使徒の働き7章1~16節 「栄光の神が現れて」

 きょうは「栄光の神が現れて」というタイトルでお話をしたいと思います。きょうの箇所は、ユダヤ教の議会に訴えられたステパノの弁明が記されてあるところです。ヘレニスト・ユダヤ教徒が訴えのは、彼が神とモーセを冒涜したということと、聖所と律法とに逆らうことばを語ったということでした。それに対して大祭司が「そのとおりか」と尋ねると、それに対してステパノが答えたのです。それにしても、このステパノの弁明は53節まで続いていきます。使徒の働きの中では最も長い紙面をさいて記録されているのです。今にも殺されるかもしれないという緊迫した状況の中にあるとは思えないほど、のんきで、だらだらしているような感じがします。息詰まるような対決ムードを伝えているのは51~53節の結論部分くらいで、それまでは旧約の歴史を淡々と語っているだけなのです。

 しかしこのステパノの説教は、彼にとっては最後の、しかも議会での証言という最も公の舞台での演説ですから、ただ訴えに対して弁明しているというだけでなく、時間の許すかぎり自分の信条を宣言しようした一世一代の大演説であったことがわかります。この中で彼は、神に逆らっているということと、モーセとその律法に逆らっているということ、そして、聖所を打ちこわすという三つの訴えに対して、イスラエルの歴史を三つに大別して、それぞれについての論証を試みました。そして、きょうのところでは、彼が神に逆らっているのではないかという訴えに対して、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフといういわゆる族長たちの歴史を通して、神がどのような方であるのかを示すことによって、そうではないということを弁明しています。彼はそれを2節のところで「栄光の神」ということばで表現しました。それは彼が神をどのようにとらえていたかの信仰の告白でもあります。

 きょうはステパノが信じていたこの栄光の神について三つのことをお話したい
 第一にこの方は、いつでも、どこにでもおられる方です。第二にこの方は、約束を実現してくださる方です。そして第三にこの方は、歴史を支配し導いておられる方です。

 I.いつでも、どこにでもおられる方

まず第一に、この栄光の神は、いつでも、どこにでもおられる方です。2~3節をご覧くたざい。

「そこでステパノは言った。『兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて、「あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け」と言われました。」

 ステパノは、「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。」と言って語り出しています。このことばは、相手に対して敬意を表す丁寧なことばです。それは彼が、この弁明が単に議会の権威にたてつく目的で語っているのではなく、何とかして同胞の彼らにまことの神について知ってほしいという気持ちが込められていたからだと思います。そして、このような丁寧な呼びかけに続いて始まる本論の冒頭のところで彼が述べた最初のことばは、自分たちの父アブラハムが、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が現れて、「あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしが示す地に行け」と言われたということでした。

 この3節のことばは創世記12章1節の引用ですが、創世記をみると、これはアブラハムがカルデヤ人のウルにいたとき、すなわち、メソポタミヤにいたときではなく、ハランにいたときに語られたことばであったことがわかります。しかしここでは、アブラハムがハランにいた時ではなく、ハランに住む以前の、まだメソポタミヤにいたときに語られたことばであったということから、ステパノが間違って語ったのではないかと考える人がいますが、そうではありません。「メソポタミヤ」とは「二つの川の間の土地」に付けられた名前で、現在のイラクにあるティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域を指します。創世記11章
31節を見ると、アブラハムはこのメソポタミヤ地方のカルデヤ人のウルという町に住んでいて、その後父テラといっしょにハランに移り住みましたが、そのウルにいた時に神は同じようにアブラハムを呼び出されたことは明らかです。したがって、ここに書いてあるように、アブラハムはハランに住む以前、メソポタミヤにいたときに神からの召しが与えられたと考えるのは妥当なことでしょう。ウルで与えられた神の召しと同じものがハランで与えられたものと同じであったと考えるのは自然なことだからです。問題は、いつ神がアブラハムに現れたのかということです。このところによると、それは彼がまだハランに住む以前のメソポタミヤにいたときでした。これはどういうことかというと、ここでステパノが訴えられのは、彼がこの聖なる場所を軽んじて神を冒涜したからということでしたが、それに対してステパノは、イスラエルの栄光の神は、「この聖なる所」といった一定の場所や土地に拘束されるような方ではなく、いつでも、どこにでもおられる方であり、そのご栄光を現される方であるということを言いたかったのです。

 皆さん、イスラエルの神、私たちの全能の神は、一定の土地や場所に拘束されて、身動きできないような方ではありません。いつでも、どこにおいても、その栄光を現される方なのです。それはアブラハムがまだメソポタミヤにいたときに、彼に現れてくださっただけでなく、アブラハムがハランにいたときも同じです。神は彼をそこから今彼らが住んでいるカナンへと移してくださいました(4節)。また、9節を見てもわかるように、ヨセフがエジプトに売りとばされたときにも、彼とともにおられた方です。あるいは29節を見ると、そこには、モーセがミデヤンの地に身を寄せた時にも共におられたということがわかります。さらに、
36節を見ると、エジプトから救い出したイスラエルを導き出し、エジプトの地で、紅海で、荒野でも、ともにおられた方であることがわかります。神は、ヨセフとともにおられただけでなく、イスラエルの歴史のどの段階、どの場面、どの舞台をとってみても、彼らとともにおられたインマヌエル(神われらとともにいます)なるお方なのです。

 そもそもステパノが神を冒涜しているということで訴えられのは、彼が今の無神論者のように神の存在を否定していたからではありません。そうではなく、「この聖なる所・・・・に逆らうことばを語った」からであり、神殿礼拝にまつわるモーセの慣例を変えてしまったということがきっかけでした。エルサレムの聖所などは、長いイスラエルの歴史の中ではついこの間できたばかりの物にすぎないのです。それ以前はというと、幕屋の時代がありましたが、そこでも神はご自身の栄光を現してくださいました。また、その幕屋以前には割礼の契約しかありませんでしたが、それでも神は、アブラハムに現れ語ってくださいました。要するにステパノは、神という方を、場所に拘束されず、儀式慣例に束縛されず、生ける自由な主権的な栄光の神であると信じていたのです。

 これは、もちろん、神が気まぐれにどこにでも現れるとか、神礼拝は人間の気ままかってにどうにでもしてよいという意味ではありません。そうではなく、彼が言いたかったことは、神が歴史のある時期の、ある段階に、違った形で自分を啓示し、交わってこられたということなのです。歴史的に見ると、神の啓示の方法や礼拝の形にも違いや発展があったことがわかります。したがって、もしメシヤの時代が来ているとしたら、聖所や律法がすたれ新しい形の宗教が生まれるのは当然である、と彼は言いたかったのです。そして、それは来たのです。それが救い主イエス・キリストでした。この方が来るときどういうことが起こるのでしょうか。あのサマリヤの女に対してイエス様はこう言いました。

「あなたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが、霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する物は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21~24)

 神が永久に一つの場所や儀式に束縛されないと信じるステパノのような場合、その信仰生活が、神殿にしがみついているユダヤ教徒と大幅に異なってくるのは当然です。しかし、それは神を冒涜していることではなく、神を礼拝する方法が違うだけなのです。方法を固定化してしまうのは、いつでも人間であり、神は決して固定化されるような方ではありません。生けるまことの神を、神の方法によって信じ、礼拝し、あがめなければなりません。神は、今日、キリストによって礼拝することを求めておられるのです。

 パウロはローマ人への手紙12章1,2節のところで、「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と言いました。

 このところによると、霊的な礼拝には二種類あることがわかります。一つは、イエス・キリストの御名で会衆が教会に集まってささげられる礼拝と、もう一つは、教会の外で私たちの生き様を通してささげられる礼拝です。前者の礼拝は、教会の中でささげられるものですが、自分をいけにえとしてささげてしまうと書かれてあるように、それは自分の自我に死んで、神の思いに満たされることを意味します。礼拝を通して自我に死に、神様の御力だけが臨むように願うのです。もう一つの礼拝は、教会の外で私たちの生き様をとおしてささげる礼拝のことです。この世と調子を合わせるのではなく、神のみこころは何か、何が完全で神に受け入れられることなのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えることが礼拝だというのです。
 すべての人々が忙しいと言って、世のことに埋没している中で、みことばを慕い求め、その中に浸ることが礼拝です。「みんなごまかして、適当に脱税しても、
私は正確に税金を納める」と決心して実行する心が礼拝です。「世の人々がみんな不正を働いても、自分だけは神様のみことばの前に正しく生きよう」というのが礼拝なのです。自分の生き様を通して礼拝をささげようとすること、それが霊的な礼拝なのです。

 私たちの問題点は何でしょうか。教会では礼拝をささげておいて、外では礼拝とは関係のない二元論的な生き方をしていることです。ある教会でリバイバル聖会がありました。聖会の最終日、ある役員の奥様が布団を持ってきてこう言いました。「うちの夫は教会にいる時は天使ですけど、家に戻ってくると悪魔になります。だから教会で暮らそうと思います。」これはジョークですが、私たちの生き方の問題点を象徴しているかもしれません。教会の中では天使でも、外に出ると野獣に変わるというのが私たちの姿ではないでしょうか。しかし主は、私たちが教会の中だけでなく、外でも礼拝者として生きることを願っておられるのです。なぜなら、私たちの栄光の神は、聖所に拘束されておられる方ではなく、いつでも、どこにでもおられる方だからです。

 人生の現場を福音伝道の機会にしていく、感動的な話を聞いたことがあります。この方は理容師で、一年に百人くらいに伝道します。この人は神様が自分の職業を通して、多くの人々を救ってくださると信じました。散髪は時間がかかりますから、話す機会はいくらでもあります。それで散髪をしながら福音を語るのです。始めは福音の基礎知識から、イエス様の十字架と復活について説明し、次第に自分の証しを混ぜて話すようにします。「私は・・教会に通っているのですが、神様の恵みを味わってみると、以前の人生が悔やまれます。でも今の人生はどんなに感動的で、喜びに満ちているかわかりません。」と伝えると、相手が静かにうなずきながら聞いています。そこで最後に、「今度教会に一緒に行きましょう。イエス様を信じてください」というと、かなりの人々がイエス様を受け入れるのだそうです。この人はこの方法で一年に百人以上も救いに導いておられるのだそうです。これはまさに生き方を通して礼拝です。

 あなたがたのからだを、神に受け入れられる、生きた、供え物としてささげなさい。それこそ、霊的な礼拝です。この世と調子を合わせないで、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえしるために、心の一新によって自分を変えなさい。これが霊的な礼拝なのです。私たちの神は教会という建物や場所に釘づけられておられる方ではなく、いつでも、自由に生きて働いておられる栄光の神だからです。ステパノが言いたかったのは、この点だったのです。

 Ⅱ.約束を実現される方

第二に私たちの神は、約束を実現される方です。4,5節をご覧ください。

「そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、ハランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりましたが、ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。それでも、子どもがなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。」

 神の召しにしたがって、アブラハムが目指して場所は、「今あなたがたの住んでいるこの地」でした。どういうことかというと、神がアブラハムに与えられた約束は今や成就し、彼の子孫が所狭しとこの地に住むようになったという事実です。しかしアブラハムにとっては、それはまだ「約束の地」でしかありませんでした。彼がその土地を所有することは決してありませんでした。「足の踏み場となるだけのものさえも」、相続財産として彼には与えられていなかったのです。それは、足の裏で踏むほども与えられていなかったという意味です(申命記2:5)。それほどに、神の約束の実現はほとんど不可能に思われたということです。なぜでしょうか。なぜなら、このとき彼には子供がいなかったからです。子供がいなければ、いくらこの地を彼とその子孫に与えようと言われても、不可能なことです。もちろん彼には、イサクの他にもこどもがいましたが、これらのこどもは約束のこどもではありませんでした。アブラハムが約束の子であるイサクをもうけるには、ただ神の直接的な介入しかなかったのです。それでも神は、彼とその子孫にこの地を与えてくださると約束してくださったのです。

 それだけではありません。6,7節を見ると、神はまた、彼に次のように約束されました。「彼の子孫は外国に移り住み、四百年間、奴隷にされ、虐待される。』そして、こう言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしがさばく。その後、彼らはのがれ出て、この所で、わたしを礼拝する。』」

 これは、イスラエルがやがてエジプトの奴隷として400年間仕えることを預言したものです。しかし、神は彼らを奴隷にする民をさばき、彼らをその中から救い出されると約束してくださいました。そして、彼らはこの所で、神を礼拝するようになると言われたのです。これは出エジプト3章12節のみことばの引用で、神がモーセに語られたことばです。イスラエルがエジプトを出るとき、イスラエルは「この山」でつまり、ホレブで神を礼拝するようになると言われたことばですが、ステパノはそれを「この所」つまりカナンの地に置き換えました。れはアブラハムに語られたのと同じ内容を、このことばに言い換えたのです。

 さらに8節には「割礼」の話が出てきます。神はアブラハムに割礼の契約をお与えになりました。割礼とは、男子の性器の先端の皮を切り取るという儀式ですが、それは神のことばに従うことの、神への献身のしるしでした。それは、神がアブラハムとその子孫を特別に保護し、その約束を実現してくださるという契約だったのです。この時アブラハムは99歳、その妻であったサラは90歳でした。100歳の人に子供が生まれるはずがありません。けれども、アブラハムは信じたのです。その結果、どうなったでしょうか。神が約束してくださったとおりに、イサクが生まれたのです。

 アブラハムが約束の地を受け継ぐということ、その子孫が外国で400年間奴隷として仕えた後にそこから救い出され、「この所」で神を礼拝するようになるということ、そして、100歳と90歳の夫婦にこどもが与えられるということなと、人間的に信じることはできません。がしかし、神が約束してくださったことは必ず実現するのです。アブラハムを通して現れた栄光の神は、その約束を完全に成就する力のある方であるということです。アブラハムはそれを信じたのです。ローマ人への手紙4章18~22節に、

「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが真だも同然であることと、サラの胎の死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」

とあります。アブラハムが義とみなされたのは、神には約束されたことを必ず成就する力があると信じて疑わなかったからです。それは、彼のためだけではなく、私たちのためでもありました。すなわち、神は、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせてくださった信じるためです。私たちの主イエスは、私たちの罪のために死なれ、私たちが義と認められために、よみがえられました。死んだ人がよみがえるなんて信じられないことですが、実際にあったのです。神はどんなことでもおできになられますから、死んだ人を生き返らせることも可能なのです。つまり、アブラハムの信じた神様とは、死者さえも生かされる全能の神でした。不可能を可能にする神であり、私たちの髪の毛さえも数えることのできる方です。

 私たちの信仰は、その人がどんな神様を信じているかによって左右されます。死んだ神様を信じている人は、その信仰も死んだものであり、生きておられる神様を信じる人は、その人の中に生きて働かれる神様のみわざがどんどんと現れてきます。皆さんは、自分の信じている神様が全能であると信じていますか。生きておられ、できないことのない神様であると信じていますか。そうならば、落ち込む必要はありません。神様がともにいてくれさえすれば、すべてのことが可能になるからです。宗教改革者のマルチン・ルターは、「神様をして神様たらしめよ」と言いました。私たちが犯しがちな罪の中でも最も大きな罪は、神様を小さくしてしまうことです。神様を教会の中だけに閉じこめて、小さいことだけを行われる方として制限してしまい、その全能の力を認めないことです。

 私たちはしばしばこのような錯覚をします。「神様にも難しいことはあるだろう」。本当にそうでしょうか。神様にとって、風邪を治すことは優しいことでしょうか。では、がんを治すことはどうでしょう。私たち人間の目で見ると、風邪が癒されると少々感謝をささげ、がんがいやされると教会中が大騒ぎしますが、神様にとっては、風邪を癒すのもがんを癒すのも朝飯前なのです。私たちは、イエス様が死人を生き返らせたときはいつもより強く祈っただろうと考えがちですが、これは錯覚です。私たちは神様にはできないことはないと信じて、いつでも、大胆に、主に頼って進み出ることが必要なのです。私たちの周辺にまだ救われていない人がいますか。どんなにかたくなな人でも、全能の神様を信じて進み出るならば、神様はその魂をやすやすと獲得してくださると信じましょう。

 アブラハムの信仰の特徴は、神が「あなたの子孫はこのようになる」と言われたとき、そのとおりに信じたことです。これが信仰です。全能の神様を信じる人は、必ず神様のみことばを心の中心に置きます。全能の神様を信じることは、神様のみことばの力を信じることです。神様が語られたことは、必ず実現すると信じ切る、確信することなのです。

 ロサンゼルスに、有名なおばあさんがいるそうです。このおばあさんは道を歩くとき、いつもぶつぶつと言いながら歩くのだそうです。不思議に思った人が、「あなたはどうしてぶつぶつ言いながら歩いているのですか」と尋ねると、このおばあさんは、このように言いました。「あたしゃもう年を取って、神様のお仕事をすることもできないし、子孫のためにできることもないのよ。でもヨシュア記1章3節に書いてあるように、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」ってあるから、そのまま信じて歩いているんだよ」
 すると不思議なことに、このおばあさんが足で踏んで歩く所には、ユダヤ人の店が建ち並び、ユダヤ人たちがその不動産を取得しているのだそうです。

 アブラハムが「あなたの子孫はこのようになる」と言われたとき、それを疑わないで信じたように、私たちも神が語られたことは必ず実現すると信じることが大切です。 

 Ⅲ.歴史を支配し導いておられる方

最後に、私たちの栄光の神は、その歴史を支配し、導いておられる方です。 9節と10節をご覧ください。

「族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました。しかし、神は彼とともにおられ、あらゆる艱難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で、恵みと知恵をお与えになったので、パロは彼をエジプトと王の家全体を治める大臣に任じました。」

 いよいよ話は族長たち、すなわち、ヤコブの12人の息子らの話へと移っていきます。その中でもステパノが取り上げたのは、ヨセフとその兄弟たちの話です。ヨセフの兄弟たちが彼をねたんで、エジプトに売りとばしたという話です。いったいステパノがなぜこの話を取り上げたのかはわかりません。おそらく、神様がアブラハムに約束されたあの「彼の子孫は外国に移り住み、四百年間、奴隷にされ、虐待される」という預言が、どのように成就していったのかを表したかったのかもしれません。いずれにせよ、エジプトに売られていったヨセフが、あらゆる艱難から救い出され、エジプトと王の家全体を治める大臣に任じられたのは、神様の導きによるものでした。それは、そのようにしてイスラエルがエジプトに下り、そこで四百年もの間奴隷として仕え、虐待されるようになるという預言が成就するためでもありました。いったいだれがそんなストーリーを考えることができたでしょうか。全く考えられないようなことですが、神が彼とともにおられたので、神は彼をあらゆる苦難から救い出し、恵みを注いでくださったのです。イスラエルの神は、そのようにして歴史を支配し、導いておられたのです。であれば、こうした神の摂理と導きに全面的にたよりきることが大切です。ローマ人への手紙8章28節には、

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

とあります。クリスチャンとは、神様が自分の道を導いてくださるという確信を握って、揺らぐことなく歩んでゆく人です。私たちの目の前にあるすべての困難や艱難は、過ぎてみれば皆、神がすべてのことを働かせて益としてくださる要素なのです。このみことばの約束を信じて歩む人は、恐れや心配に落ち込むはずがないのです。そして決して焦ることもありません。クリスチャンは、病気や失敗、困難が襲って来ても、それらすべてが神様の愛だと確信しています。主に召された人の人生は、すべてを働かせて益としてくださる主のみわざの中にあることを信じているからです。

 時々、イエス様を信じている人の中に、毎日「大変だ」と言いながら大げさに振る舞っている人がいます。実際に聞いてみると大したことはないのですが、信仰がないので大したことに見えてしまうのです。神様がともにおられ、すべてを働かせて益としてくださるのに、何が大変なのでしょうか。イエス様とともに舟に乗っていたペテロは、大風が起こって、舟が転覆しそうになったときどれほど驚いてことでしょう。彼は、「イエス様。何やってんですか。私たちがおぼれそうなのを見ても、何とも思わないのですか」と叫びました。ところがペンテコステに聖霊の力を体験したペテロは、やがて投獄され天使がやって来て彼を助けようとした時でも、深く眠り込んでいて、それに気づかなかったと言います。天使がいくら「起きろ」と言っても起きなかったので、彼の脇腹をたたいたらやっと起きたと記録されています。これがクリスチャンの余裕です。自分の前に死刑の宣告があっても、どんなに大きな危険、失敗があろうとも、すべてを働かせて益としてくださる神様が私を守り導いてくれているのだから、私は何の心配もいらない。これがクリスチャンの余裕なのです。困難や失敗が襲って来ても、それは神様が私たちを祝福してくださるための計画の一部なのです。そう信じて堂々と立っているのが、クリスチャンです。

 最後にあるお話をして終わりたいと思います。ある漁村から沖へ出た漁船が、折りからの大風の中、真夜中になっても戻ってきませんでした。村人たちは心配して、舟の持ち主の家に集まりました。「いつ夫は戻って来るかしら。いつお父さんは戻るかしら」。特に家族は気をもみながら無事を祈って待っていました。しかし、そのような中で子どもがろうそくを倒してしまい、その家が火事になってしまったのです。村人が消火作業におおわらわです。ああ、なんという災難!゛主人は大風で海から戻れず、家は火事で燃えてしまう。なんと過酷な試練でしょう。
 しかし、一夜明けて朝になりました。すると待ちわびていた船が帰ってきました。漁船に乗っていた人たちはこう言うのです。「大風で船が方向を失って危なかったとき、突然、陸地に火の手が上がるのが見えたんですよ。それで航路を定めて戻ることができました。」あの火災は災いだったのでしょうか?いいえ、火事が起こらなかったら、ご主人は亡くなっていたでしょう。あの火事があったからこそ、無事に戻ることができたのです。

 ですから、一つの現象だけを見て、「ああ、何かの間違いだ」「破滅だ」「神様が私を見捨てた証拠だ」などと言ってはいけないのです。クリスチャンは、すべてのことを働かせて益としてくださる神様のみこころを信じる者です。試みや病気、障害が臨むとき、短いスパンで見れば、それは単なる不幸かもしれませんが、救い主イエス様の視点で見ると、必要な導き以外の何物でもありません。私たちはこの神の後支配と導きというものを信じて、そこにすべてをゆだねて歩む者でありたいと思います。私たちの神は、そのように栄光に満ちた方だからです。