イザヤ書50章1~11節 「神である主が私を助ける」

きょうからイザヤ書50章に入ります。きょうは50章全体から「神である主は私を助ける」というタイトルでお話します。ここには「神である主が、私を助ける」という言葉が、何回も繰り返して出てきます。神である主は私を、あなたを助けるということを信じていただきたいと思うのです。

Ⅰ.イスラエルの錯覚(1-3)

まず1節から3節までをご覧ください。「1 主はこう仰せられる。「あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか。わたしが彼女を追い出したというのなら。あるいは、その債権者はだれなのか。わたしがあなたを売ったというのなら。見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。2 なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか。見よ。わたしは、しかって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える。3 わたしは天をやみでおおい、荒布をそのおおいとする。」

イスラエルは自分たちがバビロンの捕囚になったのを神のせいにして恨んでいました。ちょうど、夫が離婚を宣言し妻を追い出した時のように、また父親が借金のために子どもを借金取りに売り渡した時のように、神がイスラエルを見捨ててしまったと嘆いたいたわけです。

それに対して神は「そうじゃない」と言われます。もし神が彼らに離婚を宣言したというのなら、その離婚状はどこにあるのか、もし彼らを借金のかたに売り渡したというのなら、その債権者はだれなのかを告げよ、というのです。主はそのようなことは絶対になさいません。主は永遠の愛をもって彼らを愛してくださいました。ですから、どんなことがあっても彼らを見捨てるようなことはなさらないのです。たとえ人間が神を裏切ることがあっても、神は絶対に裏切ることはありません。私たちは真実でなくとも、神は常に真実な方だからです。

では、彼らが離別された女のように感じたり、借金取りに売られた奴隷のように感じていたのはどうしてでしょうか。1節後半にこうあります。「見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。」つまり、彼らがそのようになったのは、すべて彼ら自身に原因があったからなのです。彼らがそのようになったのは、全部彼ら自身が神にそむいたためだったのです。

2節をご覧ください。「なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。」主はこれまでに何度も何度も預言者たちを遣わして、彼らに警告してきました。にもかかわらず、彼らはだれも答えようとしませんでした。なぜでしょうか?それは主の御手が短くて救えなかったからではありません。主に力がたりなくて助け出せなかったのでもないのです。それは彼らに信仰がなかったからです。いくら警告しても彼らは神の言葉を聞こうとしませんでした。それが問題だったのです。

それは、これまでのイスラエルの歴史を見てもわかるでしょう。2節の後半から3節にかけてこうあります。「見よ。わたしは、しかって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える。3 わたしは天をやみでおおい、荒布をそのおおいとする。」

「しかって海を干上がらせ」というのは、出エジプトの出来事を指しています。神は430年もの間エジプトに捕らえられていたイスラエルを救い出すために驚くべき御業を行われました。海をしかって干上がらせたのです。それは出エジプト記14章21節にあります。イスラエルを出させまいとエジプト軍が追って来た時、目の前には紅海が広がっていて絶体絶命のピンチでした。そのときモーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風を送られ、海を陸地とされたので、彼らは乾いたところを通って救われました。

また「多くの川を荒野とする」というのは、ヨシュア記3章16節、17節の出来事のことを指して言われているものと思います。イスラエルがヨルダン川を渡ってカナンに入っていこうとした時、主の契約の箱をかつぐ祭司たちの足が、ヨルダン川の水のところにとどまると、ヨルダン川の水は完全にせきとめられました。それで彼らはその乾いた地を通って、カナンの地に入って行くことができたのです。神は天と地と海を思いのままにできるお方です。なのに愚かなイスラエル人は、この力ある神を拒みました。それが問題だったのです。主の御手が短くて救えないのではありません。その耳が遠くて、聞こえないのではないのです。イスラエルの咎が、神との仕切りとなり、イスラエルの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしていたのです。それを彼らは神のせいだと思い込んでいました。

皆さんはどうでしょうか。何か難しい問題が起こったとき、それを神のせいにしたり、だれか他の人のせいにして恨んだりしているということはないでしょうか。しかし、それは本末転倒です。それは神のせいでも、人のせいでもなく、自分の罪、自分の過ちのせいなのです。それが本当の問題です。にもかかわらず、そうした自分の姿を棚に上げて人のせいにしたり、神のせいにしてるとしたら、本当の解決を見ることはできません。

ですから大切なのことは、そんな自分の姿を知ることです。本当の自分を知れば自分の目を向ける方向が180度転換して、劇的に変わっていくことになるでしょう。それまで心に何かひっかかりというか、すっきりとしないものがあって、そうした問題は結局は自分の内面にありながらも、情報の飛び交う現代では自分の目がどうしても移り変わる外の世界に向けられるため、そうした現実になかなか気づきにくいのです。しかし静まって聖書を読み、あるいは神からのメッセージを聞いて、そうした自分の心を神様にさぐっていただき、自分の中に誤りがあったなら悔い改め、神に立ち返ることで、本当の平安が与えられるのです。自分のあるがままの姿を見つめるということは自分の心の未熟さやあさましさや愚かさに向き合うことですから辛いことでもありますが、それが解決の第一歩につながっていくのです。

Ⅱ.神である主が、わたしを助ける(4-9)

次に4節から9節までに注目をしたいと思います。まず6節までを読みます。 「4 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。5 神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、 6 打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」

ここには「神である主は」という言葉が何回も出てきます。4節、5節、7節、9節に繰り返して語られています。実はこの4節から9節までの箇所は、いわゆる第三の「しもべの歌」と呼ばれている箇所で、主のしもべであるイエス・キリストのことが預言されている箇所なのです。これまですでに二回見てきました。第一のしもべの歌は42章1節から4節までのところでしたね。そこにはしもべの召命が記されてありました。神はそのしもべであられるイエス・キリストを、ご自身の救いをこの地にもたらすために召されるということでした。それから第二のしもべの歌は49章4節から6節までのところにありました。そこにはしもべの使命が記されてありました。主のしもべであるイエス・キリストはいったい何のためにこの世に来られたのかということでい。それは諸国の民の光として、地の果てにまで神の救いをもたらすためです。そして、ここに第三のしもべの歌が登場するわけですが、その第三のしもべの歌を記すにあたり、「神である主が」ということばが出てくるわけです。なぜでしょうか?

それは、ここに主のしもべの苦難が描かれているからです。いったい主はどのようにして救いをもたらされるのでしょうか。何と苦難を通してです。主のともべは苦難を通して神の民を贖ってくださるのです。ですから、そのしもべの困難な歩みに対して、全宇宙の創造者であり、主権者であられる神が、全面的に助けてくださるということを強調するために、ここに何度も「神である主が」とあるのです。そのようにしもべを助け、支え、導いてくださる方は誰なのか、それは「このわたし」、「神である主」というのです。

では、神である主は、しもべをどのように助けてくださるのでしょうか?4節をご覧ください。ここには「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」とあります。弟子の舌とは何でしょうか?下の欄外の説明を見ると「教えを受けた者」とあります。弟子とは教えを受けた者です。その教えの中心が「舌」であり「耳」なのです。舌は語ること、耳は聞くことを表しています。もちろん聞くというのは単に聞くというだけでなく、聞き従うことも含まれています。

マタイの福音書11章28節には、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とあります。何と慰めに満ちた言葉でしょうか。主イエスは、とげとげしい言葉や苦々しい言葉ではなく、真に慰めに満ちた言葉を語り、疲れた者をいやし、励ましを与えました。そればかりでなく、しもべであられたイエスは父なる神の御声に従い、十字架の死にまでも従われました。これは、先程のイスラエルの姿とは本当に対照的ではないでしょうか。イスラエルは、神が何度も預言者を遣わして語ってもそれを聞こうとしませんでした。しかし主のしもべであられるイエスはそうではありませんでした。彼は朝早く、まだ暗いうちに起きて主と交わり、そこで語られた主のことばを聞いて従われました。

5節と6節を見てください。ここにはその逆境の時、苦難の時のことが語られています。「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」

これはイエスが受けた苦難の預言です。イエスは顔につばきをかけられ、こぶしでなぐられ、あるいは平手で打たれ、またムチで打たれ、あげくの果てに十字架につけられました。またつばきをかけられ、十字架につけられた時には「おい、神殿を三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」と言ってあざけられました。ここに「ひげを抜く」という表現がありますが、これは侮辱的な行為です。確かにひげを抜かれること自体痛いことですが、それ以上に心が痛みます。そのようなことを彼らは主のしもべであるイエスにしました。それでもここに「私の顔を隠さなかった」とあるように、イエスはどんなに肉体的な苦しみと精神的侮辱を受けても、そこから隠れようとしませんでした。それがしもべに与えられた使命だったからです。その使命の実現に向かって進んで行ったのです。

いったいなぜそのようなことができたのでしょうか。なぜイエスはそのような苦難の中でも神のみこころに従うことができたのでしょうか。7節から9節までをご一緒に読みたいと思います。「7しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。8 私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。9 見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。」

それは、神である主が私を助けてくださるという確信があったからです。ここに何度も繰り返して、「神である主は、私を助ける」とあります。8節では表現が少し違いますが、同じことが言われています。「私を義とする方が近くにおられる」  主のしもべは、神である主が、私を助けられるという確信があったので、また神が彼を正しいと認め、弁護してくださると信じていたので、どんなに激しい苦難にあってもその苦難を正面から受け止め、自分に与えられた使命に向かって進んで行くことができたのです。

それは、この主のしもべの働きによって贖いを受けた私たちも同じではないでしょうか。神である主が、私を助けてくださるので、私を義として下さる方が近くにおられるので、どのような困難の中にあっても恐れたり、あきらめたり、投げ出したりすることなく、神に感謝することができるのです。

パウロはローマ人への手紙の中で次のように言っています。8章33節から39節までのところを開いてみましょう。「33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」

これがパウロの確信でした。神が私を義と認めてくださった。私のために十字架で死んでくださり、三日目によみがえられた方が、神の右の座にいて、私のためにとりなしていてくださる。であれば、いったいだれが私を罪に定めることができようか。だれが私をキリストにある神の愛から引き離すことができようか。だれもできない。どんなことがあっても神である主が助けてくださるという確信があったのです。ですから彼は、さまざまな困難の中にあっても神の使命に向かって進んで行くことができたのです。

それは私たちも同じです。私たちの人生にもさまざまな困難があります。しかしそれがどんな困難であっても、神である主が義と認めてくださったのです。この方がいつも私たちの近くにいて助けてくださいます。であれば、何を恐れる必要があるでしょうか。

ですから、たとえあなたの人生に何が起こったとしても、そのことで恐れたり、あきらめたり、投げ出したりしないでください。この確信を堅く保っていれば、いかなる問題も恐れることなく、いかなる侮辱や恥にも耐えることができるのです。

Ⅲ.神に拠り頼め(10-11)

ですから結論は何かというと、神に拠り頼めということです。イザヤはこの主のしもべの働きを述べた上で、この主のしもべにどのように応答するのか、ここでその決断を迫っています。10節と11節をご覧ください。「10 あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。11見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことはわたしの手によって、あなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。」

道は二つあります。一つは、主を恐れ、そのしもべにの声に聴き従う道でするそれは光のない暗黒の中を歩む時にも主にの御名に信頼し、神により頼む道です。そしてもう一つは、それとは反対にしもべの声には聴き従わないで、あくまでも自分の考えで、自分自身の火によって歩む道です。「自分たちの火」とはそのことを指しています。それはまさに「燃えさし」のようなものではないでしょうか。この「燃えさし」とはたいまつのように木切れなどの火のことです。暗やみの中をたいまつを持って歩くとどうなるでしょうか。足下がおぼつかないので、よく歩くことができません。その結果、「苦しみのうちに伏倒れ」てしまうことになります。これが自分の火によって歩く人の姿です。主に信頼し、主の光に照らされて歩む人は主が助けてくれますが、自分の火によって歩む人は、苦しみのうちに伏倒れてしまうことになります。あなたはどちらの火によって歩んでおられるでしょうか。

主イエスはこう言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

イエスが世の光です。イエスに従いましょう。イエスに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。イエスに従うとはイエスを信じ、イエスの御声に聴き従うことです。人の声ではなく、イエスの声です。その御声に聴き従わなければなりません。イエスに従うなら、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

皆さんはロックフェラーという人をご存じでしょうか。彼は人類史上最高の富豪として、ビル・ゲイツの三倍もの富を築き上げたと言われている人です。彼は、百歳(九十八歳)まで生き、多くの子孫にも恵まれ、あらゆる幸いを手にした人です。けれども、それは彼には何の困難もなかったということではありません。彼は私たちが経験する何倍も大きい困難に直面しましたが、神である主に信頼してその危機を乗り越えました。  彼が最初に経験した試練は、1863年にやってきました。彼は石油の事業で莫大な富を築いた人ですが、彼が石油事業を始めたばかりの頃に、ひとりの友人から鉱山を買わないかと勧められました。彼は鉱山にもある程度の関心があったので、友人の言葉を信じ、多額のお金を投資して炭坑を買い取りましたが、何とその鉱山は廃鉱と同じで、何の使い道もない無益な鉱山だったのです。いくら掘っても、鉱山からは石のかたまりしか出てきませんでした。  彼は石油事業にも多くの投資をしていたので、お金を貸してくれる所が無く、賃金の支払いが出来なくなってしまいました。するとそこで働いていた人たちは暴徒化し、騒ぎ出しました。彼らはロックフェラーを炭坑の中に閉じ込めて、賃金の支払いを要求しました。いったいどうしたらいいのでしょう。彼はあまりにもつらくて、自殺することまで考えたほどです。しかし、彼は信じるものは一つしかないと思い、荒れ果てた廃鉱にひれ伏して祈りました。  「神様!私は今まで神様のみことばを信じてそのまま従ってきました。今まで良心に背くことをしたこともなく、完全な十分の一献金をささげてきました。なのになぜ、私はこのような試練を受けるのですか。今まで私の至らないところがあったのならお赦しください。もっと熱心に働くチャンスを与えてください。どうか、神様が生きておられることを現してください。」  ロックフェラーは初めて、涙を流しながら、主に叫んで祈りました。そのうちに、まるで眠ったかのように倒れた彼は、不思議な体験をしました。  夢を見ていたのか、彼は自分が道を歩いている姿を見ました。道のりは非常に険しかったので、あまりにも疲れ果てて、足を一歩も動かすことができなくなってしまいました。それからしばらくすると、彼は地の片隅に倒れてしまいました。  すると突然、大きな両手が近づいて彼を起こし、その険しい道を歩き続けるように助けてくれるのでした。そして彼がある地点に来ると、その大きな両手は離れていきました。  ふと気がついた彼は、周囲を見回しました。彼は相変わらず、冷たい坑道に倒れていました。その時です。彼の心に、こういう声が聞こえてきました。  「あなたは行くべき所に、もうすでに来ている。時が来ると実を刈り取るだろう。あなたは今いるこの所をもっと深く掘りなさい。」  ロックフェラーは、その御声を聞いて勇気が湧いてきました。彼は炭鉱の外に出て、労働者たちに最後の訴えをしました。それはもう少し掘って欲しいということでした。そうすればきっと石炭があるはずだ・・・と。  その言葉を聞いた労働者たちは、ロックフェラーがとうとうおかしくなって、変なものでも見たのではないかと思いました。しかし、彼が涙ぐんで必死に頼むので、じゃ、最後にもう一度だけ信じてみるかと、炭鉱をさらに深くほり始めました。  するとどうでしょう。彼らが坑道を掘り始めてから間もなく、急に石炭の変わりに「黒い水」が吹き出てきたのです。それは石油でした。ロックフェラーは鉱山ではなく油田を買っていたのです。  その後彼は石油事業を通して世界一の富豪になりましたが、以後石油以外の事業には一切目もくれなかったということです。

皆さん、神で主があなたを助けてくださいます。あなたがしもべの声に聞き従うなら、決してやみの中を歩くことはなく、いのちの光を持つのです。問題はあなたがそれを信じるかどうかということです。ロックフェラーは信じました。信じて歩みました。彼はお母さんが生前彼に行っていた三つのことを守りました。一つは、十分の一献金をささげること。二つ目のことは、教会に行ったら、一番前の席に座って礼拝をささげること。三つ目、教会に素直に従い、牧師を悲しませないこと、それが神が喜ばれることだと信じて、彼のお母さんが彼にそのように言って聞かせたそうです。その通りに彼は信仰に生きました。神である主を信じ、その主の御声に従いました。その結果、彼は神に助けられて、巨万の富を得ることができたのです。

皆さん、私たちにも困難はあるでしょう。しかし、それがどのような困難であっても、神である主が私を助けてくださると信じて、この主の御声に聞き従いましょう。主が必ずあなたをも助けてくださいます。それが主のしもべが歩まれた道であり、彼が十字架という苦難の中にあってもそれを乗り越えることができた大きな秘訣だったのです。