生涯を閉じました。終わりよければすべて良しということばがありますが、彼はその激動の生涯を信仰によって全うしたのです。 きょうは彼の失敗とそれに対す神のさばき、しかしそれでもあきらめないで最後まで主に信頼したヒゼキヤの姿から学びたいと思います。
Ⅰ.高慢になったヒゼキヤ(1-4) まず第一にヒゼキヤの失敗から見ていきましょう。1節から4節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。
「1 そのころ、バルアダンの子、バビロンの王メロダク・バルアダンは、使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けた。彼が病気だったが、元気になった、ということを聞いたからである。2 ヒゼキヤはそれらを喜び、宝庫、銀、金、香料、高価な油、いっさいの武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった。」
「そのころ」とは、ヒゼキヤが死に至る病から奇跡的にいやされたころのことです。バビロンの王メロダク・バルアダンは、使者を遣わし、ヒゼキヤに見舞いの手紙と贈り物を届けました。それは彼が病気だったが、元気になった、ということを聞いたからです。このころバビロンはまだ新興国でした。このころ世界を風靡していたのはアッシリヤでしたが、そのアッシリヤに代わって後に超大国になるのがバビロンという国です。それまでバビロンは何度かアッシリヤに反旗を翻しますがその度に退けられていました。事実、B.C.710年にはこのバビロンの王メロダク・バロアダンはアッシリヤに反逆して戦いますがその戦いに敗れ、アッシリヤの王サルゴン2世によってバビロンを追放されています。しかし、サルゴン王の死後、再び彼はこのバビロンを治めるようになっていました。ですから、こうしてメロダク・バルアダンがヒゼキヤに見舞いを送ったのは、ヒゼキヤと同盟を結んでアッシリヤに対抗しようという意図があったからなのです。ちょうど、病気だということを聞いたメロダク・バルアダンは、この機会を利用してヒゼキヤに近づこうとしたわけです。
それでヒゼキヤはどうしたかというと、バビロンの王が使者を遣わし数々の贈り物まで贈ってくれたことに感激して、宝庫と、銀、金、香料、高価な油、いっさいの武器庫、および彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せてしまいました。国家の秘密の物までもすべて公開してしまったのです。ヒゼキヤが彼らに見せなかったものは一つもありませんでした。そしてこのことが原因となり、やがて南ユダ王国はこのバビロンによって完全に滅ぼされることになってしまうわけです。その原因を作ったのがヒゼキヤでした。この事件がそのきっかけだったわけです。ヒゼキヤは15年も寿命を延ばしてもらいましたが、その間にしたことはとんでもないことでした。取り返しのつかない過ちを犯してしまったのです。いったい何が問題だったのでしょうか?
この箇所の並行記事がⅡ歴代誌32章にあります。開いてみましょう。24-25節です。「24 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかったが、彼が主に祈ったとき、主は彼に答え、しるしを与えられた。25 ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。」
問題は、彼の心が高ぶったことです。彼は自分の富と力を誇りたかったのです。彼がほんとうに見せなければならなかったのは生きて働かれる神の御業だったのに、自分の業績を見せました。彼は使者たちを神殿に連れて行き、イスラエルの神が天地を創造された唯一の神であり、恵み深く、またあわれみ深い方であり、この主をおそれるすべての者にあわれみを示してくださり、不治の病までもいやしてくださったということをあかしすべきだったのに、そして、神殿の聖歌隊と共に、琴を奏でて賛美すべきだったのに、バビロンから贈られた病気見舞いの品々を見て興奮し、有頂天になって、神の奇跡についてあかしするどころか、自分の宝物倉などを全部見せて、自分の権力と、自分の栄華を誇示しました。一言でいうと、彼は人間的な欲のゆえに信仰の中心を失ってしまったのです。信仰の中心とは何でしょうか。それは神だけに頼るということです。それまではアッシリヤの王セナケリブや将軍ラブ・シャケからの脅迫状が届いても、彼は主の宮に行ってそれを広げ、主に祈りました。病気で死にかかったときも、ただ主だけを見上げて、涙して祈りました。しかし、そうした危機から脱するとあたかも自分の力で勝利したかのように思い込んで高ぶってしまいました。今まで神さまだけに頼り、祈ってきた彼の心に隙間が生じたのです。
愚かと言えば愚かですが、往々にして人にはこのような傾向があります。人は神の恵みに感謝するよりも、自分の栄光を誇示しがちなのです。病気がいやされたり、家庭が崩壊の危機から回復したりすると、主の恵みに感謝し、キリストのみわざについてあかしするよりも、自分のすばらしさを誇示しようとするのです。そうしたみにくい性質があるのです。ラブシャケやセナケリブから脅迫された時は、それで信仰から離れてしまうのではないかという危険がありましたが、それよりももっと危険なのは、本当の意味で危険なのは、むしろそうした困難に勝利して「あなたはすばらしい」と人からちやほやされたり、こうした陣中見舞いの品々が届けられて、心ウキウキするような時なのだということを私たちはよく覚えながら、パウロが「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(Ⅰコリント10:13)と言ったように、いつも慎み深く、謙遜でありたいと思います。
Ⅱ.すべてはバビロンへ(5-7)
次に、そのようなヒゼキヤの高慢に対する主のさばきを見たいと思います。5節から7節までをご覧ください。「5 すると、イザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の主のことばを聞きなさい。6 見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。7 また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。」
これは、この時から115年後のB.C.586年に起こるバビロン捕囚の預言です。バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを陥落させ、そこにいた人たちを捕虜として連行するだけでなく、ヒゼキヤがバビロンの使者たちに見せたすべての財産が、バビロンの人々によって略奪されます。そればかりではなく、ヒゼキヤの息子たちがバビロンにとらえられて、バビロンの王の宮殿で宦官として仕えるようになります。ユダの統治者たちが異邦人の宮殿で仕えるということはどれほど屈辱的なことであったでしょう。そのようなことになります。彼らは自分たちが警戒していたアッシリヤによってではなく、バビロンの攻撃によって滅んでしまうことになるのです。
その原因は何かというと、ヒゼキヤが神ではないバビロンに拠り頼んだからです。神の恵みに感謝しないで、あくまでも自分の栄光を誇ろうとしたからなのです。もし彼が神に信頼し、神に助けを求めたのであれば、滅ぼされることはなかったでしょう。しかし彼は神ではなく自分のことしか考えませんでした。自分さえよければ良かったのです。自分の栄光を求めました。だから滅んでしまうことになったのです。 文学の世界には、悲劇の主人公に性格的な欠陥があり、それがその主人公を破滅に追い込んでいくというパターンがありますが、これを「悲劇的欠点」と呼ぶそうです。聖書に出てくるウジヤ王は、まさにそれでした。ウジヤ王は16歳でユダの王となると、長い間、主を追い求め、主に従いました。神はそのようなウジヤを祝福し繁栄をお与えになったので、その名は遠くにまで鳴り響きました。しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至りました(Ⅱ歴代26:16)。ウジヤ王は神の命令にそむいて、自らが祭壇で香を焚こうとして、主の神殿に入りました。おそらく自分だけは特別で、神が全人類に与えられた戒めからも除外してもらえるのではないかと思ったのでしょう。祭司たちがやって来て「主に香を焚くのはあなたのすることではありません」と諭すと、ウジヤは開き直って激しく怒りました。もう怖いものは何もありませんでした。その時、主が彼を打たれました。それで彼はツァラートに冒されたのです。 文学の世界でも、現実の世の中でも、良い評判を誇った人が面目を失い、自分の名を汚し、苦しむということがよくありますが、それは文学の世界だけでなく私たちの世界でも言えることなのです。称賛の甘い蜜が、おごりという毒に変化しないように私たちも注意したいものです。そのためにできる唯一のことは、謙虚な心で神に従うことなのです。
Ⅲ.それでもあきらめないで(8)
最後に8節を見て終わりたいと思います。ヒゼキヤは失敗しました。有頂天になってバビロンの使者たちに見せてはならないものまて見せてしまいました。その結果、取り返しのつかない結果を招いてしまったわけです。それでヒゼキヤの生涯は終わったのでしょうか?cそうではありません。8節を見ると、彼はそこからまた悔い改めて立ち上がったことがわかります。8節をご覧ください。「ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は、平和で安全だろう、と思ったからである。」
ヒゼキヤはここでイザヤに、「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい」と言いました。どうしてでしょうか?それは彼が、自分が生きている間は、平和で安全であろう、と思ったからです。これらのことは自分が生きている時代ではなく後の起こるので、安心だと思ったというのです。あまりにも身勝手です。自分さえよければいいといった利己的な思いが込められています。
しかしこの文脈を見ると、あながちそうではもないことがわかります。先程も開いた並行記事であるⅡ歴代誌32章26節には次のように記されてあります。「しかしヒゼキヤが、その心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼およびエルサレムの住民もそうしたので、主の怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。」 ヒゼキヤは、この神のさはぎを招くようになったのは自分のせいであること、自分が高ぶったからだということを知り、その高ぶりを捨ててへりくだりました。それで、主の怒りはヒゼキヤの時代は彼らの上に臨まなかったのです。すなわち、ヒゼキヤは自分が生きている間は主の怒りは下らないから安心だと考えていたのではなく、そうした失敗からも学び、それを悔い改めてへりくだったので、彼が生きている間には起こらないことを悟ったのです。確かにヒゼキヤは高ぶりました。それで彼の上に、また、ユダとエルサレムに取り返しのつかないような結果を招いてしまいましたが、それで彼はあきらめることなく、そこからもう一度悔い改めて、主に立ち返ったのです。彼はこの失敗を通して、この痛ましい出来事を通して、大切な教訓を学んだのです。それが「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい」という言葉によく表れていると思います。
38章をみると彼が39歳の時死の宣告を受けた時の様子が描かれていますが、その時とは全然違います。その時は死にたくない、死にたくないの一点張りでした。神さまが「あなたは死ぬ。直らない。」と言ってるのにそのことばを受け入れることができず、大声で泣き叫びました。今流行の新島八重、八重の桜の言葉で言うと、会津弁で言うと「んだげんちょも」となりますが、「んだげんちょも」「んだげんちょも」と言って受け入れることができなかったのです。主のことばはありがたくなかったわけです。それは人間の心情からすれば当然のことで、自然な感情の表れかもしれませんが、この時は違います。イザヤが告げた後にもたらされるであろう神のさばきの宣告に対して泣き言一つ言わず、「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい」と言うことができました。いったいなぜこの時ヒゼキヤはこのように言うことができたのでしょうか。それは、彼が自分の失敗を通して学んでいたからです。15年間も寿命を延ばしてもらったのに大きな過ちを犯してしまったのは、高慢にもそれが自分が良い人間であるかのように思い込んでいたからだ。それが一方的な神さまのあわれみであることを忘れて・・。すべては神さまの恵みです。神さまは約束されたことを一つもたがわず実現してくださる真実な方であって、その真実のゆえにこの病も癒してくださった。決して自分の功績によってではない。ただ神さまのあわれみなんだ。だから主のみこころがベストであり、それに従うことが最大の祝福なんだということがわかったのです。それがこのことばに現れているのです。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」 彼は自分の失敗を悔い改め、そこから学んでいたので、このように言うことができたのです。彼はイザヤが告げた神のさはぎに対して一切泣き言を言わず、また異議を申し立てるようなこともせず、ただ「主のことばはありがたい」と言って受け入れたのです。
ですから、その後のヒゼキヤのことばを見ると利己的で無責任な態度のように見えますが、38章に照らし合わせてみると、むしろ自分の過ちを認め、神のさばきの宣言を受け入れようとする信仰的な態度が読み取れるのです。それはⅡ歴代誌32章33節の言葉を見てもわかります。ヒゼキヤの最期について聖書は次のように記しています。
「こうして、ヒゼキヤは彼の先祖たちとともに眠り、人々は彼をダビデの子らの墓地の上り坂に葬った。ユダのすべての人々とエルサレムの住民は、彼が死んだとき、彼に栄光を与えた。彼の子マナセが代わって王となった。」
ヒゼキヤが死んだとき、ユダのすべての人々とエルサレムの住民は、彼に栄光を与えました。ヒゼキヤは栄光のうちに死ぬことが許されたのです。それは彼が何歳になっても自分の過ちや失敗から教訓を学び、主のみこころにかなった歩みを求めていたからです。年をとっても罪を犯すことがあります。晩年になっても人は完全にはなれません。いつも過ちを犯すのです。このことを厳粛に受け止めるなら、私たちもヒゼキヤのようにそこから教訓を学ぶことができるのではないでしょうか。
C.S.ルイスは次のように言いました。「人間は結局、二種類に分けられる。神が『汝の意のままになれ』と言う人と、神に『御身の意のままに』と言う人だ。地獄に行く者はみな、自分で地獄を選んでいる」 ヒゼキヤはかつて神が「汝が意のままになれ」という人でした。神のみこころがどうであろうとも、私の願うようにしてください、私の思いのままにしてくださいというタイプの人間でしたが、この失敗を通して教訓を学び、神に「御身の意のままに」、すなわち、あなたのみこころのとおりにしてくださいと言う人に変えられたのです。
日本を代表する明治時代のクリスチャンに内村鑑三という人がいますが、彼は次のように言いました。「死ぬこともよい。願わくは神より離れないことを。神に生きれば、私に恐怖はない。」すばらしいことばですね。これはヒゼキヤが学んで到達した境地と言えましょう。あなたのみこころのままに。生きるも良し、死ぬこともまた益なり・・・と。 しかし、内村鑑三は最初からこのような力強い信仰を持っていたのかというとそうではありません。彼がこのような信仰に至ったのは、娘の死がきっかけであったと言われています。娘の名前はルツ子と言いました。ルツ記のルツからとってルツ子です。ルツ子さんは数え年で19歳の時原因不明の難病で天に召されます。その亡くなる3時間前に内村鑑三と奥さん、そしてルツ子さんの3人で聖餐式を行いました。その聖餐に預かったときルツ子さんが「感謝、感謝。もう行きます。」と言いました。それが最後の言葉でした。その12分後にルツ子さんは息を引き取って、天に召されました。 それを見た内村鑑三は悲しみの中にも深く感動し、ルツ子さんの葬式の時にこう言いました。 「これはルツ子の葬式ではなく、結婚式です。私の愛する娘を天国に嫁入りされたのであります」 そして墓地に埋葬する際には、一握りの土をつかんで、その手を高く上げると、かん高い声で「ルツ子さんバンザイ、ルツ子さんバンザイ。」と大声で叫びました。それはこのルツ子さんの死を通して、内村鑑三が初めて復活信仰、再臨信仰に目覚めたからです。 それで晩年の内村鑑三は、イエス・キリストがいつ戻って来てもいいように生活するように心がけました。そして、娘のルツ子さんと天国で再会できることを何よりもの楽しみとして、力強くあかしし、伝道者としての生涯を全うしたと言われています。 それまで彼は、実は、4度の結婚をしています。1度は死別でしたがあとの2度は離婚しているんです。クリスチャンなのに2回も離婚しました。ルツ子さんは最後の奥さんとの間に生まれたまな娘です。その娘が天国に召されたことは彼にとって本当にショックなことでしたが、そのことを通して彼はこれまでの彼の生き様がいかにいい加減なもので、罪深いものであるかを示され、そしてこの結婚が本当に神から与えられた祝福だと感謝して受け止めることができるようになったのです。悔い改めることもできました。いわば娘のルツ子さんの死によって、彼の信仰は刷新されたのです。 そんな内村鑑三が一つの死を書きました。「我らは四人」という詩です。四人というのは娘のルツ子さんの他にもう一人の子供がいたので四人と言っているわけです。 「我らは四人であった。 しかして 今なお四人である。 戸籍簿に一人の名は消え、四角の食卓の一辺はむなしく 四部合奏の一部は欠け 賛美の乱れされしと言えども しかして 我らは今なお四人である。 我らは四人である。地の帳簿に一人の名は消え、天の記録に一人の名は増えた。 三度の食事に空席はできたが、残る三人はより親しくなった。 彼女は今は我らの内にある。一人は三人を縛る愛の絆となった。 しかし、我らはいつまでもかくあるのではない。 我らはラッパの鳴り響くとき、眠れる者が皆起き上がるとき、 主が再びこの地に来たりたもうとき、新しいエルサレムが天から下るとき、 我らは再び四人になるのである。」
何という信仰でしょう。これがキリストを知る者の信仰です。これが復活を信じる者の信仰です。「生きることはキリスト、死ぬことも益です。」(ピリピ1:21)願わくば、神より離れないことを、という信仰です。「御身の意のままに」という人の信仰なのです。
内村鑑三がこのように言うことができたのは、ルツ子さんの死によって、その死に様を通して、本当の信仰に触れたからです。これがヒゼキヤの信仰でもありました。このときはまだキリストの復活がなかったのでそれはぼんやりしていたと思いますが、これまでの数々の失敗を通して、彼もまたその境地に至ったのです。それが「あなたが告げてくれた主のことばはありがい。」なのです。
皆さん、私たちも年をとってからでも罪を犯すことがあります。晩年になっても大きな過ちを犯し、神のさばきを招いてしまうことがあるのです。ダビデもそうでした。彼も晩年になって人口調査の罪を犯し、神のさばきを招きました。彼は神よりも軍事力に頼ろうとしたのです。その結果、イスラエルの民7万人が疫病で倒れるという災いを招いてしまいました。同じように私たちも、何歳になっても完全にはなれません。罪を犯したり、過ちに陥ったりすることがあるのです。 しかし神は、私たちがもう一度信仰に立つことができるようにチャンスを与えてくださいます。そうした過ちや失敗からも必ず学ぶべきレッスンがあるのです。 だから、私のあの時の言葉が、あの時の振る舞いが、過ちが、今日のこんな結果を招いてしまったとか、自分の子供にも、孫にも、こんな影響を与えてしまった、自分の周囲の人たちも巻き込んでしまったとただ後悔ばかりして、泣きべそばかりかいているのではなく、その失敗からもしっかり学んでほしいと思います。最後まであきらめたり、なげやりになったりせずに、それでも主にすがっていただきたいのです。ヒゼキヤのように、「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい」と言えるように、何歳になってもその失敗から学んでほしいのです。
イエスの弟子のペテロは、いつも主のみそばにいて四六時中観察しながら学んでいてもいつも失敗ばかりしていましたが、そのペテロが後にこのように証しています。
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5:10)
彼は、主が完全にしてくださると信じていました。主が私たちを変えてくださるのであって、それは一方的な主のあわれみによるのです。私たちが他の人のことを、ああだ、こうだと評価してしまうのは、人はだれであれ「工事中」であるということ、つまり変えられる過程であるということを忘れているからなのです。ペテロは、自分が変えられるのに時間がかかったことを知っていました。ですから、他の人たちのことも余裕をもって待てるようになったのです。彼は「主が完全にしてくださる」と言いました。今、完全なのではありません。晩年になったから完全になるのでもない。私たちは何歳になっても「工事中」なのです。しかし、主はそのような者を変え、やがて完全にし、堅くし、強くしてくださいます。その神の約束を信じて神にゆだねましょう。そしてへりくだって仕えていきたいと思います。自分の弱さに失望してはなりません。ヒゼキヤのように変えられるためには、弱さを持ったまま主の御前に進み出て、そこからしっかりと学ぶべきことを学び、変えられるべきところは変えられるように祈りながら、主の励ましをいただいてもう一度立ち上がることです。主のいつくしみと恵みは尽きることはありません。何歳になってもあなたは新しく変えられるのです。そう信じて、あきらめないで、主のあわれみを信じて、何度でも立ち上がりましょう。それがヒゼキヤの生涯、栄光の生涯だったのです。