イザヤ書41章21~29節 「主だけが神」

きょうは、「主だけが神」というタイトルでお話したいと思います。21節に「あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。」とあります。「あなたがた」とは偶像の神々のことです。ここで主は偶像の神々に呼びかけて、どちらが本物の神なのか、その証拠を持って来い、というわけです。偶像が本物の神ならば、その証拠がなくてはなりません。神は神としての証拠を見せることができることによってのみ、その正当性が認められるからです。きょうのところには主こそ真の神であるということがいかんなく示されています。きょうは主こそ神であるということについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.後に起ころうとする事を告げよ(22-24)    まず最初に22節から24節までをご覧ください。22節と23節をお読みします。「持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。先にあった事は何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれもそれに心を留め、また後の事どもを知ることができよう。または、来たるべき事をわたしたちに聞かせよ。後に起ころうとする事を告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。」

ここで主は、「後に起ころうとする事を告げよ」と語られます。後に起ころうとする事を告げることのできる方が、真の神であるというのです。ここに「われわれ」とあるのは、神とイスラエルのことを指しているからです。主なる神とイスラエルが一体化しているわけです。しかし、それは同時に父、子、聖霊の三位一体の神のことを表しているといるとも言ってもいいでしょう。創世記1章26節のところで神は、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と仰せになられました。その神のことです。

この神が偶像に神であることの証拠として求めたことが、「後に起ころうとすることを告げよ。」ということでした。本物の神ならば、これから後に起こることを告げることができます。これは神にしかできないことです。もしそれができるとしたら、それこそ神であると言ってもいいでしょう。しかし、できません。偶像にはこれから後にどんなことが起こることを告げることはできないのです。

しかし、聖書の神は違います。まぁ、聖書の神という表現も微妙ですね。神社の神とか、自然の神とか、神という名前が一杯あるからです。別に宣伝する訳ではありませんが、最近「創造主訳聖書」というのが刊行されまして、それではこの違いを明確にするために、その訳では「創造主」と言っています。この方がはっきりするかもしれません。ビックリするほどよく分かると好評ですので、良かったらどうぞ読んでみてください。この聖書の神、創造主なる神は、これから後に起こることを、未来のことをあらかじめ告げることができます。聖書には未来のことがたくさん記されてあります。これを何というかというと「預言」と言いますが、実に聖書の1/3、あるいは1/4がこの預言で占められています。聖書が預言の書であると言われるゆえんはここにあります。これが、聖書がユニークな書物であることの一つの大きな理由でもあるわけです。聖書はこれから後に起ころうとすることを的確に、より具体的にあらかじめ告げているのです。

たとえば25節を見ると、ここには、「わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出る所から、わたしの名を呼ぶ。彼は長官たちをしっくいのように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように。」とありますが、これも預言の一つです。「北から人を起こす」の「北」とはペルシャのこと、「人」とはそのペルシャの王クロスのことです。彼は日の出る所から、わたしの名を呼び、長官たちをしっくいのように、陶器師が粘土を踏みつけるように踏むというのです。これはペルシャの王クロスがやって来て、バビロンを攻撃するという預言です。ちょうど陶器師が粘土を踏んで、こね返すように、バビロンを踏みつけるというのです。

このことが語られたのは、B.C.700年頃です。そしてこれが実際に起こったのは約150年後のB.C.539年なんですね。実に150年も後のことです。このときにはまだペルシャ帝国は興っていません。この時はまだアッシリヤ帝国の時代でした。この後にバビロニヤ帝国が興り、ペルシャ帝国、メド・ペルシャ帝国が興るのはその後のことなんです。勿論、クロス王もまだ生まれていません。なのにまだ生まれていない人の名前までも正確に告げているのです。そんなことあり得ないと、ある人は第二イザヤ、第三イザヤなる人物がいて、後の時代になってこれを書き加えられたのではないかと疑う人もいるのですが、神が全知全能であられるならば、むしろこのことが、この創造主なる神こそ真の神であることの証明であると言えるのです。

よくキリスト教もイスラム教も仏教もみんな同じだと言う人がいます。どの宗教もみんないいこと言ってると、いかにもすべてを学んだかのように言う人がいますが、実は、それは間違っています。そのように言うのは、実は聖書のことをよく知っていないからなのです。聖書を学んだことがある人なら、決してそのようなことは言えないでしょう。だれがこれから起こることを正確に告げることができるでしょう。聖書はただの宗教書でなければ、ただの道徳書でもありません。あるいはただの心理的な書物でもないのです。これを読めば心が穏やかになってくるという類の本ではないのです。もちろん、そのような面もありますが、それが中心ではありません。そのようなつもりで読んでいると、そうでない現実に直面してつまずいてしまうこともあるかもしれません。というのは、聖書は主こそ神であって、この神が人類の歴史の中にどのようにご介入されたのかを知り、この方に従い、この方を敬って生きることが私たち人間に与えられた喜びであり、祝福であることを示しているのです。そして、この神が本物の神ならば、後に興ろうとすること正確に、またより具体的に告げることができるのです。それが聖書です。

「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(Ⅱペテロ1:21)

これが聖書が他の本と決定的に違う点です。世の中にはノストラダムスの大予言とか、マヤの予言といったまやかしも多くあります。しかし、それらはとても預言とは言い難いものです。なぜなら、必ず外れるからです。つい最近もマヤの預言によると、2012年12月21日に人類が滅亡すると預言して外れました。外れたらその言い訳が何かというと、どうも計算ミスがあったというのです。よく計算してみたら2012年ではなく2015年だったと手のひらを返すように説を翻しました。外れるとそうやって後回し後回しするのですが、それはまやかしにすぎません。ただ人々を恐怖と混乱に陥れるだけなのです。

しかし聖書は違います。聖書は人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った神のことばなので、語られたことは必ず成就するのです。決して裏切ることはありません。もっとも、これが神のことばだと預言してそれが実現しなかったら、その預言者の命は取られました。そして、その預言を語った者が信じている神も否定されたのです。一つでも外れたら死ななければなりませんでした。ですから当時の預言者はいのちがけで語ったということがわかります。いい加減には語ることはできませんでした。そのようにしてできあがったのが聖書なのです。それゆえに、聖書は信じるに値するものであり、人生をかけるほどの価値あるものであることがわかります。これキリスト教なのであって、そういう点では他の宗教と全然違うということがおわかりいただけるのではないでしょうか。

勿論、旧約聖書にはイエス・キリストについての預言もたくさんあります。キリストとはメシヤ、救い主のことですが、このキリストがどこで生まれ、どのような生涯を送られ、どのような苦しみを受けられ、どのようにして死なれ、どのようにしてよみがえられるのかについて、はっきり預言されています。直接的には300回以上、間接的なものも含めると、実に350回以上も預言されているのです。ですから旧約聖書をみると、来るべきメシヤ、救い主がどのような方であるのかがはっきりわかるのです。そしてこの旧約聖書(聖書)が、ナザレ人イエスこそ、十字架にかかって死なれ、三日目に墓からよみがえられたイエスこそ救い主であると、はっきり告げているのです。ある意味で新約聖書はそのことを証明している書であると言えます。旧約聖書の中で預言されていたメシヤが、どのようにイエス・キリストにおいて成就したのかということを証明しているのです。キリスト教が世界的な広がりを持つようになったのはパウロという伝道者の影響が大きいと言われていますが、そのパウロがどのように伝道したかというと、彼はまずユダヤ教の会堂に行ってみことばを語りました。なぜユダヤ人の会堂に行ったのかというと、彼らはみな旧約聖書を信じていたからです。その旧約聖書に書かれてあるメシヤとはだれなのかを示したのです。彼は旧約聖書から論じたのです。そして、多くの人たちが聖書のことばを聞いただけで信じることができたのです。それは仏教も、キリスト教も、イスラム教もみな同じというレベルではありません。イエスこそキリスト、救い主であるという確信です。なぜなら、イエスこそ旧約聖書の中であらかじめ預言されていたメシヤであられるからです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

この確信です。あれから二千年が経ちました。二千年が経った今、そうした新約聖書の時代に生きた人たちの証言を通して、死たちはイエスという人物がどういう人であったかを知ることができます。イエスこそは旧約聖書の中で預言されていたメシヤ、救い主であるということをはっきり知ることができるのです。と同時に、まだ成就していないことも告げています。それは世の終わりのことです。イエス・キリストの再臨によってもたらされる千年王国と、その後に続く新天新地、新しいエルサレムについても告げられているのです。そして、これまで語られてきたことがことごとく成就してきたことを見ると、これから起こると預言されていることも100%起こると信じることができます。それは地震予知なんかよりはるかに確実なことなのです。最近も大きい地震が立て続けに起きていて、どうしたら地震が起こるのを予知することができるかと躍起になっていますが、結論から申し上げますと、どんなに科学的なデータを分析しても、地震が起こることを予知することはできないということです。だから、いつ地震が起こってもいいよにそれに備えていくことの方が重要なことなのです。しかし、主が再び来られることと、その後に千年王国がもたらされるということは必ず起こることとして聖書の中に記されてあるわけですから、そのために備えておくことはもっと重要なことです。いったいどうやって備えたらいいのでしょうか?

22節を見ると、おもしろいことが言われています。それは「先にあった事は何であったのかを告げよ。」という言葉です。先にあった事はだれにでもわかります。誰にでも告げることができます。なのにあえて「先にあったことを告げよ。」とはどういうことなのでしょうか?これは単に先にどんなことがあったのかを告げよということではなく、それがどういうことなのかを、その意味を告げて見よということです。過去についてその意味なり、真相なりを正しく語ることができなければ、未来のことについても正しく語ることができません。世界には初めがあったこと、そしてその世界が神によって造られたこと、しかも、それが秩序あるものとして造られ、その中でも人間が神に似せて、神のかたちに特別に造られたことを知っている者だけが、未来のことを正しく告げることができるからです。それはちょうどボートを漕ぐ人のようなものです。ボートを漕ぐ人は未来の方へ背を向け、過去を見ながら、未来に向かって前進していきます。それと同じです。その過去の歴史を見て、神がどのような方なのかを正しく知ることができる者だけが、未来のことを正確に告げることができるということなのであって、それはこの天地万物を造られた創造主なる神を知ること以外にはないのです。

この神を知るとき、神がいかに私たちを愛し、関わろうとされたかがわかります。私たちの努力や行いによっては決して義と認められることはなく、ただ神のひとり子であられるイエス・キリストを信じることによってのみ救われるということがわかり、そのことが後に起ころうとする事の備え、永遠の備えであることがわかるのです。

先日、生命保険の営業の方が来られました。今入っている保険の確認で伺いたいがどうかというので、「はい、どうぞお待ちしています」と言って、来られました。話の中で、私はクリスチャンなので神を信じているんですよ、という話をしたのです。この世はお上の言う通りでなんでも国が言うことを信じていますが、国が言ってることはころころ変わるので信じられません。だから、いつまでも変わらないもの、神を信じているんです。みたいなことを言いましたら、その方が「うちの職場にもクリスチャンがいる」というのです。週に3回は研修だと言って仕事を休むのだけど・・。「それはクリスチャンではなくてエホバの証人じゃないかな。クリスチャンはそんなに仕事を休むことはしないし、いつも研修があわけじゃないから・・。」「ところで、あなたもイエスさまを信じませんか。」と言ったら、この方、こう言うのです。「いや、実は私、学会なんです。今、いろいろと話を聞いてて、やっぱり信じるものがあるというのは違うなぁと思ってたんです。」というのです。ああ、そういうことだったのか・・と心に思いながらも、学会の方でも救われた人もいるんだから、ここはあきらめないでお話をしようと思い、話を続けました。「学会の方も皆さん熱心ですよね。でもキリスト教との違いがどこにあるかおわかりますか」すると、「学会では信じるだけではだめなんです」というのです。「自分でも一生懸命に頑張らないと・・。信じるだけでは救われません。」と言われました。  「そうなんです。自力本願ですよね。自分がどれだけ頑張るかの世界です。それも大切なことですが、自分の力が限界があるんじゃないですか。どんなに力のある人でもできることは限られています。そんな力を誇ってもたいしたことじゃないですよ。大切なのは神のお恵みを信じることですよ。」なんて、説教みたいなことを言いました。  その方はとても真面目で、誠実そうな方で、「保険の話にきてこんな話になってすみません」と言いながら、また聞かせてくださいと言って帰って行かれましたが、どのようにしたら救われるのかという理解が、これかの道を決定づけることになるのです。

聖書を通してつげられたこと、聖書を通して示された救い、それをどのように受け止めるのかが、後に起ころうとすることを知り、それに備えていくことにつながっていくのです。私たちの人生は未来の方に背を向け、過去を見ながら、未来に向かって進んでいくものなのだということを、覚えておきたいと思います。

Ⅱ.不思議な御業(25-27)    次に25節から27節までをご覧ください。26節と27節をお読みします。「だれが、初めから告げて、われわれにこのことを知るようにさせただろうか。だれか、あらかじめ、われわれに「それは正しい」と言うようにさせただろうか。告げた者はひとりもなく、聞かせた者もひとりもなく、あなたがたの言うことを聞いた者もだれひとり、いなかった。わたしが、最初にシオンに、「見よ。これを見よ」と言い、わたしが、エルサレムに、良い知らせを伝える者を与えよう。」

26節の「このこと」とは、25節に記されてある内容のことです。具体的には先程申し上げたように、神が北から人を起こし、長官たちをしっくいのように踏みつけるということです。それはメド・ペルシャ帝国のクロス王を起こし、バビロンを倒すという預言です。彼はバビロンにやって来て、陶器師が粘土を踏んでこね返すように、長官たちを踏みつけます。主によって送られたクロス王の前に、諸国の統治者たちは、全く抵抗できず屈服するようになるのです。

いったいだれがこんなことを考えることができるでしょうか。ここには「彼は来て、日の出る所から、わたしの名を呼ぶ。」とあります。これは解釈が困難です。これを見るとクロス王が神を知っていたかのように、信じていたかのようなイメージがありますが、そういうことではありません。クロス王は異邦の民でしたから、創造主なる神を信じていたわけではありません。

エズラ記1章2節を見ると、ここに「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。」とあります。クロスは異邦の民であって主を信じていたわけではありませんでしたが、そんな彼の意志とは関係なく、主の御業の実現のために用いられたのです。まさにアメージングです。驚くべき、不思議な御業です。いったいだれがこのようなことを考えることができるでしょう。いったいだれがこのようなことをあらかじめ告げることができるでしょう。だれもできません。ただ主だけがこれを計画し、成し遂げられました。ただ主だけがクロス王を登場させ、バビロンを滅ぼして、ご自身の民をエルサレムに帰還させることができたのです。27節には「良い知らせを伝える者」とありますが、これは預言者たちのことです。そうした預言者たちを通して主は、繰り返し繰り返し、バビロンの滅亡とクロス王による勝利、イスラエルの解放を伝えてくださったのです。これが福音です。

これが神の御業です。神の救いの御業は私たちが考えるような方法によってではなく、全く考えも及ばないような方法でもたらされます。皆さん、いったいなぜイエスは十字架につけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないからです(ヘブル9:22)。「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」(ヘブル9:26)それが神の救いの方法だったのです。 ある人はイエスの十字架を偶然のできごとか、あるいは殉教のようなものだと思っていますが、決してそんなものではありません。私たちが救われるためには、メシヤが私たちの罪を身代わりに負って死ななければならなかったのです。イザヤ書53章を開いてみましょう。ここには来るべきメシヤがどのようなことをされるのかが預言されていました。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。 9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」(イザヤ53:4-10)    この預言のとおりに、キリストは私たちのために十字架にかかって死んでくださったのです。だれがそんなことを考えることができたでしょう。だれも考えられなかったでしょう。ですから、イエスが十字架にけられたとき多くの人たちが散り散りに散らされて行ったのです。しかし、これが神の御業でした。神は私たちが考えるようにではなく、全く不思議な方法で導いてくださいます。私たちはこの主の御手の中にすべてをゆだねなければなりません。あなたがどのように考えるかということではなく、主がどのように考えておられるのかを学び、そこにすべてをゆだねなければならないのです。

Ⅲ.偶像はむなしい(28-29)

最後に28節と29節を見て終わりたいと思います。「わたしが見回しても、だれもいない。彼らの中には、わたしが尋ねても返事のできる助言者もいない。見よ。彼らはみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は風のように形もない。」

私たちの回りには多くの偶像がありますが、そのような偶像に尋ねても返事は返ってきません。たとえば、占いはどうでしょうか。私たちの回りには数多くの占いがあります。普通の女性雑誌には必ずといってよいほど占いのコーナーがあります。携帯にも、インターネットにも、あるいは毎朝のテレビでも、「きょうの運勢」なんていって占っています。しかし、占いはあたかもそうであるかのように告げますが、全くあてになりません。むしろ、それに縛られて身動きが取れなくなってしまいます。それはただ将来に対する漠然とした不安を解消させるものなのです。もし日本人に「あなたが危機に遭ったとき、あなたは何に信頼しますか」と質問したら、最も多い答えがマスメディアだそうです。テレビやネットで言ってることに信頼するというのです。しかし、そうしたものは偽りであって、正しい序言を与えてはくれません。まさに29節にあるように、「彼らのなすことはむなしい。」「彼らの鋳た像は風のように形もない。」のです。それらはただ人間の欲望の型に鋳て作られたものにすぎず、むなしいのです。

私は先日同盟の牧師会があって東京に行って来ました。その日は少しゆっくりしようと思い、新幹線で行くことにしました。しかし、あまりゆっくりにはなりませんでした。というのは、その朝駅に着いたのは良かったのですが、携帯がどこかに行ってしまいました。車の中やバッグの中をどんなに探しても見当たりませんでした。時間もなかったので仕方なく帰りにもう一度探すことにしたのですが、どうも気分が落ち着かないのです。転送にしたのでどこかから電話が来たらどうしようとか、だれかが拾って勝手に使われたら大変なことになるなとか、いろいろなことを考えて上野に着きました。  あまりにも動揺があったのでこのままではよくないと、気分を落ち着かせようと、ポケットからマウスウォツシュを取り出して2,3回噴射しました。そのとたんにとんでもない味が口の中に広がりました。よく見たら、それはマウスウォツシュではなくメガネクリーナーでした。マウスウォシュだと思って机の引き出しから取り出したのはメガネクリーナーだったのです。そう言えば、ちょっと前にメガネを交換したときにもらったのを思い出しました。それを間違って噴射したのです。すぐに水道の水でうがいをしたものの、実にむなしい気持ちになりました。

「見よ。彼らはみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。」それが神のようだからと間違えるとむなしいのです。真の神はイエス・キリストです。この方以外に救いはありません。この方は後に起ころうとすることを的確に、具体的に告げることができます。この方こそあなたが信頼するに価する神なのです。この方は不思議な御業をもってあなたの人生を導いてくださいます。どうかこの方に信頼してください。あなたの中にはまだ、完全に捨てきることのできない迷信的な考えや習慣といったものはないでしょうか。しかし、それはまやかしです。主だけがまことの神です。どうかこの方を見上げ、この方だけに信頼してください。そのときあなたもあなたが想像も及ばないほどの偉大な御業を体験していくことになるのです。