イザヤ書45章1~13節 「神の御心のままに」

きょうからイザヤ書45章に入ります。きょうは、「神の御心のままに」というタイトルでお話します。

Ⅰ.油そそがれた者クロス(1-3)

まず1節から3節までをご覧ください。1節に、「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。」とあります。「クロス」とは先週もお話したように、バビロン帝国を打ち破ったメド・ペルシャ帝国の王です。このクロスについてここでは「油そそがれた者」と言われています。「油そそがれた」というのは、ヘブル語で「メシヤ」と言いますが、「救い主」を意味します。彼は異教徒の王であったのにどうしてこのように言われているのでしょうか。それは彼がバビロンに捕えられていたイスラエルを解放したからです。神はイスラエルを救うために異教徒の王であったクロスを用いられました。いったい彼はどのようにイスラエルを救ったのでしょうか。1節の「」のところを見てください。

「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。2 わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。3 わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。」

ここには彼がどのようにバビロンを打ち破ったのかが描かれています。「わたしは彼の右の手を握り」というのは、神がクロスを歴史の表舞台に連れて来たことを意味しています。「彼の前に諸国を下らせ」とは、クロスがメディア、リディア、新バビロニアを滅ぼし、メソポタミアを統一したことを示しています。「王たちの腰の帯を解き」とは、王の力を失わせるという意味ですが、これは文字通り、バビロンの最後の王ベルシャツァルに実現しました。ダニエル書5章を見るとわかりますが、彼が大宴会を開いていたとき、壁に人の指が文字を書きました。その時彼は「腰の関節がゆるみ、ひざはがたがたに震え」ました。(ダニエル5:6)このことです。また「彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする」というのは、難攻不落と言われたバビロンの城門が開かれるようにするということです。高さ90㍍、幅24㍍、長さ65㎞にも及ぶバビロンの城壁を崩すことは全く考えられないことでしたが、主はクロスに知恵を与え奇抜な方法でその城壁を攻略しました。それはバビロンの真ん中を流れていたユーフラテス川に支流を設けて干からびさせるという方法でした。彼らはそのようにして水かさを減らし、その下から門をくぐり抜けました。そして中ではバビロンの王たちが乱交パーティーを開き、みんなベロンベロンに酔っぱらっていたので、難なくベルシャツァル王を殺し、全く血を流さずに、たった1日でバビロンを倒しました。

2節の「険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る」というのも同じです。難攻不落と言われたバビロンを粉々に打ち砕くとの預言です。また3節には、「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。」とあります。これは、本来であれば自分が戦いに負けた時でも相手に財宝を略奪されないようにそれをひそかな所に隠すものですが、そんな隠された財宝もあっさりと見つけることができるようにするということです。その財宝の中にはかつてバビロンの王ネブカデネザルがイスラエルから持ち帰った神殿の聖なる器具もあったことでしょう。そうした財宝のすべてがクロスに与えられ、イスラエルに返還されるようにするというのです。

なぜ神はクロスにこのようなことをされるのでしょうか?クロスは別にイスラエルの神を信じていたわけではありません。むしろペルシャの神ゾロアスター教神を信じていた人です。そのような者になぜ神は油をそそぎ、イスラエルを救うようなことをされたのでしょうか?それは3節にあるように、「わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るため」です。どういうことかというと、この方こそ神であり、イスラエルの創造主であることを、クロスが知るためです。そのために神は異教徒の王までも用いられたのです。ご自分の計画を推し進めるために、神は何も神の民だけを用いられるのではありません。場合によってはこのように異教徒も、未信者をも用いることがあるのです。神が用いようと思えば誰でも、何でも用いることができるのです。それはこの方こそ主であり、すべてを支配しておられる創造主であるということをすべての人に知らしめるためでした。

実際、クロス王はこのことを知ってどんなに驚いたことかとかと思います。エズラ記1章1節から4節までを開いてください。「1ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。2「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。3 あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。4 残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」    ここに、主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせたので、とあります。歴史の中には、特にユダヤ人の歴史の中にはどうしても説明がつかないことが多くありますが、このところはその一つでありましょう。異教徒の王であったクロスは、なぜそこまでユダヤ人に寛大な政策をとったのか?ということです。別にそれで彼がユダヤ人からわいろをもらっていたとか、このことで何か彼に有利に働くということがあったわけでもありません。ただ主が彼の霊を奮い立たせたので、彼はユダヤ人を祖国に帰かせ、そこに神の宮である神殿を建てることを許したのです。金、銀、財貨、家畜などの援助までして・・・。

イエスさまと同じ時代に生きたユダヤ人の歴史家にヨセフス(フラビウス・ヨセフス:Yosef Ben Matityahu)という人がいますが、彼が書いた「ユダヤ古代誌」という本の中で、彼はこのように書いています。「クロスがバビロンを陥落させた後、ユダヤ人が持っていた聖書を手にして彼は奮い立った」その内容というのが、このイザヤ書44章と45章だったというのです。つまり、彼は自分が生まれる150年も前に、イザヤが既に預言していたこと、しかもそこには自分の名前までも記されていることを知って奮い立ち、そこに書かれてあるとおりにエルサレムに神殿が再建されるように援助した、というのです。それまでクロスは自分の力で諸国を打ち破って支配したとばかり思っていましたが、実はそうではなく、その背後に歴史を支配している神がおられ、その神の目的と計画のために自分が用いられたことを知って、この主こそ神であり、イスラエルの創造主であることを知ったのです。それゆえに彼はユダヤ人にそれほどまでに寛容な政策をとったのです。それが主が彼の霊を奮い立たせたということだったのです。

皆さん、神はこの歴史を支配し導いておられる方です。このことを知るならあなたはクロスのように奮い立ち、神の栄光と目的のために用いられますが、そうでないと目の前の状況に振り回されてしまうことになります。

ルツ記に出てくるナオミはそうでした。彼女の名前ナオミは、「楽しい」とか「快適」という意味です。なのに彼女が実家のベツレヘムに戻って来たとき、町中の女たちに、「もう私をナオミとは呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。」(ルツ1:20)と言いました。「マラ」とは「苦い」とか、「苦しい」という意味です。いったい彼女に何があったのでしょうか。彼女は夫のエリメレクと共に暮らしていましたが、彼らが住んでいたユダのベツレヘムはききんがひどかったので、二人の息子マフロンとキルヨンとともにベツレヘムを出てモアブの野に行き、そこに滞在することにしました。  ところがです。彼らがそこに滞在している時、夫のエリメレクが死んでしまいました。男手を失った彼女はどんなにか心細かったに違いありません。そこで二人の息子にモアブ人の妻を迎え、さらに十年間そこに住んでいたのですが、今度はその二人の息子マフロンとキルヨンも死んでしまったのです。ナオミは二人の子どもと夫に先立たれて、これからどうやって生きていったらいいのかわからなくなってしまいました。仕方なく二人の嫁には自分の母の家に帰るようにと言いましたが、嫁の一人のルツは、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」と言って頑として聞き入れず、姑のナオミといっしょにベツレヘムにやって来たのです。しかし、先が見えなかったナオミはその状況に打ちのめされ、「もう私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください」と言ったのでした。  いったい何が問題だったのでしょうか?確かに夫とに二人の息子に先立たれたことは辛い現実でした。不安もあったでしょう。しかし、最も大きな問題はそのような現実の中で神を見ることができなかったことです。    もともとその土地を離れること自体が問題でした。イスラエルで約束の土地を離れるということは信仰から離れることを意味していたからです。時はさばきつかさがおさめていたころ、イスラエルの歴史の中でももっとも信仰が冷めた時代でした。そうした中にあって彼女は神を見ることができなかった。神がこの歴史のすべてを支配しておられ、その目的に従って導いておられることを見ることができなかったのです。それが問題だったのです。

しかし、あわれみ豊かな神は、そんな彼女の人生にある一つの転機をもたらしてくださいました。それがボアズです。嫁のルツがボアズのところで落ち穂拾いをしたことがきっかけとなって、彼女は彼に買い戻されました。結婚へと導かれたのです。そしてその結果、彼の家系から旧約時代最大の王と言われるダビデが生まれ、またその子孫に全世界の王、私たちの救い主イエス・キリストが生まれることになったのです。いったいだれがそのようなことを考えることができたでしょう。それはただ神が計画しておられたことでした。神はご自身の計画に従ってナオミにそのような苦しみをもたらされましたが、それはご自分の目的を成し遂げるための神の計画だったのです。「もう私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください」と言ったナオミは、今頃天国で顔を赤くしているのではないでしょうか。「あら、恥ずかしいわ。まったく。私はナオミです」なんて・・・。

皆さん、神はあなたの人生にも目的をもって導いておられます。それがどのような目的なのかわからないかもしれませんが、確かなことは、あなたの背後には神がおられ、完全な計画をもって導いておられるということです。あなたはそのことを信じなければなりません。そのときあなたも奮い立ち、神の栄光のために用いられることになるのです。

Ⅱ.すべての主権者であられる神(4-8)

次に4節から8節までをご覧ください。6節までをお読みします。「4わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。5 わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。6 それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。」

クロス王によるユダヤ人の救いについて驚くべきことは、クロスが主を知らなかったにもかかわらず、主が彼に肩書きを与えられたことです。その肩書きとは先程見たように「油注がれた者」という肩書きです。いったいなぜ神は彼にこの肩書きを与えたのでしょうか?それは6節にあるように、日の昇るところからその沈むところまで、ご自分の他に神はいないということを知らしめるためです。ダニエル書を見ると、バビロンの王ネブカデネザルもそうであったことがわかります。ネブカデネザル王というのは、メド・ペルシャ帝国によって滅ぼされた時の王様ベルシャツァルのおじいちゃんですね。彼もバビロンの神ベルを拝む者でしたが、ダニエルを通してイスラエルの神こそまことの神であることを知りました。そして彼はいと高き方を賛美し、ほめたたえました。(ダニエル4:34-37)彼がイスラエルの神を信じたかどうかはわかりませんが、当時世界の超大国であったバビロンの王がイスラエルの神こそまことの神であることを知り、認めたことは本当に驚くべきことです。そのようにしてイスラエルの神は全世界に、「わたしこそ神であり、他にはいない」ということを知らしめたのです。同じように世界を統治したペルシャの王クロスが、イスラエルをバビロンから解放したことによって、そのイスラエルの神こそがまことの神であるということを、全世界に知らしめることになったのです。

7節をご覧ください。ここには「わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」とあります。ここで神は光を造り出し、やみを創造すると言われます。平和をつくり、わざわいを創造すると言っておられます。これはどういうことでしょうか?    このことばの背景にはペルシャの宗教ゾロアスター教の影響があります。つまり、ゾロアスター教では二元論を信じていて、宇宙は光と闇、善と悪、精神と物質のそれぞれ二つの対立する原理に基づいており、そのような対立によって世界が造られると考えていましたが、そうではなく、光もやみも神ではなく、神によって造られたものにすぎにいと言っているのです。平和もわざわいも、これらすべてを造られたのは神であって、この方以外に神はいないのです。

ところで、ここには「やみを創造し」とあります。神が光を造られたというのはわかりますが、やみを創造したというのはどういうことなのでしょうか。やみを支配しているのはサタンであって、そんなやみを創造したというのはおかしいのではないかと思います。    これはやみを創造したというよりも、やみを許されたといった方が正確です。神は決してやみを造られる方ではなく、それはサタンによってもたらされたものです。しかし、神はそのサタンがすることをあえて許されることがあるのです。たとえばヨブの場合はそうでした。ヨブはサタンに打たれ、家族を失い、健康を失いました。財産も失いました。しかし、それを許されたのは神です。あるときサタンがやって来て神に言いました。「もしあなたの手を伸べ、彼の骨と肉を打たれるなら、彼はきっとあなたをのろうに違いありません。」(ヨブ2:5)それで神は「わかった」と、「彼をおまえの手に任せるが、ただ彼のいのちにだけは触れるな」と言って、それを許されたのです。サタンは自分でヨブを打つことはできませんでした。神が許されたのでサタンはヨブを打つことができたのです。

そういうことが私たちの人生の中にも起こります。私たちの人生にも「主よ。どうしてですか」と叫ばずにはいられないような状況に出会うことがあります。たとえば何らかの病気にかかったり、大きな事故に巻き込まれたり、あるいは、仕事を失ったり、家族や友達を失ったりすることがあります。しかし、忘れてはならないことは、そのすべての出来事の背後に神がおられ、そのことさえも神が許されたことであるということです。神はすべてを支配しておられる方なのです。主権者です。そのことを覚えた上でいやしなり、回復なりを祈らなければなりません。私たちはできればこの杯を自分から取り除いてほしいと願います。病気がいやされて平安でいることを望みます。けれども、そうした病気もまた神様の計画の中で用いられることもあるのです。神様は光を造り出し、やみを創造された方です。平和をつくり、わざわいを創造されたのです。すべてを支配しておられる方です。順境にしても、逆境にしても、すべて神の目的のために与えられているのですから、その神の主権的な取り扱いを受け入れ、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころとおりにしてください。」(ルカ22:42)とイエス様が祈られたように、祈らなければなりません。神のみこころが最善になると信じて、神の栄光が現されることを求めて祈るべきなのです。

8節をご覧ください。「天よ。上から、したたらせよ。雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義も共に芽ばえさせよ。わたしは主、わたしがこれを創造した。」

どういうことでしょうか?ここでは、全世界に及ぶ神の義と神の救いが、天からしたたり落ちる雨のように描かれています。その正義と救いをもたらされるのはだれでしょうか。ここに「わたしは主、わたしがこれを創造した」とあります。それは私たちの行いによってもたらされるのではありません。神様が一方的に、罪深い私たちを救ってくださるのです。救いは主のものであって、主の恵みによって一方的にもたらさけるものなのです。それはイスラエルがバビロンから救われることも同じです。イスラエルは自分たちの知恵、力によっては、決してバビロンから救われることはできませんでした。ただ神が一方的にあわれんでくださり、ご自分の圧倒的な力と、不信者であるクロス王を用いるという全く意表をつくような方法によってもたらしてくださいました。それは、彼らが決して自分たちの力によって救ったということがないためです。彼らが救われたのは彼らの行為とは全く関係なしに、一方的な神のあわれみの御業によるものだったのです。救いは主のものであって、主がそれを創造されたのです。神が主権者としてすべてをコントロールしておられるのです。私たちにとって必要なことはこの主の主権を認め、この主にすべてをゆだねることなのです。

Ⅲ.神の御心のままに(9-13)

最後に9節から13節までを見て終わりたいと思います。このように申し上げると、そんな神のやり方にな対して文句をつけたくなる方もおられるのではないでしょうか。なんでクロス王なんだ・・・と。なんであの人じゃないんだ・・。神の主権がなかなか認められないのです。そして神のなさることに異議を唱えようとするわけです。9節と10節をご覧ください。

「9 ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか」とか、「あなたの作った物には、手がついていない」などと言うであろうか。10 ああ。自分の父に「なぜ、子どもを生むのか」と言い、母に「なぜ、産みの苦しみをするのか」と言う者。」    このみことばはローマ人への手紙9章に引用されています。ローマ人への手紙9章では、主がエサウではなくヤコブを選んだのはどうしてなのかについて書かれています。それが二人の生まれる前から選ばれていたというのは、それが人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるものだからです。ところが、パウロがこの選びの教理を語ると、彼らからそれは不公平ではないかという意見が噴出しました。それでパウロはそのような人たちに対してこのイザヤ書のみことばを引用してこのように言いました。

「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようにしたのですか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」(ローマ9:20-21)

ユダヤ人にとっては、クロス王によって救われるということに納得のいかない人たちもいたでしょう。まことの神を信じていない人になぜ救ってもらわなければならないのかという思いがあったに違いありません。私たちも、クリスチャンでない人、クリスチャンでない未信者の人が、神様の働きに深く関わるような場面に遭遇したら、同じような気持ちを抱くかもしれません。「クリスチャンでもないのに、どうして、・・・」しかし、神はクリスチャンだけに限らず、未信者をも用いられるのです。神はすべてを支配しておられるので、ご自分の目的に従って自由に働かれるのであって、その神に対して「どうしてですか・・」と抗議するようなことがあってはならないのです。

それはちょうど土くれの粘土が陶器を作る者に抗議するようなものです。主は陶器師であって、私たちはただの土くれにすぎません。ただの土くれがぐにゅぐにゅとこねられて、「おい、何するんだ」とか言いますか?轆轤(ろくろ)で回されて、「おい、目が回るじゃないか。なんでこんなことをするんだ?と言うでしょうか。言いません。ただの粘土は陶器師の手によって自由に用いられるのです。陶器師がこねるのは、こねられる必要があると思うからするのであって、それで土くれがいちいち文句を言うのはおかしいのです。陶器師がろくろでくるくる回すのは、陶器師が必要だと思うからするだけです。イスラエルはただの土くれ、粘土です。私たちはただ土地のちりで神に形造られた土くれにすぎません。その土くれである粘土が陶器師に握られた時にこそ価値があるのであって、そうでなければただの土くれにすぎません。私たちに価値があるから神が愛されたのではなく、神が一方的に愛されたので、私たちには価値があるのです。私たちはただの土くれにすぎないということを覚えておきたいと思います。そんな土くれが何でオレをこねるんだとか、回すんだと文句を言うのは滑稽な話です。けれども私たちは、神に対して結構そのようなことをしているのです。自分の人生に起こることが許せません。神様、なぜこんなことをされるのですか?とすぐにつぶやくのです。しかし、神はあなたの陶器師です。あなたにとって最善になるように働いておられます。何よりもあなたが文句をつける前に、神があなたのために何をしてくださったのかを思いめぐらすべきです。神はあなたのために十字架にかかっていのちを捨ててくださいました。その手には釘を打たれて、そのわき腹には槍を刺されて・・・。あなたをこねてくださる陶器師の手には、その釘の跡があることを忘れてはいけません。あなたを愛してやまない主は、あなたにとって最善以下のことは絶対になさいません。そう信じて、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのとおりにしてください」と祈らなければなりません。

パウロはガラテヤ書の中で、「けれども、生まれた時から私を選び分け、恵みをもって召してくださった」(1:15)と言っています。パウロはかつてクリスチャンを迫害し、とんでもないようなことをしていた人です。あのステパノの殺害にも加わりました。そんなパウロをいったいなぜ神は選んだのでしょうか?わかりません。それは決して彼に何らかの能力があったからではないのです。なぜなら、パウロが選ばれたのは、生まれた時から、いや、生まれる前からのことだからです。生まれる前に彼に能力があっるかどうかということを、いったいだれが知ることができるでしょう。だれも知りません。知っておられるのは神だけです。そして神はそういうことをすべてご存じの上で、彼を使徒として召してくださいました。それは彼の偉大さを示すためではなく、そのような愚かな者を用いてくださる神の御名があがめられるためなのです。

それは、私たちも同じです。なぜ神があなたを、私を救ってくださったのかわかりません。けれども神はあなたが生まれる前から、いや世界の基の置かれる前から救われるようにと、キリストにあって選んでくださいました。それはあなたを通してその神の御名があがめられるためです。

榎本保郎先生は「ちいろば」という本を書いておられますが、本当に私たちは小さなろばです。ロバは英語でdonkyと言いますが、愚か者という意味です。しかし、イエス様はご自分の生涯のクライマックスに馬ではなくこのろばを用いられました。「主がお入り用なのです」と言って連れて来られると、そのろばの背中に乗ってエルサレムに入られたのです。  私たちはちいろばです。本当に愚かで、力のない「ちいろば」ですが、そんな私たちを神は選んでくださいました。そして、ご自分の目的と計画にしたがって用いてくださいます。「主がお入り用なのです」と言われるとき、私たちはその召しに応えて立ち上がる者でありたいと思います。すべてを支配しておられる主にゆだね、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのとおりにしてください」と応答しようではありませんか。そのときどんなに小さなろばでも、神の栄光のために用いていただくことができるのです。