使徒の働き4章13~22節 「大胆に語るために」

 きょうは「大胆に語るために」というタイトルでお話をしたいと思います。生まれつきの足なえをいやしたことで捕らえられ、ユダヤ教の最高議会であるサンヘドリンで、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問されると、ペテロとヨハネは聖霊に満たされて、それは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからですと、大胆に語りました。それを見た民の指導者たち、ならびに長老の方々はどんなに驚いたことでしょう。彼らが無学で、普通の人であるにもかかわらず、そのように大胆に語ったからです。このように、みことばを大胆に語るというのは、初代教会の特徴でした。4章29,30を見ると、彼らは「みことばを大胆に語らせてください」と祈ったとありますが、彼らはみことばを大胆にみ語ることができるようにと祈り、そして、それを実行しました。(13:46,14:3,18:26,19:8,26:26,28:31)

 いったいなぜ彼らはそんなに大胆に語ることができたのでしょうか。きょうは、そのことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、主イエスがともにおられたからです。彼らは自分たちの力によってではなく、イエスの力によって大胆に語ることが出来たのです。第二のことは、そこに救いの証拠がありました。ただ語っただけでなく、その語ったことばによって実際に今まで立てなかった人が立てるようになったり、それを見た人たちが神様をあがめるようになったということが実際に起こったのです。第三のことは、彼らはそれが神の前に正しいことであるという確信がありました。どんなに偉大な議会であっても、その命令に聞き従うことよりも、神に従うことの方が正しいことなのです。それで彼らは、自分たちの見たこと、聞いたことを、話さないわけにはいきませんでした。

 I.イエスとともにいた

 まず第一に彼らが大胆に語ることがてきたのは、彼らが主イエスとともにいたからです。13節をご覧くだい。

「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」

 ユダヤ教サンヘドリンは、ペテロとヨハネの大胆さを見て、とても驚きました。というのは、彼らが無学な、普通の人であるのに、大胆にイエスのことを宣べ伝えていたからです。この「無学で、普通の人」というのは、「文盲で、無知な人、字を書いたり、読んだりできない人」を意味する言葉ですが、C・H・ドットという新約学者が言っているように、これは「律法を専門的に学んだことのない人」を表していると考えた方が適当です。彼らはユダヤ教の教師であるラビの目から見たら、律法について特別な教育を受けたことがなく、律法の細かなことについてそれほど詳しく知っていた人々ではありませんでした。現代的に言えば「田舎者」といったところでしょう。そんな彼らが、普通ならおじけついてしまいそうな聴衆を前に、大胆に、また自由に語ったわけですからおどろいたのは当然です。いったい彼らはなぜそんなに大胆に語ることができたのでしょうか。ここには次ように記されてあります。

「ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た」

 これはいったいどういうことでしょうか。この「わかって来た」ということばは「認識した」という意味の言葉です。この時彼らは、使徒たちがイエスとともにいたという事実を認識した、理解したということです。すなわち、この時の使徒たちの大胆さは、このイエスから与えられたものであったということです。おそらく彼らは、使徒たちが大胆に語るのを見て、生前、イエスが同じように振る舞っていたのを思い出したのでしょう。ヨハネ7章15節を見ると、「ユダヤ人たちは驚いて言った。『この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか』」とあります。イエスが宮に上って教えておられるのを見て、ユダヤ教の律法の教師たちはとても驚いたのです。それと同じような態度がここに見られるのです。よく生徒はその教師に似てくると言われています。その教会の信徒さんが話すのを聞いていると、話し方がだんだんと牧師に似てくるのです。あるとき、私の教会の信徒さんがメッセージしているのを聞いていて、「何であんな話し方するんだろうね」と家内に言ったら、「あら、あなたもそうよ」と言われたのに驚いたことがあります。いつも一緒にいると、考え方や行動様式が似てくるということなのでしようか。同じように、使徒たちはイエスとともにいたので、イエスと同じように大胆に語ることができたのです。それは彼ら自身の力によったのではなく、イエスと深い関係にあった使徒たちが、聖霊の力によって語ったからなのです。私たちも同じです。私たちは弱くても、イエスは強いのです。イエスとともにいるならば、聖霊によってイエスが力を与えてくださり、大胆にみことばを語ることができるようにしてくださいます。

 イギリスにチャールズ・スポルジョンという有名な説教者がいました。彼の語る説教には力があり、多くの人たちが教会に集まっていました。しかし、ある聖日、彼は失望感に襲われました。説教の途中で口ごもっただけでなく、なぜかうろたえてしまったのです。彼は説教に失敗したという挫折感にさいなまれました。そこで帰宅の途中でひざまずき、祈りました。「主よ。ないものをあるもののようにされる主よ、私の力のない説教を祝福してください。」
 彼は一週間そのように祈り続けました。ある時は夜中に起きて祈った時もありました。そして、次の聖日にはすばらしい説教をして、失った自信を回復するという決心をしました。その祈りのとおり、次の日曜日にはすばらしい説教をすることができました。礼拝が終わると人々が押し寄せて来て熱烈に賞賛してくれました。満足して家に帰ったとき、彼はこう自分に問いかけました。「あれっ、ちょっと待てよ。失敗したと思った先週の説教の時には41人の人が回心したのに、あんなに賞賛されたきょうの説教では回心者がひとりもいなかったというのはどういうことか」彼の結論はこうでした。「私たちの弱さを助けてくださる聖霊の力がなくては何もすることができない」ということです。

 そうです、私たちは、私たちを助けてくださる聖霊の力がなければ何もすることができないのです。どんなに無力で、普通の人でも、イエスとともにおり、そのイエスの力を聖霊によって受けるとき、大胆にみことばを語ることができるようになるのです。あなたは自分が無学で、普通の人であることに失望してはいませんか。神はそのような人を用いられるのです。あなたが無学で、普通の人であることに感謝しましょう。なぜなら、弱い者、足りない者であるという自覚があるかにこそ、そういう人はもっと主により頼もうとするからです。そして主の力によって大胆にみことばを語ることができるようになるからです。

 Ⅱ.いやされた人が立っている

 彼らが大胆に語ることができた第二の理由は、そこにうごかぬ証拠があったことです。それは救われた事実、変えられた事実です。14節をご覧ください。

「そればかりではなく、いやされた人がふたりといっしょにいるのを見ては、返すことばもなかった。」

 議会におけるやりとりが、ただの議論の応酬だたけだったとしてら、ペテロたちは相手が相手だっただけに、やり込められていたかもしれません。しかし、最高の権威筋を向こうに回しながらも、一歩も引くことなく大胆に語ることができのは、美しの門でいやされた人がペテロとヨハネといっしょに立っていたからです。彼らの宣教にはこのような裏付けが伴っていたのです。そのような証拠を前に、さすがのサンヘドリンも何も言うことができませんでした。返すことばがなかったのです。21節を見ると「それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので」とありますように、この出来事を見た多くの者が、神をあがめるようになったという変化が起こったのです。

 教会がいくら「この方以外には、だれによっても救いはありません」と叫んでみても、そこに現実に救われる人がいて、その人たちが生き生きと喜びに輝いた生活をしているという事実がなければ、その伝道は弱々しく力がないものになってしまいます。しかし、実際に救われた人がそこにいて、喜びに満ちあふれているだけでなく、心から神をあがめるような生活を送っているのをみたら、その宣教は言葉以上に力があるのです。結局のところ、力のある伝道というのは、語った福音がその人の中で生きて働き、それによって救いに導かれたり、感謝に溢れた生活へと変えられるといった実証が伴うことによって裏付けられるのです。言い換えると、伝道は、説教者ひとりが叫んだところでは始まらないということです。それは救われた人みんなが、忠実な教会生活ときよい日常生活をもって説教者のそばに立たなくてはならないということです。

 よく「エホバの証人」の人たちのことを耳にすることがあります。小さいこどもをお連れして家々を訪問してはいるグループです。傍目で見る限り、ああいう人たちにはなりたくないと思っているのに、かなり多くの人たちがそこに入っていくのはどうしてでしょうか。それが真理だからではないのです。そうではなく、表面的にでも以前と違う自分に変えられたという体験があるからなのです。そのように人が変えられるということはそれが必ずしも正しいことを意味するものではありませんが、説得力が伴うのは確かです。エホバの証人の教えでさえそのように変えられるのであれば、まして福音によって救われ、真理を知るようになったクリスチャンによってもたらされる影響はどれほどのものがあるでしょう。この男の人はイエスの御名によって立ち上がることができました。そして、それをみた多くの人たちが神をあがめるようになった。それが復活したイエスが今も生きて働いておられるという動かすことのできない確固たる証拠でした。だからペテロとヨハネは大胆に語ることができたのです。

 アメリカにスティーブ・ライダーという有名な伝道者がおられますが、この方は救われる前に、銀行強盗で逮捕され、9ヶ月の間、独房に入れられたことがありました。彼は太陽を見ることができず、他の囚人とも完全に隔離されていたので何もすることがなく、ずっと聖書だけを読んでいたのです。その中で聖霊にとらえられ、イエスを救い主として信じました。しかし、9ヶ月後、彼は刑務所の本部に移されますが、そこで大きな試練を受けます。食べ物にガラスを混ぜられたり、いじめに遭ったりと、同じ収容者からさまざまな嫌がらせを受けるのです。彼は精神的にも肉体的にも限界を感じ、あるとき野球のバットで2人の囚人を傷つけてしまいました。彼は自分が本当に悪いことをしてしまったと思い、神様に悔い改て祈ります。「神様は、私は本当に悪いことをしました。」そのときです。独房の中で、はっきりと神様の声を聞くのです。「あなたは御霊に満たされる必要がある」彼は、刑務所の独房の中でひざまずきました。そして知らないうちに手をあげて「イエス様、どうぞ私をあなたの御霊で御霊で満たしてください」と祈りました。すると突然、御霊に満たしを体験しました。
 それからというもの、彼の生活はすっかり変わりました。キリストの愛が心にあふれ、大胆さが与えられて、福音を恥じることがなくなりました。そして刑務所の中でキリストの愛をもって人々に仕え始め、3週間のうちにこのイエスの愛と喜びを刑務所内の全部署に伝えました。聖霊の満たしを受けたことで、彼は大胆に福音を伝えることができるようになったのです。やがて、神様は刑務所長までも変えてくださいました。彼は模範囚として釈放されると、彼の全生涯を主にささげ、若者伝道に仕えるようになりました。主は彼を通して多くの奇跡や不思議をなさり、神のことばがさらに広まっていったのです。

 このような事実は、人を引きつけていくのです。たた語るのではなく、その語ったみことばが人を変えていくからです。私たちの伝道にもそのような裏付けというか、証拠が伴わないとその伝道には力がありません。そのためには、まず私たち自身がこの福音に生かされ、その恵みと力を体験する者でなければなりません。そうすることによって、この福音には人を変え、人を生かす力があることを知り、大胆にこれを語ることができるようになるのです。それは聞いている人が返すことばもないほど力のあることばとなるのです。

 Ⅲ.神の前に正しいこと

 第三のことは、それが神の前に正しいとこであるという確信があったことです。19,20節をご覧ください。

「ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。『神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。』」

 結局、返すことがなかったサンヘドリンの議員たちは、いったん彼らに退場を命じると、互いに協議しました。そして、その奇跡の事実を否定することができませんでしたが、これ以上この話が民の間に広がらないために、今後いっさいイエスの御名によって語ったり、教えたりしてはならない、と命じました。サンヘドリンにとって彼らがイエスの名によって語ることは、自分たちの立場が危うくなることだったからです。そこで彼らは自分たちが問われている責任の矛先を、ほかの人へと向けて、自分たちの責任逃れをしようとしたのです。とにかく、イエスの名によって語ったり、教えたりしてはいかん・・・と。

 それに対してペテロとヨハネは何と答えたでしょうか。彼らは次のように言いました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」これはものずこいことでした。当時、このサンヘドリンが言うことは、ユダヤ教の最高議会として、神の声を代弁していました。ですから、神を信じていたユダヤ人は、このサンヘドリンに服従することによって、神に服従しているとみなされていたのです。なのに彼らはそのサンヘドリンに聞き従うことと、神に聞き従うことでは、どちらが正しいか判断してほしいと彼らに訴えたのです。もちろん、サンヘドリンの決定に従うことは重要なことです。「人はみな、上に立つ権威に従うべき」だからです。「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられもの」(ローマ13:1)だからです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのであって、そのような人は自分の身にさばきを招くことになるのです。しかし、その上に立てられた権威が、神のみこころと違う場合があるのです。そういう場合はどうしたらいいのでしょうか。そういう場合は、あくまでも究極的な権威者であられる神に従わなければなりません。この場合はそうでした。神によって立てられたはずの神の権威であるサンヘドリンが、神のみこころとはちがった決定をし、それを彼らに要求してきたのです。そういう時にはたとえそれが上の権威であっても、あくまでも神に従わなければなりません。そこでペテロとヨハネは、神に従うことと、あなたがたに従うことの、どちらが神の前に正しいことなのか判断してほといと彼らに訴えたのです。そして、たとえその判断がどうであろうとも、神によってイエスの復活の証人になるように召された彼にとって、「自分たちの見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいかない」と言って、議会の禁令にもかかわらず、イエスの名によって語りつづけたのです。

 これは初代教会にとっても、最古参のペテロとヨハネにとっても、初めての経験でした。国の最高権力者から布教を禁じられたのです。私たちの国では宗教の自由が憲法で保障されていますから、こういうことはありませんが、憲法が制定される以前には、同じような困難に直面したことがあります。また、中国や共産主義国家では、今でも国に布教が禁じられているところもあります。そのような状況にもかかわらず、イエスの御名を宣べ伝えるということは、きわめて困難な大事業です。そうした中に立たされながらも、イエスの御名を宣べ伝けるために必要なことはいったい何なのでしょうか。これが神の前に正しいことであり、神のみこころであるという確信を持っていることです。この方以外にはだれによっても救いはありません。この御名のほかには、私たちが救われるべき名は人間に与えられていない。この御名こそ私たちが救われるべき名として、神が与えてくださった名であり、だれが何と言おうとも、これを伝えていくことが神のみこころなんだといった使命感を持たなければならないのです。ペテロたちは、そうした確信を持っていました。単なる彼らの思い込みによるものではなく、みことばによって裏付けられていたことでした。彼らはそのことをすでに主イエスの口を通してそのことを聞いていたのです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19,20)

 ですから、彼らはこのように主張することができたのです。まことに、私たちがどんな状況にあっても、たとえ迫害されるように脅されたり、あるいはどれほどの実績が伴わなくても、みことばを宣べ伝えていくのは、それが神のみこころだからなのです。伝道することが神の前に正しいことであり、神の願いとすることであり、私の義務であると信じることこそ、私たちが大胆にみことばを語っていくために必要なことなのです。

 パウロは、コリント第一の手紙9章16節で「もし福音を伝えなかったら、私はわざわいに会います」とまで言っています。なぜパウロはそのように言うことができたのでしょうか。それは召命感があったからです。神様が自分を福音宣教のために呼んでくださったという確信です。だからこそ、これはどうしてもしなければならないことだったのです。

 アメリカに、アルバート・マクマキンという、主をとっても愛した農夫がいました。彼はイエス様を信じたばかりなのに、伝道の情熱に燃え、いつもたくさんの人をトラックに乗せては伝道集会に連れて行きました。ところが、彼がどんなに誘っても、頑として応じない一人の友人がいました。その人は見るからにハンサムで、いろいろな女の子と恋愛を楽しむのに忙しくて、キリスト教などにはまるで関心がないかのようでした。しかし、1924年のある日、当時24歳だったマクマキンは、そのハンサムボーイに「悪いけどトラックに乗って集会場までうんてんしてくれないか」と頼むことで、彼を会場まで引っ張り出すことに成功しました。そのハンサムボーイは、会場の前で中に入るのを少しためらいましたが、不思議なことに中に入ることを決心しました。そして、まるで魔法にかけられたかのように、彼は新しい価値観に魅了されました。そしてその後も何度も集会に参加し続けて、ついにある日、招きに応えて人生をイエス・キリストに明け渡したのです。そのハンサムボーイこそ、20世紀最大の伝道者ビリー・グラハムでした。自分はビリー・グラムのような偉大な伝道者にはなれないかもしれませんが、アルバート・マクマインのような役割なら果たすことができるのではないでしょうか。しかし、それがビリー・グラハムであってもアルバート・マクマインであっても、そこに共通する確信があるのです。それは、この方以外にはだれによっても救いはないということ、そして、このすばらしい救いを紹介していくという使命が、自分たちに与えられているということです。

 それは私たちにも言えることなのです。すてのクリスチャンは、この使命が与えられています。これは私たちに対する神のみこころなのです。それがどういう方法であろうとも、私たちはこの確信に立つことが求められています。そのとき私たちも、ペテロやヨハネのように、ほかの人が何と言おうとも、自分たちが見たこと、聞いたことを話さないではいられなくなるのです。それが神のみこころ、神の願いだからです。