イザヤ書49章1~6節 「主のしもべの歌」

きょうは、イザヤ書49章のみことばから「主のしもべの歌」というタイトルでお話します。イザヤ書には主のしもべとしてのイエス・キリストについて預言されている箇所が四カ所ありますが、今日の箇所はその一つです。最初に出てくるのは42章1節~4節ですが、そこには主のしもべの召命について記されていますが、きょうのところには主のしもべの使命、主のしもべであるイエス・キリストは何のためにこの世に来られるのかということが書かれてあります。そして、50章4節~9節には、主のしもべの受難について、52章13節~53章12節には、主のしもべの身代わりの死と復活についての預言が書かれてあります。この四つはすべて主のしもべであるイエス・キリストの預言です。  きょうは、主のしもべであるイエス・キリストは何ためにこの世に来られたのか、その使命、目的についてご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.主のしもべは神の栄光を現す(1-3)

まず第一に、主のしもべは神の栄光を現します。1節から3節までをご覧ください。「島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。そして、私に仰せられた。『あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたうちに、わたしの栄光を現す。』」    1節に、「主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。」とあります。この「私」とはだれのことかというと3節に「あなたはわたしのしもべ、イスラエル」とあるように、これは神のしもべであるイスラエルのことです。ところが、このイスラエルのことが「あなた」とか「私」という単数で書かれてあることから、これは単なるイスラエルのことではないことがわかります。そうです、これはイエス・キリストのことです。聖書にはこのようにイエス・キリストのことを「イスラエル」と表現している箇所がいくつかあります。たとえば、たとえば、ホセア書11章1節を見ると、そこには「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。」とありますが、マタイの福音書2章15節を見ると、これがキリストによって成就したことがわかります。ユダヤ人の王としてキリストが生まれたということを聞いて恐れ惑ったヘロデ王は、2歳以下の男子をひとり残らず殺しました。それで主の使いが夢でヨセフに現れエジプトに逃げるようにと告げたのです。そこでヨセフはエジプトに逃げ、ヘロデが死ぬまでそこにいました。それはこのホセア書に書いてあることが成就するためであったと、聖書に書かれてあります。つまり、このイスラエルとはイエス・キリストのことを指していたのです。このように、聖書にはイエス・キリストのことをイスラエルと表現している箇所がいくつかあるのです。そのイエス・キリストを、主は生まれる前から召し、母の胎内にいる時から呼ばれました。

そのように主がイエス・キリストを召されたのはいったい何のためでしょうか?3節を見ると、ここに「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す」とあります。主なる神は、キリストのうちに栄光を現すというのです。言い換えると、イエス・キリストを通して神の栄光を現すということです。ここに、神のしもべであるキリストが来られた目的が記されてあります。それは、神の栄光を現すということです。イエス・キリストがこの世に来られたのは、神の栄光を現すためだったのです。

これは、神のしもべである私たちすべてのクリスチャンの生きる目的でもあります。いったい私たちは何のために生きているのでしょうか。それは、神の栄光を現すためです。私たちが今ここに生きているのは自分の好きなことをするためではなく、神の栄光を現すためです。Ⅰコリント10章31節を開いてください。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」    パウロはここで、あなたがたは食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい、と言っています。これがあなたの人生の究極的な目的なのです。あなたが仕事をするのも、勉強するのも、楽しく家族で過ごすのも、人と会うのも、何かのプロジェクトに関わるのも、すべて神の栄光のためです。私たちは自分の好きな仕事をしたり、レジャーをしたり、趣味をするために生きているのではなく、神の栄光のために生かされているのです。別にこれらのことが悪いと言ってるのではありません。そうではなく、それらのことも含めて、私たちが食べるのも、飲むのも、何をするのも、神の栄光を現すためにすべきだということです。

この夏、モスクワで行われた世界陸上が終わりました。毎日暑い中で熱き戦いが繰り広げられましたが、その中で女子走り幅跳びの決勝を観ていたら、そこに ブリジッタ・バレット(Brigetta Barrett)という選手が跳躍に備えて休んでいる姿が映し出されていました。するとカメラはなぜかバレットの靴のかかとを捉えたのです。そこに何と書いてあったと思いますか?靴のかかとに「Jesus」と書いてありました。それを何秒間か映し出されていたのです。それは彼女の信仰でしょう。食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。別に彼女はそれが証になるとは思ってもいなかったでしょう。もしかしたらそれは彼女の祈りだったのかもしれません。しかし、そこに書いた「Jesus」という文字をそれを観ていた全世界の人々が観ることによって、大きな証になったことは間違いありません。その後で今度は彼女の手の爪も映し出されました。そこには十字架のマークがデザインされていました。あらまぁ、ネールもそのように証になったのです。私たちは食べるのも、飲むのも、何をするのも、神の栄光を現すためにしなければなりません。

それは何もいいことばかりではありません。いいことも悪いこともすべてです。すべてのことを通して、神の栄光を現すことができます。  たとえば、ヨハネの福音書13章31節を見ると、「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。『今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」とあります。ユダが出て行ったときとはいつのことでしょう。それはイエスを裏切る時でした。彼はイエス様を裏切るために主の晩餐の席から立って、部屋を出て行きました。それは人間的に見たら最悪の時です。しかし、そのような最悪の出来事を通しても神の栄光を現すことができるのです。たとえそのようなことであっても、それもまた神の救いの計画の一部であり、それによって神の御業が現されるからです。

私たちの人生にもよくこのようなことがあるのではないでしょうか。私たちの人生にも人から裏切られたり、また、見捨てられたりするようなことがあります。しかし、そのようなことであっても、それによって神の御業が現されるとしたら、それもまた神の栄光となるのです。たとえ自分が受け入れにくいような辛いことであっても、苦しいことであっても、そのことによって神の御業が現されるとしたら、それもまた神の栄光なのです。イエス様が十字架につけたられたという出来事は、その最たるものです。イエス様はユダヤ人のねたみと陰謀によって十字架につけられて死なれました。冷たく暗い墓の中で三日間を過ごさなければならなかったのです。しかし、神はこのキリストを三日目に死者の中からよみがえらせました。そのことによって神の栄光が現されたのです。

ですから、皆さん。皆さんの人生にもいいことばかりでなく、悪いと思えるようなこと、辛いことや苦しいこともあるでしょう。しかし、そうした出来事のすべても神の栄光のために用いられるのです。要するに、私たちは何のために生きているのかということをしっかりと覚えておくことです。私たちは神ために生きているのであって、私たちを通して神の栄光が現されるために生きているのだということを覚えているなら、たとえそれが苦しいことであっても、そこには神の平安があるのです。あなたのしあわせは川のようになると約束されてあるとおりです。

逆に自分のために生きている人はそうではありません。48章22節には、「悪者どもには平安がない」とあります。自分の夢をかなえるため、自分の成功のため、自分のためにどんなに人生を費やしても、そこには平安はありません。死んだらすべてが終わってしまいます。それは本当にむなしいものです。けれども、神の栄光のために生きる人生はそうではありません。それは永遠へとつながっていくものであり、平安と祝福が川のようにあなたの心を満たすのです。

Ⅱ.主のしもべにはむだな骨折りはない(4)    第二のことは、そのように神の栄光のために生きる主のしもべには、むだな骨折りはないということです。4節をご覧ください。「しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」

これはいったいどういうことでしょうか?イエス・キリストの十字架は骨折り損のくたびれもうけ(苦労するばかりで利益はさっぱりあがらず、疲れだけが残ること)だったと言うのでしょうか?いいえ、違います。確かに、イエス様のこの地上における生涯、特に最後の3年半の公生涯だけをみたなら、それはむなしいものであったかのように見えるかもしれません。しかし、そうではありません。その後のところには次のように記されてあります。

「それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」

人間的には骨折り損のくたびれもうけです。実にむなしい働きのようです。しかし、神はすべてのことをご存じであり、その報酬は神とともにあります。必ず報われるのです。この世の基準で成功したかどうかは関係ありません。大切なのは神の目で見たらどうであるかということです。そして、それが神のみこころにかなったものならば、たとえそこに弟子が1人しか残らないようであっても何の問題もありません。私の報酬は神とともにあるのです。これがイエス様の確信でした。

そしてそれは私たちの確信でもあるべきです。時として私たちは、主のために身を粉にして働いても何の結果も得られないとき、いったい何のためにやってきたのかとか、すべての働きが無駄だったのではないかと思うこともあります。これまでの働きにいったいどんな意味があったのかと思うようなことがあります。しかし、それが神の栄光のためにしたことであるなら、そこには必ず報いがあるのです。すべての人に見捨てられ、そこにたった1人しか残らなかったとしても、いやだれも残らなかったとしても、それが神のみこころならば、神が必ず報いてくださいます。イエス様の働きはそうだったでしょう。5つのパンと2匹の魚で男だけで五千人もの人たちの空腹を満たした時には大勢の群衆がみもとに集まっていたのに、イエス様が霊的な話をしたとたんに、十字架につけられて死ぬことを話したとたんに、弟子たちの多くが離れて行き、もはやイエス様とともに歩きませんでした。一番弟子と言われたペテロでさえイエスから離れて行きました。結局最後まで残った弟子はヨハネたった1人と最後までイエスに付き従って来た女たちだけでした。あとはみんな離れていきました。しかし、イエス様はそんなわずかな人のためにも自分のいのちを投げ打って仕えてくださり、十字架で死んでくださいました。たった1人のために。それがイエス様のなさったことです。そしてそれは決してムダではないのです。

皆さん、往々にして神の働きは骨折り損のくたびれもうけのようなものです。私たちの期待どおりにはいきません。たくさんの人に喜ばれ、たくさんの人が救われ、たくさんの人が最後までついて来ることはありません。あんなに頑張ったのに、あんなに労したのに、あんなに資金を費やしたのに、何の結果も得られなかったと思うことが多いのです。みんな離れ去って行き、たった1人しか残らなかった。だれも救われない。自分のミニストリーは失敗だった・・・。これでは骨折り損のくたびれもうけだ。そのように思えるのです。

しかし、そうではありません。神の働きはただいたずらに、むなしく、力を使い果たすようなことは絶対にありません。もしあなたが神の栄光のためにすべてをささげて生きるのなら、もしあなたが神の栄光のために身を粉にして仕えるのなら、そこには無駄なことは一つもありません。あなたの報酬は、あなたの神とともにあるのです。たとえこの地上で報われなかったとしても、やがて天で報われる時がやってきます。あなたの宝は、天に積まれているからです。

だからたとえ手応えがないからといってがっかりしたり、心配する必要はありません。毎日、毎日、集会を開いてもだれも来ない、だれも救われないとしても、心配しないでください。何年教会をやってもだれも救われない。いったいこれはどういうことか、ということがあっても、心配しないでください。大切なのは何人が救われたかということではなく、あなたが何のためにやったのかということです。それがもし神の栄光のためにやったのなら、必ず神が報いてくださいます。これが神のしもべに対する約束です。神の栄光のためにすべてをささげてきたのであれば、決して無駄なことは一つもありません。

福島県の西会津村に、かつて小さな教会がありました。その教会はパルマ(Palmer)という宣教師によって始められた教会で、今は恵泉キリスト教会の会津チャペルがその働きを継承しています。  パルマー先生は1961年までにロンドンの会計事務所で働いていましたが、戦後、宣教師たちが散り散りになった状況の中で、「すぐに来て、私たちを助けてください」という日本で働いていた宣教師からの手紙を受け取り、これは自分に対するマケドニヤの叫びだと確信し、その召しに応えました。その時47歳になっていた彼女は、外国への宣教師になるのは無理だろうなと思いましたが、いくつかの御言葉が与えられ、それが神からの召命であると確信して、会津若松にやって来たのです。当初8年間、会津クリスチャンフェローシップの一員として他の宣教師たちと仕えその後1年間英国に帰国しましたが、1年後独立した宣教師として主に献身し、1970年、56歳の時に再びこの西会津村にやってきたのです。パルマ宣教師は人々をキリストに導くためにはどんなことでもしましたが、その実は本当にわずかなものでした。そして1995年までの25年間に一度も英国に帰国することなくこの西会津村で仕え続けました。1995年81になられたパルマ先生はその働きを恵泉キリスト教会にゆだねて帰国されましたが、恵泉キリスト教会が会津に新しい教会を建てたとき、その最初の基金となったのがパルマ先生がささげた献金だったのです。

先生の働きは小さなもので、人の目には何もないかのように見えたかもしれませんが、主の報酬は豊かにありました。2005年にこの世を去られ天国に行かれましたが、そこでどれほどの報いを受けられたことでしょう。それは人の目にはむだな骨折りのように見えるかもしれませんが、いたずらに、むなしく、力を使い果たしたかのように見えるかもしれませんが、決してムダに終わることはありません。私の報酬は、私の神とともにあります。主のしもべには、このような報いがあるということを覚えておきたいと思います。

Ⅲ.地の果てまで神の救いをもたらす主のしもべ(5-6)

最後に、5節と6節を見ておわりたいと思います。「5今、主は仰せられる。―主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

ここに主のしもべのもう一つの使命が記されてあります。それは、ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めることです。イエスが来られた第一の使命は、神の民であるイスラエルを神に立ち返らせることでした。イエス様は取税人のザアカイが悔い改めた時、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)と言われましたが、迷える羊を捜して救う羊飼いのように、神のもとから離れた迷える羊を捜して救うために来られたのです。

しかし、そればかりではありません。6節を見ると、「主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」とあります。ただイスラエルを神のもとに帰らせるだけではない。諸国の民の光とし、地の果てまで神の救いをもたらす者とするために遣わされたのです。この「諸国の民の光」とは「異邦の民の光」とも言えます。イスラエルたけでなく、諸国の民の光、異邦の民の光、世界の光、世の光として、地の果てまで救いをもたらすために遣わされたのです。これがイエスの使命でした。これが神のしもべであるイスラエルに与えられた使命でした。しかし、彼らはこのことに失敗したのです。彼らは不信仰に陥り、神を拒絶して、自分たちのメシヤを受け入れませんでした。それどころか、そのメシヤを十字架につけて殺したのです。そこで神はその使命を新しい神のしもべ、霊的イスラエルであるクリスチャンにこれをゆだねられたのです。クリスチャンには、神の救いを地の果てまでもたらしていく使命が与えられているのです。

Ⅱコリント5章18節から21節までのところでパウロはこう言っています。 「18これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。19すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。20こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

「私たちはキリストの使節なのです」キリストの使節とは何でしょうか?それは、キリストを代表としてキリストと同じ働きを担っている者です。キリストのように私たちも神との和解の務めを負っています。失われた人を神のもとに集めるという使命を帯びているのです。神は敵対関係にあった罪人を、キリストによって、イエス・キリストを信じる信仰によって神と和解させるために私たちを遣わしておられるのです。私たちはこの務めを果たしていかなければなりません。地の果てまで神の救いをもたらす者にならなければならないのです。そうでないと、イスラエルのように神の祝福を失ってしまいます。イスラエルのように世界中に散らされ、さまざまな迫害と苦しみを通らされることになります。彼らが完全に滅ぼし尽くされなかったのが不思議なくらいです。それはただ神のあわれみによるものでした。しかし、私たちは自分たちがここにいるのは何ためなのかという使命を覚え、この使命に生きる者でなければなりません。

使徒の働き27章を見ると、パウロの忠告を聞かず、穏やかな南風を頼って航海を進めた百人隊長ユリアスとその一行は、ユーラクロンという暴風に襲われたことが記されてあります。何日も暗やみの中で食べることができず、救いの望みを失ったとき、パウロは神が与えてくださった平安を宣言しました。

「元気を出しなさい。神の御使いが来て、私たちのうちにいのちを失う者はだれもいないと告げられたので、私はそのみことばどおりになることを神によって確信しています。」

これは、私たちが告げなければならないことばです。まさにこの世はユーラクロンという暴風に襲われ、救いの望みを失った船です。その暴風から私たちを救ってくれるものは何でしょう。それは神とその救いのみことばだけです。そのみことばを宣言しなければなりません。そのために私たちはここにいるのです。イエスは言われました。

「14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14-16)

あなたがたの光を人々の前で輝かせましょう。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしましょう。私たちはそのために遣わされているのです。私たちはそのために今、ここにいるのです。