きょうは「この方以外には救いはない」というタイトルでお話をしたいと思います。
以前、ロサンゼルスに住む韓国人の眼鏡屋の店主が、テレビにある広告を出しました。その広告とは、その眼鏡屋の店主がなれない口調で「私は眼鏡のことしか知りません」とただ一言だけ言うものでしたが、当時、大ヒットし、広告の大賞まで受賞しました。眼鏡屋で眼鏡のことしか知りませんと言えることは誇りであるということです。それは、クリスチャンにも言えることではないでしょうか。クリスチャンにとって「この方だけ」と、イエスだけを求め、イエス様だけを誇れることは幸せなことなのです。
きょうのところでペテロは、この方だけと告白しました。「この方以外には、だれによっても救いはありません」と言いました。この方以外には、私たちが救われるべき名としては人間に与えられていないからです。私たちが救われ、私たちが頼れる唯一の希望はイエス・キリストだけなのです。きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、主イエスの復活の力です。ペテロとヨハネがユダヤ教の指導者たちに捕らえられてしまったのは、彼らがこの主イエスの復活を宣べ伝えていたからです。主イエスの復活の力は、それほど力があったのです。第二のことは、本当の権威とは何かということです。ユダヤ教の指導者たちは、何の権威によって、だれの名によってこんなことをしたのかとペテロとヨハネに尋問しました。彼らの問題は本当の権威を持っておられる神をないがしろにし、自分たちにそれがあると思い込んでいたことでした。第三のことは、この方以外には救いはないということです。私たちに救われるべき名として与えられているのは、このイエスの御名だけです。この方だけを信じなければなりません。
I.主イエスの復活の力
まず第一に、イエスの復活の力です。1~4節をご覧ください。ここには、ペテロとヨハネが捕らえられるという事件が起こります。これはキリスト教会における最初の迫害です。それがいったいなぜ起こったのかというと、彼らが主イエスの復活を大胆に宣べ伝えていたからです。
「彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、彼らに手をかけて捕らえた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。しかし、みことばを聞いた人々は大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。」
「美しの門」のところで生まれつき足のきかない男をペテロとヨハネがいやしたことで、いったいそれがどういうことかを話していると、そこへ祭司たち、宮の守衛長たち、またサドカイ人たちがやって来て、彼らに手をかけて捕らえてしまいました。ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えてるいのに、困り果てたからです。ここに出てくる祭司たちや宮の守衛長、またサドカイ人たちというのは、みんなサドカイ派に属する人たちでした。ユダヤ教には大別して三つの派がありました。パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派です。エッセネ派というのは神秘主義でしたので、聖書にはほとんど出てきませんが、パリサイ派とサドカイ派についてはよく出てきます。そしてこのサドカイ派の特徴は復活をはじめ、超自然的なことを信じていなかったということです。彼らは神とモーセは信じていましたが、奇跡はすべて否定していたのです。いわゆる現実主義者で、自分たちの理性で受け入れられないものは信じましたが、そうでないもの、たとえば、奇跡やしるしとか、天使とか、霊といった存在は信じていませんでした。ですから、死者が復活するというようなことは到底受け入れられないことでした。ところが、ペテロとヨハネが宣べ伝えていたのはイエスの復活のことでしたから、彼らとしては困り果ててしまったわけです。そこで彼らはペテロとヨハネに手をかけて捕らえてしまったのです。
しかし、逆に言うならば、ペテロとヨハネの話というのは、こうした人たちが恐れ、困り果て、ついには手をかけずにはいられないほど影響力があったのです。そのような力はいったいどこから得ていたのでしょうか。それは聖霊の力でした。3章15、16節のところでペテロは、「いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、・・・この人を強くしたのです。」と言っています。この復活したイエスを信じる信仰によって、彼らは大胆に語ることができたのです。実に、イエスの復活の力こそ、いのちがなくなってしまったかのように弱り果てている人を立ち上がらせることのできる力の源であり、このように大胆に福音を宣べ伝えることができる秘訣だったのです。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」
(使徒1:8)
彼らは初めからそのような力があったわけではありません。13節を見てもわかるように、もともとは無学な、普通の人でした。ガリラヤ湖畔で魚を捕って生計を立てていたようなごく普通の人たちだったのです。そんな彼らがイエスと出会い、イエスに付き従って行くことによって、その人生が大きく変えられました。人生の目標と生きる希望が与えられました。しかし、そのような希望がズタズタに引き裂かれる出来事が起こります。そうです、主イエスが十字架に付けられて殺されるということです。その出来事によって、彼らの夢と希望は潰えたかに見えました。ペテロはイエスが逮捕された時、イエスが言われたとおり三度もイエスを否認しました。そんな弱い人間でした。自分の弱い信仰に彼は涙したほどです。そして故郷に戻り、漁師としての生活をしようとしました。しかしあわれみ豊かなイエス様は、復活された後、ペテロのところを訪ねてくださり、再び彼を立ち上がらせてくださいました。主の愛と赦しによってペテロは再び弟子として生きる力を得、さらに聖霊のすばらしい力が与えられました。聖霊の恵みを経験したペテロはもはや、自分の都合のために自分を守る卑怯な人ではありませんでした。主のためにいのちをささげることができる、信仰の人になったのです。死の危機の前でも力強くキリストの福音を伝える証し人になりました。彼らが大胆にキリストの復活を宣べ伝えることができたのは、この聖霊の力に満たされていたからなのです。
生まれながらの人間は、主イエスを裏切ったペテロと少しも変わりません。しかし、死者の中からよみがえられたイエス・キリストを信じる信仰によって、大胆に福音を伝える者になれるのです。そして、それを聞いた人々が大ぜい信じるといった神様のみわざが起こるのです。
Ⅱ.本当の権威
次に本当の権威とは何かということについて見てみましょう。5~7節までをご覧ください。
「翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問しだした。」
その翌日、民の指導者、長老、学者たちが、エルサレムに召集されました。民の指導者というのは、宗教的指導者のことで、大祭司、宮の守衛長、祭司たちのことです。ここに祭司と長老と学者が集められたということは、ここにユダヤ教の最高議会であるサンへドリンが召集されたということです。そこには大祭司とその一族も出席しました。彼らは使徒たちを取り囲むかのように真ん中に立たせて「あなた方は何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問しました。
しかし、この尋問の内容を見ると、少し変わっていることに気づきます。ペテロとヨハネが捕らえられたのは彼らがイエス・キリストの復活を宣べ伝えていたからでしたが、ここで彼らが尋ねたことは、「何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」ということでした。それはここにパリサイ人たちも集っていたからです。彼らは死者の復活はあると信じていたので、そのことについて尋問することはできませんでした。そこで彼らはその矛先を変え、彼らがしたことの合法性と正当性について尋ねたのです。「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」というようにです。こんなことというのは、もちろん、彼らが生まれながらの足なえをいやしたということです。彼らの主張によると、このような奇跡のわざをするには、サンへドリンの許可が必要であり、また、宮で教える時には宮の責任者である大祭司や宮の守衛長たちの許可が必要だったというのです。それがなかったではないか、あなたがたは勝手な行動をしたのだと責めました。それが秩序ということから考えると、当然のことかもしれません。しかし、彼らがどうしてそのような質問をしたのかを考えると、そこには彼らの思い違いというものがあったのがわかります。すなわち、彼らは自分たちに権威があると思い込んでいましたが、本当の権威者を見失っていたということです。つまり、彼らは外見的な権威だけを主張するも、真に神を恐れ、神に従うという実体を失っていたということです。それが問題でした。そのため彼らの考えも生活もすべてが形骸化していました。彼らの関心は神よりも自分たちにあったのです。自分たちは神のために働いていると考えていましたが、実は自分の利益のために神を利用しているにすぎませんでした。それが問題だったのです。
しかし、それは彼らだけのことではありません。私たちの中にも、自分の益のために神の名を利用するも、その神に従っているかというとそうでもないことがあるのです。神が何と言っているかということよりも、自分の考え、自分が満足することを求めていることが少なくないのです。
先日、アンビリーバボーという番組で、韓国が世界に誇るNo1テノール歌手のベー・チェチョルさんのことが放映されました。チェチョルさんは世界的にも貴重な「リリコ・スピント」という声質で、100年に一人の越材と絶賛されていた人です。オペラの本場イタリアで声楽を学んだ後、ヨーロッパ各地の聖楽コンクールで優勝・入賞を重ねる中、数々の歌劇場で主役を演じるなどして大きな成功を収めました。しかし、2005年に甲状腺のがんであることが判明し、その手術とともに声を失います。いったいなぜ自分なんだと悩み苦しむ中、翌年、京都で甲状軟骨形成手術を行い、奇跡的に声を快復しました。しかし、その声は以前のような声ではありませんでした。けれども彼は、そのことを大きなことを学ぶのです。それまでは、自分が1番になるために歌っていましたが、本当の歌はそれを聴いてくれる人が喜ぶためであるということを知るのです。そして、少しずつ声のリハビリに励み、2008年12月には、新しい声で神に賛美をささげるべくニューアルバム「輝く日を仰ぐとき」を作りました。これは、愛と祈りに満ちた賛美の歌声が、聴く人たちに深い感動をもたらしているのです。以前の彼は自分のために歌っていましたが、その病を通して自分が歌うことの真の意味を知りました。それは自分にいのちを与え、自分を生かし、そのような賜物を与えてくださった神の栄光のためであり、それを聴いて喜んでくださる聴衆のためである・・・と。
神のためにと言いながら、知らず知らすのうちにその神を利用し、実は自分のために生きているということが多いのです。もし本当に神の栄光を求めているのなら、自分を捨てることなど難しくないのです。外側だけで神に従うような信仰ではなく、神の御声を聞き、その御声に従うといった中味の伴った信仰が求められているのです。
Ⅲ.この方以外に救いはない
第三のことは、この方以外には救いはないということです。8~12節までのところに注目していただきたいと思います。何の権威によって、また、だれの名によってこんなことわしたのかという議会からの質問に対して、ペテロはこのところで答えています。彼は聖霊に満たされて言いました。8~10節です。
「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行った良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです」
ペテロはまず、自分たちが取り調べられているのが死人が復活したことの有無ではなく、また、宮の秩序を乱したとかということではなく、生まれつき足のなえていた人がいやされたという「このこと」であるなら、それは病人に行った良いわざであって、そのことで罰せられるいわれなどないと言いました。では何の権威によってこれらのことをしたのかというならば、それは、あなたがたが十字架につけて、神が死者の中からよみがえらせてくださったナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。このナザレ人イエス・キリストは、彼らが十字架につけて殺した人です。ユダヤ教の最高議会であるサンヘドリンがそのように決めたからです。しかし、神様はそんな彼らの権威をあざ笑うかのように、彼らが十字架で殺したイエスをよみがえらせたのです。なぜなら、このイエスこそ真の権威と死者の中からよみがえらせる力を持った方だったからです。この方が、あの足なえをいやしたのです。
では、いったいだれの名によってこんなことをしたのでしょうか。その質問に対してペテロは、それは「ナザレ人イエス・キリストの御名によるのです」とはっきりと答えました。だから、悔い改めて、神に立ち返らなければなりませんでした。このイエスの御名を信じなければならないのです。しかし、それが奇跡だからといっても、イスラエルではその結果だけを見て簡単に信じてはいけませんでした。なぜなら、偽預言者でも同じようなことを行っては惑わすことがあるからです。そこで旧約聖書では、そのようなことがないようにと警告されていました。申命記13章1~3節です。ではどうしはたらいいのでしょうか。そのためには、イエスの御名によって奇跡が起こったこととは別に、イエスの御名がほかの神々のような偶像や、迷信、邪教などの呪文でなはないことを立証しなければなりませんでした。そこでペテロは詩篇118篇11~12節を引用して次のように言いました。11節です。
「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった」というのはこの方のことです。」
これは何のことを言ってるのかといいますと、神殿の礎の石のことです。かつてソロモンによって建てられた神殿がバビロンによって滅ぼされましたが、神は、バビロンに捕らえ移されていたユダヤ人を、ペルシャの王クロスによってエルサレムに帰国させました。帰国したユダヤ人は、そこで最初に何をしたかというと、神殿の再建です。かつてソロモンによって建てられたようなあの豪華な神殿ではありませんでしたが、宮の礎を据え、約20年かかってその宮を完成させたのです。その感性の様子がエズラ記に記されてありますが、彼らは感激のあまり泣きました。神殿を建てるということは、それほど大きなことでした。その工事中のことですが、そこに一つの大きな石が切り刻まれて運ばれてきました。しかし、その石は大きかったためどこにもはまりませんでした。そこで民はその石をどうしたかというと捨てたのです。ところが、後で分かったことは、実は、その石こそ、二つの壁をつなぐ上でどうしてもなくてはならない「隅のかしら石」であったということです。詩篇の作者はそのことを歌ったわけです。そしてその隅のかしら石こそイエス・キリストのことを指していたのです。すなわち、隅のかしら石がユダヤ人たちによって一度は捨てられたように、イエスはユダヤ教指導者たちによって捨てられ十字架につけられて殺されましたが、この石こそなくてはならないものでした。神はこのイエスを死者の中からよみがえらせたのです。なくてはならない方だったからです。この石こそ一度は捨てられたもののやがて最も栄光に満ちた隅のかしら石となったからです。すなわち、このイエスこそなくてはならない方、あの隅のかしら石、聖書の中で何千年も前から預言されていた救い主であったということです。ですから、ペテロは結論として次のように言ったのです。12節です。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
この方以外に、私たちを罪から救うことのできる方はおられません。この方こそ、私たちを罪の刑罰から救い、永遠のいのちを与えることのできる唯一の救い主なのです。ですから、私たちはこの御名を信じなければ救われないのです。
皆さんには、このような確信があるでしょうか。ペテロたちが困難とはずかしさにもめげず、熱心にキリストの御名を宣べ伝えたのは、この方以外にはだれによっても救いはないという確信があったからでした。そうでなくて、たとえば孔子の教えを信じてそれを実践して倫理的に正しく生きたら救われるとか、仏の教えに従って信心深く生きたら救われるとか、あるいは、キリスト教が伝えられなかった時代や地方の人たちは、信じようがなかったのだから別の道で救われているのだろうと考えたなら、このような確信はなかったと思います。実は、そのような考えほど危険なものはありません。私たち日本人の中には、ここに記されてあるような「このしか」とか「この方以外には」といった表現を、排他的だと言って嫌う傾向があります。私たち日本人は、あれも神、これも神、たぶん神、きっと神だと、どの神でも信じるなら救われるとか、広く人類を愛する博愛主義やヒューマニズムのあまり、あるいは人を滅ぼす神など信じられないといった神の愛へのめくらめっぽうな期待から、どんな人でも救われるのだという万人救済主義を唱える人が少なくありません。クリスチャンでも、ノンクリスチャンでも、結局は全人類が、あれやこれやの経路を経てみんな救われるというのです。もしそうだとしたら、どうして布教や伝道などをする必要があるでしょうか。
かつて私が福島にいた時、仏教系の新興宗教の道場でお話をさせていただいたことがあります。その宗教では毎月1のつく日を他宗教から学ぶ日としていたのです。そこでキリスト教からも学ぼうということで招いてくださったのでした。広い畳敷きの部屋に300人くらいの方が座って熱心に話を聞いてくださいました。話の後で、「皆さんの中でイエス様を信じたいと思われる方がおられますか。おられましたらその方のためにお祈りをさせていただきたいと思いますので、手をあげてくださいますか」と言いましたら、驚いたことに、何人かの方が手をあげられました。「では、その方のために祈りましょう」と言って祈りましたところ、すぐにその会堂の長と言われる方が来られ、必死に説得されました。「皆さん、いいお話でしたね。それぞれ信じている道は違っても、最終的に同じところに行きますから大丈夫ですよ。ほらこういう歌があるでしょう。『分け登る麓の道は多かれど、同じ高嶺の月を見るかな』この歌のように登る道は違っても、みんな同じ高嶺に行くんですよ」
これが日本人の宗教観なのです。どの宗教もみな同じ、大切なのは信じることだ。いやたとえ信じなくても、みんな同じ所に行くから大丈夫・・・と。しかし、聖書はそのように語ってはおりません。聖書が言っていることは、
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名は人には与えられていないからです。」
私たち人間が救われるべき名として与えられている名は、このイエス・キリストの名だけであるということです。最初の人間アダムは罪を犯したので、その末はみんな罪人なのです。その罪のゆえに、キリスト教が伝わっても伝わらなくても、私たち人間はみんな滅んで当然なのです。しかし、あわれみ豊かな神様は、そのあわれみによってご自身のひとり子イエス・キリストをお与えくださいました。このキリストのみ名だけが、例外的に、救いの道を開いてくださったのです。
ですから、私たちは一日も早くひとりでも多くの人が救われるために、この御名を宣べ伝えなければならないのです。「もし良かったら信じてください」という程度のものではなく、この御名によらなければ救われないことをはっきりと伝えなければならないのです。
かつて自分のおばあちゃんが亡くなったけど、そのおばあちゃんはいったいどこに行ってしまったのかを知りたいと教会に来られた方がおられました。その方は、おばあちゃんはイエス様を信じなかったけど、死んだらみんな同じところに行くと思う、と言われました。牧師さん、聖書には何と書いてあるのですかというのです。このような質問に応えることは本当に厳しさを感じます。その方の慰めのためならなるべくそうしたことには直接的には答えない方がいいのではないかという思いも沸いてきます。しかし、このことについて聖書ははっきりと言っているのです。
そこで私は、このように言いました。「私は、皆さんが言うような曖昧なことは言いたくありません。もし、あなたがそのことについて聖書を開き、聖書が何と言ってるのかを本当に知りたいと思うなら、今、いっしょに聖書を開いてみることができますが、どうなさいますか。」
すると彼女は言いました。「今の私には、それを受け止める余裕がないと思います。でも、キリスト教が日本でなかなか増えない理由がわかるような気がしました。このような教えを受け入れることは難しいと思います。」
それはあまりにも厳粛すぎるかもしれません。しかし、永遠に変わることのない聖書が、はっきりとそう告げているのです。大切なことは、この現実から目をそらして考えないようにするのではなく、聖書が言っているこのイエス・キリストを信じて、心に受け入れることなのです。
救世軍の創立者、ウィリアム・ブース(William Booth)が晩年、臨終を前に床に臥していたとき、子どもの一人が書類の入った封筒を持ってやってきました。「お父さん、どんなに大変でもお父さんの財産を整理するためには、この書類にサインをしなければならないのです」そこでブースはその書類にざっと目を通すと、かろうじてペンを持ちサインしました。そして書類を封筒に入れ、自ら封をしてこどもに渡しました。彼が世を去った後で、子供たちはその封筒を開き中に入っていた書類を見てびっくりしました。なぜなら、その書類には自分の名前ではなく、「イエス様が主です」と書いてあったからです。
彼が最後まで残したかった名は、イエス・キリストの名前でした。彼の全財産の所有者はイエス・キリストだと宣言したかったのです。最後の署名を通して彼が証ししたかったのは、イエス・キリストでした。このイエス・キリスト以外には救いはないからです。このイエスの名こそ、私たちが死ぬ前に呼ぶべき名であり、また死んでからも握りしめている名なのです。
あなたは、この御名を信じていますか。信じて救われているでしょうか。どうか、この御名を信じてください。そして、永遠のいのちを受け手ください。この方以外には、だれによっても救いはないからです。