使徒の働き3章11~16節 「私たちでなくイエスです」

 きょうは「私たちではなくイエスです」というタイトルでお話します。何とかして個人伝道のきっかけを作りたいといつも願っていた宣教師がおられました。その宣教師は道を歩いておられますと、この人はと思う人に何気ないふりをしてドーンとぶつかっていくのだそうです。「ごめんない」と謝ると、すかさず「実は、アダムとエバが罪を犯してから・・・」と始まるわけです。ぶつけられた相手は、変な外人が変なことを言うので驚きながら、「えっ?」と言うと、それをきっかけに話を始めるのだそうです。私たちがそんなことをしたら大変なことになりますから注意が必要ですが、何とか個人伝道のきっかけを作りたいというこの宣教師の気持ちはわかるような気がします。

 ペテロやほかの弟子たちもあらゆる機会をとらえて証をしました。この時もそうです。生まれつき足のきかない男をいやすと、それを見た人々は非常に驚き、ソロモンの廊という回廊にやって来たので、ペテロはその機会を逃すことなく、主イエスを証しました。その証は12~26節まで続きます。12~16節までは、この奇跡の力はどこから来たのかということについて、17~21節までは、それに基づいて人々に対する悔い改めの勧めが、そして22~26節までは、選民イスラエルの特権と責任が語られています。きょうは12~16節までのところから、その奇跡がどこから来たのか、それは私たちではなく、主イエスから来たということについて、すなわち、主イエスを信じる信仰によってであったということについてお話したいと思います。 第一のことは、それは私たちではありませんということです。この床の人がいやされたのはペテロとヨハネに特別な力があったからでも、信仰が深かったからでもありません。ではこの男がいやされたのはどうしてなのでしょうか。第二に、それは神がそのしもべイエスに栄光をお与えになったからです。このイエスの御名が、その名を信じる信仰のゆえに、彼らが見て知っているその人を強くしたのです。第三のことは、ではこのイエスとはいったい誰なのでしょうか。この方こそ神のしもべ、きよく、正しい方、いのちの君、すなわちメシヤです。彼らはこの方をピラトに引き渡し、十字架につけて殺してしまいましたが、この方こそあがめられるべき救い主、メシヤです。私たちは、見つめなければならないのはこの方なのです。

 Ⅰ.私たちではありません

 まず第一に、この男がいやされたのはペテロやヨハネに特別の力があったからではなく、また、彼らの信仰が深かったからではないということです。12節と13節をご覧ください。

 「ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。『イスラエルの人た
 ち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰
 深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。』」

 ペテロは、奇跡を見て驚いている人々に向かって二つの質問を投げかけ、彼らの誤解を正そうとしました。一つは、なぜこのことに驚いているのかということです。まことの神を知らない異邦人ならまだしも、アブラハム、イサク、ヤコブの神、私たちの先祖の神を知っているあなたがたユダヤ人が、こんなことで驚いているのはおかしいんじゃないかということです。もう一つは、なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように見つめるのかということです。

 まず最初の質問は、なぜこのことに驚いているのかということです。このこととはもちろん、生まれつき立つことも、歩くことも出来なかった人が、おどり上がってまっすぐに立って、歩いたというだけでなく、飛んだり、はねたりするようになったということです。確かにそれは人間的に見たらものすごいことかもしれませんが、私たちの信じている神がどういう方であるかを知っているなら、そんなに驚くことではないのです。私たちの信じている神はアブラハム、イサク、ヤコブの神だからです。それは彼らを通して現された全能の神という意味です。それは、彼らの歴史を見てもわかるでしょう。彼らはたとえ弱さや欠点があっても、神の超自然的な保護と干渉によって守られてきた民なのです。

 たとえば、信仰の父アブラハムにその子イサクが与えられたのは彼が100歳の時でした。人間的にはもう子を宿す力もない、死んだも同然の彼から、天の星のように、また海辺の数え切れない砂のように数多くの子孫が生まれました。
 イサクはどうですか。彼がゲラルの地に住んでいたとき、その地に種を蒔きますと、その年に百倍の収穫を見ました。主が彼を祝福してくださったからです。度重なるその地の住民の嫌がらせにあっても、神はイサクを祝福し、彼が増え広がるために井戸を与えてくれました。
 ヤコブはどうですか。ヤコブは兄エサウをだましておじのラバンの所に逃げて行きましたが、20年の歳月の後、彼はカナンの地に戻ることができました。それはある夜、神がラバンに現れて「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」と言われたからです。
 さらに、モーセの時代になると、430年もの間エジプトに捕らえられたいたイスラエルが、そこから救い出されました。それほどの長きに渡って捕らえられていた民が介抱されるなんて考えられないことです。しかし、彼らの神はアブラハム、イサク、ヤコブの神でした。「わたしは、あるという者である」と言われる主が、その全能の御手をもって数々の奇跡を行い、彼らをそこから救い出してくだいました。エジプト中の初子という初子を殺し、紅海を二つに分けて乾いた道を作り、エジプトから救い出されました。
 やがて荒野に導かれてイスラエルは、食べ物や飲み物なくて苦しみますが、その叫びを聞かれた主は、岩から水がほとばしるようにし、天からマナを降らせました。マナだけでは飽きるという文句を言う人のために、うずらを運ばせて食べさせました。マナは、彼らがカナンにたどり着くまでの40年間食べ続けることになります。神はそうやって彼らを養ってくださいました。
 また、彼らがカナンの地に入って行こうとした時もそこにいる多くの住民と戦わなければなりませんでしたが、神はその戦いのすべてに勝利を与えてくださいました。エリコという町は城壁が堅く閉ざされていましたが、神の命令に従って七日間その城壁の周りを回り、七日目には七回回って時の声を上げると、一気に崩れ落ちたのです。
 また、イスラエルがバビロンによって滅ぼされ捕え移された時も、ペルシャの王クロスを用いて、彼らをそこから救ってくださいました。

 このほかにもたくさんあります。彼らの神はアブラハム、イサク、ヤコブの神です。その神が彼らの歴史の中で、超自然的な御業を成して彼らを守り、導いて来られたのです。ドイツの神学者らブルトマンという人がいましたが、彼は聖書からそうした神話を取り除こうと、「聖書の非神話化」を行ったところ、何も残らなかったと言いました。それほどに聖書は奇跡で満ちあふれているのです。行ったところ、何も残らなかったと言いました。それほどに聖書は奇跡で満ちているのです。アブラハム、イサク、ヤコブの神は全能の神なです。だったら今ここで足なえの男がいやされたのを見て、びっくり仰天するのはおかしいんじゃないか、ペテロはそう問いかけたのです。

 ペテロが彼らに問いかけたもう一つのことは、「なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」ということです。その当時、異邦人たちはこのような奇跡を行った人々を、神のような人として見る傾向がありました。たとえば、使徒の働き14章8節からのところには、パウロがルステラという町で足のきかない人を直したということが出てきますが、そのとき人々はどういう態度を示したかというと、パウロをヘルメス、バルナバをゼウスと呼んで、彼らを拝もうとしたのです。「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言ったのです。もちろん、パウロとバルナバはそれを激しく拒絶し、自分たちはそんなものではない、あなたがたと同じ人間であって、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、まことの神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちなのですと言いました。

 人はこのような奇跡を目の当たりにすると、あたかもその人に特別な能力があり、その人を神であるかのように拝もうとする傾向がありますが、人間は造られたものに過ぎないのです。ペテロは、この足なえの男がいやされたのは自分たちに力があったからでも、自分たちの信仰が特別に深かったからでもなく、別の要因があったからだということを、明言したのです。では、その力とはいったい何だったのでしょうか。

 Ⅱ.このイエスの御名が

 13節の前半と16節をご覧ください。「アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。」「このイエスの御名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」

 ここでペテロは、この足なえの男がいやされた根本的な原因が彼らペテロとヨハネにあったのではなく、イエスにあったことを強調しています。神がイエスに栄光をお与えになり、このイエスの御名が、その名を信じる信仰のゆえに、この人を強くし、完全なからだにしたのです。つまり、イエス・キリストは十字架につけられて死んで終わりだったのではなく、その死からよみがえら、生きて働いておられたということです。聖書は、イエスが死んだ状態から復活していく過程を、スローモーションフィルムに写すかのように事細かには描きません。そのようにではなく、このように死んだイエスが、今も生きておられるという現実の証拠をもって、説得するのです。それほど大きな説得はありません。
 そして、主イエスは、今日でもあの足なえの男にしたのと同じような力あるわざを、私たちにしてくださり、私たちを強くし、完全なからだにしてくださるのです。

 先日、ケイリーンを連れて日光東照宮に行ってきました。総工費4,000億円とも、14兆円とも言われる東照宮は、まさに絢爛豪華でした。その東照宮を出るとすぐ隣に祈祷所がありました。この東照宮の徳川家康公の御霊は、すべての願いをかなえることができると、そこにはありとあらゆる願いが記されたお札が、その願い事に分かれて置いてありました。そこに名前と生年月日、住所を記入して入れておくと、東照宮の宮司が祈祷するというのです。お札は1本500円でした。
 しかし、14兆円もかけて作られた徳川家康公の霊でも人をいやし、立たせ、歩かせ、完全なからだにすることはできません。金色に輝く御堂が人を立たせるのではないのです。ただ十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストの御名だけが、人をいやすことができるのです。そうした外側の豪華さに目が奪われてはなりません。

 では、祈ってもいやされないのはどうしてでしょうか。イエスの御名にそのような力があるのなら、この足なえをいやしたように、みんなの目の前で病んでる人をいやし、完全なからだにしてくださったらいいのに、そうしてくださらないのはどうしてなのでしょうか。

 三つの理由があります。第一の理由は、願わないからです。ヤコブ4章2節には、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」とあります。本気で願うなら、神は必ず聞いてくださいます。本気で願っても聞かれないとしたら、それはどういうことなのでしょうか。
 第二に、それが神のみこころではないからです。Iヨハネ5章14節には、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」とあります。それが神のみこころであるかどうかです。みこころにかなった願いであれば、それは聞いてくださいますが、そうでなかったら、聞かれることはありません。もしかすると、今がその時ではないのかもしれません。神様には私たちの思いをはるかに越えた計画があり、その計画に従って最善に導いておられますから、必ずしも私たちの願うように進むとは限りません。すべてのことはみこころに従って導かれているのです。
 三つ目の理由は、確かに今まで歩けなかった人が歩けるようになったり、病気がいやされたりすることはすばらしいことですが、たとえそうでなくても、私たちにはもっとすばらしい恵みが与えられているからです。その恵みとは何でしょうか。永遠のいのちです。たましいの救いです。それこそ私たちにとって最もすばらしい恵みなのです。なぜなら、この地上でのいのちは長くても80年、もうちょっと長い人で100年、どんなに頑張っても120年のいのちですが、私たちには永遠のいのちが与えられている。それこそ大きな恵みではないでしょうか。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに踊っています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Iペテロ1:8,9)

 この男に起こったことですばらしかった点は、彼が単に足なえがいやされて完全なからだになったということではなく、霊的な足なえがいやされたことです。霊的な足なえとは何でしょうか。それは人生の旅路をまっすぐに正しく歩んでいけない人のことです。罪人は、人生の旅路を、足なえののように、あっちへ行ってはつまずき、こっちに来ては転んだりと、まっすぐに歩んで行くことができません。こうした霊的足なえを神はいやしてくださいます。それが救いなのです。

 この足なえの男は、イエス・キリストの御名によって、イエスによって与えられた信仰によって、「完全なからだ」にしていただきました。この「完全なからだ」というのは、神にいけにえとしてささげられた傷のない動物に使われた言葉です。この人は歩くことができなかった者で、いけにえの規定から見ると神の前に出ることができなかった汚れた者でした。しかし、イエスを信じる信仰によって、傷のない完全な者とされたのです。罪の赦しを受けて神の前に出ることができるようになったのです。信仰によって救われたからです。

私たちには、このたましいの救いが与えられているのです。それはことばに尽くすことのできない喜び、何ものにも代え難い喜びです。イエス・キリストは、今日の私たちにそのたましいの救い、平安と喜びを与えてくださるのです。聖霊を通して、今も働いておられるのです。

 Ⅲ.いのちの君

第三のことは、このように私たちにたましいの救い、永遠のいのちを与えてくださるイエスとは、いったいどのような方なのかというこです。13~15節をご覧ください。

「・・・神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。・・・」

この13節の後半から15節までの箇所は、神がそのしもべイエスに栄光をお与えになられ、このイエスの御名が、この人を立たせてくださったのにもかかわらず、彼らがそれを理解できなかったのはどうしてなのかについて記されてあります。つまり、神がそのしもべイエスに栄光をお与えになられたにもかかわらず、この方を殺してしまったのはどうしてかということです。それは、この方についての理解がズレていたからです。この方については異邦人ピラトでさえ釈放しようと決めていたのに、イスラエルはそれを拒み、代わりに人殺しの男バラバを釈放するようにと要求し、この方を殺してしまいました。いったい何が問題だったのでしょうか。この方についての理解がズレていたのです。この方は神が栄光をお与えになられた方で、殺されるようなことなど何もしていませんでした。むしろ、この方こそ私たちを罪から救うことのできたメシヤ、救い主です。にもかかわらず、彼らはこの方を十字架につけて殺してしまったのです。ペテロは、この方がどういう点で救い主なのかということを、ここで四つの言葉で言い表しております。

 まずは「そのしもべ」ということばです。これは「奴隷」という意味のしもべではなく、父なる神がイエスを「わたしの愛する子」と呼ばれたような意味で、実子を表すものでした。イエスは神の愛する子でした。それからここには「きよい、正しい方」とあります。これは、初代教会においてイエス・キリストへの信仰の告白として用いられていたことばでした。すなわち、メシヤの称号であったわけです。さらに「いのちの君」という肩書きも、この方が永遠のいのちを与えることのできる方であるということを表していた呼称でありました。
 このようにペテロは、ありとあらゆるメシヤの称号を用いて、おそれおおくもイスラエルが殺したイエスこそキリスト、救い主であったのだと力説しているのです。問題は、いったいどうして彼らはこのようなお方を殺してしまったのかということです。それは、彼らがただ単にこの方に対する理解がズレていただけではなく、信仰がズレでいたからでした。彼らの理解のズレは、実は信仰のズレから生じていたのです。信仰のズレとは何でしょうか。それは的外れのことであり、それこそ「罪」にほかなりません。彼らが生けるまことの神から離れ、自分勝手な考え方をするようになったので、彼らはあらゆる点において正しい判断を下すことができなくなってしまったのです。人間はいつでも自分の考え方を正当化し、そのことを押し通すためには、神さえも断罪しかねないのです。それが罪人の姿であります。ここでイスラエルが神が栄光を与えてくださった救い主イエスを十字架で殺してしまったのは、そうした罪、信仰のズレから生じたことだったのです。

 皆さんはいかがですか。皆さんの信仰はズレていませんか。神が正しいとし、神が栄光を与えてくださったイエス・キリストを主として仰いでおられますか。それとも、病気をいやしたり、奇跡を行ったりといった現象に心が奪われてはいないでしょうか。いったい誰がこの足なえの人を強くし、立たせ、完全なからだにしたのでしょうか。イエス・キリストです。イエス・キリストが、その名を信じる信仰のゆえに、今見ているように、この人を強くしたのです。

 であるならば、私たちは足なえの足やペテロを見つめていてはいけません。この生き証人が指し示す重大な事実を見抜かなければならないのです。それはイエス・キリストです。神が栄光を与えられ、一度は人々の理解のズレ、信仰のズレによって十字架につけられて死なれましたが、神はこのイエスをよみがえらせました。このイエスこそこの足なえをいやされた「いのちの君」であられるのです。このイエスを見つめなければならないのです。

 カナダのサスカチュワン州のジャイナという町にある小さな教会にあった話です。この教会は信徒がわずか11名で、苦しい状況にありました。地域からの風当たりが強く、経済的にも厳しかったので、人々は失望落胆していました。何の希望も残されていないかのようでした。何の希望もなかったのでもはや教会も売りに出さなければならないかと思われました。
 そこで牧師のヘンリーは、定期的に彼らと会い、イエス・キリストについて話し始めることにしました。彼はみんなにこう言いました。「主とともに座り、御声に耳を傾けてください。主を見つめてください。主がご自身をだれだと言われるかを聞いてください。」
 間もなく彼らは何かを悟り始めたようでした。それは主が彼らの中に自由に働いてくださるようになれば、たとえ小さな教会であっても、その愛が教会を変えてくださるということでした。
 この小さな教会は、神が自分たちを召しておられるということを信じるようになりました。そして、彼らの中から罪を告白する人たちが起こされてきました。すると、イエス・キリストの前で家庭が回復したり、救われる人たちが起こされてくるようになりました。イエス様が引き上げてくださるなら、すべての人をご自身の下に導かれるということが事実であることを知りました。
 その後この小さな教会は、長期にわたり自分たちの役割を忠実に果たし、少なくとも八つの新しい教会を開拓しました。キャンパス伝道とバスの伝道を始め、若者たちの訓練センターも運営するようになりました。自分たちの中に働いてくださる主を認め、この方を見上げ、この方の前に自らを差し出したとき、主は彼らの中に奇跡を起こしてくださったのです。暗闇を追い払い、死をいのちへと変えてくださいました。
 
 あなたが見つめておられるのは何ですか。あなたは、自分の問題の答えを、身近な人や目に見えるものに求めてはいませんか。あなたの足なえをいやし、完全なからだにすることができるのは、二千年前に十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストだけなのです。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。」このイエスは、今も生きて働いておられます。私たちが見つめなければならないのはこの方なのです。この方だけを見つめ、この方が私たちの人生に大きな神の御業を現してくださるように期待して、祈り求めていこうではありませんか。