イザヤ書44章9~20節 「偶像はむなしい」

きょうは「偶像はむなしい」というタイトルでお話したいと思います。イザヤは44章前半のところで、まことの神とはどのようなお方なのかについて語りました。そしてまことの神とはイスラエルの王である主、これを贖う方です。そして、「万軍の主」とあるように、絶対的な権威と力を持っておられる方です。また、初めであり、終わりである方とあるように、永遠なる方です。そして、これはイエス・キリストにもそっくりそのまま使われていることからもわかるように、この方は三位一体の創造主なる神です。この方以外に神はありません。この方だけが岩なる方であって、私たちが信頼するに足るお方です。それ以外に神はありません。もしあるとしたら、それはまことの神ではなく何の役にもたたない偶像です。イザヤはきょうのところでその偶像とはどのようなものなのか、また、偶像に頼るとどうなるのかを教えています。

Ⅰ.なぜ偶像を造るのか(9-11)

まず第一に9節から11節までをご覧ください。「9偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。10だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を得たのだろうか。11見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。」

ここに「偶像を造る者はみな、むなしい」とあります。なぜなら、それは何の役にも立たないからです。それは見ることもできず、知ることもできません。詩篇にもこうあります。「4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。5 口があっても語れず、目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」(詩篇115:4-8)

偶像は目があっても見えず、耳があっても聞こえず、口があっても語れず、鼻があってもかげず、手があってもさわれず、足があっても歩くことができません。そんな偶像を造り、それを拝むことにいったいどんな意味があるというのでしょうか。全く意味がありません。そうした偶像は何の役にも立たないのであって、全く無益なのです。

なのに、いったい人はなぜ偶像を造るのでしょうか?そもそも「偶像」とは「切り刻んだもの」という意味です。それは人が勝手にイメージしたものに具体的な形に切り刻んだものにすぎないのです。なぜ人は自分のイメージに切り刻むのでしょうか。そうした方が拝みやすいからです。

たとえば、出エジプト記の中にモーセが十戒を受けるためシナイ山に上って行った時、なかなか山から下りて来なかったのに苛立ったイスラエルの民は、アロンのところに来てこう言いました。「さあ、私たちに先だって行く神を、作ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったモーセという物が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」(出エジプト32:1)  イスラエルの民が嫌だったのは、モーセが神を示してくれなかったことです。自分たちに先立って行く神を見せてくれなかったということなのです。それでアロンに詰め寄り、自分たちに先立って導いてくれる神を、作ってほしいと頼んだのです。アロンもアロンです。彼もこのままではイスラエルの民が何をするかわからないと恐れたのでしょう。それで彼は金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい、と言いました。そしてそれて金の子牛を造って、「これがあなたがたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」(同32:4)と言いました。そうやって民のニーズを満足させようとしたのです。つまり、彼らは自分たちのニーズを満たすためにそうした偶像を造り、それを拝んだのです。  つまり、偶像礼拝とは何かというと、私たちの心の欲求を形にしたものなのです。人間の欲望を具現化したもの、それが偶像なのです。ですから、それは必ずしも人間や動物の形をしたものを拝むことだけではないのです。

コロサイ3章5節を開いてください。ここには「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とあります。ここでは、むさぼりそのものが偶像礼拝だと言われています。「こういうのがあったらいいなぁ」「こういうのが欲しい」そうした思いを具体的な形にし、それを礼拝することが偶像礼拝です。

ですから、それは未信者の方だけの問題ではなく、クリスチャンである私たちも警告しなければならないことなのです。ですから使徒ヨハネはその手紙の中で、次のように書き送ったのです。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(Iヨハネ5:21)。子どもたちとはクリスチャンのことです。クリスチャンにも偶像を拝もうとする誘惑があります。「こういうのがあったらいいなぁ」というイメージを抱き、それをむさぼることがあるのです。そのようなものに陥らないようにと、ヨハネは書き送ったのです。

皆さん、人はみな何らかの欲望を持っています。それが人間です。欲望をもっていない人間など一人もいません。マルチン・ルターはこう言いました。「人は常に神か、さもなくば偶像を持つ。」それは必ずしも神という名前が付いているとは限りません。自分のむさぼりを具現化したものが偶像であり、それを拝み、それに仕えていくことが偶像礼拝ですから、そういう意味で人はだれでも何らかの神を持ち、それにひれ伏す存在なのです。そうしないと生きていくことができません。「私は神なんて信じません」という人でも、実は何らかの神を信じて拝んでいます。自分は偶像なんて信じていないという人でも必死にお金を拝んでいたり(拝金主義)、科学こそ絶対だと信じていたり(科学絶対主義)、音楽には特別の力があると音楽にのめり込んでしまったりすることがあるのです。それがその人の神なのです。どの時代、どの文化、どの世代でも、みな何らかの神を持っているのです。

共産主義の特徴は神を持たないということですが、そんな共産主義においてさえも神は存在しています。独裁者という偶像が存在しているのです。ですから見てください。北朝鮮のピョンヤンにあるキム・イルソン広場には、ものすごい偶像がありますよ。キム・イルソンとキム・ジャンイルの巨大な金の偶像がそびえ立っています。神なんていないという国において彼らが神になっているのです。人は常に神か、偶像を持っています。どの時代、どの文化においても、人が存在するところには必ず偶像も存在するのであって、そうした偶像に警戒しなければなりません。

皆さんはどうでしょうか?本物の神以外のものを神としていることはないでしょうか。出エジプト記20章には十戒が記されてありますが、その第一の戒めには、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(20:3)とあります。この「わたしのほかに」の「ほかに」というのは「わたしの前に」という意味です。神よりも前に置くもの、神よりも前に考えてしまうものがあれが、それがあなたの偶像なのです。神よりも前にあなたが仕事のことを置くなら、神よりも前に家のこと、車のこと、健康のこと、スポーツ、趣味、勉強のこと、学校のことを優先するなら、それがあなたの偶像なのです。私たちはこの偶像を警戒しなければなりません。

Ⅱ.偶像を拝むとどうなるか(12-17)

では次に12節から17節までをご覧ください。まず12節と13節です。「12 鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。13 木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。」

ここには、その偶像を造るのはだれかということが語られています。それは腹がすくと力がなくなり、水を飲まないとすぐに疲れてしまう人間です。偶像を造るのはこのようなかぼそい人間なのです。完成したものは美しく、神殿に飾られていますが、そうしたものを造ったのは外から食べ物なり、水なりを与えられないと生きていけない人間の手によってデザインされ、造られたもの、それが偶像です。こんな人間が全知全能の神を造れると考えること自体が愚かなことはありません。

そして14節から17節にはこうあります。「14 彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。15 それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これに伏す。16 その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった』と言う。17 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから』と言う。」

ここでは、その偶像が何によって造られているか語られています。それは自分が植え、自分が育てた杉の木であり、あるいはうばめやがしや樫の木です。それは人間のたきぎになったり、料理をする時の燃料になったりするものですが、そうしたもので造られたものを拝み、ひれ伏しているのです。その半分は火に燃やし、その半分で肉を焼き、その半分は寒い時の暖炉の燃料になります。その残りが神様です。こっけいじゃないですか。つまり、彼らの神は残りものの神なのです。そうしたものにひれ伏し、そうしたものに祈って、「私を救ってください。」と言っても、救ってもらえるでしょうか。

私はかつて福島刑務所で教誨師をしていたことがあります。教誨師というのは受刑者の心のニーズに応えるために、それぞれの宗教の教えに従ってお話する人のことです。私も着きに一度刑務所に行って聖書のお話をしていたことがありますが、かつてその教誨に集っていた方が、先日久しぶりに尋ねて来てくれました。この方は刑務所に入る前から、また出てからもずっとヤクザの世界にいる人です。しかし心は純粋で、単純で、曲がったことが大嫌いというひとなんです。゛いぶん曲がったことをしている人ですが、曲がったことは大嫌い。私と同じ年だということもあってか、時々電話をくれたりするのですが、先日は東京から仙台に行く用事があるのでその途中に会いたいと、立ち寄って行かれました。  その彼が何と言ったと思いますか?彼はこう言ったんです。「そろそろ潮時かなと思っている」これまでずっとヤクザの世界にいた人が「そろそろ潮時かな」というのはいいことだけど不思議に思い「どういうことか」と尋ねると、どうも最近、ヤクザの世界も変わって来たらしいのです。つまり、出世するのはお金がある人ばかりらしいのです。だから、たとえ今自分の下にいる若い者でもいつ立場が逆転するかわからない。だから、最近は言葉遣いにも気を付けて「・・・さん、大変だったね。ご苦労様」なんて言うらしいのです。昔はそういうことはなかった。義理人情の世界ですからたとえ自分の下になったとしても、それなりの態度をしてくれたけど、最近はそうでもないらしいのです。先の者があとになり、あとの者が先になることがある。クリスチャンの世界では先に立つ者はもっと謙遜になることを求めますが、ヤクザの世界ではその立場というのは絶対だと言うのです。だから、いつ自分が下になるかわからないと思うと、いつまでもそういう生活は続けられない。そろそろ潮時かなというのです。これまで組のために命をかけてやってきたのに、「そろそろ潮時かな」というのでは、今まで何のために頑張ってきたのかわかりません。親分が間違ったんですよ。親分はイエス様しかいません。イエス様のために命をかければイエス様が助けてくれますが、それ以外のものに命をかけると裏切られることになるのです。

それは彼だけではありません。この世のものはいざというときにあなたを助けてはくれないのです。皆さん、人生にはトラブルが付きものです。イエスさまも、「あなたがたは世にあって患難があります」と言われました。そのような時にいったいあなたは何に頼るでしょうか。日本人は絶対的なものを嫌います。絶対的なものを嫌うので、イエス様だけというのを嫌うわけです。イエス様もいいけど、あの人もなかなか魅力的だとか、この教えはすごいとか、このサークルは楽しくていいわ、なんて言うのです。しかし、たきぎの残りで造った偶像はあなたを助けてはくれません。あなたを救うことはできないのです。あなたが健康を失う時、あなたが何か大きな困難に陥ったとき、そうしたものはあなたにとって何の役にも立ちません。そうしたものを拝み、仕えるとしたら、そこにはただむなしさだけが残るだけなのです。

それだけではありません。もう一度詩篇115篇4節から8節までのところをご覧いただきたいと思いますが、特に8節にはこのようにあります。

「これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」

つまり、こうした偶像を拝み、それに仕えていると、ただむなしくなるというだけでなく、「これと同じ」になるということです。偶像を造り、偶像を拝む者は、その偶像のようになるということです。たとえば、よく野球の試合を見に行く人たちの姿を見ますが、そういう人たちはどういう格好をしているかというと、お気に入りの球団のプレーヤーと同じ格好をしています。ジャイアンツファンはジャイアンツのユニホームを着て、背番号はお気に入りの選手の背番号です。AKBのファンはAKBと同じような格好をしています。頭にリボンをつけたり、てんとう虫のようなハットをかぶっているのです。それが熱狂的なファンの姿です。アイドルのファンはアイドルのような格好をし、アイドルのように考え、アイドルのようなライフスタイルとなり、アイドルのような人生をたどっていくのです。英語で「偶像」とはidolsと言いますが、まさにそのidolsのようになるのです。

しかし、まことの神を信じ、まことの神を礼拝し、まことの神に仕えるなら、まことの神のように、イエス様のようになります。Ⅱコリント人への手紙3章 18節には、こうあります。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:18)

私たちはみな、鏡のように主の栄光を反映させらながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのであります。神を信じ、神の御霊をいただいたので、その御霊が導かれるままに、主と同じ姿に変えられていくのです。イエスさまを信じ、イエスさまにつながっていれば、イエスさまのようになります。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22-23)ですから、そのような性質の者へと帰られていくのです。今まではできなかったこともできるようになります。聖霊の力によって今まで赦せなかった人も赦せるようになり、愛せなかった人をも愛せるようになります。それは御霊なる主の働きによるのです。あなたがイエスさまを信じて、イエスさまにつながっていれば、イエスさまと同じような人になるのです。

私は時々ほかの人から、「先生と奥さんは似ていらっしゃいますね。」と言われて驚くことがあります。いったい私たちのどこが似ているでしょう。日本人とアメリカ人、黒い髪と金髪、ちょっと白くなりましたが・・・。黒い目と青い目、日本語と英語、行動はウサギとカメです。その私たちのいったいどこが似ているというのでしょうか。もちろん、外見は全く似ていません。しかし、内面が知らず知らずのうちに似てくるのです。考え方や、話し方とか・・。それはいつも一緒にいて交わっているからです。

そう言えばある教会の副牧師の話を聞いたことがありますが、その話し方が牧師に似ているのに驚きました。以前はそうでなかったのに何年も一緒にいると話し方まで似てくるんだなぁと思いました。

人はだれと交わるかによってその人のようになるのです。車を愛し、いつも車のことばかり話している人は車のような顔になり、お金を愛しいつもお金に仕えている人はお金のようになります。こういうのを何というかというと「おっかね」と言います。しかし、まことの神を信じ、まことの神を礼拝し、まことの神と交わっている人はまことの神のようになるのです。栄光から栄光へと主と同じ姿へ変えられていくのです。これはすばらしい恵みではないでしょうか。ですからその機会を逃すとそのすばらしい祝福を失ってしまうことになるのです。

日曜日に主を礼拝することがどうして大切なのかがわかるでしょう。もし皆さんがこの方を礼拝し、この方と交わり、この方に仕えるなら、この方のようになるからです。もちろん、それは日曜日の礼拝だけではありません。日常礼拝です。日常的にどれだけ神を礼拝し、神と交わっているかということです。そして、そのように神様と交わっているならば、聖書に書かれてあるように神の聖霊を受けた霊の家族と共に礼拝をささげたいと思うようになるはずです。なぜなら、それが御霊なる神の働きだからです。安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ、と書かれてあるとおりです。神ご自身を求め、神を礼拝すること、神を第一とすることが神のみこころだからです。

Ⅲ.どうしたら偶像から解放されるか(18-20)

ではどうしたらこのむなしい偶像から解放されることができるのでしょうか。最後にそのことについて見て終わりたいと思います。18節から20節までをご覧ください。「18 彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。19 彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか』とさえ言わない。20 灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか』とさえ言わない。」

偶像を拝んでいる人たちは、冷静に考えればそれがヘンだとわかるようなことでも偶像の美しさ、力強さ、神秘性に魅了されて、それが偶像であるということを悟れないほど霊的に麻痺しています。そのような人たちは、自分たちの欲求を満足させてくれるものに簡単に目がくらんでしまうのです。まさに偶像のように目があっても見ることができず、耳があっても聞くことができません。その心もふさがっていて悟ることもできないのです。いったいどうしたらいいのでしょうか。神のみことばに照らし合わせて考えなければなりません。自分の考えや判断ではなく、日々神と交わり、神のみこころと神の力をいただかなければなりません。そうすればむなしい偶像から立ち返ることができます。

サムエル記第一5章を開いてください。1節から5節までを読みます。ここにはイスラエルの神の箱がペリシテ人に奪われ、ペリシテの神ダゴンの神殿に運ばれ安置されたとあります。ダゴンとは魚の頭を持った海の神です。魚が多産であることから豊作と結びつけ、ダゴンを半魚の農耕神として信仰していたと言われています。そのダゴンの神殿にイスラエルの契約の箱が運び込まれたわけです。その翌日、彼らが朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていました。ダゴンの頭と両腕は切り離されて、胴体だけが、そこに残っていたのです。それで彼らはこの契約の箱を恐れてイスラエルに送り返すことにしました。

この契約の箱は何を象徴していたかというと、神の臨在です。つまり、神の臨在があると偶像は倒れるということです。偶像はあまりにも魅力的なので、あなたの力では倒すことはできませんが、神の臨在があると自然に倒れるのです。あなたが暗やみの力に打ち勝つにはどうするでしょうか?イエスの御名によって出て行けと命じますか。それとも力づくで暗やみを追い出そうとタックルするでしょうか。しかし、そのようにしても無理です。暗やみは出て行きません。どうしたらいいのでしょうか。電気のスイッチを入れればいいのです。あなたが火を灯すなら、暗やみは自然に逃げ去ります。それと同じように、神の光輝く臨在をあなたのダゴン神殿の中に運び入れればいいのです。そうすれば、ダゴンは力を失い、自然に倒れます。あなたがこのむなしい偶像から解放されるには、悪習慣から解放されるには、あなたが一生懸命に偶像を追い出そうとするのではなく、あなたのダゴン神殿の中に神の臨在を運び入れなければなりません。毎日聖書を開いて、神を賛美し、祈って、あなたの心に神が住んでくださるなら、そして神を第一にするのなら、あなたは偶像から解放され、生ける神の臨在に満たされるのです。しかし、それを後回しにしたり、ないがしろにしたり、神以外のものを神の前に置いたりすると、ダゴンがスッと立ち上がり、あなたの前にたちはだかるようになるのです。

あなたのダゴンは何ですか。あなたの生活の中で最も大切にしているもの、それがダゴンです。もしあなたがこのダゴンに仕えていると、あなたはいつになってもそのむなしい生き方から解放されることはありません。あなたにはわたしのほかにほかの神々があってはならない。神をあなたの生活の第一としましょう。神の臨在を求めましょう。そうすれば、あなたはむなしい偶像から解放されて、意味のある人生を送ることができるようになります。神がキリストによってあなたを贖いあなたを罪から救ってくださったのは、そのためだったのです。