きょうは、初代教会の祈りからご一緒に学びたいと思います。生まれつき足のきかない男をいやしたことで、ペテロとヨハネはユダヤ教最高議会サンヘドリンでの尋問を受けました。結局、脅かされはしたものの、釈放されることになりました。釈放された二人は、仲間たちのところへ行って、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告しました。トーマス・マコーリという人は、「人のほんとうの性格というものは、その人が絶対に見つからないことがわかっている時に何をしようとするか、によって測られる」と言いましたが、ペテロたちが自由の身になったとき、彼らが自然に仲間たちのところへ行ったということは、彼らの生活の中に教会生活がしみついていて、空気や三度の食事をするように、それなしでは生きていけないほどの必需品になっていたということでしょう。
ところで、彼らが仲間の所へ行き、自分たちに起こったことを報告すると、彼らはいったいどういう態度を取ったでしょうか。24節を見ると、「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。」とあります。これは何を表しているかというと祈りです。彼らは「大変だったでしょう」といった慰めのことばをかけたり、「これからどうするか」といったことで協議したのではなく、反射的にとさえ言えるほど、また、だれからということもなく、いっせいにみなの口をそろえて祈りが出てきたのです。それほどに彼らは祈りというものが板についていたのです。きょうのところには、その祈りの内容が記されてあります。これまでも、初代教会はよく祈っていたということは見てきましたが、それがどのような祈りであったのかはそれほど詳しく記されてはいませんでした。そういう意味でこの箇所は、初代教会がどのように祈っていたのかを知るうえで、とても貴重な箇所だと言えると思います。それを学ぶことはとても興味深いことでもあります。いったい彼らはどのように祈っていたのでしょうか。
きょうはそのことについて三つのことをお話したいと思います。まず第一に彼らは、神様がどのような方であるのかを告白して祈りました。第二のことは、彼らが置かれていた迫害という状況がいったいどういうことなのかをみことばに照らし合わせて解釈し(受け止めて)告白しました。第三のことは、彼らはみことばを大胆に語らせてくださいと祈りました。それは彼らが、自分たちに与えられていた使命が何であるかを確信していたからです。
Ⅰ.神の主権を認める祈り
まず第一に、彼らは神がどのような方であるかを告白して祈りました。24節をご覧ください。
「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。『主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。」
ここで彼らは神に向かって、「主よ」と呼びかけました。この「主よ」という呼びかけは、普通祈りの時に神に呼びかけることばとは違う珍しいことばが使われています。普通、「主」を表す時はギリシャ語の「キュリオス」ということばを使いますが、ここで使っていることばは「デスポテース」ということばです。この「デスポテース」ということばは、英語の「Despot」の語源になったことばで、「専制君主」を意味することばです。すなわち、ここで彼らは自分たちの主を呼ぶとき、それは絶対的な主権を持った神であるという信仰を表していたのです。ですから、英語のRSVの訳では「Sovereign God」(主権者なる神よ)と訳しているのです。
それはその後に続く彼らの祈りからもわかります。彼らは「主よ」と叫んだ後で次のように言いました。「主よ。あなたは天と地と海とその中に住むすべてのものを造られた方です。」彼らは、自分たちの信じている神様が、この天と地と海とその中に住むすべてのものを造られ、人間の歴史を支配しそれを導いておられる方であり、その支配は今も同じように続いていると認めて祈ったのです。
いったい彼らはなぜこのように祈ったのでしょうか。それはこの時彼らが置かれていた状況を考えてもわかると思います。29節には、「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり・・・」とありますが、この時彼らは脅かされていたのです。ユダヤ教の最高議会に、今後だれもこの名によって語ってはならないとか、そんなことをしたらどうなるかわかってるだろうとか言われておどされていたのです。そのような脅かしの中で必要なことは何だったのでしょうか。そうした状況を見ないで、すべてを支配しておられる神に目を向けることでした。そのような脅かしの中にあっても、自分たちを支配しておられる方は絶対的な支配者であり、そうした出来事さえも支配しておられる方であると信じることが必要でした。そうすることで、大胆にみことばを語ることができたからです。
イエス様はは12人の弟子たちを宣教に遣わされるとき、次のように言って励まされました。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはいけません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているでしょう。そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(マタイ10:28~31)
私たちの置かれた状況を見たら、恐れと不安で足がすくんでしまうでしょう。大胆にみことばを語るなどということはできません。しかし重要なのは、そうした状況に目を留めるのではなく、神がどのような方であるかを思いめぐらすことです。問題を見るのではなく、神の偉大さを見つめることです。私たちの信じている神はこの天地万物を造られた全地の主であり、すべてを支配しておられる神であるということを覚えるとき、どんな状況にあってもそれを克服する力が与えられるからです。
このような初代教会への迫害は、ペテロとヨハネが生まれつきの足なえの男をいやしたことに端を発していますが、彼らが最初にその男を見たとき、何と言って立たせたのでしょうか。彼らはこのように言いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」(使徒3:6)このとき彼らが言ったことばをよく聞いていただきたいのです。彼らは、自分たちには金銀はないけど、自分たちにあるものをあげようと言いました。それは、この天と地と海とその中に住むいっさいのものを造られた全能の神であり、死からよみがえられた復活の主です。今も生きて働きこの歴史を支配しておられる方を見なさいと言ったのです。彼らは自分たちにそのような力があるから、それに期待しなさいとはいいませんでした。私の中におられるイエス・キリストを見てくださいと言ったのです。私たちに必要なのはこのような信仰です。つまり、パウロが言ったように、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)と信じることです。
アメリカにロバート・シューラーという牧師がいらっしゃいますが、この方の娘のキャロルさんは、若い時オートバイ事故で大けがをされました。全身を打ち、骨折し、めちゃめちゃな状態になりました。七ヶ月間入院して、治療しましたが、結局、片方の足は膝の下から切断し、義足を余儀なくされました。しかし、義足だからということで、好きなことをやめたりしませんでした。もともとスポーツが大好きだった彼女は、以前から所属していたソフトボールのチームに戻りました。30°の角度までしかひざを曲げられない状態で、歩くのもままならないのにどうやって走るのかと両親は心配したのですが、そんな両親に彼女は、「もしホームランを打ったら、走らなくてすむでしょう」というと、本当にホームランを打ったのです。
また、彼女は足を切断して6回もの手術を受けましたが、スキーも始めました。そして、資格検定レースで金メダルを取るという目標を掲げると、1983年3月に、18歳の若さでその目標を達成しました。
彼女は、いったいどうしてそんなことがなしえたのでしょうか。ある時、ハワイ諸島を巡る一週間の船旅の出たときです。その船旅では最後の夜に、恒例のタレントショーが開かれることになっていました。乗客はだれでも参加することがてぎました。そのショーにキャロルさんは参加することになりました。大きく飾られたカクテル・ラウンジのステージの上に立ったキャロルさんは、くるぶしまでのロングドレスに身を包み、マイクのところまで歩いて来ると、そこで話し始めました。
「わたしは、実のところ、自分にどんなタレントがあるのかわかりませんが、今夜のタレントショーは、皆様に対してどうしてもしなければならないことをするよい機会だと思いました。それは一つの説明です。この一週間、皆様は、私が義足を付けているのを見て不思議に思われたことと思います。それで何があったのかをお話すべきだと思いました。
私は、オートバイ事故に遭い、死にかけたのです。でも、お医者様が輸血してくださったので、脈がまた打ち始めました。お医者様は、私の足をひざの下から切断し、あとになって、ひざの真ん中から切断しました。七ヶ月、病院生活を送りました。その間、ずっと抗生物質を静脈に注射しながら、感染症と闘いました」そのとき、キャロルさんは一呼吸おいて、また続けました。
「私に才能が一つだけあるとしたら、それは、あの病院生活の間に、私にとって信仰が本当に現実のものとなったということです」
「私は、びっこなんかひかないで歩いている女の子を見ると、あんなふうに歩けたらいいなぁと思います。でも、私はあることを学びました。それを皆様にお伝えしたいと思います。それは、大切なのはどんなふうに歩くかではないということです。大切なのはだれがあなたとともに歩くのか、そして、あなたはだれとともに歩くのかである、ということです」
そこで彼女はことばを切り、こう続けました。
「わたしの友、イエス。キリストについての歌を歌いたいと思います。」
主はわたしとともに歩み、
わたしと語り、
わたしを愛す
祈りのひととき
分かち合う
新しい喜び・・・
大切なのはだれとともに歩くのかということです。もしあなたがこの天地を造り、今も生きておられる全能の主イエス・キリストともに生きるなら、たとえ人には不可能に見えることでも、神には不可能なことはないのです。
問題は、みんな同じようにやってきます。しかし、そのような問題の中で、私たちがどこに目を向けるのか、何を見つめて生きるのかが問われているのです。初代教会の人たちは、激しい迫害や脅かしの中にあっても、この天地を創造され、すべてを支配しておられる神が生きて働いておられることを認めて祈ったのです。
Ⅱ.みこころを確信する祈り
すなわち第二のことは、そのようなことでさえ神の御手の中にあるということです。25~28節までをご覧ください。
「あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。
『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。地の王たちは立ちあがり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人はイスラエルの民といっしょに、あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました。」
このところで教会は、詩篇2篇のことばを引用して祈っています。いったい彼らはなぜこのように祈ったのでしょうか。それは、彼らが自分たちの直面している迫害の意味を、この詩篇のみことばの中に見出したからです。つまり、自分たちが受けている迫害は、何か思いがけない、突拍子な出来事ではなく、旧約の時代のずっと昔から預言されていたことであったということです。それがこのみことばでした。その頂点として具体的な形で現れたのがあの十字架であったと、彼らは悟ったのです。それが27節に書いてあることです。すなわち、神に反逆して立ち上がる地の王たちの代表にヘロデの名をあげ、「主とキリストに反抗して、一つに組んだ」指導者たちの代表としてポンテオ・ピラトをあげ、彼らが異邦人やイスラエルの民といっしょに、神が油を注がれた聖なるしもべを十字架につけて殺したというのです。しかし、それはずっと昔から神によって定められていた神の計画であったというのです。
であれば、イエスに従い、イエスの十字架を伝えようとする人たちに迫害は付きものであります。イエスは、ヨハネ15章18~20節で次のように言われました。
「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。かし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。しもべはその主人にまさるものではない、とわたしが言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったら、あなたがたのことばも守ります。」
ですから、彼らは「迫害をやめさせてください」とか、「迫害に遭わないようにしてください」というような祈りはしませんでした。むしろ、「彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」と祈ることができたのです。それは彼らが、そうした迫害もまた神の計画の中に位置付けられているのだということを、みことばによって確信していたからなのです。
しかし、それは迫害だけでなく、私たちの人生のすべてにおいて言えることではないでしょうか。私たちの人生には突然にして、穴が開くような出来事が起こります。思いがけないような出来事に遭遇することがあるのです。「突然病気になった、入院しなければならない」とか、「事故に遭ってしまった」、「会社が倒産した」、「会社は大丈夫だけれども、私が失業した」あるいは、「愛する人を突然亡くした」というようなことです。人生には思いがけなくポッカリと穴が開くことが起こります。そんな時に、いったいどうしたらいいのでしょうか。だいたい人は、次の三つの対応を取ります。
第一に、その穴をじっと見て、嘆き悲しんで人生を送るという反応です。「どうして私の人生にこんなことが起こってしまったんだろう。ああなんて私はかわいそうな人間なんだろう」と、ずっとそれを見ながら、それを引きずって人生を過ごすのです。
第二は、その穴を直視しないようにすることです。それを見ないようにして生きるのです。「そういうことはなかったことにしよう。考えても解決がないから・・・」というふうに。こういうのを現実逃避と言います。
第三は、その穴をしっかりと見て、その穴が開かなかったら決して見ることのできなかった新しい世界を、見出していくのです。これこそが、すべてが神の御手の中にあると受け止めて生きる積極的な人生の生き方だと思います。
社会心理学者の斉藤勇先生が、このようなことを言っておられます。「現代の心理学で大切なポイントは、『気づく』ということだ。『気づき』、これこそ、最も重要なキーポイントである。どんな絶望的な状況の中にも、必ず希望がある。どんなピンチの中にも、必ずチャンスがある。それに気づくことが大切である。『気づく』ことがキーワードだ。」
シドニーオリンピックでアメリカ選手団の旗手を務めたのは、ほとんどの人が知らない無名の人でした。クリフ・メイデルという人です。あの選手団の中にはスーパースターと言われるような人たちがずらっといたのに、そういう人を押しのけて、彼が旗手に選ばれたのです。。
彼が出場した競技はカヌーです。競技時代がマイナーな感じがします。ですから、彼の名前を知っている人でさえ、ほとんどいませんでした。なのにいったいなぜ彼が選ばれたのでしょうか。
実は、彼は特殊な体験をしたことがあります。二十歳の頃配管工の見習いの仕事をしていましたが、作業中に誤って、3万ボルトの高圧線に接触してしまったのです。そして、そのショックで全身が麻痺してしまいました。彼はその時、サッカーの選手でしたが、下半身がやられてしまったので、プレーの出来ない体になってしまったのです。でも、彼はスポーツをあきらめることができませんでした。ですから、一生懸命にリハビリをした結果、上半身が回復しました。
そこで彼は考えました。「上半身だけでできるスポーツはないだろうか。そして、彼はカヌーを選びました。一生懸命にトレーニングに励み、とうとうアメリカの代表選手に選ばれるまでになりました。実は、彼はその前のアトランタオリンピックでも選ばれていました。アメリカ選手団は、シドニー五輪で彼を旗手に選んだのです。彼は、自分の人生の中で出来た穴をしっかりとみながら、その中で自分にできることはないだろうかと考えた結果、そのように導かれたのです。
私たちの人生にはいろいろなことが起こりますが、そうした出来事の一つ一つを神様の御手の中でとらえ、その意味を見出していくとき、そこにちょっとした気づきが与えられていくのです。まさに初代教会はそうでした。彼らは自分たちが直面している迫害や脅かしという状況を、神のみことばの中でとらえ、その意味を見出していきました。そのとき、そうした迫害が単に自分たちを苦しめているものではなく、ずっと昔から神を愛する者たちに与えられるものとして示されていた神のみこころであると悟ることができ、むしろ大胆にみことばを語らせてくださいと祈ることができたのです。
Ⅲ.使命を確信する祈り
第三に彼らは、使命を確信して祈りました。29~30節をご覧ください。
「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしると不思議なわざを行わせてください。」
彼らは、「迫害をやめさせてください」とか、「迫害から守ってください」とは祈りませんでした。彼らはここで、二つのことを祈りました。第一に、彼らの脅かしをご覧になってくださいということです。迫害や脅かしの中に、彼らの知らない神の深いご計画があるのですから、その本当の意味を知っておられる主が、そうした脅かしを見てくださればそれで十分なのです。
子どもはしばしば理不尽なやり方で、いじめられるということがあります。自分は正しいことをしているのに、ずるい子どもがずるいやり方で、いじめるということがあるのです。そんなとき、たとい自分は正しいことをしていると思っても、自分ひとりだけでは心細いものです。そのくやしさは耐え難いほどのものがあるでしょう。しかしその一部始終を、親にしろ、先生にしろ、じっと見てくれる人がいるとき、その子どもはそれに耐えることができるのです。それとちょうど同じです。神が目を留めてくださり、ご自分の御旨の実現のために、摂理の御手をもってすべてを導いてくださるならば、それで満足なのです。
もう一つの祈りは、「あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください」というものでした。どのようにでしょうか。「御手を伸ばしてしるしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御なよって、しるしと不思議なわざを行」うことによってです。今し方彼らは、美しの門で生まれながらの足なえをいやしたことで捕らえられ、「今後だれもこの名によって語ってはならない」と厳命されていたにもかかわらずです。そんなことをしたら、また次々と迫害や脅迫が起こることが目に見えていたのに、そんなことは彼らの眼中になく、彼らはこのように大胆に祈ったのです。いったい彼らはなぜこのように祈ったのでしょうか。
それは、それは彼らが自分たちに与えられていた使命がどんなものであるのかをよく知っていたからです。彼らは安全で、平安な人生を求める代わりに、使命を全うすることを願いしました。ただ生きておられる神のみことばを証することにすべての望みを置いたのです。それはイエス様も同じでした。イエス様はさまざまな迫害と脅かしの中でも、屈することなく、大胆にみことばを伝えました。なぜなら、そのために遣わされていたからです。ルカの福音書4章43節には、イエス様が寂しいところに行かれ、そこでひとり静かに祈っているのを見つけた弟子たちが、何とか自分から離れないように引き止めておこうとしたとき、次のように言われたことが記録されています。
「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされているのだから。」
イエス様はご自分がこの世に遣わされた目的を明確に知っておられました。それは神の国を宣べ伝えることです。イエス様はそのために遣わされてきたのです。そのイエスは、私たちにも同じようにすることを願っておられます。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人を弟子としなさい。 そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19~20)
これが神のみこころなのです。ですから、彼らはみことばを大胆に語らせてくださいと祈ったのです。
彼らがそのように祈るとどんなことが起こったでしょうか。彼らがそのように祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出しました。神が、昔、シナイ山を震わせたように、彼らが集まっていた場所を揺るがせました。それは神の臨在の顕著な現れでした。山々ならぬ祈りの部屋が、神の臨在で満たされたのです。その結果、彼らは聖霊に満たされ、大胆に神のみことばを語ることができました。彼らが命の危険に身をさらされながらも、このように大胆にみことばを語ることができたのは、彼らの持ち前の勇気や力によったのではなく、彼らのこうした祈りが答えられ、聖霊に満たされたからだったのです。祈って聖霊に満たされること、これこそ、神のみことばを大胆に語るために必要な絶対的な条件なのです。
初代教会は、このように祈りました。まず神の主権を認め、神は目には見えなくとも、すべてを支配しておられる方であり、この歴史の背後で働いておられる方であると信じました。そればかりでなく、彼らが受けている迫害や脅かしでさえ、実は、そうした神の深いご計画のよるのであり、神がみこころのうちに進めておられるのです。であれば、何を臆する必要があるでしょうか。私たちに必要なことは、神のみこころに従って大胆にみことばを語ることです。それが神のみこころだからです。私たちがその使命に立って、聖霊に満たされるように祈るなら、神が共にいてくださり、ご自身の聖霊で満たしてくださるのです。私たちに必要な祈りは、そのような祈りなのです。単に迫害から守ってくださいというのではなく、そうした迫害の中にあっても、大胆にみことばを語ることができるように、そして、神の栄光が現されるようにと、祈ることが求められているのです。
パウロは、「私たちは、四方八方ら苦しめられていますが、窮することはありません。途方に暮れていますが、行き詰まることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」(Ⅱコリント3:8~10)と言いましたが、私たちも同じです。四方八方から苦しめられることはあっても、窮することはなく、途方に暮れるようなことがあっても、行き詰まることはなく、迫害されていても、見捨てられることはありません。倒されても滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが明らかに示されるためなのです。私たちも、私たちの身において、イエスのいのちが明らかに示されることを求めていきたいものです。そのために、聖霊に満たされ、大胆にみことばを語ることができるように祈りたいと思います。