きょうは「モーセとキリスト」というタイトルでお話します。37節のところに、「このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる』と言ったのです。」とあります。「私のようなひとりの預言者」とはイエス・キリストのことです。「この人は聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめない」という理由で訴えられたステパノは、そうでないことを弁明するために異例とも思われる長い説明を始めました。その中で彼はまず、神がどれほど栄光に富んでおられる方かをアブラハム、ヤコブ、ヨセフの歴史を通して語ると、話はモーセの物語へと移ります。モーセの話をすることによって、彼が律法に逆らっていたのではなく、律法そのものが指し示していた実体であるところのイエス、すなわち、神に従っているということを証明しようとしたかったからです。それにしても私たち日本人がこの箇所を読みますと、正直、内容を理解するのに骨が折れます。旧約聖書に書かれてあるイスラエルの歴史についてそんなに詳しく学んだわけではないからです。しかし、当時のユダヤ人にとっては、だれもが暗記しているような、慣れ親しんだ歴史物語でしたから、このような話はピンときたのです。むしろ、親しみと懐かしさで共感し、その話の中にぐいぐいと引き込まれていったものと思います。そのモーセの話の中で彼は、モーセが指し示していた本当のモーセとはキリストのことであったと申命記からのみことばを引用して次の四浦言いました。37節です。
「このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のような預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる』と言ったのです。」
きょうはこのモーセこそキリストであったということから、次の三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、モーセはキリストのひな型であったということです。紀元前1400年頃に生きたモーセの生き方というのは、実はキリストの姿を表していたのです。第二のことは、にもかかわらず神に背を向けたイスラエルの姿です。このように支配者また解放者として遣わされたモーセをイスラエルが拒んだように、イスラエルは神によって遣わされたイエスを拒み、十字架につけて殺してしまいました。第三のことは、そのような彼らに対する神のさばきです。すなわち、神に背を向け、聖霊に逆らってた彼らを神はバビロンのかなたに移されたように、イエスを信じないで神に逆らっている人を、神はさばかれるのです。ですから、私たちはこのモーセが指し示していたイエスを信じ、そのことばに従わなければなりません。
Ⅰ.モーセはキリストのひな型であった
まず第一に、モーセはキリストのひな型であったということです。ひな型とは、実物をかたどって小さく作ったもの、模型のことです。17~22節をご覧ください。
「神がアブラハムにお立てになった約束の時が近づくにしたがって、民はエジプトの中に増え広がり、ヨセフのことを知らない別の王がエジプトの王位につくときまで続きました。この王は、私たちの同胞に対して策略を巡らし、私たちの父祖たちを苦しめて、幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました。このようなときに、モーセが生まれたのです。彼は神の目にかなった、かわいらしい子で、三ヶ月の間、父の家で育てられましたが、ついに捨てられたのをパロの娘が拾い上げ、自分の子として育てたのです。モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。」
ステパノは自分がモーセと律法に背いているのではなく、むしろモーセに従っていることを示すために、モーセが指し示していたものが何であったのかを説明しています。まず彼はモーセの生い立ちに触れて、その背景についてこう言いました。モーセの誕生は「神がアブラハムにお立てになった約束の時」と関係がありました。アブラハムにお立てになられた約束とは何でしょうか。それは5節にあるように、「この地を彼とその子孫に財産として与える」ということです。その約束の時が近づくにつれて、イスラエルの民がエジプト中に増え広がると、そのことを恐れたエジプトの王が策略を巡らし、イスラエルを苦しめ、幼子を生かしておけないようにしました。生まれてきた男の子はみなナイルの川に投げ込まれて殺されたのです。
このような時に生まれたのがモーセです。モーセもまた殺される運命にありましたが、彼の母は産まれてきたモーセを見たとき、そのかわいいのを見て、三ヶ月の間隠しておかれたのですが、もう隠しきれなくなると、パピルス製のかごに入れて、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いたのです。するとたまたま水浴びをしようとナイルに降りて来たエジプトの王パロの娘がそのかごを見つけ、かわいそうに思い、拾い上げ、自分の子として育てたのです。そこでモーセはパロの娘の子として育ち、エジプトのあらゆる学問を教え込まれました。ですから彼は、ことばにもわざにも力があったのです。
ところでステパノはモーセのことを語るのに、なぜこんなにも丁寧にモーセの生い立ちから語ったのでしょうか。それはステパノがただ単にモーセについての物語を言いたかったからではなく、そこにイエス・キリストとの類似性を描きたかったからです。このところを見ると、モーセが生まれたのは、エジプトの王がイスラエルを苦しめて、幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしていた時であったとか、生まれてきた子は、彼が神の目にかなったかわいらしい子であったこと、そして、彼はことばにもわざにも力があったということを記していますが、ステパノはそのモーセの姿こさキリストの姿であった言ったのです。モーセの姿をキリストに重ね合わせて見ていたのです。
たとえば、マタイの福音書2章16節をみると、イエス様が生まれたときがどのようなときであっかがわかります。時の王であったヘロデは、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺させていました。自分の王位が奪われるのではないかと恐れたためです。そのようなときにイエス様は生まれたのです。それは、モーセが生まれた時が、エジプト中にイスラエルが増え広がったため、エジプトの王が恐れて、エジプトにいたイスラエルの幼子を殺した時と同じです。また、モーセが生まれたとき、彼が神の目にかなった、かわいらしい子であったということも、ルカの福音書2章52節に「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」と書いてあるのと同じです。もちろん、モーセがエジプトであらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力があったというのも、ルカの福音書24章19節の「この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした」とあるイエス様の姿と重なります。このようにステパノは、モーセのことを語りながら、実はそこにイエス様の姿をたぶらせることによって、モーセが指し示していた実体が何であったのかを説明したかったのです。
それは23節からの出来事を見てもわかります。それはモーセが40歳になったときのことでした。彼は自分の兄弟であるイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見て、顧みる心を起こし、その人をかばい、エジプト人を打ち倒して、乱暴されている同胞の仕返しをしてやったのに、彼らはそのことを理解したかというとそうではなく、兄弟たちが争っているところに仲裁に入ると、「だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、私も殺す気か」言われ、モーセを押しのけたのです。結局彼はどうなったかというと、ミデヤンの荒野に逃れ、そこで40年間過ごすことになるわけです。
これもまたイエス様も同じでした。ヨハネの福音書1章11節には、「この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」とあります。キリストはご自分の国に来られたのに、ご自分の民は彼を受け入れることができませんでした。そして、十字架につけて殺してしまったのです。
しかし、ミデヤンの地に逃れたモーセを、神はお忘れになられたでしょうか。いいえ、違います。神様はモーセを片時も忘れることがありませんでした。ミデヤンの地に逃れ40年が経ったころ、神はシナイの荒野で再び彼に現れてこう言われました。32~34節です。
「わたしはあなたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたの立っている所は聖なる地である。わたしは、確かにエジプトにいるわたしの民の苦難を見、そのうめきを聞いたので、彼らを救い出すために下って来た。さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう。」
何と「だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか」と言って、人々が押しのけ、ミデヤンの荒野に追いやったモーセを、神は支配者としてまた解放者としてお遣わしになられたのです。このモーセを神は、彼らの支配者また解放者としてお立てになられたのです。ここでは「このモーセを」(35節)、「この人が」(36節)ということばが強調されています。なぜこんなにも強調されているのでしょうか。このモーセの姿こそキリストそのものを指し示していたからです。使徒の働き2章23~24節のところでペテロは、次のように説教しました。
「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなどありえないからです。」
「だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか」と言って人々が拒んだモーセを、神が燃える柴の中に現れて、彼を支配者としてまた解放者としてお遣わしになったように、イスラエルが拒み、十字架につけて殺してしまったイエスを神はよみがえらせ、罪と死の奴隷であった私たちを解放してくださったのです。このモーセが、彼らを導き、エジプトの地で、紅海で、また、四十年間荒野で、不思議なわざとしるしを行ったように、神はまたイエスによって、彼らの間で力あるわざと不思議としるしを行われることによって、神は彼らに、この方のあかしをされたのです。(使徒2:22)
ですからモーセについての結論はこうなのです。37~38節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。
「このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる』と言ったのです。また、この人が、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの父祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです。」
イエス様こそ「私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる」と彼自身が言った方であり、モーセが荒野の集会でみことばを授かり、それを民に与えたように、ご自身が天からのパンとして、荒野の教会でイスラエルに生けるみことばを与えてくださった方なのです。イエス様こそモーセが指し示していた実体であり、イスラエルが本当の意味で聞き従わなければならないお方なのです。そのことは、イエス様ご自身も言われたことです。
「わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。」(ヨハネ5:45-46)
ですから、ステパノがモーセを冒涜していたというのは間違いであって、むしろ彼が信じ、従っていたイエスの道こそモーセが指し示していたものであり、正しい道だったのです。なのに彼らはそのことを理解することができませんでした。どうして?どうして彼らは理解できなかったのでしょうか。聞く耳を持っていなかったからです。凝り固まった先入観と、自分たちの考えこそ正しいという思い込みがあったため、そうでないという考えを受け入れることができなかったのです。そのように主張していた相手を律法に従っているとして殺そうとしていたのです。何と恐ろしいことでしょうか。けれども、このようなことは私たちもあります。自分の考えに固執するあまりに他の人の話が聞けなかったり、回りが全く見えなかったするということがあるのです。また、自分ではそれが正しく良いことだと分かっていても、人にはなかなか理解してもらえずに誤解されることもあります。そんな時私たちは自分自身を見つめる時を持ち、「これはいったいどういうことなのか」ということを吟味しなければなりません。そして、絶えずバランスを持って物事を見ていかなければなりません。また、たとえなかなか人から理解してもらえない時でも、焦らないで、忍耐しつつ、説明していくことが求められます。どんな時でも愛と配慮をもって接する心が大切なのです。そうすれば、いつか必ず理解してもらえるときがやってくるはずです。
Ⅱ.神に背いたイスラエル
そのようなモーセに対して、彼らはどのように従ったでしょうか。既に23節のところで、モーセを押しのけた彼らの姿が描かれていました。その結果彼はミデヤンの荒野へと追いやられたのです。しかし、モーセに対する彼らの態度というものがもっと顕著に表れた出来事がありました。それが金の子牛を作り、それを拝んだという態度です。39~41節までをご覧ください。
「ところが、私たちの父祖たちは彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って、『私たちに、先だって行く神々を作ってください。私たちをエジプトの地から導き出したモーセは、どうなったのかわかりませんから』とアロンに言いました。そのころ彼らは子牛を作り、この偶像に備え物をささげ、彼らの手で作った物を楽しんでいました。」
これはモーセがイスラエルをエジプトの苦役から救い出した後で、シナイの荒野で起こった出来事です。モーセがシナイ山で律法を授かっているとき、そのふもとにいたイスラエルの民はモーセ待ちきれずアロンのもとに集まり、先だって行く神を作ろうと、金の子牛の像を造り、それを拝んだのです(出エジプト32:4)。
イスラエルが実際に「エジプトをなつかしく思っ」(39節)たのはシナイ山の出来事よりもずっと後のことで、カデシュ・パルネアという所にいた時のことですが、ステパノはこれをこの金の子牛の像を拝んだ事件と一緒にしました。それはその根底に神への不信仰、不従順といった共通の罪が横たわっていたからでしょう。「エジプトをなつかしく思う」ということばは、「心中で振り向く」という意味です。彼らは荒野で生活が苦しくなると、「どうして自分たちをエジプトから連れ出したりしたんだ」とか、目の前に大きな障害があって前に進んで行くことができないと、「ああ、ひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」と言って嘆いたのです。それは不信仰から出た思いです。エジプトでの彼らの苦痛をご覧になられた神様が、その愛をもってその中から救い出してくださったにもかかわらず、それに感謝できず、すぐに不平を漏らしては、「エジプトにいた時の方がどんなに良かったか」というのですから、神様もどれほどがっかりされたかわかりません。人間はいつももとの生活を懐かしく思うような誘惑にかられますが、そのような誘惑に惑わされて本当の祝福を奪われることがないように注意しなければなりません。いつも神とその恵みにいつも目を留め、感謝することを忘れないようにすべきです。
トミー・テニーという人が書いた「神が探される礼拝者として生きる49の方法」という本の中に、「あなたを感動させるものに注意してください」とあります。それがどのようなものであれ、あなたを感動させるものに、心がひかれていくからです。強い力があなたを引き寄せ、それを追わせます。そして、あなたが追うものは何でも、あなたの目的になってしまいます。だから感動させるものに注意してくださいというのです。それが富や快楽、名誉といったどんなものであれ、風のように跡形も無くなってしまうようなものに人生を費やすのではなく、永遠に消えない王とその御国を求め、そこに人生を費していかなければならないのです。
19世紀に生きた偉大な信仰の人ジョージ・ミューラーは、イギリスのブリストルという所で狭く汚い路地で死んでいく孤児たちが多いのを見て驚き、孤児院を創設することにしました。みことばに対する確固たる信仰を持っていたジョージ・ミューラー夫妻は、クリスチャンが聖書を真剣に受け入れるなら、その人が神のために行うことにいかなる限界もないということを確信しました。そして彼らは、その生涯を閉じるまでに、孤児院で1万人以上の孤児たちを世話しました。しかしそこにはどれほどの苦労があったことでしょう。1万人以上の孤児たちを養ったと口で言うのは簡単ですが、実際には多くの困難と闘いがあったことと思います。時として、「こんなこと始めなければ良かった」と思うこともあったでしょう。しかし、彼らは神様だけを見上げ、神様だけに期待して祈りました。彼らは多くの人たちがするのとは違って、自分たちの経済的な必要を神のほか誰にも話しませんでした。しかし神はいつも、彼らの感謝の祈りと神を謙遜に待つ姿を通して必要なものを豊かに満たしてくださいました。ジョージ・ミューラーはこのように告白しています。
「心配の始まりは信仰の終わりです。まことの信仰の始まりは心配の終わりです。」
心配の始まりは信仰の終わりなのです。なかなか自分の思うように進まないとき、金の子牛を作ってみたり、「何でこんな所に連れて来たのか」と嘆いてみたりして、安易な方法でその保証を得ようとしがちですが、そうではなく、神様に信頼しなければなりません。神様が与えてくださった聖書のみことばの約束を握りしめ、信仰によって歩んでいく者でありたいと思います。
Ⅲ.イスラエルに背を向けられた神
最後にそのようなイスラエルに背を向けられた神について見て終わりたいと思います。42~43節です。
「そこで、神は彼らに背を向け、彼らが天の星に仕えるままにされました。預言者たちの書に書いてあるとおりです。『イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた40年の間に、ほふられた獣と供え物とを、わたしにささげたことがあったか。あなたがたは、モロクの幕屋とロンパの神の星をかついでいた。それらは、あなたがたが拝むために作った偶像ではないか。それゆえ、わたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ移す。』」
モーセに背いたイスラエルに対する神の刑罰は、第一に、イスラエルに背を向け、天の星に仕えるままにされたということです。「モロクの幕屋」とは、もともとエモリ人の仕えていた偶像でした。この偶像は青銅で作られており、頭は牛で、両手を広げて立っていました。一方、ロンパの神の星とは、エジプト人、アッシリア人、フェニキヤ人が崇拝していた星の偶像で、土星を指していたと言われています。神に従うことを好まず、かえってそれを退けようとする人たちに対する神のさばきは、彼らに背を向け、やりたいようにさせる。いわゆる無関心と冷淡です。
神様の最も恐ろしい審判の一つは「放ったらかし」にすることです。ある人はこう言います。「私は神のことばとは無関係に生きてきたが、大満足の人生だ」。しかし、皆さん、これはその人が神の審判のまっただ中、のろいのまっただ中にいることの証拠なのです。たとえば、親の心を痛めるこどもがいるとしましょう。正しく育てようとして時には戒めます。むちを振るうこともあるでしょう。けれどもその子は親の言うことを聞こうともしません。するとその親は最後に子どもに何と言うでしょうか。「好きにしろ」。「勝手にしろ」と言うのではないでしょうか。これは子どもに自由を与えているということではなく、親として発しうる最も恐ろしい怒りを表現しているのです。それゆえ信仰を持たない人々が、その恐ろしい罪にもかかわらず人生がうまくいってるように見えても、全くうらやましがるには値しないのです。それは恐ろしい審判だからです。神様に捨てられた人は大忙しで、礼拝をささげる時間もありません。あくせくと的外れな努力をして、結局は地獄の一員に数えられるのです。
私たちは神様の御前で好き勝手に生きられる存在でしょうか。決してそうではありません。神様は私たちを放ったらかしにはなさらないからです。思いのままに生きようとする私たちを、神様は決して放置なさいません。少しでも高慢になると、大きな病気やその他の方法でそれを扱われます。みこころにかなわないようなことをすると、試みや艱難が来て練られます。少しでも祈りを怠ると、火のような試みを通して心を引き締めてくださるのです。それこそ神様の祝福であり、まことの愛の表現なのです。箴言3章12節には、
「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。」
とあります。主は愛する者をしかるのです。信じる者が従わないと神様から痛い目に遭うというのは、神が愛だからなのであって、何もないことが祝福ではありません。
ある仲むつまじい夫婦がいました。子どもたちも健やかに育っていましたが、ある日夫人が体調が悪いからと、病院で診察を受けると、医師は病名を教えてくれず、家族を連れて来るようにと言いました。不安を抱いて夫ともに再度病院に行きますと、がんにかかっていて、回復の見込みは薄いと告げられました。それはまさに青天の霹靂でした。幸福な家庭に暗雲が立ち込めたのです。ご主人は居ても立ってもいられない姿が痛々しく見えました。子どもたちも勉強が手につかない様子でした。しかしあるとき、家族が信仰をもって祈り始めました。全員が早天祈祷会に出席して、神様に切に祈り始めました。涙とともに祈る姿は、すべての聖徒たちを感動させました。そして数日後、夫人は別の病院で再度診察を受けました。するとどうでしょうか。それが誤診であることがわかりました。夫人はがんではなく、単なる消化不良だったのです。
この出来事を契機に、その家庭はすっかり変わりました。いつでもすべてのことについて、神様に感謝し、家庭をあげて神様に検診するようになりました。いつでも口を開けば、神様の恵みを誇る家庭となったのです。
神様はその子に困難や試練を与えられるのは、子として扱っておられるからであり、その子を愛しているからです。もしそうでなかったとしたら、それこそ神のさばきのまっただ中にあると言えるでしょう。神に放っておかれること、やりたい放題することは、むしろ神の最大のさばきなのだということを覚えておきましょう。
それから、そんなイスラエルに対する神のもう一つの審判は、彼らをバビロンのかなたへ移すということでした。これはもともとアモス書にあった預言の引用ですが、そこには「バビロンのかなた」ではなく「ダマスコのかなた」になっています。いったいステパノはなぜこれを「バビロンのかなた」と言い換えたのでしょうか。バビロンのかなたへ移すといったステパノのことばは、紀元前586年にイスラエルがバビロンへ捕らえ移されることによって成就しましたが、実は、ダマスコのかなたに移すとアモスが預言したことは、紀元前721年に北王国イスラエルがアッシリヤに捕らえ移されたことで成就していたのです。すなわちステパノは、モーセの時代にイスラエルが荒野で犯した罪も、紀元前721年にイスラエルをアッシリヤの捕らえ移された事件も、また紀元前586年にバビロンに捕らえ移された事件も、実はみんな同じ罪だと理解していたからではないでしょうか。すなわち、それはモーセと主に逆らって、自分の考えや自分の思いを優先させた罪だったのです。それは51節にあるように、「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち」の罪で、いつも聖霊に逆らっている人たちの罪です。それはまさに今ここでステパノを尋問しているサンヘドリンやリベルテンの会堂に属する人たちの罪なのだということを、ステパノはあばきたかったのだと思います。
それはこの時代のユダヤ人に限らず、いつの時代でも、どこにでもいます。心をかたくなにして、聖霊に逆らっている人はみな、ここに出てくるユダヤ人たちと同じなのです。ですから、私たちは心をかたくなにすることを止めて、聖霊が語っておられることに耳を開き、心を開かなければなりません。昔、モーセが指し示していた実体こそイエス様であるというステパノの証言に耳を傾けながら、この方に聞き従うことが求められているのです。そして、この神の怒りから逃れるために、ただイエス・キリストの血潮を信じなければなりません。それが神の怒りから私たちが逃れる唯一の道なのです。
「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:9)
私たちの救いの道は、イエス・キリストの血潮をおいて他にありません。この救いの血潮を証しすることに力を尽くす聖徒でありたいと思います。それがここでステパノが語っていたことだったのです。