アメリカに世界的に有名な伝道者でビリー・グラハムという方がおられます。この方は、ノースカロライナ州の山脈の麓に住んでおられますが、初めてその地域に引っ越してきたとき、その地に長く住んでいる人が、家のすぐ上に泉があってその泉から水を引いていたのですが、その泉は絶対に枯れることがないと教えてくれました。住んでみると、どんなにひどい日照りがあっても枯れませんでした。その人たちの言ったことは本当だったのです。ところがある日、その水が流れなくなってしまったことがありました。冬の特に寒さが厳しい日のこどてした。泉から水を運んでいるパイプが凍って、水が流れなくなってしまったのです。そこでビリー・グラハムとその家族は、その凍った地面を掘り、小型の発火装置を使って土に埋もれて凍っていた水道管を溶かしたのです。そうすると水はなめらかに流れるようになりました。
これは、私たちの信仰生活にも言えるのではないでしょうか。この枯れない泉のように聖霊はどんな状況にあっても助けの手を差し伸べることを止めることはありません。しかし、水道管が凍ってその流れを遮ってしまったように、私たちの罪が聖霊のくださるいのちの水を遮断してしまうことがあるのです。私たちが霊的に冷たくなってしまうと、私たちのたましいは凍りついてしまい、神様からの祝福を受けられなくなってしまいます。
この詰まったものを取り除いて流れを回復させる唯一の道は、悔い改めることです。もし私たちが霊的に冷たくなっているなら、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷ついた心があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」と祈らなければなりません。そうするなら、いのちを回復することができるのです。
きょうはこの悔い改めについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、私たちがどんなに大きな罪を犯しても、神様は悔い改めるなら赦してくださるということです。第二のことは、この悔い改めは回復の時、すなわちキリストが再びこの地上に来て、救いを完成させてくださる時の準備でもあるということです。そして第三のことは、私たちが悔い改めるのは、私たちにはすばらしい特権が与えられているからだということです。
Ⅰ.悔い改めるなら赦してくださる
まず第一のことは、悔い改めるなら赦してくださるということです。17~19節までをご覧ください。
「ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです。しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」
先週のとこで学んだように、ペテロは11~16節までのところで、この足なえがいやされた奇跡の原因について語りました。それは、彼自身の力や信仰深さによるのではなく、イエス・キリストの力によるものでした。このイエスこそ神が栄光をお与えになられた「いのちの君」であられたのです。ところが、このいのちの君であられるイエスを、彼らは十字架につけて殺してしまいました。ですからペテロは19節のところで、彼らが悔い改めることを強く迫っているわけです。しかし、この19節の悔い改めの勧告が、「そういうわけですから」ということばで結びつけられていることからもわかりますように、17節と18節のところには、その悔い改めの理由が語られています。それは何かというと、彼らが、彼らの指導者たちと同様に、無知であったということです。無知であったためにあのような行いをしてしまったのです。しかし、たとえそれが知らないことであったからと言っても、罪を免れるわけにはいきません。それは、私たちが交通違反をした時、知らなかったからでは済まされないのと同じです。アメリカなどでは、州ごとに規則が少しずつ違っていたりしますから、うっかりしてということもあるわけですが、だからと言って許されるわけではありません。特に、神様はユダヤ人たちに、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難についてあらかじめ語っておられたわけですから、知らなかったでは済まされないのです。しかし、たとえそれが知ってであろうと、知らないでであろうと、悔い改めて、神に立ち返るなら、神は赦してくださるのです。
ここに救いがあります。ここに福音のすばらしさがあります。福音とは「良きしらせ」、「グッド・ニュース」のことですが、何をもってグッド・ニュースと言うのかと言いますと、自分ではどんなことをしても決して赦されないような者が、ただ神の恵みによって、それまでの自分の歩みを振り返って悔い改め、イエス・キリストを信じるなら、神は赦してくださるから、グッド・ニュースなのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
これが福音です。何をもってしても赦されるはずのない者が、ただキリストのうちにあることによって、すなわち、罪を悔い改めて、キリストを信じることによって、新しく造られた者とさせていただけるのです。それが福音の恵みです。
かつてキリスト教を迫害したパウロは、回心して、キリスト教に転向したのち、このように言いました。「私は以前は、神を汚す者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」(Iテモテ1:14)。また、今、ここでイスラエルに悔い改めを勧めているペテロでさえ、実は、三度もイエス・キリストを拒むという過ちを犯しましたが、悔い改めて神に立ち返ると、赦されました。彼はそうした自分の経験を通して、ここでこの大胆きわまる説教をしているのです。そしてそれは、知ってか知らないでかは別として、神の子を十字架につけて殺してしまうという大罪を犯した彼らにも言えることなのです。イエス様は十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と祈られましたが、それは、イエス様を殺すためには、偽の証人を使うことも辞さなかったほどの悪らつな宗教指導者たちのためでもあったのです。どんな人でも、過去において神の御名を汚すようなひどいことをした人であっても、自分の誤りを認め、罪を言い表し、悔い改めて神に立ち返るなら、神は無条件で赦してくださるのです。
19世紀のアメリカのリバイバリストにD・L・ムーデイという人がいますが、ある日彼のところに一人の青年がやって来て、こう言ったそうです。
「私は幼いときに犯した罪のために、いつも落ち込みます。その罪があまりに も大きかったため、いくら時間が過ぎても罪責感が消えないのです。」
それを聞いたムーディは、その青年に言いました。
「あなたはクリスチャンですか」
「はい、そうです」
「では、あなたは、キリストがあなたのすべての罪を赦してくださったことを 信じますか」
「はい、信じてます」
するとムーディは突然怒ってこう言いました。
「だったらなぜあなたはイエス様が消してくださった罪を今なお覚えているん ですか。あなたが何者だからというので、全能の神様がもう覚えていないとい う罪をいつまでもグタグタと言っているのですか」
それを聞いた青年はびっくりして、「あっ、そうだ、私は赦されているんだ」という確信が与えられて、家に帰って行ったそうです。
私たちも同じです。だれでも、罪を悔い改めて、神に立ち返るなら、赦していただけるのです。なのにどうして過去のことをいつまでも引きずる必要があるのでしょうか。全能の神が「あなたの罪は赦された」と宣言してくださったのに、どうして私たちがこの小さな頭でクヨクヨと悩む必要があるでしょうか。
よくカトリック教会の屋根の上に風見鶏という鶏の像を見かけることがありますが、どうしてカトリック教会ではそのようにするのかというと、一つの教訓のためだそうです。それはペテロが鶏の鳴く声を聞くだびにイエス様を裏切ったあの時のことを思い出して泣き、悔い改めたように、鶏の泣く姿を見て、自分の罪を思い出して泣くためだ・・・と。
しかし、ペテロはイエス様の御力を味わってからは、完全な罪の赦しを得て新しくされ、もう二度とその罪を思い起こすことはありませんでした。だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は全く新しく造られるのです。古い者は過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。イエス様を信じたその時からあなたのすべての罪は完全に赦され、消されているのです。なのにこの恵みを忘れて自分の罪ばかりを思い起こして落ち込んでいるとしたら、主がどんなに悲しまれるかわかりません。確かに私ちは死ぬしかないほどの罪人でした。しかしこんな私のために、イエス・キリストが十字架にかかって身代わりとなって死んでくださったのです。それはそれがどんなに大きな罪であっても、悔い改めるなら、赦してくださるためでした。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」そうすれば、神はあなたがたの罪を完全にぬぐい去ってくださるのです。
Ⅱ.回復の時のため
なぜ悔い改めなければならないのでしょうか。第二のことは、回復の時のためです。20~21節をご覧ください。
「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」
皆さん、なぜ悔い改めて、神に立ち返らなければならないのでしょうか。それは、主の御前から回復の時が着て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためです。「回復の時」とは何を指しているのでしょうか。この「回復の時」ということばは「息つくひま」という意味で、「慰めの時」、「安らぎの時」という意味です。それは21節に「万物が改まる時」とあるように、キリストが再臨される時を指しています。真に慰められる時、ホッとひと息つくような安らぎの時は、キリストが再臨される時まで待たなければならないというのです。なぜなら、罪によって混乱し、矛盾と悲惨に満ちたこの世にあっては、そうした安らぎを得ることはできないからです。イエス・キリストが再臨されるそのとき、主の御前から回復の時が来て、私たちは真の慰めを得ることができるのであります。
この万物が改まる世の終わりの日について、聖書は次のように教えています。テサロニケ第一の手紙4章15~17節です。開いてみたいと思います。
「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られる時まで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちはいつまでも主ともにいることになります。」
テサロニケの教会の人々は、死んでしまった人がどうなるのかについて心配していました。キリストが再臨される時に、生きている人が天に挙げられることはわかったが、既に死んでしまった人はどうなるのかということを、とても心配していたのです。そこでパウロは、そのことについて心配しなくてもいいと言いました。キリストが再臨される時にはまず、死んだ人がよみがえって、新しい体をいただき天に引き上げられます。それに続いて生きている人たちが挙げられていくのですというのです。つまり、キリストが再臨される時には、死んでしまった人も、その時に生きている人も、一瞬のうちに栄光のからだに変えられて、天に挙げられていくのだというのです。そうして、いつまでも主とともにいることになる。それこそ慰められる時、安らぎのとき、回復の時なのです。
ハイデルベルク信仰問答書という問答書がありますが、その最初の設問は、「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか」というものです。皆さんにとって生きている時も、死ぬ時も、ただ一つの慰めは何ですか?その問答書の答えにはこうありました。「私が、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります」つまり、イエス・キリストとともにいること、イエス様と結ばれて、イエス様と交わりの中に置かれる時です。イエス様が再臨される時は、まさにそういう時なのです。
問題は、このキリストが再臨される時に、天に挙げられるのはどういう人であるかということです。そのことについてイエス様は、マタイの福音書24章35~42節のところで、次のように言っています。
「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そそして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」
イエス様が来られるその日、ある人は上げられますが、ある人はそうではありません。上げられるとは、空中で主とともに会うことを意味しています。それは救いの完成の時でもあります。その日、上げられるのはどうい人でしょうか。上げられるか、地上に残されるかを分けるのは何でしょうか。体重ではありません。あなたはい重いから上がりませんということはないのです。それを分けるのは信仰なのです。私たちがイエス・キリストを自分の救い主として信じたかどうか、この一点です。悔い改めて、神に立ち返ったかということです。この一点で運命が分かれるのです。生きている時に、どんな良いことをしたか悪いことをしたかではありません。今から二千年前に、カルバリの十字架の上で、神の御子イエス・キリストが死なれたことが、「あれが私の罪のためのためであった。だからイエス様は私の救い主なのだ」と認めて、罪を悔い改め、このイエスを心の中に受け入れるかどうかということなのです。そうであるなら、たとえあなたの信仰が非常に薄いか細いものであったとしても、その時あなたは天に挙げられ、空中で主と会い、いつまでも主とともにいるようになるのです。その時に問題になるのは、信仰があるかないかということなのです。皆さんには、そのための準備が出来ているでしょうか。
ペテロは、主の御前からこの回復の時が来て、主イエスが天から来られる時に、そこで真の慰めと平安を受けるためには、悔い改めて、神に立ち返り、このイエスにとどまっていなければならない、つまり、信仰に立っていなければならないと言ったのです。
私はアメリカに行くとき、よく家内の両親が葬られたお墓に行きます。そこは日本のお墓と違って、ピクニックでもしたくなるようなとてもきれいです。たいていの墓石は地面に埋められているのですが、その墓石には亡くなった方の名前と、その方の生まれた年月日と、亡くなった年月日が刻まれています。そして、多くの墓石にはみことばが彫ってあります。たとえば、「主よ、来てください」とか「私たちの国籍は天にあります」といったみことばです。それを見ると、「ああ、この方もクリスチャンだったんだな」というのがわかって、希望が与えられます。
そんな墓石を見ていたとき、ある方の墓石にこんなことばが刻まれてありました。それは「I am waiting」ということばです。「私は待っています」とか「私は待機中です」という意味です。何を待っているのか?イエス様が再び来られる日、すなわち、復活の日です。それは彼女の信仰だったのでしょう。キリストがよみがえられたように、私たちもいつかよみがえる日がやってくる。それが私たちの信仰であり、むまた希望なのです。なぜ、悔い改めて、神に立ち返るのでしょうか。キリストが再臨されるそのとき、私たちも復活して栄光のからだをいただき、空中に引き上げられ、いつまでも主とともに生きるようになるという希望があるからです。それは最高の希望ではないでしょうか。そのためには、今から備えていなければならないのです。
Ⅲ.すばらしい特権が与えられているから
なぜ悔い改めなければならないのでしょうか。第三の理由は、それは私たちにすばらし特権が与えられているからです。22~26節までをご覧ください。まず22~23節を見てみましょう。
「モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』」
ここに急に旧約聖書のことばが引用されて、モーセのことが語られています。どうしてモーセなのかと言いますと、ペテロはこのところで、彼らがなぜ悔い改めなければならないのかを勧めるにあたり、彼らにどれほどの特権が与えられているのかを示したかったからなのです。ここでは、神である主は、あなたがたイスラエルのために、私のようなひとりの預言者をお立てになるとあります。これは申命記18章15節からの引用ですが、モーセのような預言者というのは、モーセのように神と親しい特別な関係にある預言者ということです。ですからこれは、メシヤ的預言者であると信じられていました。この預言者が彼らのために、彼らの中かに立てられるというのです。だれですか?イエス・キリストです。旧約聖書の申命記で預言されていたメシヤ的預言者は、イエス・キリストによって成就したのです。であるなら、イスラエルは神が立てると約束されたこのメシヤと同胞であるということなのですから、世界のどの民族にも先駆けて、兄弟であるメシヤに立ち返るべきなのです。それが、「この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい」とか、「その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる」という意味だったのです。
それだけではありません。25節を見ると、ここに「また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたあの契約の子孫です」とあります。これはどういうことかと言いますと、彼らはアブラハムの子孫として、彼らを通して、地上のすべての民族は祝福されるとアブラハムに約束された契約の子孫であるということです。つまり、彼らこそ祝福の基であり、救いの源であるということです。すなわち、彼らはそのために神様から特別に選ばれた民であるということです。そのために神様は、彼らの中にメシヤであられるイエス・キリストを送られたのです。ということはどういうことかといいますと、彼らにはそれだけの責任がもまた与えられていたということです。そのようなすばらしい特権に預かった者として、彼らこそ他のどの民族にも先駆けて、神に立ち返らなければならなかったのです。
なのに、実際はどうだったでしょうか。イスラエルは選民としての特権を主張するだけで、その特権が意味する大きな責任と使命については、全く目覚めていませんでした。このようなペテロの力強い説教にも聞く耳を持とうとしませんでした。パウロも、ギリシャやローマの町々で、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言しましたが、次々に拒絶されました。拒絶されただけでなく、反抗して、暴言を吐いたりしたので、結局、パウロは異邦人のほうへと向かって行ったのです。そしてついには、救いが異邦人である私たちのところに及ぶようになったのです。これが神の計画でした。神の計画は、このようにイスラエルが福音を拒むということを契機として異邦人にもたらされていったのです。今は私たちがこの神の祝福に預かる新しい選民となったのです。私たちこそ神が選ばれし霊的イスラエルなのです。
であれば、私たちはかつてイスラエルが陥った過ちを繰り返してはいけません。彼らは神から特別に選ばれ、救い主と同じ民族として生まれながらも、その神の恵みに応えようとせず、ただその特権だけを主張するだけでした。自分たちの誤りを認めて悔い改めて神に立ち返り、神の恵みにとどまっていなかったのです。私たちもそのようであってはなりません。私たちは神から特別に恵みを賜った者として、この神のいつくしみに感謝し、いつもそこにとどまっていなければならないのです。心をかたくなにしてはいけません。いつも柔和な心で神に向かい、悔い改めの心をもって神に立ち返らなければならないのです。
「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうなれば、あなたも切り落とされるのです。」(ローマ11:22)
「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3:15)
私たちは今、神様のすばらしい恵みを受けているのです。今置かれている立場というのは、ただ神の一方的なあわれみといつくしみによるのです。この恵みを無駄にしてはいけません。しっかりとここにとどまり続けようと誓いを新たにすると同時に、神の御声に聞き従う柔らかな心をもって、いつも神に立ち返らなければならないのです。それがこの大いなる救いに入れていただいた者の務めなのではないでしょうか。