イザヤ書42章1~9節 「主のしもべ、イエス・キリスト」

きょうはイザヤ書42章のみことばから、神の御声を聞きたいと思います。タイトルは「主のしもべイエス・キリスト」です。

Ⅰ.主のしもべイエス・キリスト(1)

まず1節をご覧ください。ここには、「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」とあります。

この「わたしのしもべ」とは、やがて来られるメシヤ、イエス・キリストのことを指しています。これが新約聖書に引用されていることからわかります。マタイの福音書12章17節から21節までを開いてください。

「17これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心は喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。19争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。20彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。21 異邦人は彼の名に望みをかける。」

ある安息日にイエスが会堂に入られると、そこに片手のなえた人がいました。安息日にいやすことは正しいことか。律法学者やパリサイ人たちはイエスを訴える口実を見付けようと躍起になっていましたが、安息日に良いことをすることは正しいことであると、イエスは彼の手をいやされました。当然、パリサイ人たちはそのことを訴えようとしていたわけですが、イエスはそのことを知って、そこを立ち去られました。そして、ご自分について来られた人たちを、みないやされました。しかし、ご自分のことを人々に知らせないようと、彼らを戒められたのです。なぜでしょうか。まだご自分の時が来ていなかったからです。十字架にかかる時が来ていませんでした。そこでご自分のことを人々に知らせないようにと、戒められたのです。マタイは、このことはこのイザヤ書に書かれてあることが成就するためであってと、これを引用したのです。ですから、この「わたしのしもべ」とはイエス・キリストのことであって、イザヤはイエスが生まれる700年以上も前に、このことを預言していたのです。

「わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」  これもイエス・キリストによって成就したことがわかります。マタイの福音書3章16~17節をご覧ください。

「16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

これはイエスが約30 歳になられた時、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをを受けた時の光景です。この時からイエスは公生涯に入られました。その最初がバプテスマを受けることだったのです。その時、天から声がありました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」父なる神が御子イエス・キリストを、忠実なしもべとして喜ばれたのです。 つまりイエスこそ天の神が承認した神の子であり、神の忠実なしもべであったのです。イエスが成すすべてのことは神が喜ばれることであり、神に受け入れられることなのです。このことによって改めてイエスが神の子、救い主であるということが確証されたと言ってもいいでしょう。

その時、天が開け、神の御霊が鳩のようにイエスの上に下られました。これはイエスが水のバプテスマを受けられたとき、同時に聖霊のバプテスマを受けられたということです。イザヤ書42章1節に、「わたしは彼の上にわたしの霊を授け」とあるとおりです。神のしもべであられるイエスは、神の霊、聖霊の注ぎを受けられたのです。この聖霊の力によってイエスは神の働きを始められました。この聖霊の力なくして、イエスは神に喜ばれる働きをすることはできませんでした。イエスが神の子であったのならどうして聖霊に満たされる必要があったのかと思われる人もいるかもしれません。それはイエスが人となられたからです。神が人となるためには、神としての特権を捨てなければなりませんでした。一時的に。そうでないと、人になることができなかったからです。もしイエスが全知全能だったら、もはや人間とは言えなかったでしょう。全知全能な人間などいないからです。しかしイエスは人として生まれてくださったので、私たちと同じ弱さ、同じ苦しみを持たれました。私たちと同じようにイエスも疲れることがあり、同じように空腹を感じることがありました。同じように喉が渇くこともありました。無力さを感じることもあったのです。それは彼が人となられたからです。しかしイエスは神の霊が注がれていたので、神にしかできないことをすることができました。イエスは無限の霊が注がれていた(ヨハネ3:34)ので、この神の霊によって公義(神の支配)をもたらすことができたのです。

それは私たちも同じです。今日イエスを信じているクリスチャンにも同じ力が与えられます。使徒の働き1章8節を開いてください。 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」  この聖霊に満たされるとき、あなたも神の力を受けて、地の果てまで、神の働きをすることができます。この力がなければただの人です。何もすることができません。ただ聖霊が注がれ、聖霊の力を受けてこそ、偉大な神の働きをすることができるのです。

Ⅱ.心優しく、へりくだった神のしもべ(2-4)

次に2節から4節までをご覧ださい。「彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声は聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。」

「彼」とはしもべのことですが、彼は叫ばず、声を上げず、ちまたにその声を聞かせません。これはどういうことかというと、文字通りイエスが叫ばなかったとか、声をあげなかったということではありません。ちまたにその声を聞かせなかったということではないのです。イエスは3年半の間、悪霊を追い出し、病人をいやし、神の国をちまたで宣べ伝えました。ですから、これは文字通りにそのようにしなかったということではありません。これはイエスがどのように神の国を宣べ伝えたのかということです。そして、イエスの宣教活動は全く地味なものでした。イエスは自分自身をひけらかしたり、人々を集めて大きな伝道集会をしたわけでもありません。イエスはただ名もない12人を弟子に選び、彼らと生活を共にしながら神の国を宣べ伝えました。そこには力ある人や裕福な人はいませんでした。彼らの多くは漁師たちでした。いわば無学な普通の人だったのです。中には元取税人もいました。熱心党員もいましたが、権力者とか、大富豪、有名な人はいませんでした。彼らはごく普通の、無名な、素朴な人たちでした。そういう人たちを通して福音を宣べ伝えたのです。

ですから、牢獄に捕らえられていたバプテスマのヨハネは、ある時自分の弟子をイエスのもとに送り、こう尋ねなければなりませんでした。 「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか。」(ルカ7:20)  バプテスマヨハネがそのような尋ねたのは、イエスがそのような人だったからでしょう。バプテスのヨハネのように、「燃えるようなメッセージを語っていたわけではなく、ただ淡々と神の国の福音を宣べ伝えていただけです。だからヨハネはそのように尋ねたのです。そう尋ねざるを得なかったのです。イエスがあまりにも人目を引くように語っていなかったからです。

そればかりではありません。ここに「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。」とあります。これはどういうことでしょうか?「葦」とは足のことではなく「葦」のことです。もっともこの「アシ」という名称が「悪し」というイメージにつながることから、「アシ」ではなく「ヨシ」とも呼ばれているそうですが、「アシ」「ヨシ」でもどちらでも、風が吹くとすぐに折れてしまうような弱い植物です。しかもここには「いたんだ葦」とあります。傷ついて、いたんだ葦、今にも折れそうな足です。全く価値がありません。そんな傷ついた、いたんだ葦でも、「お前なんか傷物だからだめだ」と言って折ってしまわないで、優しく守ってくれる。支えてくれるというのです。

また、ここには「くすぶる燈心を消すこともない」とあります。何ですか、「くすぶる燈心を消すこともない」とは?燈心とはランプなどの芯のことです。灯油を吸い込ませて、火をともすためのもので、綿糸などが用いられていますが、その芯のことです。ここではその芯がくすぶっているとあります。煙しか出さないようなくすぶっている芯です。そのような芯はもう役に立ちませんが、だからといって「こんなものはいらない」と言って捨ててしまわないで、もう一度新しくしてくださるというのです。たとえあなたが、「私なんかもうだめだ」と言うことがあっても、この方は声を上げるのではなく、派手に何かするのではないけれども、そういう人々に行き届いた配慮をもって道を教えてくださるというのです。イエスはこのように言われました。

「28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28-29)

皆さん、これが私たちの信じている救い主イエス・キリストです。この方は心優しくへりくだっているので、弱そうな葦であっても折ることをせず、くすぶっているような燈心であっても消すことはなさらないのです。このようにして彼は神の道を教えてくださるのです。

そればかりではありません。4節には、「彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。」とあります。これはどういうことかというと、あきらめない、挫折しない、くじけない、ということです。彼はどんな困難に直面してもひるまず、決して挫折しません。どんな悪い者たちの抵抗と攻撃があってもくじけず、与えられた使命を最後まで全うするのです。ついには地に公義を打ち立てます。なぜなら、この方は地の果てまで創造された神だからです。40章28節から31節までをもう一度みてください。

「28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

これが主のしもべ、約束されたメシヤ、イエス・キリストです。このような方を信じて歩めるというのはどんなに心強いことでしょう。私たちはこの方を待ち望む者でありたいと思います。

Ⅲ.国々の光とする(5-9)

最後に5節から9節までを見て終わりたいと思います。まず5節から7節までをご覧ください。「天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主はこう仰せられる。「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。」

6節の「あなた」とは「主のしもべ」のことです。イエス・キリストのことであります。天と地を造られ、人間にいのちと霊を与えられた神が、この世のために主のしもべを召されました。彼に与えられた使命は国々の民が主と契約を結び、彼らが救われるために光となることです。彼は目が見えない者の目を開き、牢獄に閉じこめられている者を解放します。彼は肉体的、政治的に捕らわれた人たちを解放するだけでなく霊的に捕らわれている人々を、その罪から解放してくださるのです。

この預言のとおり、この預言から700年後に、神の子、メシヤ、救い主がこの世に来られました。そして罪と無知の中に盲目となっていた人々を、そのやみの中から救ってくださいました。キリストは十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられることによって、罪の中に捕らわれていた人たちを解放してくださったのです。

ヨハネの福音書9章には、生まれつきの盲人の目を開かれたことが記されてあります。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ9:2)という弟子たちに対して、イエスは、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(同9:3)と言って、彼の目を開かれました。それは彼の目が開かれたということだけでなく、彼の霊の眼も開かれたことを意味していました。  彼が盲目に生まれたのは、だれが罪を冒したからですか?私たちもよくする質問です。霊の目が開かれていない人はみな、このような近視眼的な見方しかできません。しかし、イエスを信じて目が開かれた人は、そうしたすべての出来事の背後に、神の栄光を見るのです。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。それはこの人の人生にとってどれほど慰めに満ちた光となったことでしょうか。

8節と9節には「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」 とあります。    この「主」とは太字の主で、アルファベットのYWVHの四文字が使われています。これは「ヤハウェ」といって、神聖四文字と言われています。これが主の名です。意味は「わたしは、あるというものである」です。「あってあるもの」という意味です。他の何ものにも依存しない者という意味です。ただそれだけで存在することができる自存の神という意味です。つまり、神は完全であられ、その栄光も完全なもので、陰ることも、うつろうこともありません。永遠に輝きわたるのです。それが神の栄光です。そのような栄光はとても偶像に似つかわしいものではありません。そのような物に神の栄誉を与えたりはしないのです。この栄光にふさわしい方はだれでしょう。そう、それは「主」です。神のしもべ、主イエス・キリストなのです。

この方は「新しい事」を告げられます。「先の事」は、すでに起こりました。「先の事」とは何でしょう。おそらく、それはイザヤを通して語られた神の預言のことでしょう。それはすでに起こりました。語られたとおりになりました。その主が新しいことを告げてくださいます。それはこの主のしもべ、メシヤに関することでしょう。それは必ずなるのです。このしもべによって、私たちは必ず神の栄光を見るようになるのです。この方こそ私たちを罪から救ってくださる救い主イエス・キリストなのです。

1節に「見よ」ということばがあります。何を見よというのでしょうか?「わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。」です。この方こそ私たちに神の国をもたらす救い主です。この方を見よ、というのです。実はこの「見よ」ということばは41章24節と29節にも出てきたことばです。そこでは偶像について用いられていました。偶像がいかにむなしいものなのかを見よというわけです。しかし、この方は違います。この方を見よ、と対比されて使われているのです。私たちが見なければならないのはこの神のしもべ、メシヤ、イエス・キリストなのです。

「この方以外にはだれによっても救いはありません。この御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、私たち人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)                  この方に信頼し、この方にあなたのすべてをゆだねましょう。たとえあなたが将来のことがわからなくても、この方はあなたの将来のことも含め、あなたのすべてのことを知っておられます。この方は前もって新しい事を告げることがおできになります。この方はあなたを救ってくださる救い主なのです。ですから、この方にあなたのすべてをゆだねることが、最も懸命なことなのです。 先のことがわからないのにあれこれと心配して、自分の力で一生懸命未来を切り開いていこうとしても、そこには何の保証もありません。期待が裏切られることもあります。しかし、神は私たちの期待を決して裏切ることはありません。神はご自身のしもべを通して、私たちのために救いとなってくださいましたから。この方にあなたの人生をゆだねること、あなたの将来をゆだねること、それが懸命なことなのです。神はあなたに約束してくださいました。神はご自分のしもべイエス・キリストによって、あなたに公義(神の国)をもたらしてくださると。あなたがしなければならないことは、この主のしもべで、救い主イエス・キリストに信頼して、あなたの人生のすべてをゆだねることです。そのとき神はあなたの人生にも奇しいみ業を行ってくださるのです。