イザヤ書51章1~11節 「慰めてくださる主」

きょうは、イザヤ書51章のみことばから、「慰めてくださる主」というタイトルでお話したいと思います。私たちは日々いろいろなことで思い悩み、気落ちしますが、そのような時いったいどこに慰めを見いだすことができるのでしょうか。きょうのところには、「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。」とあります。まことに、主は慰めてくださる方です。私たちはここに真の慰めを見いだすことができるのです。きょうは、この主の慰めについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.あなたの切り出された岩を見よ(1-3)

まず第一に、あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見なさい、ということです。1節から3節までをご覧ください。1節の冒頭には、「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。」とあります。「義を追い求める者」とはどのような者でしょうか?5節から8節までのところには、この「義」という言葉が何回も繰り返して出てきますが、このところをみると、「義」という言葉と「救い」という言葉が並記されています。たとえば、5節には「わたしの義は近い。」とあり、それに続いて「わたしの救いはすでに出ている。」とあります。また、6節にも「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。」とあります。また8節にも「わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。」とあります。つまり、義は救いであるということです。Ⅰコリント1章30節をみると、これはイエス・キリストそのものであることがわかります。そこには「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」とあるからです。ですから、義を追い求める者とは究極的にはイエスを追い求める人のことであり、イエスを尋ね求める者のことなのです。ただこの時点ではまだキリストは来ていませんでしたから、その神の救いを追い求めていた者という意味で、イスラエルのことを指して言われています。

そのイスラエルに対して、「わたしに聞け」と言われています。「わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。2 あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。3 まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」

どういうことでしょうか?あなたがたの切り出された岩とか掘り出された穴とはイスラエルが出たところ、すなわち、彼らのルーツのことです。ですから、ここでは彼らがどこから出たのか、どのように出たのかをよく見なさい、と言われているのです。

具体的には2節にあるように、それはアブラハムとサラのことを指しています。イスラエルのルーツはだれでしょう。アブラハムとサラです。イスラエルは彼らは出ました。そのアブラハムとサラのことを考えてみよ、というのです。なぜでしょうか?なぜなら、彼らがアブラハムとサラのことを考えるなら、真の慰めと希望が与えられるからです。自分たちがどこから来て、どのようにして救われたのかを考えるなら、そこに現された神の恵みを見て感謝に溢れるようになります。何回も申し上げているように、このときイスラエルはバビロンに捕らえられ奴隷としての生活を強いられていました。そうした絶望的な状況にあっても自分たちがどのようなところから来たのかということを考えるなら、苦しみを乗り越え、希望を持って生きることができるようになるのです。

では、ここでアブラハムとサラについて考えみましょう。アブラハムとサラについて創世記11章のところから出てきますが、彼らは元々カルデヤのウルという町の出身であったことがわかります。このウルという町は現在のイラク南部の町で、当時はメソポタミヤ文明の中心地、高度な文明が栄えた大都市でしたが、月の神を拝んでいた偶像崇拝者でした。つまり彼らは全くの異邦人で、真の神からは遠く離れ、この世にあって何の望みもない人たちでした。そうした彼らが、神の一方的なあわれみによってその中から召し出されたのです。創世記12章1節には、「主はアブラムに仰せられた。あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)とあります。

これが、ウルにいた時なのかハランにいた時なのかははっきりわかりませんが、いずれにしても、彼らがまだ異教の地で偶像崇拝にどっぷりと浸かっていたときに、一方的な神の恵みによって救われたのです。そして、その約束に従って、地上のすべての民族は彼によって祝福されると言われました。つまり、彼らは最初から神の民として生まれたわけではないのです。全くの異邦人として、この世にあっては何の望みもないような者でしたが、神の一方的な恵みによって救い出されたのです。そのことを考えたら、どうでしょう。本当に感謝ではないでしょうか。

パウロはエペソのクリスチャンたちに、次のように書き送りました。「11ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、12そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。13しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(エペソ2:11~13)

この時エペソのクリスチャンたちは、まだ救われていなかった以前の生活に逆戻りして、異邦人がむなしい心で歩んでいるかのように歩んでいました。そのような生活から立ち返るにはどうしたらいいのでしょうか。そのめには彼らがどのようにして救われたのかを思い出す必要がありました。

私たちは苦しくなると、ついつい「昔は良かった」と言いますが、そのように言う前に、その昔がどのような昔だったのかを考えなければなりません。自分では昔、人生を謳歌しているつもりだったかもしれませんが、実際はというと、実に虚しかったはずです。神もなく、望みもなく、糸の切れた凧のようにさ迷っていました。神との関係がなければどんなに欲しいものを手に入れ、好き勝手なことをしていても虚しさだけが残ります。どんなに快楽を楽しんでいても、その都度何とも後味が悪く、虚しさと言いしれぬ不安につきまとわれていたはずです。死んだらすべてが終わりだという恐怖心もあったでしょう。でもあなたはそのような中から救われたのです。

私は高校3年生の時にイエス様に出会いましたが、その時の私はまさにそうでした。自分が進むべき道がわかりませんでした。大学進学の道がかなわず大手の会社に就職が決まると、毎日好き勝手な生活をしていました。自分の人生はどう せこんなものだろうとなげやりになり、何でも好きなことをやって生きようとしましたが、どんなに快楽を楽しんでも満足感はなく、かえって虚しさが残りました。地に足がついていないような生活でした。そんな時イエス様に出会いました。自分がどこから来て、どこにいるのか、そしてこれからどこに行くのかがはっきりわかりました。何のために生きているのかがわかったのです。すると心に喜びが溢れてきて、この主のために生きたいと願うようになりました。家はそういうことには全くの無関心で、私が教会に行って来るというと、「あんまり深入りしらんなよ」というような家でした。この世の慣習にどっぷりと浸かっているような家でしたが、そのような中から救い出されたのです。それはまさに奇跡であり、恵みです。そして、やがてそんなことを言っていた両親も信仰の告白に導かれ、洗礼を受けました。初心に返るということばがありますが、私はいつもいやなことや苦しいことがあるとき、いつもその時のことを思い出すようにしています。このことを思い出すとき私の心に感謝があふれ、うれしくなるからです。

中にはクリスチャンホームに生まれ育ち、気付いたら教会にいたとか、クリスチャンだったという人もおられるかと思いますが、それもまた恵みです。クリスチャンの両親が与えられたというのも、クリスチャンの信仰の財産を与えられたのも、すべて神が与えてくださったもので、神の恵みなのです。このことを思い出してほしいのです。

ところで、ここにはサラのことも書いてあります。「あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ」とあります。サラはどのようにしてイスラエルを産んだのでしょうか。イスラエルの先祖ヤコブの父はイサクですが、それはアブラハムが100歳の時、そしてサラが90歳の時に生まれたこどもです。その時サラは、もう自分には子を宿す力がないことを知っていましたが、約束してくださった方は真実な方だと信じました(ヘブル11:11)。たとえ置かれている情況がどんなに不利であっても、たとえ不可能に思える事でも、彼女は神には約束してくださつたことを成就する力があると信じました。その信仰によって、彼女はイスラエルを産んだのです。そして神はその約束にしたがって、彼の子孫をふやしてくださいました。つまりサラがイサクを産んだのは、神にはどんなことでもできるという信仰があったからです。たとえ不可能に見える状況であっても、その信仰によって彼らは生み出され、今や全世界に増え広がったのです。

このことを考えたらどうでしょうか。本当に慰められるのではないでしょうか。神は必ずイスラエルを顧みて下さるという確信が与えられ、喜びと感謝に溢れるようになります。3節に、「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」とあるようにです。

シオンとはエルサレムのことです。エルサレムはバビロンによって滅ぼされ、その跡形もなく廃墟と化しましたが、主はそんなシオンを慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにされます。今は廃墟と化し、荒野のような、砂漠のような荒れ果てた状態ですが、主はそんなシオンを慰めて、荒野をエデンのように、砂漠を主の園のようにしてくださるのです。

たとえあなたがたの目でそれがどんなに絶望的に見えても、神にとって不可能なことは一つもありません。約束してくださった方は真実な方ですから、たとえそれがどんなに不可能な状況であっても、その約束に従って御業を行ってくださるのです。それはあなたがたの父アブラハム、あなたがたを産んだサラのことを考えればよくわかることです。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見なければなりません。そうすればあなたがたは慰められ、希望をもって、立ち上がることができるのです。

Ⅱ.わたしに心を留めよ(4-8)

次に4節から8節までをご覧ください。4節には「わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。」とあります。

彼らが心を留め、彼らが耳を傾けなければならなかったことはどんなことだったのでしょうか?それはおしえは神から出るということです。そして、神が世界の光となって、道を示してくださるということです。

5節には、「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに来ている。」とあります。この「義」とか「救い」というのはイエス・キリストのことでもあるとお話しましたが、このイエス・キリストが来られる時が近いのです。これはいつのことかというと今から二千年前にキリストが来臨されたことと同時に、世の終わりにおいてキリストが再びこの世界に来られる時のことです。6節から8節までを見ると、それはまさに世の終わりの情景です。

6節には「目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地は衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。」とあります。この天地がいつまでも続くことはありません。それはやがて終わりを迎えます。天は煙のように消え失せ、地は衣のように古びて、そこに生きている人間も、ぶよのように死んでしまうのです。そのようなものに人生のすべてをかけているとしたら、それほど虚しいことはありません。それによって慰められことはないからです。しかし神の救い、神の義に心を留めるなら慰めを受けます。なぜなら神の救いはとこしえに続き、神の義はくじけることがないからです。神は永遠に変わることがなく、その年は尽きることがないからです。

皆さんは何に心を留め、何に希望を置いているでしょうか。私たちが心を留めなければならないのは、神とその救いの御言葉だけです。なぜなら、それはとこしえに続き、代々にわたるからです。

イザヤ書40章6節から8節までのところを開いてください。ここには、「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」とあります。  これが預言者のメッセージでした。すべての人は草なんです。その栄えはみな草の花ようです。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに変わることがない。そう叫びました。そこに希望があるからです。

Ⅰテサロニケ4章18節のところで、パウロは「このことばをもって互いに慰め合いなさい。」と勧めました。「このことば」とは何でしょうか?それは主が再び来られるというメッセージです。そのとき、キリストにある死者が最初によみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。このことばをもって互いに慰め合いなさい。私たちが心を留め、耳を傾けるべきメッセージは、まさに「主が来られる」というメッセージです。そこに心を留めるなら、私たちは慰めを得ることができるのです。

イエスは言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)主イエスは世の終わりまで、いつも私たちとともにおられます。どんなことがあっても私たちから離れることはありません。どんな大地震が起こっても、津波がすべてを奪っていくようなことがあっても、病気で余命いくばくかもないとしても、神は世の終わりまで、いつも、私たちとともにいてくださいます。これほど大きな慰めはないのではないでしょうか。

Ⅲ.神の時がある(9-11)

神の慰めを受けるために必要なもう一つのことは、神には神の時があるということを知ることです。9節から11節までをご覧ください。9節には、「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。」とあります。

「さめよ。さめよ。」とは、料理が冷めるようにと言っているのではありません。「目を覚まして下さい」ということです。これは主への祈りであり、叫びです。目を覚まして、力をまとい、主の力強い御腕を、いかんなく発揮してくださいと叫んでいるのです。過去において、アブラハムとサラにすばらしい御業をなされたことはわかりました。将来においても、救いの御業をなしてくださるということもわかりました。でも現実を見てください。大変な情況にあります。バビロンに捕らわれ、奴隷としてこき使われて苦しんでいます。ですから、どうかこの情況から救ってください、というのです。彼らにとってはまるで神が居眠りしているかのように、何もしてくださらないと感じていたのでしょう。ですから「さめよ。さめよ」と言って、叫んでいるのです。

「いにしえの代」とは「昔」という意味です。「ラハブ」とはエジプトを表す象徴的な表現です。そして「竜」とは、その背後にいる悪魔、サタンのことです。10節を見ると、これは出エジプトの出来事のことですから、ラハブがエジプトのことを指しているのは明らかです。そのいにしえの代において世界超大国と言われていたエジプトを滅ぼし、奇跡を起こして、あの紅海を真っ二つに分け、イスラエルを乾いたところを通らせて救い出しました。すばらしい奇跡を先祖たちに見せてくださいました。その同じ奇跡を今、自分たちにも見せてください、というのです。

神が過去においてそんなに偉大な御業をなされたのであれば、その同じ神は今も生きておられるので、それと同じことを、いやそれ以上のもっと偉大なことがおできになられるのだから、そう願うのは当然のことです。しかし、彼らが覚えておかなければならなかったのは、神には神の時があるということです。神には彼らを救い出す力がありましたが、その神が動かれる時というのは、私たちの時とは違うのです。私たちはできるだけ早く解決してほしい、できるだけ早く必要を備えていただきたい、できるだけ早く安心したい、と願うものですが、神の時は違います。本当にギリギリのところで働かれるのです。それは、一つには私たちが不信仰に陥らないためです。あまりにも早く応えてしまうと、本当に愚かな私たちはそれを神がやってくださったということを忘れて、自分でやったかのように誇ってしまうからです。自分の手柄で、自分の信仰によって、自分の手腕でやったかのように思い込んでしまいます。    ですから、そんな私たちをあえて無力化して、私たちがもう自分では何もできませんというときに動かれるのです。そうすれば、それは神にしかできないことであるということがだれの目にも明らかになります。そして、すべての栄光を神に帰せられるようになります。

私たちは、このことを覚えておかなければなりません。私たちは自分の祈りが聞かれないとすぐにいらいらして、「神様まだですか。」「何をしてらっしゃるんですか。」「早くしてください。」「もう限界です。」「そんな居眠りしている場合じゃないですよ。」と催促します。

イエスの時代の弟子たちもそうでした。イエスが弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちが舟を漕ぎ出すと、突然、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水で一杯になってしまいました。このままでは舟は転覆してしまいそうです。恐怖のあまり、イエスに助けてもらおうと見てみると、イエスはとものほうで枕しておられました。これには弟子たちもいらついて、「先生。私たちがおぼれて死にそうなのに、何とも思われないのですか。」と言いました。イザヤの言葉で言えば、「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」というところでしょうか。何とかしてください、と叫んだのです。するとイエスが起き上がって、風をしかりつけ、湖に向かって言われました。「黙れ、静まれ。」すると風はやみ、大なぎになりました。(マルコ4:35-39)

イエスは風をもしかりつけ、湖さえも従わせることがおできになられる方です。イエスにはそれだけの力があるのです。でもギリギリまでは動くことはされません。ともの方で枕しておられるのです。とは言っても、主はまどろむこともなく、眠ることもあない方ですから、私たちの祈りを知らないということではありませんが・・。必要な時にはすぐに動いてくださいます。主がギリギリまで動かれないのは何も私たちを困らせるためではありません。私たちを焦らせるためでもないのです。それは、私たちが神の御腕に全幅の信頼を置くように、そして、自分の力に頼らないで、主の御腕に頼るようにするためです。何もいじわるをしようとしてるのではないのです。愛がないから、関心がないから、力がないからではなく、神がどのような方であるのかを私たちに見せるために、あえてそのようになさるのです。大切なことは、この主に全幅の信頼を寄せることです。

私が福島にいたとき、教会で会堂建設に取り組みました。とてもいい場所に600坪の土地がありましたが、そこは市街化調整区域で建物を建てることができない土地で、建てるためには県からの開発許可を受けなければなりませんでした。それは福島県では宗教法人が一度も受けたことのない許可で、とても困難に思われました。しかし、神にとって不可能なことは一つもないし、神のみこころならば必ず与えられると信じて何度も県の担当者の所に行きました。時には家内が作ったケーキを持って行きましたが、ウンともツンとも言いませんでした。何度もあきらめかけましたが、主はそのたびにみことばをもって励ましてくださいました。  そのような時、教会で開いていた英会話クラスで学んでおられた方と話をしていたると、宅建という資格のある県の議員に話した方がいいと言われました。その議員の方は家の近くに住んでおられる方で何度か挨拶に来られたことがのある方でしたので私もよく知っていたので、早速その方に事情をお話しました。するとその方は、「大橋さん、ダメなものはだめだがんね。でも可能性があるなら話し手みてしょう」と言われました。勿論、だめなものはだめです。でもそこはだめじゃない所だったのです。ですから、そのことをお話すると、「わかりました。じゃ話してみますから」と言って話してくれたのです。すると不思議なように話が進み、1997年11月に念願の開発許可が下りたのです。それは福島県では前例のないことでした。それは私が初めて県の担当者のところを訪れてあしかけ4年半後のことでしたが、実は、それが最高のタイミングでもあったのです。というのは、私たちは土地代をみんなで献金し建物の建設費は銀行から借りる計画でしたが、その土地代がまだ満たされていなかったからです。それが満たされたのがちょうどこの月だったのです。この月に土地のための献金が満たされたので、開発許可が下りたときその代金を支払うことができたのです。ですから、それよりも早くても、遅くてもだめだったのです。その時が一番いい時でした。それまで「主よ。なぜですか。なぜ早く許可を与えてくださらないのですか」と祈っていましたが、実はそれが一番いい時だったのです。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい、とあります。神は私たちにとって一番いい時に、一番いい方法で導いてくださいます。ですから、私たちは最善に導いてくださる主に御腕に信頼して祈らなければならないのです。

「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」と叫びたい気持ちはわかります。しかし、それ以上に大切なのは、神にはどんなことでもおできになると信じ、その神の御腕にすべてをおゆだねすることです。そのとき、あなたは神の偉大な御業を見て慰めを受け、主をほめたたえるようになるでしょう。その人は11節にあるように、「主に贖われた者たちは帰ってくる。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きは逃げ去る。」ことを体験するのです。

どうか、一切を治めておられる主にすべてをゆだね、主がなさることを待ち望むことができますように。この主に心を留めて、この主から真の慰めをいただくことができるように。喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただくことができますように。それはどんな時にもこの主の御腕に拠り頼むことによってもたらされるものなのです。