使徒の働き3章1~10節 「イエス・キリストの名によって歩きなさい」

 きょうは「イエス・キリストの名によって歩きなさい」というタイトルでお話したいと思います。私たちは先週は、ペンテコステの時に最初の教会が誕生したことを学びました。その教会は、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていました。そのような麗しい教会だったので、主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださいました。それだけではありません。そこには多くの不思議なわざやしるしも伴いました。その一つが、きょう私たちが学ぼうとしているところです。しかし、それは単にそうした数々の奇跡の一つというだけでなく、実はこの奇跡を契機としてペテロの説教が語られ、ついには捕らえられて、教会に対する迫害が始まっていくわけです。あれほど好意的に教会を見ていた民が、教会のあまりにもめざましい働きと、妥協を許さないいのちのほとばしる働きに対して、ついに迫害せざるをえなくなっていくわけです。いわゆるここから新しい段階へと入っていくわけですね。しかし、それでも教会は前進していきます。そうした新しい段階へと進んでいった契機となったのがこの奇跡だったのです。

 ところで6節を見ると、この生まれつき足のなえた人をいやすにあたり、ペテロは「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と言っています。イエス・キリストの力によってとか、イエス・キリストの恵みによってとかというのではなく、イエス・キリストの名によってというのです。そういえば、私たちが挨拶を交わすときにも、イエス・キリストの御名を賛美しますとか、主の御名をあがめますなどと言いますね。また、お祈りの時にも、主の御名によってお祈りしますと言って祈ります。いつでもこのイエス・キリストの名が出てくるのです。4章10節を見ると、「この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、・・・・ナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。」とあります。ですから、この御名がこの男の人を立たせたことがわかります。いったいこの御名とは何なのでしょうか。それはイエス・キリストご自身のことを指しています。名前は単なる固有名詞の記号ではなく、その実質を表すものだからです。ですから、イエス・キリストの名によってとは、イエス・キリストご自身によってという意味です。しかし、このキリストは今や天に昇って行かれました。そして今、神は「もうひとりの助け主」であられる聖霊を注いでくださり、教会を聖霊の宮とされました。ですから、イエス・キリストの名というのは、天におられるイエス・キリストのこの地上でのお働きを実際に行っておられるところの聖霊のことを指しているのです。
 かつてイエスは、カペナウムの中風の病人に「起きて歩け」と命じて、歩かせなさいましたが、その同じイエス・キリストが、今も聖霊を通して働いておられるということを、この奇跡は指し示しているのです。

 きょうはこの奇跡から三つのことを学びたいと思います。第一のことは、すべては愛から始まるということです。第二のことは、このイエス・キリストの名には、人をいやす力があるということ。そして第三は、イエス・キリストの名には人を救う力があるということです。

 Ⅰ.すべては愛から始まる

まず第一に、すべては愛から始まるということを見ていたいと思います。1~4節までをご覧ください。

「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日『美しの門』という名の宮の門においてもらっていた。ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、『私たちを見なさい』と言った。」

 1節を見ると、ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行ったとあります。ユダヤ人は朝の九時とお昼の正午、そして午後三時と一日に三回祈りました。この三時というのは宮でいけにえがささげられたので、敬虔なエルサレム市民はみな、宮にもうでて祈っていました。ですから、その人出はたいへんなものだったと思います。ペテロとヨハネは、一度に三千人の人たちが救われてかなり忙しかったと思うのですが、それでも一に祈り、二に祈り、三、四がなくて五に祈りとありますように、どんなに忙しくても祈りを第一にしました。それまでのユダヤ教の習慣を踏襲して、午後三時の祈りの時間に宮に上って行ったのです。

 すると、そこで生まれつき足のなえた人と出会います。この男は宮に入る人たちから施しを求めるために、「美しの門」という門に置かれていました。この「美しの門」がどの門であったかのかははっきりわかりませんが、おそらく異邦人の庭から婦人の庭に通じる「ニカノル」と呼ばれる門のことではなかったかと言われています。ユダヤ人歴史家でヨセフォスという人がいますが、彼によると、この門はコリント産の真鍮(しんちゅう)で飾られていた物で、金銀でおおわれた物をはるかにしのぐ美しさであったと言っています。あまりにも美しかったので、「美しの門」と呼ばれていたらしいのです。

 しかし、そんな美しい門とは対照的に、そこに生まれつき足のきかない人が置かれていました。施しを求めるためです。ユダヤ教では、人に施しをすることは最大の得目の一つとされていましたから、こうした人に小銭を投げることで、神から報いが得られるのではないかと思っていました。そういうことをよく知っていたこの男は、参拝者が最も多く訪れるであろうこの時間帯に、最も人通りの多いこの美しの門の所で、「右や左の旦那様。一文恵んでおくなせい」と、施しを求めていたのです。

 ちょうどその時、ペテロとヨハネが宮に入ろうと彼の前を通り過ぎようとしました。そこでこの男は、いつもほかの人たちにしているように何のためらいもなく、彼らに施しを求めました。するとペテロとヨハネは、意外な行動を取りました。4節です。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめると、「私たちを見なさい」と言ったのです。どういうことでしょうか。5節を見ると、ペテロは「金銀は私にはない」と言っているのです。お金がないのに「私たちを見なさい」というのは何となくこの男をからかっているで、ひどい話のように感じます。しかし、ペテロは決して彼をからかっていたのではありませんでした。彼らは金銀はありませんでしたが、もっと違う何かを持っていたのです。彼らが持っていたものとは何でしょうか。

 ある人がふざけてこんなことを言いました。それは「と」です・・と。ほらここに「ペテロとヨハネ」とあるでしょ。ペテロとヨハネの間にあるのは「と」です・・と。おもしろいですね。しかし、ここではペテロとヨハネの間にあるものではなく、彼らが持っていたものとは何かということです。それは、ナザレのイエス・キリストの名です。彼らにはこの名があったので、この男に向かって「私たちを見なさい」と言うことができたのです。彼らはそれを見て欲しかったのです。

 しかし、彼らがどんなにすばらしいイエス・キリストの名を持っていたとしても、彼らの中にこの男に対する慈しみやあわれみの心がなかったら、「私たちを見なさい」とは決して言わなかったと思うのです。彼らがそのように言ったのは、美しの門に座りながら来る日も来る日も物乞いをしなければ生きていくことができないこの男を見て、かわいそうだと思ったからなのです。

 聖書の中に、皆さんもよくご存知の良きサマリヤ人の話があります。あるユダヤ人が旅をしている時、強盗に襲われて半殺しにされ瀕死の重傷を負ってしまいました。そこを祭司やレビ人が通りかかりましたが彼らはいろいろなことを口実に、見て見ぬふりをして通り過ぎて行きました。そこにサマリヤ人が通りかかりました。当時サマリヤ人はユダヤ人と付き合いをしていませんでした。しかし彼はその傷ついた人を見るとそれがかわいそうに思い、彼に近寄り、介抱してあげました。そして自分のろばに乗せ宿屋まで連れて行くと、ポケットからデナリ硬貨を二つ取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。「これで介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
 この三人の中でだれが、この強盗に襲われた人の隣人になったでしょうか。その人にあわれみをかけてやった人です。いったいなぜ彼はそのようにすることができたのでしょうか。見て見ぬふりが出来なかったからです。彼の中にある愛が深い同情となってそうした態度へとつながっていったのでした。

 ペテロとヨハネも同じです。彼らはこの男を見たときかわいそうに思いました。はらわたが痛むほど深く同情したのです。そのような思いが、こうした奇跡へとつながって行ったのです。これはまさにイエス様のお姿でもあります。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちはあわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15:16)

 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。私たちの痛みや苦しみ、悲しみのすべてをご存知であられ、深くあわれんでくださる方なのです。ですから私たちはそのあわれみを受け、恵みをいただくことができる。大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。

 賛美歌312番(新聖歌209番)は、不朽の名曲「いつくしみ深き」です。これを書いたのはスクラヴィンという人ですが、そこには彼の痛ましい運命と、その苦しみの中にあっても感じることができた、神の不思議な慰めがあったと言われています。彼が20代のとき結婚式の前日に婚約者が溺死してしまい、長い苦しみの後、やっと41歳で新たな結婚をしようとしていたところ、今度はその婚約者が結核で天に召されてしまいました。彼の苦悩と絶望はいかばかりだったことでしょう。しかし、そうした絶望の中で、そうした憂いを取り去ってくださる主イエスの慰めを知ったのです。

 「いつくしみ深き 友なるイエスは
  罪とが憂いを 取り去りたもう
  心の嘆きを 包まず述べて
  などかは下ろさぬ 負えぬ重荷を

  いつくしみ深き 友なるイエスは
  われの弱さを 知りて憐れむ
  悩み悲しみに 沈めるときも
  祈りにこたえて 慰めたまわん
  
  いつくしみ深き 友なるイエスは
  かわらぬ愛もて 導きたもう
  世の友われらを 棄て去る時も
  祈りにこたえて 労りたまわん」
 
スイスの宗教改革者カルヴァンは、「人間は本当の苦しみを自分の中に押し隠し、包み隠さず神に告白しない本性を持っている」と言っています。勇気を持って、神様に「心の嘆きを包まず述べて、重荷をおろす」ことの大切さが教えられます。と同時に、このように神様に深く愛された人は、今度はその愛で愛する者へと変えられていくことがわかります。

  ペテロとヨハネの間に何があったのか?この愛があったのです。「と」じゃなくて、人々の悩みや苦しみを見て見ぬふりなどできない愛、はらわたが痛むほど痛む愛があったのです。彼らはそれを主イエスから学んだのです。
 ヨハネという人は愛の人だと言われていますが、昔からそういう人ではありませんでした。彼は「雷の子」(ボネルゲ)というあだ名がつけられていたほど、怒りっぽい人、けんか早い人、短気な人でした。なかなか人と仲良くできませんでした。すぐに頭にくる、キレるタイプの人間だったので、人々から敬遠されていたのです。そんな彼がイエス・キリストを信じ、神の聖霊を受けてから愛の人に変えられました。そこに悩み、苦しんでいる人がいれば何とか助けてやりたいと思うような、そんな愛の人になりました。また、ペテロが大胆に用いられている時でも、ヨハネはそのことでねたんだり、嫉妬したりせず、沈黙の証し人となり、主の御名があがめられるために、自分が水をくむ僕になることを喜ぶ人に変えられたのです。この奇跡はそのような中から生まれたのです。そのような愛があるところに、神様のすばらしいみわざが現されるのです。

 Ⅱ.イエス・キリストの名は人をいやす

第二のことは、イエス・キリストの名には、人をいやす力があるということです。6~8節をご覧ください。

「するとペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい』と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩き出した。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。」

 ペテロが「私たちを見なさい」と言うと、男は何かもらえると思って、ふたりに目を注ぎました。するとペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせました。するとどうでしょう。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだしたのです。これを書いているのは、医者であったルカです。ですから、ここで使われている「足」とか「くるぶし」といったことばは、新約聖書では他に例のない珍しいことばで、医者ルカらしい細かな観察が見られます。そして「おどりあがってまっすぐに立ち」という表現は、その次に出てくる「はねたりしながら」というより強い表現によって、うずくまっていたひざを伸ばして飛び上がった一瞬を表しています。これだけでも驚くべき奇跡なのに、四十年来一度も建ったことがない人が、はねまわったのですから、医者の目から見ると、たいへんな奇跡でした。私たちも病気で一、二ヶ月寝ていると、起きたとき、それも急に人込みの中にはいったとき、足がすくみ、ふらついて歩けないのを知っています。それを思うと、これは紛れもない奇跡的ないやしであったのです。ペテロも12節で「彼を歩かせた」、16節では「完全なからだにした」と言っていますが、この出来事は、イエス・キリストの名による肉体のいやし、それも完全ないやしの物語だったのです。この御名にはそのような力があるのです。

 私はこの神の力を信じます。ヤコブ5章14,15節には、「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます」とあります。信じます。ここに「オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい」とありますから、私はオリーブ油を買いました。いつでもオリーブ油を塗って祈れるように・・・と。しかし、ここで大切なのはオリーブ油を塗るとか塗らないということではなく、イエス・キリストの名によって、信じて祈ることです。そこに神様が働いてくださいます。かつてイエス様は、カペナウムの中風の人に「起きて歩け」と命じて、歩かせました(ルカ5:23)。その同じ主が、生まれつき足のなえた人をいやし、立ち上がらせ、飛んだりはねたりできる完全なからだにしてくださいました。その同じ主が、今も教会を通して働いておられるのです。

 Ⅲ.イエス・キリストの名には人を救う力がある

 第三のことは、イエス・キリストの名には人をいやすだけでなく、人を救う力があるということです。8,9節をご覧ください。

 「神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。人々はみな、彼
 が歩きながら、神を賛美しているのを見た。」

 いやされたこの男の喜びようは私たちの想像を越えるものでした。生まれてから一度も歩いたことのない男が、歩けるようになったのですから当然のことでしょう。しかし、この奇跡のすばらしさは、彼の足が単にいやされたというだけで終わらなかったことです。もっと根本的な変化が、彼の中に起こりました。それは、ここに「神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に行った」とか、「歩きながら、神を賛美しているのを見た」とあるように、彼のたましいが救われたことです。

 いったい誰がこんな力を持っているでしょう。美しの門は、確かにきらびやかに飾られていました。その奥には、目もくらむほどの金銀や大理石で飾られた宮が建っていました。祭りになると、そこに多くの人々が来てささげるお金は巨万の額に達したことでしょう。しかし、そうした物質的なきらびやかさも、巨万の額になる金銀も、決してこの男を救うことはできませんでした。宮でさえ救うことができませんでした。ただイエス・キリストの御名が、ペテロのうちにおられたイエス・キリストだけが、この男の人を救うことができたのです。

 ここで私たちは考えてみたいのです。本当に人を救うものは何かということです。
 NHKの特別番組の中で、ある末期ガンの方が日記の中に、「今あるすべてを失ったとしても、満足でいられる何かが欲しい」と書きました。やがて死ななければならない状況の中で、自分の死を予感したこの方は、本当に自分に必要なものを極限の中で求めておられたのだと思います。自分の地位や、名誉や、財産や、健康や、環境といった今あるすべてのものを失っても、満足していられるものが欲しいというのは、まさしく極限の求めだと思います。それはいったい何でしょうか。お金は大切なものですが、いつか失われることがあるでしょう。地位や名誉はどうですか。悪いことではありませんが、それらもまた失われる時がやってきます。芸術やスポーツ、教養、趣味、学歴はどうですか。これらもすべて良いものですが、必要なくなる時がやって来るのです。
 かつてフェリス女学院の院長であり、今は理事長をしておられる小塩節(おしおたかし)先生は、「この社会が神様によってつぶされるような時代が来るでしょう。でも、神様、ちょっと待ってください。この世にはモーツァルトがありますよ。もし赤く燃える西空に、モーツァルトの一節が鳴りましたら、神様も思わず耳をお傾けになるのではないでしょうか。」と言っています。小塩先生はモーツァルトが大好きで、モーツァルトのファンなんですね。ですから、モーツアルトがあれば・・・というようなことを言っているのですが、そのモーツアルトも滅びる時がやって来るのです。では、これらのすべてが無くなっても決して無くならない物とは何でしょうか。永遠のいのちです。これは、私たち人間にとって最もすばらしい神からの賜物なのです。

 神様は、人間に必要なすべてのものをただでくださいました。私たちが生きるために必要な水や、空気や、光といった自然の恵みをただで提供してくださいました。そして、私たちが永遠に生きるために必要ないのちも、ただで恵んでくださったのです。それがイエス・キリストです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネ3:16)

 イエス・キリストこそ、神が私たち人類に与えてくださった最もすばらしい賜物です。なぜなら、この方によって私たちは、永遠のいのちを持つことができるからです。今あるすべてを失ったとしても、この方がおられるなら、私たちは本当の満足を得ることができるのです。このイエス・キリストだけが、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えることがおできになるからです。

 まことに悩めるたましいを救えるのは、お金でも、政治でも、この世のいかなる組織や団体でもありません。ただイエス・キリストの名だけなのです。それはキリストの教会である私たちにだけ与えられているものです。であるならば、私たちがしなければならないこと、私たちに与えられている使命とは、このイエス・キリストの御名によって人々を救いに導いていくことです。これは教会にしかできないことです。なのに教会がそれをしないで慈善事業や社会事業に没頭しているとしたら、それは本末転倒しているしか言えません。もちろん、そうした働きが福音宣教に結びついているものならば、あながち間違いだとは言えないかもしれませんが、しかし、私たちの意識の中に、本当に人をいやし、人を救いに導くものはこれしかないという確信があるでしょうか。もしあるとしたら、私たちは自分たちにどれだけの金銀があるかとか、どんなに立派な建物を持っているかとかといったことにとらわれるのではなく、このナザレのイエス・キリストの名が、今も生きて働き、立たせてくださると信じて、病んでる人に手を差し伸べ、その右手を取って立たせてやらなければならないのです。そこに本当の救いがあるからです。
 金銀は私たちになくても構いません。美しい門がそびえていなくてもいい。しかし、人を立って歩ませるナザレ人イエス・キリストの御名が私たちにはあるのです。この御名によって歩きなさいと言える、そういう教会でありたいものです。