きょうはペンテコステの時に出来た最初の教会からご一緒に学びたいと思います。イエス様は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」(マタイ16:18)と言われましたが、その教会が、現実のものとして現れたのが「使徒の働き」の中に見られるこの教会です。教会によってはやり方や考え方はまちまちですが、どういう教会を建てるのかといったら、やはり最初に出来たこの教会のような教会ではないでしょうか。なぜなら、この教会こそイエス様が思い描いておられたイエス様の教会だからです。
きょうはこの最初の教会から三つのことをお話したいと思います。第一のことはその土台です。教会の土台は何だったのか。もちろん、イエス様は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と言われましたから、その土台はイエス様であることには間違いありません。年代はそのお言葉にどのように応答するかです。すなわち、悔い改めと信仰がその土台にあるということです。第二のことは、教会の本質についてです。初代教会の人々は救われて何をしていたのでしょうか。彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていました。そして第三のことは、教会の祝福です。そのような教会を神様は祝福してくださいます。毎日救われる人々を毎日仲間に加えてくださいました。
Ⅰ.悔い改めと信仰
まず第一に、教会の土台は悔い改めと信仰であるということについて見ていきたいと思います。37,38節をご覧ください。
「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟た
ち。私たちはどうしたらよいのでしょうか』と言った。そこでペテロは彼ら
に答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくため
に、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、
賜物として聖霊を受けるでしょう。」
ペテロの説教を聞いていた人々は心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいのでしょうか」と言いました。ペテロの説教を見る限り、必ずしも人々に感動を与えるようなメッセージではなかったようです。彼はただ淡々とイエスこそ主であり、このイエスが彼らが見聞きしている聖霊を注いでくださったこと、そしてこのイエスをあなたがたは十字架につけたのだと語っただけです。それでもそれを聞いていた多くの人たちは心が刺され、「私たちはどうしたらいいのか」と聞かずにはいられませんでした。なぜでしょうか。聖霊が働いていたからです。イエス様は「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:8)と言われましたが、聖霊によって彼らは、その心に深い罪の自覚がもたらされ、その罪からの救いというものを切に求めるようになったのです。
旧約聖書に出てくるダビデは、預言者ナタンによってバテ・シェバとの姦淫の罪が示された時、ものすごい罪責感にさいなまれました。そして、「私は一日中うめいて、私の骨々は疲れ果てました。」と告白せざるを得ませんでした。そして、そのような罪の意識から「私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください」(詩篇51:14)という祈りへと導かれたのです。
チャドウィックという英国の有名な説教者が「自分がどうしようもない罪人だと知ったら、自分から十字架を求めるようになるだろう」と言いました。これは言い換えると、罪の自覚がないと、十字架はその人にとって身近なものにはならないということです。
私は高校時代かなりひどい生活をしていましたが、自分の中ではそんなに悪い人間だという意識がありませんでした。むしろいい人間だと思っていました。学校の成績はそんなに悪くないし、スポーツは万能で、性格も明るかったからか、いつもクラスの人気者で、みんなからよくほめられて育ちました。もちろん、人様に迷惑をかけることもなければ、警察に捕まるようなこともしたことはありませんでした。本当にいい人間だと思っていました。
ところが、高校の卒業式が近づいてきた頃、もしかしたら卒業できないのではないかという事態に陥ったとき、初めて、自分は悪い人間なんだという意識が生まれました。そんな中で教会に導かれ、イエス・キリストの救いに預かることが出来ました。しかし、その時はまだ悪い人間かもしれないという程度であって、本当に罪深い者だというところまではいってませんでした。ですから、救われていたのですが、救いがよくわからなかった。救われていても救いがわからないという人が意外と多いですよね。信仰にあまり本気になれないという人の一番大きな問題はここにあるようです。罪がわからない。ですから、教会では50回にわたって聖書全体から「確かな土台」という学びをしているわけです。
私も、クリスチャンになって聖書を学び、神様のことを知れば知るほど、自分の罪の大きさ、汚れ、愚かさ、足りなさ、弱さということがわかってきました。パウロは自分のことを「罪人のかしら」と言っていますが、私も本当に罪深い人間だということが示され、主の十字架の恵みにお便りするしかないという心境に導かれました。これはすべて聖霊の導きです。聖霊によって罪について目が開かれたので、そこから救われることを本気で求めるようになったのです。
さて、このような人々の反応に対して、ペテロは何と言ったでしょうか。彼は、次のように言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
救われるためにはどうしたらいいのでしょうか。ここでペテロは二つのことを勧めています。一つは悔い改めることであり、もう一つはバプテスマを受けることです。悔い改めるとはアイルランドのことばで「回れ右、前へ進め」という意味があるそうですが、180度方向を転換することです。それは単に後悔するだけではありません。今までの自己中心的な生活を止め、神中心の生き方に改めることです。またバプテスマを受けるとは、イエスの十字架の死が自分のためであったと信じ、その信仰を形で表すことです。ここには、「イエス・キリストの名によって」とありますから、イエス・キリストへの信仰が、このバプテスマの条件、あるいは前提であったことがわかります。それはイエスが十字架で死なれたように自分に対して死に、イエスが死からよみがえったように、神に対して生きることのしるしだからです。
ですから、悔い改めることとバプテスマを受けることはキリストへの信仰の具体的な中味です。この二つのことは表裏一体になっていて、そのどちらを欠いても真の信仰からズレていることになります。悔い改めのない信仰は、結局のところ、今までの自分の生き方を是認していることになるわけですし、イエス・キリストへの信仰がなければ、その信仰はイエスを主と仰いでいるのではなく、単なる自分の思い込みでしかないからです。
救われるためにはどうしたらいいのでしょうか。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」そうすれば、賜物として、聖霊を受けるのです。教会は、神からのメッセージに対してこの悔い改めと信仰という形で正しく応答した人たちが集められ、建て上げられていくものです。これがなかったら教会になりません。なったとしても、それが真の意味での教会だとは言えないのです。イエス様は、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)と言われましたが、教会とはイエス様によって救いにえらばれている人たちが、悔い改めてイエスを救い主として受け入れた人たちが集まっている群れなのです。
Ⅱ.教会の本質
では、そのようにして集められた人たちはいったい何をしていたのでしょうか。第二に教会の本質について見たいと思います。41,42節をご覧ください。
「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三
千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、
交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」
ペテロのことばを受け入れ、バプテスマを受けて弟子に加わった者たちは、この日だけで三千人もいました。三千人のバプテスマ式です。すごいですね。12人に分けてやったとしても、一人が250人にバプテスマを授けたことになります。仮に一人3分かかったとしたら250人にバプテスマを授けるには12時間もかかります。朝から晩まで「父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授ける」と言ってずっとバプテスマを授けるのです。日本で一番大きな教会はだいたい1500人くらいですから、この日一日で日本で一番大きな教会よりももっと大きな教会が誕生したことになります。これはものすごい神のみわざではないでしょうか。かつてイエス様は「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行い、またそれよりも大きなわざを行います。」(ヨハネ14:12)と言われましたが、まさに、イエスを信じる人たちによって、イエス様が行った何倍もの大きなわざを行ったのです。
問題はこのようにして始められた教会は、いったい何をしていたかです。42節をご一緒に読んでみましょう。
「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」
このところを見ると、彼らは四つのことをしていたことがわかります。まず第一に、使徒たちの教えを堅く守りました。使徒たちの教えとは、使徒たちを通して伝えられた主の教えのことで、やがてこれが新約聖書としてまとめられていきました。ですから、これはどういうことかと言いますと、聖書の教えを堅く守っていたとうことです。「堅く」というのがいいですね。軟らかくでなく堅くです。どんなことがあっても使徒たちを通して教えられた主の教えを守ろうとしたのです。私たちも人々が何と言ってるか、この世の常識がどうかではなく、神のことばである聖書は何と言ってるのかが大切です。その聖書に堅く立つことが求めてられいるのです。
第二に交わりです。彼らは使徒たちの教えを堅く守っていただけでなく、交わりをしていました。信仰生活においては交わりが大切です。この交わりとはいわゆる親睦会といったものとは違います。もともとこの「交わり」と訳されて言葉はギリシャ語で「コイノニア」という言葉です。この言葉には「共有」という意味があります。44節には「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいのものを共有にしていた」とありますが、彼らは自分たちに与えられたものを自分たちのものだと主張することをせず、お互いに与えられたものを共有していました。そのように表面的な交わりではなく霊的に深い交わりした。ローマ人への手紙12章15節には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」とありますが、それはまさに家族のような交わりだったのです。このような交わりがいかに麗しいものであったかを想像するに難くありません。そのような交わりは人々を引きつける魅力があったに違いありません。
ある外国の新聞に一枚の写真が載っていました。その写真には未熟児として生まれた双子が保育器の中で向き合って寝ている姿が映っていました。最初にこの双子が生まれたとき、医師たちは先に生まれた子供は大丈夫でも、後で生まれた子供は心臓が弱いのですぐに死ぬだろうと思いました。このとき、ある看護師が二人を一つの保育器に入れてはどうかと提案しました。これは病院の規則に反することでしたが、何とか許可がおりて、双子を一つの保育器の中に一緒に並べて寝かせてみました。
すると健康な兄が腕を伸ばして、弱い弟を抱くではありませんか。すると隣に寝ていた弟の心臓が次第に安定してきて、血圧と体温も正常に戻りました。今ではすくすくと成長しているそうです。この双子の噂を聞いて尋ねて来た新聞記者は、保育器の中で二人が抱き合っている写真を撮り、「命を取り戻した抱擁」とタイトルをつけました。兄の手によって弟が元気になった理由ははっきりとわかりませんが、愛の抱擁はすばらしいものです。
落胆したり絶望したりすることがあっても、自分のことを愛し、助け、祈ってくれる人がいるとき、私たちは勇気づけられます。生きていることはともに分かち合うことです。それぞれが持っているものを分かち合うことが大切です。初代教会の交わりは、実にそのような交わりでした。
三つ目はパンを裂くことです。これは聖餐式のことです。私たちの教会でも先週行いました。月に1回行っています。それにしてもなぜ彼らは集まってはパンを裂いていたのでしょうか。なぜこんなことが聖書に記録されているのでしょうか。それはこの聖餐の持っている意味が重要だったからでしょう。聖餐はイエス・キリストが十字架で私たちの身代わりとなって死んでくださったことを覚えるために行うものです。バプテスマにおいて告白したキリストへの信仰をいつも覚えることは大切です。のど元過ぎれば熱さ忘れるということわざがありますが、それでは困ります。なぜなら、私たちの信仰の基礎はここにあるからです。罪のためにどうしようもなかった私たちのために、イエス様が十字架にかかって死んでくださったという神の恵みを覚えるとき、私はこんなにも愛されているんだという確信が与えられます。それが私たちのいのちであり、力なのです。いのちがない信仰はやがて形骸化していきます。そのいのちが絶えることがないように、私たちはいつも主の恵みにとどまっていなければならないのです。
四つ目は祈りです。初代教会の人たちは集まって何をしていたのかと問うならば、彼らはいつも祈っていたという答えが最もふさわしいでしょう。それほど彼らは一つのところに集まっては祈っていました。しかも46節を見ると、それが「毎日」のことであったのがわかります。初代教会は、毎日、心を一つにして宮に集まり、家々ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事をしていたのです。週に一回、わずか1,2時間の時間を割いて祈祷会に集まるのでさえ大変な現代の教会とはずいぶん違うように感じます。現代のクリスチャンに欠けているところがあるとしたら、このことではないでしょうか。いくら初代教会の人々が今日とは比べものにならないほど忙しくなかったとしても、毎日、みことばを学ぶために集まったり、祈るために集まるということは、決して容易なことではなかったはずです。それができたというのはどうしてなのか。それは、彼らの中に自分たちのために死んでくださった主への愛が溢れていたからということと、祈りによってもたらされる実がどんなに大きいものかということを、よく知っていたからではないでしょうか。
詩篇127篇1節には「主が家を建てるのでなければ、立てる者の働きはむなしい」というみことばがあります。実というのは神様の御力の現れです。ですから、もし祈らなければすべてが徒労に終わってしまいます。祈りがあって初めて実が結ばれるのです。主が家を建てるのでなければ、立てる者の働きはむなしいのです。大事なのは、どのように立てるかではなく、だれが立てるのかということです。たとえば、人間が21日間卵を抱いていても、決してかえりません。腐るだけです。しかし、雌鳥(めんどり:a female bird)が卵を抱くと、21日後にはちゃんとひよこがかえるのです。抱くことが大事なのではなく、だれが抱くかが大事なのです。つまり、私たちの問題も、私たちが抱えていたら解決になりません。「私はこの問題を2年間も抱いていた」という人がいますが、もし私たちが抱いていたら10年後も100年後も同じでしょう。しかし問題を神様にゆだね、神に抱いていただくなら、その問題は解決されます。ですから本当に知恵のある人は、特に何かを成就したいという人は、神様にそれを抱いていただくのです。それが祈りです。「神様、この問題をあなたに明け渡します。あなたが代わりに抱いてください」と。ですから、どんな問題でも祈り、主に明け渡す人が、最も力のある人になれるのです。
韓国のサミル教会の牧師が書いた「しかし倒れない」という本の中にチョー・ヨンギ先生とキム・ジャーン先生の違いについて記されてあります。この二人の牧師は親しい友人だそうですが、教会の大きさが明らかに違いました。当時、チョー・ヨンギ牧師が牧会していた純福音教会には10万人くらいの信徒がいましたが、キム・ジャーン牧師の牧会していた教会は3千名くらいでした。3千人でもたいしたもんですが、キム・ジェー先生は納得できませんでした。というのは、チョー先生は高校にも行くことができず、聖書学校だけを出られたそうですが、キム先生は一生懸命に勉強して博士号を持っていました。またチョー先生は目が小さくで決してハンサムだというわけではありませんが、キム先生はアラン・ドロンみたいな顔をしていて、目が大きく、とてもハンサムだったらしいのです。チョー先生は南方の方言を話すので少し聞き取りにくいですが、キム先生はソオルの正確な標準語を話していたらしいのです。いくら比較しても、自分がチョー・ヨンギ先生より劣る点はないと思いましたが、なのにチョー先生
は10万人で、自分は3千人とはどういうことなのか。そこでキム先生がチョー先生に尋ねたのです。
「私はすべての面であなたに勝っているのに、どうしてあなたの教会には10万人いて、私の教会は3千人なんだろう」
するとチョー先生はこのように答えました。
「あなたは一日何時間祈るの?」
「30分」
「私は3時間だよ」
違いはそれだけでした。祈りの時間が一方は30分、もう一方は3時間。ただこの違いがすべてを物語っていたのです。この事実のみですべてが逆転していました。祈りにはすべてのことを逆転させる力があります。教会が祈る教会になれば、必ずリバイバルされるのです。それが初代教会の姿でした。彼らはそれを知っていたのです。ですから、どんなに忙しくても、祈るために集まることが大変であっても、そのために時間を割いたのです。毎日、宮に集まって、心を合わせて祈ったのです。
Ⅲ.神の祝福
最後に、そのように毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美していた教会に、どのような神の祝福があったのかを見て終わりたいと思います。47節をご覧ください。ここには、
「すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくだ
さった。」
とあります。このような教会には、救われる人々が毎日仲間に加えられたのです。なぜなら、すべての民に好意を持たれたからです。みことばに基づく彼らの信仰と敬虔な祈りの生活、そして温かい交わりの生活には、まわりの人々の関心を呼び起こさずにはいませんでした。彼らは教会に人を集めようとはしませんでした。集めようとしたのではなく集まってきたのです。教会に魅力があったからです。すぐにその仲間に加わろうとは思わなくても、いつかそこに行ってみたいと思っていたのです。ですから、主もまた救われる人たちを毎日仲間に加えてくださったのです。ここで注目したいのは、このように教会に救われる人たちが仲間として加えられていったのは、彼らが何か大きな伝道キャンペーンを行ったからとか、特別な方法を用いて熱心に伝道を行ったからではなかったということです。このような教会に不思議な魅力があって人々が引きつけられていったからだったのです。すなわち、それはほかの何かによるのでもなく、ただ聖霊の働きによるものであつたということです。
私たちに求められているのはこれです。すなわち、どのように教会を立てていくかではなく、だれが立てるかです。主が家を建てるのでなければ、その働きはむなしいのです。主が教会を立ててくださるために、私たちは主に喜ばれる者でなければなりません。それが使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていたということに含まれているのです。私たちの教会もみことばに堅く立ち、家族のような麗しい交わりをし、いつも主の恵みに感謝して、心を合わせて祈るなら、主もまた、救われる人々を仲間に加えてくださるのです。
日本にも大きな影響を与えている韓国のオンヌリ教会が目指している教会も使徒の働きに見られるような教会です。使徒の働き的な教会、これがハ先生のビジョンであり、オンヌリ教会のビジョンです。すばらしいですね。そしてハ先生はそのような牧会哲学を抱えながら、あるとき「二千/一万」ビジョンを持つようになりました。これは西暦2010年までに二千人の宣教師を派遣し、1万人の働き人を立てるというものです。ハ先生がこのビジョンを掲げると、ある長老がハ先生にこう言ったそうです。
「先生、本当にそのビジョンは神様が与えてくださったものですか」
全く不可能のように思えることだったのです。しかし、その後その長老は、何とその宣教師を送る働きをするようになって、ある時、ハ先生にこう言ったそうです。
「先生、本当にそのようになって行きますね。」
誰もが出来ることなら、神様は必要ありません。そのまま人間が一生懸命に努力し、最善を尽くせばできることです。不可能なことでも、神様ご自身が行われることが神様の夢なのです。
そして、2007年のイースターに、オンヌリ教会では千人目の宣教師を派遣することができたのです。それはただ神様だけがおできになることです。オンヌリ教会では「Acts29」というビジョンがあります。ご存じのように、Actsとは使徒の働きのことですが、この使徒の働きは全部で28章までです。それが29とあるのは、オンヌリ教会が目指しているのは、この使徒の働きに見られるような教会であり、それが聖霊によって今も続いていることを現しているのです。
私たちが目指している教会もそうです。この使徒の働きに見られるような、そういう教会を目指していこうではありませんか。
このオンヌリ教会もすばらしいですが、韓国にはほかにもすばらしい教会がたくさんあります。その中の一つが釜山にある教会です。この教会はドイツのクリスチャン・シュヴルツという人が「自然に成長する教会」という本を書きましたが、健康な教会は自然に成長するという本で、そのモデル教会として注目されている教会です。すなわち、もっとも健康的な教会です。この教会の牧師であるジョン・ピルドという牧師は、「教会は祈りで建てられる」という本を書いていますが、彼はその中で次のように行っています。
「涙が、祈りの涙が礼拝堂に満たされれば、礼拝堂は人で満たされます。涙があふれれば、礼拝堂が……」
その日から徹夜の祈りを始めた。「私の祈りの涙が礼拝堂をすべて満たすことはできないが、小さな講堂ひとつぐらいは、何とか満たすことができるはずだ」。そう思い、講堂の前で泣き始めた。死んでいく霊を救ってくださいと祈り、羊の群れを送ってくださいと祈り、みことばを与えてくださいと祈り、すでに教会に訪れた羊の群れに祝福を与えてくださいと祈った。そうしてしばらく泣きながら祈ったあと、体の角度を変えて座り直し、また泣きながら祈った。講堂を私の祈りの涙ですべてを満たしたかったからだ。
次の日は、他の場所に座って祈った。「神様、この礼拝堂を満たしてしてください」。そう祈りながら礼拝堂をひとまわりし、徹夜で祈った。
そして本当に驚くべきことが起こった。開拓牧会してから三ヶ月目に百五人が集まったため、その礼拝堂で礼拝をささげることができなくなったのだ。仕方なく、もう少し大きい場所に引越した。広い場所に移ればそこは狭くなり、そのためまた引越さなければならないことが一年に三回も続いた。
牧会者はどのような人だろうか。牧会者はたましいを思い、泣く人である。礼拝堂を涙で満たす人である。」
すごいですね。ジョン・ピルド先生は祈りの人です。涙の預言者エレミヤのように、滅び行くたましいのことを思って泣くのです。私はそんな牧師でありたいと思います。涙が会堂に満ちるとき、教会は成長していきます。この教会は二組の信徒とともに釜山水営路で開拓伝道をはじめて33年の間に、教勢が増加の一途をたどり、教会堂はさらなる拡張を繰り返しています。現在日曜礼拝の出席者は2万人を超えていると言われています。なぜこの教会がこんなに勢いおく成長を続けているのでしょうか。ピルド僕はこう言っています。教会の目に見える外的な成長とシステムに目を奪われないで、教会を成長に導く霊的生命、聖霊の恵みに着目しているからなのです。
私たちが目指しているのはそういう教会です。そうすれば、最初の教会のような教会がこの日本にも必ずできるはずです。今も働いておられるご聖霊に信頼し、初代教会のような教会ができるように、共に祈っていきましょう。