イザヤ書48章12~22節 「しあわせは川のように」

きょうは「しあわせは川のように」というタイトルでお話します。18節に、「あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は波のようになるであろうに。」とあります。主は、私たちに益になることを教え、私たちの歩むべき道に導いてくださいます。その主の教えに聞くならば、その命令に耳を傾けさえするなら、あなたのしあわせは川のようにあなたに押し寄せるのです。きょうは、このことについて三つのポイントでお話をしたいと思います。

Ⅰ.わたしに聞け(12-16)

まず12節から16節までをご覧ください。12節、「わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。」

ここで主はヤコブに、「わたしに聞け」と命じておられます。これからイスラエルに起こる新しいことについて注意深く聞くようにというのです。なぜなら、それはとても重要なことだからです。それがどれだけ重要なことであるかは、それが三度も繰り返して語られていることからもわかります。12節と14節、それに16節のところです。14節には「集まって聞け」、16節では「近づいて聞け」とあります。

では、その内容とはいったいどのようなものでしょうか?12節には、「わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。」とあります。この「わたしがそれだ」という言葉には※がついています。欄外にはその説明がありますが、それは「わたしは同じだ」または「わたしは変わらない」という意味であることがわかります。つまり、主こそ「それ」なんです。主こそ初めであり、終わりである方、また、主こそ地の基を定め、その右の手で天を引き延ばした方です。つまり、この方こそ永遠に変わることのない方であり、みことばをもってこの天地万物を創造され、その造られた物を支配しておられる方であるということです。この世の中にはそれらしきものがたくさん存在していますが、「わたしこそそれだ」というのです。

その証拠は何でしょうか?14節と15節をご覧ください。「14 あなたがた、みな集まって聞け。だれがこれらの事を告げたのか。主に愛される者が、主の喜ばれる事をバビロンにしむける。主の御腕はカルデヤ人に向かう。15 わたしが、このわたしが語り、そして彼を呼んだのだ。わたしは彼を来させ、彼の行うことを成功させる。」

その証拠とは、主がこれらの事を告げられた、ということです。「これらの事」とは、「主に愛される者が、主の喜ばれる事をバビロンにしむける」ということです。また、「主の御腕はカルデヤ人に向かう」ということであります。「主に愛される者」とはペルシャの王クロスのことです。異教徒であったクロス王が主に愛された者と呼ばれていることに違和感がないわけでもありませんが、彼がバビロンを滅ぼし、そこに捕らえられていたイスラエルを解放したという点でそのように呼ばれているのです。クロス王は神の御心を成し遂げる主の力の御腕だったのです。

そのような事をいったいだれが告げることができるでしょう。異教の偶像にはできません。それらは「口があっても語れず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない」(詩篇115:5,6)からです。そのようなことができるのはただ一人だけです。「わたしがそれだ」すなわち、この天地を創造され、歴史を支配しておられる神だけです。ただ神だけがこのことをあらかじめ告げ、その通りに実現されます。それはイザヤがこれを預言した150年後に実際に成就します。それは偶然に起こったことではなく、神が成された御業でした。このことをしっかり聞くように。注意深く聞くようにというのです。

16節の前半のところを見てください。ここでは「わたしに近づいて、これを聞け。」とあります。ただ聞くだけではありません。近づいて聞くようにと言われているのです。近づいて聞けとはどういうことでしょうか?それはよく聞けということです。集中してよく聞くようにということです。神はイスラエルがご自分のことばをよく聞くように、そして、これから起こることを注意深く見ることを望んでおられるのです。それは今に始まったことではありません。昔からそうでした。神は彼らがよく聞くようにとこれまでも常に預言者を通して語ってこられました。しかし、当のイスラエルは全く聞きませんでした。聞く耳を持たなかったのです。聞いてはいても集中していませんでした。右の耳から聞いてもすぐ左の耳から出ていたのです。みことばが彼らの心に留っているということはありませんでした。

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。主は今も色々な方法によって語っておられますが、それを自分の人生の中に語られていることとして受け止めることはあまりありません。単にイスラエルの歴史に起こったことして、あるいは遠い昔にあったこと、あるいは、一つの神話のように受け止めるだけで、自分の実際の生活の中に語っておられる生ける神のことばとして聞くことはほとんどありません。私たちは、神の御言葉を聞くことにもっと集中しなければなりません。神に近づいて、これを聞かなければならないのです。

ところで、16節の後半の言葉に注目してください。ここには「今、神である主は私を、その御霊とともに遣わされた。」とあります。ここで急に「私」という言葉が出てきます。「神である主が私を遣わされた」・・と。いったいこの「私」とはだれのことなのでしょうか?この文脈から考えるとこれはバビロンからイスラエルを解放するために遣わされたクロス王のことです。そして、このクロス王については45章1節で「油注がれた者」と呼ばれていました。そうです、彼はイエス・キリストのひな型であったわけです。ですから、この「私」とはイエス・キリストのことであると言ってもいいでしょう。そのメシヤ、救い主であるキリストを神である主が遣わされました。この主は「アドナイ」ということばですが、ここにも※がついていて、下の欄外の説明を見ると、これは太字の主であることがわかります。すなわち、「ヤーウェー」のことです。この神である主とはヤーウェー」なるね型、父なる神のことです。その神である主が、私を遣わされました。どのように?「御霊とともに」です。もう皆さんお気づきになられましたね。ここには三位一体の神が全部出ているのです。聖書に三位一体という言葉はありませんが、その概念は聖書の至る所に見ることができるのです。「神である主」「私(イエス・キリスト)」、そして、「御霊」です。

マタイの福音書3章16節、17節を見ると、イエス様がバプテスマを受けて、水から上がられた時、神の御霊が鳩のように下って、ご自分の上に来られるのをご覧になった、とあります。そして、天からこう告げる声が聞こえました。「これは、私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

ここでクロス王のことが「主に愛される者」(14)と呼ばれていますが、イエスも主に愛される者でした。クロス王はイスラエルをバビロンから解放しましたが、イエスも罪の中に捕らわれていた全人類を解放するために遣わされたメシヤ、救い主なのです。あなたはこれを聞かなければなりません。

Ⅱ.あなたのしあわせは川のように(17-19)

次に17節から19節までのところに書かれてあります。「17 あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。18 あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の砂のようになるであろうに。19 あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになるであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに。」

ここには、もしあなたが神のことばを聞くならどうなるかが記されてあります。 すなわち、もしあなたが神の命令に耳を傾けさえするなら、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるということです。あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る物は、真砂のようになるのです。

この「しあわせは川のように」の「しあわせ」は、ヘブル語で「シャローム」という言葉が使われています。「シャローム」とはしあわせという意味だけでなく、「平和」とか「平安」という意味があります。勿論、しあわせという意味も含んでいる言葉ですが、これは全く欠けのない、完全に満たされた状態のことを指している言葉です。病気がないから健康ですし、戦いがないので平和なのです。そういう理想的な状態、それが「シャローム」です。そういう平和が川のように押し寄せてくるのです。

英語の賛美に「Peace like a river」という歌があります。 「Ive got peace like a river. Ive got peace like a liver. Ive got peace like a liver in my soul.」  川のような平和を得たという歌です。川のようにです。すごいですね。この川のようにという表現は、とぎれることがない状態のことを表しています。とぎれることなく、次から次へと波が押し寄せてくるように、私たちのたましいに神のシャロームが押し寄せてくるのです。    そのためには一つだけ条件があります。それは、あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば・・です。注意深くこれを聞いて、これに従うなら・・です。そうすれば、しあわせは川のように、あなたの子孫は海の砂のようになるのです。

「信仰の父」と称されるアブラハムは、主から「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ生きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」(創世記12:1-2)と言われました。そしてアブラハムがそのことばの通りに、自分の生まれ故郷を出て、神が示す地に出かけて行った時、神は彼を大いに祝福されました。アブラハムはユダヤ教からも、キリスト教からも、イスラム教からも「信仰の父」と敬われていますが、今やそれは全世界の半分以上の人たちにあたるのです。それほどの人たちから敬われているのは、彼が神のことばに従ったからです。

あなたはどうですか?神の命令に聞いて、それに素直に従っているでしょうか?そんなの聞いても何の益にもならないし、大したことなどない、と思ってはいないでしょうか。あなたに最も良いことを教え、歩むべき道を導かれる神を賛美し、その教えに聞き従う者でありたいと思います。

Ⅲ.バビロンからのがれよ(20-22)

ですから、結論は何かというと、「バビロンからのがれよ」ということです。20節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。地の果てにまで響き渡らせよ。「主が、そのしもべヤコブを贖われた」と言え。」

「バビロン」とか「カルデヤ」というのは同じ場所を指しています。ここではバビロンに捕らえられていたイスラエルに、そこから出るように、のがれるようにと言われているのです。というのは、それを聞いてもまだそこにとどまろうとする人たちがいたからです。せっかく神がクロス王を立ててバビロンを滅ぼし、そこから彼らを解放してくださったというのに、まだそこにとどまっていようとする人たちがいたのです。

信じられないようなことかもしれませんが、これが現実です。せっかく神がイエス・キリストによって私たちを罪から救ってくださったというのに、そこから出ようとしない人たち、のがれようとしない人たちがいるのです。あなたの罪は赦されました。あなたのために神がその救いの御業を成し遂げてくださいました。神はあなたのために御子イエス・キリストをこの世に送り、あなたの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。あなたの罪は贖われました。あなたがこのイエスを救い主として信じるなら、あなたのすべての罪は赦されるのです。これはグッド・ニュースではないでしょうか。これが福音です。なのにこの福音を信じないで、そのまま罪の奴隷でいることを望む人たちがいます。「別にいいんです。私は」「このままで十分ですから。」「このまま罪の奴隷として縛られて、最後は死んで地獄の墜ちても構いません」そういう人たちが結構いるのです。それは本当に残念なことです。

21節をご覧ください。「主がかわいた地を通らせたときも、彼らは渇かなかった。主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた。」これは出エジプトの出来事を指しています。バビロンからの解放は、第二の出エジプトして描かれているわけです。その出エジプトにおいて、エジプトから出たのは良かったものの、すぐさまエジプトの軍隊が追って来た時、目の前には紅海が立ちはだかって、彼らは前に進んでいくことができませんでした。しかし、神はそこに乾いた道を作って通らせました。また、水のない砂漠で渇き、死ぬのではないかという時にも、主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させてくださいました。つまり、あの出エジプトの時に彼らを救い出された主は、このバビロンからの救出においても必ず救い出してくださるというのです。それは究極的には、来るべき天の御国のひな形です。つまり、バビロンに捕らわれていた者を救い出される主は、罪の中に苦しんでいる人たちをそこから救い出し、必ず天の御国へと導いてくださるというのです。

しかし、それがどんなにすばらしい約束でも、それを信じなければ意味がありません。バビロンから出よ、カルデヤからのがれよと言われても、いいえ、私はこの世にずっととどまってサタンの支配の下で、罪の奴隷のままで、平々凡々と、人生おもしろおかしく生きていた方がいいんです、神なんか信じるよりも、自分がやりたいように、自由に生きていきたいんです、というなら、どんなにすばらしい約束も全く無意味なものになってしまいます。そういう人に主は何と言われるでしょう。そういう人には22節に「悪者どもには平安がない」とあるように、平安はありません。信じるか信じないかはあなたの自由ですが、でも信じない人には平安はないのです。

今年4月にMTC総会があり、続いて世界宣教聖会がありましたが、そこで今年も滝元明先生がメッセージをしてくださいましたが、そこで先生が、オズワルド・スミスという牧師が書いてあった本の話をしてくださいました。  名前は忘れましたけれども、カナダのある街にリバイバルが起きた時に、街中の人たちが教会に来るようになったそうです。そして、街中の人たちがこぞって集会に来ました。人々が救われて、罪を悔い改めて、夫婦仲が回復して、泥棒がいなくなって、素晴らしい街になったそうです。   しかし、その中にリバイバルを喜ばない人がいました。みなさん、リバイバルを喜ばない人がいるのです。だれだと思いますか。酒屋の主人です。なぜ喜ばなかったかと言うと、今までは酒屋に来て飲んで楽しんでいた人たちが、酒屋に来なくなって、飲まなくなってしまってので、商売あがったりになったからです。 そこで酒屋の主人は怒って、「ひとつあの集会を妨害しないといかん!」ということで、彼は何をしたかというと、ならず者の所に行って「あの集会を妨害してくれ」と頼んだそうです。雇われたヤクザたちが集会に入り込み、「よーし。妨害してやろう!」と機会を狙ってるうちに、話を聞いていた彼らは怖くなってしまったそうです。   「俺たちはこのままだったら地獄に行ってしまう。大変だ。俺は悔い改める。イエス様を信じます!」ということで、悔い改めてイエス様を信じたそうです。素晴らしいことです。   そういうようなリバイバルが日本に来ると素晴らしいと思いますけれど、この酒屋の主人は、自分が遣わしたヤクザたちがイエス様を信じたということで酌に触って、今度は彼自身が妨害に入ったそうです。  彼は席の真ん中に座って、妨害するために機会を狙っていました。すると説教者がお祈りして、「今日はどこからメッセージを語ったら良いですか。教えてください」と祈った時に、イザヤ書の38章の1節の御言葉から語れ、と主は言われたそうです。その御言葉はどういう御言葉かというと、ヒゼキヤに言われた言葉ですが、イザヤ書 38章1節のみことばでした。   「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」    この神様がおっしゃったことは、「あなたの家を整理しなさい。あなたは死ぬ。」文語体には「必ず死ぬ」とあります。   これは、王様であったヒゼキヤ王にイザヤという預言者が語った言葉ですが、神が説教者に与えて、「あなたは今日この言葉を語りなさい。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。』」   しかし説教者は「いや~、そういう説教はなかなかしにくい。」と言ったそうですが、「語れ」と言われたそうです。それで説教者は立ち上がって、「みなさん、今晩の聖書のテキストをお読みします。『あなたの家を整理しなさい。あなたは必ず死ぬ。』そう語った途端に、酒屋の親父が立ち上がって叫び出しました。「何を言っている!キリストなんか嘘だ!神なんかいらん!」と叫び出し、集会は全てぶち壊されたそうです。みんなその男に集中したそうです。  その途端、この男の声がぴたっと止まりました。止まった途端に口から血が吹き出て倒れて死んだそうです。みなさん、誰が介入したと思いますか?   時々、私たちは神様を恐れず、悪いことやっても神は愛ですから赦してくださると考えますけれども、神に反抗し続けたら死ぬのですという話を、オズワード・スミス先生が語ったのでした。

信じるか信じないかはあなたの自由ですが、信じない者、神の命令に耳を傾けない者には、このような結果になるのです。平安は、あなたの力で買うことはできません。お金がどんなにあっても、どんなに能力があっても、平安はあなたの力で勝ち取ることはできないのです。平安を得るためにはただ神に聞かなければなりません。「わたしに聞け」と言われる神に聞かなければならないのです。神に聞くなら、神は必ずあなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導いてくださいます。

その道とは何でしょうか。そうです、それはイエス・キリストです。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)イエスは、「私は道である」と言われました。「真理である」「いのちである」と言われました。「わたしを通してでなければ、だれ一人父のみもとに行くことはできません。」イエスを通してでなければ、本当の平安はありません。イエスを信じなければ平安はないのです。それがほしいと願うなら、どうかもう虚しい努力は止めて、イエスを信じていただきたいと思います。そして、喜びの歌声をあげて、それを地の果てまで響きわたらせましょう。イエスはあなたが信じるに値するお方なのです。