きょうは、「わたしを仰ぎ見て救われよ」というタイトルでお話します。皆さん、人はどうしたら救われるのでしょうか?創造主なる神を仰ぎ見れば救われます。なぜなら、この方が神であって、ほかにはいないからです。きょうは、このことについて三つのポイントでお話します。
Ⅰ.ご自身を隠す神(14-17)
まず第一に14節から17節までをご覧ください。まず14節をお読みします。「主はこう仰せられる。「エジプトの産物と、クシュの商品、それに背の高いセバ人も、あなたのところにやって来て、あなたのものとなる。彼らは鎖につながれて、あなたに従って来、あなたにひれ伏して、あなたに祈って言う。『神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない。』」
この前の箇所には、主がクロス王に油を注ぎ、バビロンに捕らえられていたイスラエルを解放するという預言が語られていました。それは地のすべての人が、主こそ神であることを知るためです。そのような偉大な御業を目の当たりにすると、異邦人をはじめ地のすべての人が主こそ神であってほかにはいないことを認め、そのイスラエルの神にひれ伏すようになります。ここに出てくるエジプト人やエチオピア人、あるいはセバ人もそうです。彼らも主のところにやって来て、主のものとなります。彼らは、主の前にひれ伏して、「あなたがただけがまことの神であり、ほかにはいない」と言うようになるのです。
15節をご覧ください。ここには「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。」とあります。おもしろい表現です。イスラエルの神、救い主は、ご自身を隠す神だというのです。これはどういうことでしょうか?これは、神が私たちの思いをはるかに越えたことをされる方であるということです。異教徒のクロス王を用いてイスラエルをバビロンから救うということを、いったいだれが想像することかできたでしょうか。しかし、神はそのように私たちの思いをはるかに超えて働かれる方なのです。なにも神はクリスチャンだけを用いられるとは限りません。そうでない人たち、まだ神を信じていない人たち、いや、もしかしたら神に敵対している人たちでさえも用いられることがあるのです。実に神はご自身を隠される神です。どんなことでも用いてご自分の目的と計画を成し遂げられるのです。
ですから、16節と17節にあるように、偶像を作って拝む者は恥を見、はずかしめを受けます。しかし、イスラエルはそうではありません。イスラエルには永遠の救いが約束されています。イスラエルは主によって救われ、永遠の救いに入るのです。決して恥を見ることはありません。それが私たちに約束されていることでもあります。複雑に絡み合った目に見える状況だけを見たら、時に挫折することもあるかもしれませんが、私たちの背後でいつも私たちの考えをはるかに越えた神が働いておられることを知りこの方を仰ぎ見るなら、勝利することができます。
ある父親が小学校に入ったばかりの子どもに難しい問題を出しました。「バラバラにちぎった世界地図を10分ですべて合わせられたら、美味しいお菓子を買ってあげよう。」と言ったのです。父親はバラバラにちぎれた地図なので1時間あっても無理だろうと考えていました。おまけにその子どもはまだ小学校に入ったばかりで世界地図を全部覚えていなかったので、全く不可能な問題でした。 ところが、その子どもは5分もたたないうちに得意げな顔ですべて合わせた地図を持ってきたのです。いったいどうやって合わせることができたのでしょうか? 父親がそのわけを尋ねると、子どもはこう答えました。「いや、とっても簡単さ。地図の裏に人の顔を大きく描いておいたんだよ。それを見て合わせたんだ。だからお菓子買ってね!」
皆さん、私たちの人生も時にこのちぎれた世界地図のようです。複雑に絡み合っていて、どうしたらいいかわからなことがあります。しかし、神はご自身を隠す神です。私たちの背後で私たちの人生のすべてを治め、導いておられます。この方を見て、この方に信頼するなら、あなたはその複雑に絡み合った人生の中にも希望を見いだすことができるのです。
Ⅱ.正義の神、救い主(18-21)
次に18節から21節までに注目しましょう。18節、「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上た方、すなわちこれを堅く立てた方、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方、まことに、この主がこう仰せられる。「わたしが主である。ほかにはいない。」
隠れたところで働かれる神は天地を創造された方です。地を堅く立て、そこに人が住めるようにしてくださいました。ここに「茫漠」という言葉がありますが、この言葉は創世記1章2節にもあります。「地は茫漠として何もなかった」と同じ言葉です。新改訳の第二版ではこれを「地は形がなく、何もなかった。」と訳しましたが、この言葉は何もなかったのではなく、あったけれども混沌としていたという意味なので、第三版ではこれを「茫漠として何もなかった。」と訳したのです。しかし、「茫漠として」という言葉は一般ではあまり使われておらずわかりずらい言葉なので、この新改訳第三版に改訂した委員の先生に直接お聞きしたことがありました。「茫漠」というのはわかりずらいのではないか・・と。するとそういう説明でした。つまり、あったのだけれども混沌としていた、むなしかった。それを神は特別な意図をもって、秩序正しく造られたという意味です。その意図とは何でしょうか。それは「人の住みかにこれを形造った」ということです。そこに人が住めるようにしてくださったのです。
神はそこに人が住めるように地を形造り、これを仕上げてくださいました。神はこの地を何の形もない、むなしいものとして造ったのではなく、そこにちゃんと人が住めるように、秩序正しく造ってくださいました。それはこの天地創造の順序を見てもわかりますね。
まず神は光を造られ、光とやみとを区別されました。次に造られたのは大空です。天を造られました。次に神が造られたのは何でしょうか。陸地と海です。天の下の水を一所に集め、かわいた所を造られたのです。それが地です。そしてそこに、種類にしたがって、植物や実を結ぶ果樹を芽生えさせました。それが第三日です。そして神は四日目に、太陽や月、星々を造られました。神がその次に造られたのは何でしょうか。海に住む生き物と空を飛ぶ鳥たちです。それが五日目のことでした。そして六日目に神が造られたのが地に群がる生き物です。家畜やはうもの、野の獣を造られました。そしてその後に人間を造られました。神は人を神に似せて、神のかたちに創造されました。 こうやって見ると、神が造られた世界は秩序正しく、理路整然としていたことがわかります。そして、このように神が天地を創造されたのは、そこに人を住まわせるためだったのです。もうすぐ娘に赤ちゃんが生まれますが、聞けば、赤ちゃんがいつ生まれてもいいようにカーテンを取り替え、部屋の模様替えをして、ベビーベッドを準備し、おむつなども用意していると言います。いつ生まれてもいいように、生まれた赤ちゃんが生きていけるように必要なものをちゃんと備えているのです。同じように神は人を造る前に人が生きていくために必要なすべてのものを造り、備えてくださいました。神は、このような特別な目的をもって天地を創造されたのであって、決して偶然に造られたのではありません。まして人は猿から進化して出来たのではなく、また、今から38億年も前に非常に小さな微生物から進化して出来たものではないのです。きちんとした目的をもって造られたのです。いったいこのような神がほかにいるでしょうか。いません。このように天を創造され、地を形造り、人の住みかにこれを形造られた方こそ、まことの神なのです。
19節をご覧ください。「わたしは隠れた所、やみの地の場所で語らなかった。荒地で、ヤコブの子らにわたしを尋ね求めよと言わなかった。わたしは主、正義を語り、公正を告げる者。」
おもしろいですね。15節のところには、神は「ご自身を隠す神」と言われのに、ここでは「隠れた所、やみの場所で語らなかった」とあります。ご自身を隠す方は、その計画を隠したりはしないで、はっきりと啓示してくださいました。主は占いとか、降霊術のようなわけのわからない秘密の方法によって語られるのではなく、明確なことば(聖書)をもってご自分のみこころを語ってくださいます。主はみことばに示されてある通りにわたしを尋ね求めよと言われるのであって、決して荒地で、隠密に尋ね求めよとは言われません。まさに神は正義と公正の神です。そして、そこで語られたことばが一つもたがわずにみなその通りになったということも、この方がまことの神であることを証明しているのではないでしょうか。
そして20節と21節をご覧ください。「諸国からの逃亡者たち」とは、クロス王率いるペルシャ帝国によって滅ぼされ逃げて来た人たちのことです。そのような者たちに向かって主は「集まって来て、共に近づけ」と言われるのです。なぜでしょうか?論じ合うためです。だれが本物の神なのか。彼らが期待をかけていたのは彼らを救うことも、助けることもできない偶像でしたが、そんな偶像礼拝者たちに証拠を出してみろ、というのです。いったいだれがこれから起こることを告げることかができたのか。だれがこのクロス王のことを昔から告げていたというのか。このわたし、主ではないか。
イザヤがこれを預言したのは、このことが起こる150年も前のことであったというのは何度もお話していることです。もうずっと前から、これから先に起こることを予め告げておられたのです。しかも具体的に、また正確に。それはノストラダムスの大予言どころではありません。預言しても外れるようなものではなく、語ったことは100%必ず成就する本物の預言です。このようにこれから先に起こることを正確に告げることができる方こそ本当の神です。それはわたし、主であって、ほかにはいません。主だけが神であって、主こそ私たちを真に救うことができる救い主なのです。
Ⅲ.わたしを仰ぎ見て救われよ(22-25)
ですから、結論として神はこう言われるのです。22節をご一緒に読みましょう。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」
これは諸国から逃げて来た人だけでなく、地の果てのすべての人に呼びかけられていることばです。神ご自身の救いの招きのことばです。「地の果てのすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」あなたは、この神の救いの招きに対してどのように応答されるでしょうか。
19世紀にイギリスで世界最大の教会、メトロポリタン・タバナクル教会を牧会したチャールズ・スポルジョン(Charles Haddon Spurgeon)は、この聖句によって回心に導かれました。後に語った説教の中で彼は、自分が回心に至った証を次のように語りました。少し長いですが引用したいと思います。
「私自身がどのようにして真理の知識に導かれたかを語ろう。それを語ることが、だれかをキリストに導くことになるかもしれない。神は、私が少年時代に罪の自覚を持つことを良しとされた。私はみじめな生活をしており、何の希望も慰めもなく、神は決して私を救ってくださらないに違いないと思っていた。ついに最悪なところに、最悪な事態が重なった。私はみじめであった。私は救いの道を見いだすために、私の住んでいるすべての教会を訪ねてみようと決心した。もし神が許してくださるなら、私は喜んでどんなことでもするし、どんな者にでもなろうと思った。私はすべての教会を行き巡ろうと決め、出発し、礼拝するあらゆる場所へ行った。私は、その人々を尊敬する。けれども、私は彼らから一度でも福音の十分な説き明かしを聞いたことがなかったと言わざるを得ない。私が何を言いたいかと言えば、彼らは真理、すなわち偉大な真理、彼らの会衆にふさわしい良い説教をしていた。しかし、私が知りたかったのはどのようにして罪の赦しを得ることができるかということであったのだが、そのことについては彼らは一度も話してはくれなかったということである。 私は、罪の自覚を持ったあわれな罪人が、どのようにして神との平和を見いだせるのかを聞きたかった。私は何度も何度も出かけたが、どの教会に行っても、私よりも注意深く聞いている聴衆はひとりもいなかった。なぜなら、私はどうしたら救われるのかを知ろうと熱望し、あえいでいたからである。 私の悩みはこうであった。私は福音を知らなかった。私はキリスト教国で生まれ、クリスチャンの両親を持っていたが、福音の真理を理解していなかった。 私は、私の住んでいた町の礼拝所を訪ねたが、正直言って、私は福音が十分に説き明かされるのを聞かなかったと思う。一人の牧師は神の主権について語った。しかし、救われるためには何をしたら良いかを知りたいと願っているあわれな罪人にとって、それがいったい何であるというのか。またいつも律法について語る立派な牧師もいた。あるいは、偉大な実際的な説教者もいた。私は彼の説教を聞いたが、まるで足のない一団に戦争の作戦行動を教えるために号令をかけている将校のようであった。私は礼拝に行こうとしていたあの日曜日の朝に、神のいつくしみによって大吹雪が送られてこなかったら、今でも暗やみの絶望の中にいたであろうと思う。 私はもうこれ以上進めなくなった時、路地を折り返してメソジストの小さなチャペルに入った。そのチャペルには14~15人がいた。その朝はたぶん雪のため、牧師が来ることができなかったのであろう。見たところ、靴屋の仕立て屋といった風貌の1人の貧相な男が、講壇に上って説教した。 さて、あの牧師たちは十分な教育を受けた人たちであり、一方この人は、言わせてもらえば本当に無学な人であった。他に語るべきことが何もなかったという単純な理由で、彼は選んだ聖書のみことばを何回も何回も繰り返さずを得なかった。その聖書のみことばは、これである。「地の果てのすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」(イザヤ45:22)であった。 彼は、単語すら正確に発音することができなかった。しかし、それは問題ではなかった。その聖書のみことばの中に、私の希望の光があると思った。彼はこのように語り始めた。
「愛する友よ。これは本当に短い聖句です。『見よ』、と書いてあります。それは非常に努力のいることではありません。足を上げることでも、手を上げることでもありません。ただ見るだけです。ただ見ることを学ぶために、人は大学に行く必要はありません。ただ見るだけのために千年も費やす必要はないのです。だれでも見ることができます。小さな子どもでもできます。しかし、これがこの聖句の言わんとしていることであります。そしてみことばは、「わたしを仰ぎ見よ」と言います。ああ、多くの人は自分自身を見ています。自分自身を見ても無益なことです。あなたは決してあなた自身の中に平安を見いだすことはできません。イエス・キリストは、『わたしを見よ』と言われます。ある人々は、私は聖霊が働かれるのを待つべきだと言います。しかし、今あなたが成すべきことはそれではありません。今あなたが成すべきことはキリストを見ることです。「わたしを仰ぎ見て」と書いてあります。このキリストを見上げてください。」
彼はやっとのことで話を引き延ばして10分くらい経ったとき、ついに話の種が切れてしまった。すると会衆席の私の方を見て、おそらく非常に少ない出席者だったので、私が新来者であることがわかったのであろう。こう言った。
「おい、お若いの、君は非常に辛そうに見える。」
確かにその通りであった。その通りではあったが、私はかつて講壇から私の風貌についてこのように語りかけられたことはなかった。しかし、それは強烈な一撃であった。彼は続けて言った。
「もし君がこのことばに従わないなら、これからもずっとみじめであろう。そのいのちにおいてもみじめ、その死においてもみじめ。しかし、今、君が従うなら、その瞬間に君は救われるのだ。『若者よ。イエス・キリストを見よ。』」
私はまさにその時にキリストを見た。その時雲は消え去り、暗黒は消え去った。その時、私は太陽を見た。その時、私は立ち上がって、非常に狂信的な人々と共にキリストのすばらしい血潮と、彼のみを見上げる信仰を歌うことができた。 ああ、あの無名な人物が、つい先程私に語った通りであった。キリストを信ぜよ。さらば救われん。 私は今、罪人に語りかけることをしない説教を決してしてはならないと思う。罪人に語りかけることなしに説教できる牧師は、いかにして説教できるのかを知らないのだと思う。」
これは、スポルジョンが16歳に回心した時のことです。彼はどうしたらみじめな罪人が救われるのかがはっきりわかって回心しました。それはイエス・キリストを仰ぎ見ることです。仰ぎ見るとは、信じるということです。このイエスを信じる者はみな救われます。十字架につけられたキリストを見る者は救われるのです。ただイエスを見るだけでいいのです。ただ信じるだけでいいのです。そうすれは救われるのです。これが福音です。グッド・ニュースです。これが最初の人アダムが罪に陥って以来、私たちが救われるために昔から神が人類に提示しておられた救われるために必要な唯一の道だったのです。
ですから、イスラエルが荒野で不平不満を言ってモーセにつぶやいた時、神は燃える蛇を送り、多くの民がそれにかまれて死にそうになりましたが、そのとき彼らが救われるために神が言われたことは、青銅の蛇を作り、それを仰ぎ見よ、ということだったのです。聖書で青銅はさばきのシンボル、蛇は罪のシンボルです。ですから青銅の蛇を掲げたということはどういうことというと、罪がさばかれたことを表していました。それは十字架につけられたイエス・キリストを象徴していたのです。ヨハネの福音書3章のところで、イエスご自身も、それはご自分のことだと言われたことからもわかります。
皆さん、罪から救われるためにはイエスを見なければなりません。十字架につけられたイエスを信じなければならないのです。これがグッド・ニュースです。あなたの罪はイエスが代わりに負ってくださり、既に十字架にかかって死んでくださいました。そして、このことが本当であることを示すために、キリストは死からよみがえってくださいました。このことを信じるなら、あなたも罪から救われ、永遠のいのちを受けることができるのです。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)
スポルジョンは、ずっとみじめでした。むなしく生きていました。どんなに人生頑張っても、どんなにおもしろ、おかしく生きたとしても、いつか死んで終わってしまうなら、それは全くむなしい人生です。しかし、死んでも終わらないいのちがあります。それが永遠のいのちです。そのいのちを持つなら、もう死も恐怖ではなくなるのです。
最後に23節後半から25節までを見ておわりたいと思います。「すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、24 わたしについて、『ただ、主にだけ、正義と力がある』と言う。主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。25 イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る。」
23節のことばは、ピリピ人への手紙2章10~11節で引用されているみことばです。「10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:10-11)
キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることかでききないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そして、自分を卑しくして、死にまでも従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それはいったい何のためだったのでしょうか。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
これはイスラエルの子孫だけ言われていることではありません。ここには「主に向かっていきり立つ者はみな」とあります。この「いきり立つ者」とは、全くイエスを信じない人たちのことです。神なんていないという人たちのことです。そういう人たちもみな、いつの日か神の前に出て、ひざまずくようになると言われているのです。やがて人は死んだら皆神の前にひざまずいて、「あなたが神です」と告白するようになります。すべての口が、「イエスが主です」と告白するようになるのです。
しかし、そこには二つのタイプの人たちがいます。イエス様を信じて、罪から救われた人は、喜び、誇りながら、「イエス様、あなたは私たちの主です」と告白しますが、そうでない人たち、イエス様を信じない人たちは、恥じ入って、悔しくなりながら、「イエスは主です」と言うようになります。イエスさまを信じないで死んでしまっても、そのような人でも最後には「イエスは主です」と告白するようになるのです。あなたはどちらのタイプ、どちらの種類の人ですか?イエス様を信じて、喜び、誇りながら、「あなたは主です」と告白しますか?それとも、いきり立ちながら、恥じ入って、悔しくなりながら、「あなたは主です」と告白しますか?
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」あなたがイエスを仰ぎ見るなら、その瞬間に、あなたも救われます。今が恵みの時、今が救いの日です(Ⅱコリント6:2)。死んでからでは遅いのです。今、信じて救われてほしいと思います。そして、やがて神の前にひざまずく時、喜びと感謝をもって「イエスさま、あなたが主です」と告白する者でありたいと思います。