イザヤ書49章7~12節 「今は恵みの時、救いの日」

きょうはイザヤ書49章のみことばから、「今は恵みの時、救いの日」というタイトルでお話したいと思います。8節にこうあります。「主はこう仰せられる。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』」    イザヤは、バビロンに捕らえられていたイスラエルを解放するためにやがて油注がれた者、メシヤが遣わされることを預言しました。その預言のとおりに、イスラエルはバビロンに捕らえ移されてから70年後の紀元前538年に、ペルシャの王クロスによって解放されました。この解放こそ恵みであり、救いです。

そして、これはある事のひな型でもありました。それは、神が救い主イエス・キリストを通して罪の奴隷として捕らえられていた人たちをそこから解放することです。使徒パウロはこのことばを引用して、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)と言いました。この解放こそが、まさに新約聖書で言うところの恵みであり、救いなのです。そしてその恵みの時はいつなのか。救いの日はいつなのか。「今でしょ」と聖書は言うのです。きょうはこの救いの恵みの大きさ、豊かさについてお話したいと思います。

Ⅰ.あわれみの神(7)

まず第一に、私たちを罪から救ってくださる方はどのような方なのかについて見ていきたいと思います。7節をご覧ください。「イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」

ここには、イスラエルの民を捕囚から救われる神とはどのような方なのかが語られています。それは「イスラエルを贖う、聖なる方」です。「贖う」とは「代価を払って買い取る」という意味です。身代金を払って解放すると言った方がわかりやすかもしれません。よく身代金目的の誘拐事件が起こりますが、誘拐された側は身代金を払って解放されるわけです。同じように、神の民であるイスラエルがバビロンの奴隷として捕らえられその苦しみの中に陥っていた時、神は、それ相当の代価を払って彼らを買い戻し、その苦しみの中から解放してくださいました。

また、ここには「聖なる方」とも言われています。「聖なる方」とは、この世と分離された方という意味です。この世は罪に汚れていまが、神は罪もしみも何一つ汚れのない聖なる方なのです。このように聖なる方であられる主は、罪によって堕落したイスラエルのために代価を払って贖ってくださる方なのです。

この方が、人にさげすまれている者、民に忌み嫌われている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられます。「王たち見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」

「人にさげすまれている者」とか「民に忌み嫌われている者」、「支配者たちの奴隷」とはイスラエルのことです。今、イスラエルの救い主である主がバビロンに捕らえられ、さげすまれ、忌み嫌われ、支配者たちの奴隷となっているイスラエルを、その悲惨な状況から救ってくださいます。そして今、イスラエルを捕らえ奴隷にしている民(バビロン)が、後に彼らにひれ伏すようになるというのです。

いったいどうしてそのようなことが起こるのでしょうか?それはイスラエルの聖なる方主が立ち上がり、救ってくださるからです。イスラエルはバビロンに捕らえ移されて70年が経っていました。70年といったら相当の年月です。70歳の方が生まれてから今に至るまでの年月です。その間ずっと捕らえられ、不自由な生活を余儀なくされていたのです。ですから、イスラエルの民たちの中には本当の信仰をもっている人たちも少なくなっていました。バビロンのきらびやかな文明の中に溺れて、何が本当の神なのかさえわからなくなっていたのです。「本当に神がいるなら、どうしてわれわれはいつまでもこんな目に遭っていなければならないのか。」「『解放する、解放する』と言っても、あれからもう70年も経っているではないか。神なんか全くあてにならない。そのような思いに支配されていたのです。

しかしそのような彼らに、主はこのように仰せられました。「王たち見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」  ここですばらしいと思うことは、彼らは神に選ばれた者であるということです。神に選ばれたのであれば、どんなことがあっても神が最後まで責任を取ってくださいます。必ず救ってくださるのです。

15節をご覧ください。来週のところですが、ここには「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」とあります。たとえ女たちが忘れても、神は決して忘れることはありません。おそらく人間の愛を表現する上で、母と子の結びつき以上に強いものはないかと思います。母親の愛は理論を超えた世界です。だから「親ばか」と言われるのです。そのくらい母親は子どものことを考えています。それは理論を超えているのです。  しかし、悲しいことにそんな母親でも自分の子供を捨ててしまうことがあります。あるいは、パチンコに夢中になって子どものことを忘れてしまい、車の中に置いて死なせてしまうこともあります。ですから母親の愛は絶対はありません。しかし神は違います。神は絶対にあなたを忘れることはありません。

16節には、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」とあります。この「刻む」というのは刺青をすることです。忘れないようにちょっとペンで書くというレベルではないのです。刺青をすることです。考古学的には、古くはB.C.1300年頃からこうした習慣があったようです。古代エジプトのミイラに、既に刺青がされているものが発見されています。それは花婿、あるいは花嫁が、それぞれ自分のものであることのしるしのため、あるいは奴隷がその主人のものであることのしるしとして、腕や脚にしるしを付けたのです。ですから神の手のひらにあなたが刻まれているということは、永遠に忘れられることはないということなのです。

まして、ご自身のひとり子を十字架にまで付けてくださった神が、あなたを忘れることがあるでしょうか。その手のひらには刺青どころか釘の跡があるのです。その釘の跡は永遠に消えることはありません。それほどまでに愛してくださった主が、あなたを忘れるということは絶対にありません。時々、私たちは、だれも自分を顧みてくれないとか、だれからも愛されていない、全く孤独だ、と言うことがありますが、それはあなたがこの神を見ていないからです。もしあなたがこの神を見るなら、神がイエスを通して何をしてくださったのかを覚えるなら、決して落ち込むことはありません。感謝に満ち溢れるはずです。神はあなたのことをだれよりも愛し、だれよりも同情し、だれよりも寄り添って、世の終わりまで、いつもあなたと共にいてくださると約束してくださいました。大切なのは、この神のあわれみに心を留めることなのです。

Ⅱ.今は恵みの時、救いの日(8)

第二のことは、その救いの日はいつかということです。それは今です。8節をご覧ください。「主はこう仰せられる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。」

イザヤの時代で言う「恵みの時」、「救いの日」とはいつのことでしょうか?それは、バビロン捕囚から解放される日です。主はその日が必ずやって来ると約束してくださいました。

パウロはこのことばを引用して、次のように言いました。Ⅱコリント6章1節と2節です。「1私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」

パウロはこれをイエス・キリストによってすべての人がバビロン捕囚ならぬ、罪の束縛から解放される日として用いました。すなわち、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(5:21)神は、このキリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねてくださいました。ですから、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(5:17)これが神の恵みの時、救いの日です。神はイエス・キリストによってこのことを成し遂げてくださいました。すでに神の祝福があなたの目の前にあります。ですから、それをむだに受けないようにしてください。今、それをつかみなさい、というのです。

私たちは誰でも、過去と現在と未来を持っています。過去がない人も、将来がやって来ない人もいません。しかし確かなことは、過去はもう過ぎ去っていること、また、未来はまだ来ていないということです。今だけが、私たちの目の前にあるということです。ある人はいつも過去に生きています。「ああ、昔はよかった。あの時あんなことをした。こんなことをした」と。でも、私たちは二度と過去に戻ることはできません。逆に、ある人は未来に生きています。「こういうふうになったら頑張るんだけどなぁ。今はできないんだけど、そのうちがんばるさ」と。しかし、そこには何の根拠もありません。ただ何となく未来に向かって望みを置いているだけです。過去も、未来も、神の御手の中にあるのであって、神が私たちにゆだねておられるのは「今」だけなのです。私たちは今しか生きることができないのです。

多くの人々は、豊かな人生を送りたいと願っています。しかし、その豊かな人生とはどんな人生なのでしょうか。それは、豊かな今があってその積み重ねによって造られていくものです。「今が恵みの時、今が救いの日」なのです。今、神があたなに備えておられる祝福を受け取らなければ、二度とそれをつかむことはできません。今、神が備えてくださった救い主イエス・キリストを信じること、それが神の恵みを無駄にしないことなのです。

これは一つの寓話です。ある時悪魔の手下どもの修行期間が終わりました。いよいよこれから悪魔の手下たちが地上に派遣されるという日に、悪魔の親分が子分たちに言いました。  「おまえたちをここから人間たちのところに遣わすのだけれど、いったいどんな作戦で行くつもりだ。」  すると悪魔の手下その一が言いました。「親分、私はこうしたいと思います。人間のところに行って、神なんかいない、と信じ込ませようと思います。」  すると悪魔の親分が言いました。「そんなことをしてもだめだ。人間はみんな神によって造られているから、本能的に神がいるということを知っている。だからそれを否定することは難しい。お前の作戦はだめだ。」  すると悪魔の手下その二が言いました。「親分、こういう方法はどうでしょうか。地獄なんかない。神のさばきもない。あるのは天国だけだ。みんな天国に行けるから大丈夫。心配することはない。さあ、自分の人生を悔いのないように好きに生きればいい。」  すると親分が言いました。「それもだめだ。人間は本能的に、悪いことをすれば地獄に行くのではないか、と恐れている。だからそれを否定することは難しい。」  すると悪魔その三が言いました。「じゃ親分、こういうのはどうでしょうか。神はいる。地獄もある。ただし、信じるのは今じゃなくてもいい。もう少し暇になってから、もう少し年を取ってから、もう少し勉強してから、そう人間に思い込ませたらどうでしょう。すると親分は言いました。「それはいい方法だ。」

そして、悪魔はその作戦で成功しています。多くの人はいつも「もう少し経ってから、もう少し暇になつてから、もう少し年を取ってから。今はまだいい」そう言ってチャンスを失っているのです。しかし、私たちの人生には必ず限りがあります。それがいつ終わるのかは誰にもわかりません。あるいは、いつ主イエスがご自分の民を迎えに再び来られるのか、その再臨の時がいつなのかは誰にもわかりません。しかし、その時が来てからでは遅いのです。うしろの戸が閉められてからでは手遅れなのです。

あのノアの洪水を思い出してください。ノアの時代に、洪水が来るから悔い改めて箱舟に入るようにとノアがいくら勧めても、人々は笑って取り合いませんでした。しかし、ある日、箱舟の戸が閉められました。うしろの戸が閉められたのです。すると雨が四十日四十夜降り続き、この地上は洪水に覆われ、箱舟に入らなかった人たちはみな滅びました。人々がどんなに救いを求めても戸は開きませんでした。やがてそういう時がやって来るのです。しかし、その時では遅いのです。

今が恵みの時であり、今が救いの日です。この救いのメッセージを聞いている今がチャンスの時なのです。この恵みの時、救いの日に、どうかあなたの心を開いてイエス・キリストの救いを信じ、主とともに歩む人生を歩み始めてください。

Ⅲ.生ける水の川が流れ出る(9-12)

最後に、そのように神の救いを受け入れた者はどうなるかを見て終わりたいと思います。9節から12節までをご覧ください。

「9 わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、やみの中にいる者には『姿を現せ』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。10 彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。11わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。12見よ。ある者は遠くから来る。また、ある者は北から西から、また、ある者はシニムの地から来る。」

これはバビロンに捕らえられていた人がそこから解放され、エルサレムに帰還するという約束です。9節の「捕らわれ人」とか「やみの中にいる者」とは、バビロンに捕えられていた時の状態を指します。そのような人に向かって「出よ」とか「姿を現せ」と言うと、彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となります。これはどういうことかというと、バビロンに捕らわれていた人たちがそこから解放され、羊が草を食べるように、草を食べるようになるということです。裸の丘の至るところが、彼らの牧場となるのです。

そればかりではありません。バビロン捕囚からエルサレムへの帰還は険しい道のりであり、危険な旅ですが、主が彼らを守ってくださいます。彼らは飢えることがなく、渇くこともなく、熱も太陽も彼らを打つことはありません。そして、主が彼らを水のわく所に連れて行ってくださいます。これがバビロンから解放された者たちの姿です。これがイエス・キリストによって罪から解放された者の姿なのです。

主イエスは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)

私たちはまだ救いの完成の時は迎えておりませんが、この地上にあってもその前味を味わうことができます。救い主イエスを信じると、聖書が言っているとおりに、心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになるのです。イエスを信じることによって、この地上の生き地獄が、この地上のパラダイスになるのです。何とすばらしいことでしょうか。

アメリカにフレッド・スミスさんという方がおられます。彼はもう90歳の高齢です。しかも健康は優れません。週に四回、人工透析を受けています。彼はクリスチャンの雑誌「リーダーシップ・ジャーナル」の編集者の一人でもありますが、その彼がこのようにおっしゃっています。  「私は毎日が幸せです。それは、自分の力で変えることはできないものは、素直にそれを受け入れ、失ったものを見て悲しむのではなく、残されたものを楽しむことを学んだからです。振り返って見ると、信仰が成長するのはいつも逆境の時でした。誰でも落ち込むことがあります。しかしその時こそ、信仰の成長の大きなチャンスなのです。人生における苦しみは、神の罰ではありません。その時こそ、成長のチャンスの時なのです。そして信仰が成長すれば、他の人々を助けることができるようになります。

イエス・キリストはこう言われました。「私を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」    神から受けた恵みは川のように流れ、周りの人々までをも潤します。しかし、湖はそうではありません。それはひたすら受けて、貯めるだけです。イエスは、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。私たちは神の恵みを受けて、回りの人たちにその祝福を流すために生かされています。それはイエスのもとに行き、イエスを信じることから始まります。その祝福が既に備えられているのです。どうかその恵みを、その救いを受け入れてください。確かに、今は恵みの時、今は救いの日なのです。