使徒の働き5章17~32節 「いのちのことばをことごとく語れ」

 きょうは、17節のところから「いのちのことばをことごとく語れ」というタイトルでお話したいと思います。先週まで私たちは、教会の内部に起こった初めての罪と、そのさばきについて学びました。教会が神を恐れて生きるとき、そこに神の聖さが現れることによって、人々の間に非常な恐れが生じ、主を信じる人たちがますます増えていきました。また、多くのしるしと不思議なわざによって、教会が地域のニーズに応えていくことによっても、教会はますます成長していきました。それは28節にあるように、エルサレム中に広まっていった、氾濫していったほどです。
 しかし、教会がそのように発展していきますと、それを快く思わない人たちもいて、そのような人たちによって迫害が生じてきました。この迫害は二度目の迫害ですが、前の時にはペテロとヨハネだけが捕らえられたのに対して、今度は使徒たち全員が捕らえられたという点で、いっそう危険なものでした。
 ところが、神様は主の使いを使わして、奇跡的に彼らを救出されました。そして言われたことがこうです。20節、

「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをことごとく語りなさい。」

 きょうは、この主の使いが言われた「いのちのことばをことごとく語れ」ということについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、それは神の命令であるということです。彼らが牢獄から救い出されたのは、彼らがこのいのちのことばを語るためでした。第二のことは、このいのちのことばを語ることは神のみこころであるということです。第三のことは、聖霊があかししてくださるということです。

 Ⅰ.いのちのことばをことごとく語りなさい

 まず第一に、これは神の命令であるということです。もう一度17~20節までのところをご覧ください。

「そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕らえ、留置場に入れた。ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、『行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい』と言った。」

 大祭司とその仲間たちが使徒たちを捕らえ、留置場に入れたのはこれが二度目です。一度目は4章2、3節にあるように、ペテロとヨハネがイエスのことを例にあげ死者の復活を宣べ伝えているのに困り果てた彼らが、使徒たちを捕らえて投獄しましたが、今度は、大勢の人々が使徒たちのところに集まって来て、彼らを捕らえて留置場に入れました。なぜかというと、ねたみに燃えていたからです。使徒たちが多くのしるしと不思議なわざを行ったことで、信じる人たちがどんどんと出て来たために、ねたんだのです。ねたみというのは、正当な理由から起こってくるものではなく、ある人があまりにもうまくいっているとき、それに対して沸いてくる感情です。ですから、これは利己的な思いの一つの表れであると言えるでしょう。ほかの人の成功を喜ぶことができないわけですから。そこには自分さえよければいいといった利己的な思いがあるからこそ、こうしたねたみが沸いてくるのです。で、こうした思いというのは罪人の私たちは多かれ少なかれ抱くものです。人と自分を比較する中で、自分が尊ばれればうれしいものを、そうでないと極端に落ち込んでしまうというのもまたこの心の表れでもあります。ところが、こうしたねたみがあまりにもひどくなりますと、ねたむ相手を陥れたり、傷つけたりといったことに発展しかねません。人間の罪の恐ろしさというものを、まざまざと見せつけられるようです。この場合も同様で、使徒たちの働きには何の問題もありませんでした。問題どころか、彼らは人々の悩みや苦しみを解決し、救おうとしていたわけですから、すばらしいことをしていたのです。問題は、そうしたことで自分の立場が脅かされるのではないかと心配した大祭司をはじめ、サドカイ派の人々の自己保身的な態度でした。

 ところが、神様は主の使いを遣わし、彼らを救出されました。この「主の使い」というのは、天使でも人間でも、神に用いられる使者を表すことばであることから、ある人たちはこれを牢獄の役人の関係者の中に、使徒たちに対して同情する人たちがいて、彼らを助け出したのだと言う人もいますが、そういうことではありません。なぜなら、23節のところには「獄舎は完全にしまっており、番人たちが戸口に立っていましたが、あけてみると、中にはだれもいませんでした。」とあるように、これはどうみても奇跡を行う天使の超自然的なわざであったと言えるからです。神様は天使を遣わして、牢獄にいた使徒たちを助け出されたのです。
それにしても、使徒たちの中でペテロとヨハネは以前も捕らえられたことがありましたが、その時にはこのような奇跡は行われませんでした。これから後、使徒たちが捕らえられることがあっても、いつも天使が助けてくれるとも限りません。そういう意味で、この時は特別であったと言えるでしょう。いったい神様はなぜ天使を遣わして彼らを助け出されたのでしょうか。その理由は20節にある天使のことばにあります。

「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」 
 それは、行って、人々にこのいのちのことばを語るためでした。「いのちのことば」とは、Iテサロニケ2章13節に「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」とあるように、生きていて、私たちのうちに働き続けることばです。また信じる人にいのちを与えることばです。聖書は神のことばであり、信じるひとりひとりにいのちを与えることばなのです。このことばを部分的にではなく、ことごとく語らなければなりません。この段階ではそれがまだ一部分しか語られていませんでした。そういう状態で使徒たちが逮捕されればどういうことになるでしょうか。そうした働きがが途中で挫折することになってしまいます。神様はそのことに我慢できませんでした。ですから、天使を送って、奇跡的に彼らを救い出せたのです。

 ですから、21節を見てください。主の使いによって牢から救い出された使徒たちは何をしたかというと、夜明け頃宮に入って行って教え始めたのです。なぜ宮に行ったのでしょうか。そこにはほかの信者たちがいたからです。そこでこのみことばが語られなければなりませんでした。そのことばがことごとく語られることによって、養われていく必要があったからです。また、当時は宮は大ぜいの敬虔な市民たちがやってくる、かっこうの伝道の場所でしたから、そこでいのちのことばを語ることが、救いを得させる絶好の機会でもあったのです。

 しかし、彼らが宮に行ったのは夜明けのことでした。そんな早い時間に行ったって、いったいだれがいるというのでしょう。しかし、21節を見ると「教え始めた」とありますから、そこにはすでに何人かの人が集まっていいたことがわかります。当時の教会の気迫みたいなものを感じます。そういう人たちに向かって、彼らはこのいのちのことばを語ったのです。

 人々の中には、この時せっかく救い出されても、また捕らえられてしまうのだから、こんなことをしても意味がない、無駄だと思われる方もいるかもしれませんが、そうではありません。いつ捕まるかわからないといった緊迫した状況にあっても、このようにいのちのことばをことごとく語ることによって伝道と教育が成されていくことはとても大切なことなのです。パウロは、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Ⅱテモテ4:2)と言っていますが、このようにどんな時でも、その与えられた時間と機会を用いて伝道していくなら、そのところに神様は働いてくださり、大いなるみわざを成してくださるのです。

 Ⅱ列王記5章には、アラムの王の将軍ナアマンが、悩んでいたツァラートという皮膚病がいやされたことが記されてありますが、彼がそのように救いに導かれたのはどうしてかというと、かつてアラムがイスラエルに勝利したとき、そこで捕らえて連れて来たひとりの若い娘がふと口にしたことばがきっかけでした。彼女は主人ナアマンの病を見て、「もしご主人様がサマリヤにいる預言者のところへ行かれたら、きっと、あの方がご主人様のツァラートを直してくださるでしょうに」とその女主人に告げたのです。そのサマリヤにいる預言者こそ神の人エリシャでした。彼は早速、イスラエルの王に手紙を書き、多くの金銀と晴れ着を持って出かけて行きました。そして、エリシャのことばに従ってヨルダン川で七度身を洗うことによってきよめられました。そのきっかけはあの若い娘のふとした一言だったのです。

 私たちのふとした一言が、もしかすると人々にいのちがもたらされていくきっかけとなるかもしれません。いや、必ずなるのです。自分にはとてもいのちのことばを語るなどといった大それたことなどできない言う方でも、「あの方のところに行けばきっと・・・」と言うことはできるでしょう。「教会に来られたら、きっと・・・」ということはできるのです。それはふとしたきっかけから生まれてくるものです。もしかしたら、また捕まるかもしれないといった中にあっても、そうした時間を、そうした機会を用いて語ることは、とても大切なことなのです。神様はこのいのちのことばをことごとく語ることを私たちに求めておられる。この天使による救出劇は、そのことを私たちに教えるためだったのです。

 Ⅱ.人に従うより、神に従うべきです

 第二のことは、そのように語ることは神のみこころであるということです。27~29節までをご覧ください。

「彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただしい、言った。『あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。』ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。『人に従うより、神に従うべきです。』」

 使徒たちが宮に入って教え始めると、大祭司とその仲間たちは、議会を招集しました。そして、使徒たちを引き出して、そこで裁判にかけようとしたのです。ところが、役人たちが行ってみると、牢の中には使徒たちはおらず、しかも獄舎にはしっかりとかぎがかけてあり、戸口には番人たちがちゃんと立っていたのです。この報告を聞いた宮の守衛長や祭司長たちは、いったいこれはどういうことかと当惑しました。
 そこへある人々がやって来て、使徒たちが今、宮で人々に教えていることを告げました。それを聞いた宮の守衛長は役人たちと行って、使徒たちを連れてきました。しかし、彼らは自分たちを困らせた使徒たちに何一つ手荒なことはできませんでした。そんなことをしたら、今度は自分たちが石で打ち殺されるのではないかと思ったからです。

 議会に連れて来た使徒たちに対して大祭司は、二つのことについて彼らを問い正しました。一つは、あの名によって教えてはならないと命じておいのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えが広まってしまったではないかということです。つまり、第一回目の迫害のときに命じておいた布教禁止命令に違反したという罪です。そしてもう一つのことは、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているということです。「あの人」とはイエスのことです。イエスを処刑するように総督ピラトに請うたとき、当局者はエルサレム市民をそそのかして、こう言いました。
「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」マタイ27:25)
 使徒たちはいま、あの罪を当局者なすりつけようとしているというのです。一方は、権威者への禁令への違反罪、もう一方は、権威者への責任転嫁の罪という形で、共に、権威者に反抗しているというのが、彼らの訴えの中心でした。

 それに対して、ペテロを中心とする使徒たちは、あざやかにこれらの非難を覆します。まず権威者に対する違反という罪の責めに対しては、「人に従うより、神に従うべきです」と言って、その正当性を主張しました。このペテロの答えは、権威とは何かということについての正しい解答であったと言えるでしょう。というのは、人が権威を持っているのは、その人がどれだけ高い地位にあるかとか、その人の振る舞いがどんなに地位が高い人のようであるかというような外的な理由によるものではなく、その人に権威を与えておられるところの神によるからです。家庭における両親であろうと、国家における首長であろうと、そうした人たちに権威があるのは神が立ててくださったからであり、神が権威を与えてくださったからなのです。ですから、究極的な権威はどこかにあるのかといったら神にであって、もしその人が神のみこころにかなわないことを命じるようなときには、その人に従うことを拒絶し、神に従うことを最優先にしなければならないのです。ペテロがここで言ってることは、そういうことです。今、ユダヤ教当局者は、明らかに神のみこころに反することを命じています。あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ・・・というのが、神のみこころにかなったことなのでしょうか?いいえ、神のみこころはあの名によって語ることです。この教えを広めることなのです。

「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19,20)
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2)
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(Iペテロ2:4)

 このように、神のことばである聖書は、私たちがこの名を宣べ伝えることを望んでおられるのであって、それは神のみこころなのです。それを禁止するようなことがあったとしたら、それこそ神のみこころではなく、そこにはすでに神の権威はないと言えるのです。であれば、このことばが適用されるてしょう。「人に従うよりも、神に従うべきです」私たちがいのちのことばを語るのはそれが正しいことだからであり、神のみこころだからなのです。人が何と言っても、これはどうしてもしなければならないことなのです。私たちが語るときにはいつも、この確信に立っていなければなりません。 

 中国には今、1億人とも1億5千万人とも言われるクリスチャンがいるますが、その多くは「家の教会」と呼ばれるグループに属する人たちです。1949年、中国に共産主義革命が起こると、政府の指導で三自愛運動が始まりました。三自愛運動とは、自給、自治、自伝をスローガンにしたものですが、その実態は共産党によるキリスト教のコントロールでした。その時に約6,000人いた宣教師たちは海外に追放され、教会も共産党の指導に従うグループと、あくまでもキリストだけを教会のかしらとするグループ、すなわち、三自愛運動に加わらないグループとに分かれました。そして、三自愛運動に加わらないグループの教会や指導者には激しい弾圧が加えられるようになりました。
 最近、そのグループに加わらないで、キリストだけをかしらとして仕えている方からお便りをいただきました。あと10日で訓練が終わろうとしていたとき、公安が突然入って来たのです。訓練生たちはちょうど夜の自習が始まる時間だったので、そのほとんどは教室にいて鍵をかけて静かにしていたので、まだ教室に行っていなかった3名の兄弟以外は発見されることがありませんでした。しかし、その3名とひとりの指導者は、公安局へと連れて行かれました。
 公安に連れて行かれると、「どうしてここに来たのか」とか、「派遣団体はどこか」といった質問を受けましたが、そんなことを言ったら他の人たちが捕らえられることになりますから、言えないわけです。結局、最後に局長が一言、「あなたたちのしていることは非法なので、宗教局に行って手続きをしてからするように」と言われただけでした。しかし、そんなことをしたら国の監視下におかれてしまいますからどうしてもできないわけです。人に従うよりも、神に従うことの方が大切だからです。
 帰りのパトカーの中で、その局長が賛美歌を1冊欲しいというので、喜んで承諾し、「イエス様があなたを愛しておられ、あなたを暗闇の権力から離れさせ、光の御音に入れてくださる」という賛美歌を歌ってあげると、「いい歌だねえ」と言うので、「悪いことをする人たちに、賛美歌を聴かせてあげれば、心が変えられると思います。彼らは心が渇いているから悪いことに走ってしまうんですよ。でももし心が満たされていれば、少しずつ変わるはずです。」と言うと、パトカーを運転していた別の警官がこう言ったそうです。
「悪い人たちどころか、私たちも含めてほとんどの人々がこういう良い歌を知らないんだ。」 
 訓練所に着いてから、局長に賛美歌と聖書を手渡し、映画「炎のランナー」の主人公であったエリック・リデルの生涯が紹介されてあるビデオをプレゼントすると、とても喜んで受け入れてくれたそうです。人に従うよりも、神に従うべきです。人の目には愚かなことのように見えても、神は完全な方であり、最善を成してくださるからです。

 かつてダビデが神の箱を自分の家に運び入れようとしたとき、神の箱をにない棒で肩に担いだという箇所があります。(I列王記15:15)いったいなぜそんな面倒くさいことをしたのでしょうか。モーセが主の命令に従ってそのように命じていたからです。ダビデは本当に細かいことですが、自分の考えや人の考えによってではなく、神の考え、神の教えに従って生きたのです。
 私たちの人生も同じです。私たちの人生の中で私たちを倒すのは、そのような小さなものなのです。私たちはにない棒を得るために準備したり、にない棒を肩に担ごうとする労苦をしたがりません。そんなことをするより、車を利用した方が簡単だからです。しかしそれは神の考えではなく、自分の考えです。ダビデは神が重要であると思われることを重要視しました。人に従うよりも、自分に従うよりも、神に従うことを選んだのです。神が何と言われるのか、神に従うことを重要視してください。そうすれば、神が確かに導いてくださるのです。こうして神のことばをことごとく語るということは、神に従うことであり、神が望んでおられることなのです。

 Ⅲ.聖霊があかししてくださる

 最後に、聖霊があかししてくださるということを見たいと思います。30~32節をご覧ください。

「私たちの父祖たちの神は、あなたがたを十字架にかけて殺したイエスをねよみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

 あの名によって教えてはならないときびしく命じておいのに、何ということだという大祭司の責めに対してペテロは、人に従うよりも、神に従うべきだと答えてその正当性を主張しましたが、もう一つの、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているという権威者への責任転嫁という責めに対して、ペテロはここで弁論しています。すなわち、「私たちの父祖の神は、あなたがたが十字架につけて殺したイエスをよみがえせました。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主としてご自分の右にあげられたました」というのです。「十字架につける」とは「木にかける」ということです。旧約聖書で「木にかける」というのはのろわれた罪人の死刑として定められていたものですから、ユダヤ教の当局者はイエスをのろわれた者として木にかけて殺したということになります。しかし、神の下した判定は彼らの判決とは全く違うものでした。神はこのイエスを死からよみがえらせ、ご自分の右の座に上げられるという二重のほまれをもって祝福されたからです。ここにも、禁止令を守れというユダヤ当局者の権威よりも、神の権威に従わなければならないという明瞭な根拠があるのです。
 
 しかし、このように神がイエスを死者の中からよみかせえらせご自分の右の座に着かせられたということは、ただイスラエルの彼らの間違いを暴露するためではありませんでした。それはここに記されてあるように、このイエスを君とし、救い主とするためであり、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるためだったのです。ユダヤ教の指導者たちに責任を転嫁するどころか、初めから彼らに責任があったことを認め、悔い改め、罪の赦しを得ることを、神が願っておられたからなのです。

 それは彼らだけに限ったことではなく、私たちも同じでした。私たちもかつては神をのろいイエスがだれなのかもわからなかったために軽んじていました。神の権威よりも自分の考えやこの世の権威者に従って生きていたのです。そういう無神論的な考え方や反キリスト教的な生き方がおかしいということに気づき、それを改めようとしても、なかなかできるわけではありません。「悔い改め」も「罪の赦しも」、実は、神が与えてくださる賜物としてだけ私たちの身に起こるのです。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」(Iコリント12:3)とある通りです。ですから、伝道というのは、ただイエスの復活と昇天の歴史的事実を論証して、相手の知性を論破することではないのです。では、キリスト教の伝道というのはどういうことなのか。それが最後の32節に記してあるのです。ご一緒に読んでみたいと思います。

「私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

 ここには、私たち自身が、神の右に上げられた救い主イエス・キリストによって、悔い改めに基づく罪の赦しと永遠のいのちを与えられた実物見本つまり証人であり、この方を信じるすべての人に与えられる聖霊もそのことの証人なのです。いや、究極的にはこの聖霊様こそそのことの証人であられるのです。ですから、伝道というのは、人にではなく神に従うように新しく生まれ変わった、すべてのクリスチャンの生活全体を用いて自己表現しておられる聖霊のわざ、証言であるということなのです。聖霊様が私たちを集めてくださり、救いのみわざをなさり、聖徒の交わりを聖め、四六時中いつでも私たちの生活とことばを、いのちのことばを伝える器として用いておられるということです。

 であれば、私たちは目先のことに一喜一憂しないで、聖霊様がなさるみわざに期待しようではありませんか。ここに記されてあるような使徒たちの驚くべき力強い働きが今日も同じように起こるかどうかわかりませんが、どういう形であれ聖霊様は今日も生きて働いておられることを信じ、その証人としての務めを忠実に果たす者でありたいと思います。私たちに与えてられている使命は、このいのちのことばをことごとく語るということです。これが神のみこころです。このみこころに従って生きていくとき、聖霊様ご自身が証ししてくださるのです。