使徒の働き7章54~60節 「天を見上げて」

 きょうは「天を見上げて」というタイトルでお話したいと思います。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません」(6:13)という訴えに対してステパノは、そうではないということを証明するために異例とも思われる長い弁明をした後で、むしろ聖霊に逆らっているのはあなたがたであると、ズバッと切り返しました。彼らは神から遣わされた正しい方であるイエス・キリストを十字架につけて殺してしまったことで、神に逆らう者になったのだと責めたのです。するとそのことばを聞いていた人たちは、はらわたが煮えかえる思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしました。それだけでなく、彼らはステパノの語ることに耳をおおい、大声で叫びながら、いっせいにステパノに殺到し、石で彼を打ち殺してしまいました。キリスト教界における最初の殉教者です。ステパノという名前は「冠」という意味ですが、彼はどういう点で冠であったかというと、こうして殉教者になることによって神の冠となったわけです。

 きょうはこのステパノの殉教の様子を、彼が発した三つのことばを中心に学んでいきたいと思います。第一に、56節のみことばから、主イエスを見上げたステパノについて、第二に59節のみことばから、主イエスに自分の霊をゆだねたステパノについて、第三に60節のみことばから、敵のために祈ったステパノについてです。

 Ⅰ.主イエスを見たステパノ

まず第一に、主イエスを見上げたステパノについて見ていきましょう。54~56節までをご覧ください。

「人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます』」

 ステパノの話を聞いたサンヘドリンの人たちは、はらわたが煮えかえる思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしました。「はらわたが煮え返る」ということばは、前にも出てきましたが、下にもあるように、「心をのこぎりで切る」という意味のことばです。ナイフでちょっと切っただけでも痛いのに、のこぎりでぎりぎり切られたらどんなに痛いでしょう。彼らの怒りはそれほどに達していました。それは、彼らがステパノに向かって「歯ぎしりした」ということばにも表れていると思います。この「歯ぎしり」するというのは、怒りを表す表現です。詩篇35:16には、「私の回りの、あざけり、ののしる者どもは、私に向かって歯ぎしりした」とありますが、彼らは今にも襲いかかってくるかのように怒り狂っていたのです。

 それに対してステパノはどうだったでしょうか。そんな彼らとは対照的に、いかにも冷静であったことがわかります。聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と言いました。人は見るものによって言動が決まります。もし相手の怒り狂った態度を見ていたら、恐れと不安に脅えてしまったでしょうが、ステパノはそうではありませんてじた。彼は聖霊に満たされ、天を見つめ、そこにおられる主イエスを見ていたので、彼らの態度にちっとも動揺することなく、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言うことができたのです。これはステパノが見た幻です。彼らはこのとき議会の中にいましたから、天を見なさいと言われても、古ぼけた議会の天井しか見えなかったでしょう。しかし、ステパノの目には、天井を超えた、天にある神の御座が見えたのです。神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとが見えたのです。それはステパノだけのことではありません。信仰の目をもって見るならば、だれにでも見える光景なのです。

 ところで、ここでステパノが見たのは神の右に立っておられる主イエスでした。座っておられるイエス様ではなく、立っておられるイエス様です。聖書の中でこのようにイエス様が神の右に立っておられるという描写は極めてまれです。そのほとんどは、神の右に着座されたとなっているからです。たとえば、ヘブル1:3には、

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」

とあります。イエス様は神の右の座に着かれたのであって座っておられるはずなのに、ここでステパノが見たのは立っておられるイエス様の姿でした。いつたいこれはどんなことを表していたのでしょうか。

 昔からキリスト教教父と言われる人たちは、ここに、神の座に座っておられたイエス様が、愛するしもべを迎えるために、その座から立ち上がり身を乗り出して受け入れてくださるイエス様の姿を見てきました。よくそのような絵画を見ることがあります。空の真ん中にイエス様が両手を開いて招いておられる姿が描かれているものを。そういうイメージです。すなわちステパノは、立ち上がって御手を伸べてくださるイエス様に、「主イエスよ。私の霊をお受けください」と祈りつつ、身をゆだねることができたのです。すばらしいじゃないですか。私たちが天の御国に入れられるとき、そうやって迎えてくださる方がおられるということは。天国に行ってはみたけれど、イエス様はじっと座ったままで微動だにしなかったとか、他のことをしてて忙しそうだったとしたら、何だか悪いような感じもしますが、そうやって御手を差し伸べ、「よく来たね。」「今までよく頑張った。」「さあ。安心しておいで」と言われれれば、「ありがとうございます。主よ。私の霊をあなたにゆだねます」と言えるのではないでしょうか。私たちにはそうやって御手を差し伸べてくださるイエス様がおられるのです。この世の愛する人から離れたったひとりの天国の旅路に向かう中で、そのように伴ってくださる方がおられるというのは大きな慰めです。

 また、ここでイエス様が立っておられるというのは、とりなしておられる姿を現しているのではないかという人もいます。ちょうどステパノが法廷に立っているように、イエス様もまた神の法廷に立ち、父なる神の前でとりなしておられるというのです。確かにイエス様は約束してくださいました。

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしておられるからです。」(ヘブル7:25)

 イエス様が手を差し伸べていてくださるから安心して行ってみたら、父なる神様が「いや、君はあれこれと本当に悪いことばかりしてきたね。ちょっとどうかな。」ということはないと思いますけど、もしあっても大丈夫です。なぜなら、その脇でちゃんととりなしてくださる主イエス様がおられるからです。自分では罪に汚れていて、天国に入れていただくような資格がないような者であっても、イエス様が父なる神にこう言ってくださいます。「父よ。彼の罪は完全に聖められています。なぜなら、彼には私の血が塗られているからです。私が十字架にかかって死んだとき、その血潮を受け入れ、その血潮に信頼しました。彼の罪は完全に聖められているんですよ。」そのことばを聞かれる神様は、「そうか、だったら間違いない。あなたの罪は赦されている。さあ、あなたに約束されている御国を継ぎなさい。私の愛する子がそのように保証しているんだから・・・」

 ですから、ここでステパノが立っておられるイエス様を見られたというのは、この両方のことを指してのことでしょう。このように死のみぎわにあっても、天を見つめ、そこにある神の栄光と、そのに右に立っておられるイエス様を見つめる人には不安や恐れはないのです。イエス様が弁護し、イエス様が迎え入れてくださるのですから、安心してこのイエス様に我が霊をゆだねることができるのです。これがステパノの勝利の秘訣でした。

 Ⅱ.自分の霊をゆだねたステパノ

次に、主イエスに自分の霊をゆだねたステパノの姿を見たいと思います。57~59節をご覧ください。

「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』

 ステパノにとってのこうした慰めに満ちた幻の描写も、それを聞いていた彼らにとってはこの上ない神への冒涜だと思い、そんなステパノの声が聞こえないように、両手を耳を覆い、また、大声で叫びながら、いっせいにステパノに殺到しました。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺したのです。

 このような描写を読むと、ステパノの殺害はいかにもいきり立った彼らのリンチであったかのような印象を受けますが、実際はそうではなく、一定の手続きを踏んでのことであったのがわかります。それは彼らがステパノを町の外に追い出したことや、自分たちの着物をサウロという人物の足もとに置いたことからもわかります。当時、この石打の刑は、受刑者をこのように町の外へ引き出し、むちで打ってから、少なくても人の背丈の倍はあるような高い崖から突き落とすと、大人二人でないと持てない大きな石を囚人の胸元めがけて落とすのです。たいていの場合はこれで息絶えてしまいますが、それでも息が止まらない時には、他の人がいっせいに大小の石をぶつけて殺しのです。ステパノの場合、「彼らが石を投げつけていると」とありますから、崖からつき落とされた後で、人々から石を投げられたのでしょう。このとき、他の人まで石を投げる必要があったのかわかりませんが、そんな中で彼はひざまずい、こう言ったのです。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」

 これは、イエス様が十字架に付けられたときに、その十字架の上で発せられたのと、よく似ています。ルカ23:46には、イエスは大声で叫んで、こう言われました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」そればかりでなく、最後の祈りも非常に似ていることがわかります。ステパノは、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈っていますが、イエス様もまた「父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と祈られました。ですから、そっくりなのです。これを書いたのはルカです。ルカがかってに脚色したことではなく、ステパノ自身がそのように祈ったということを聞いて、きっとそこにイエス様のお姿を表したかったのではないでしょうか。すなわち、このステパノという人は、イエスの様に生きた人であったということです。彼はイエス様の足跡を踏もうと生きていたということです。

 それにしても、そうした非常に似ているステパノの祈りですが、その中にもちょっとだけ違っているところがあることに気づきます。それは、イエス様が「父よ」と叫んだのに対して、ステパノは「主イエス様」と叫んだことと、イエス様が「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言ったのに対して、彼は「私の霊をお受けてください」と祈っている点です。このステパノの祈りはいったい何を意味していたのでしょうか。これは、イエス様こそ十字架で死んで復活し、今も生きておられるばかりか、死者の霊を受け取り、私たちの死後の運命も支配したもう神であられるという信仰の告白なのです。その信頼し愛しまつる主イエスに、自分の霊を全面的に明け渡そうした彼の思いがよく表されています。そこにあるのは死後のたましいをさばかれる恐ろしい神のさばきではなく、愛し慕いまつる方のもとに行けるという喜びであります。
 クリスチャンはだれでも、死に際して、ステパノのように、イエス様に向かって「主イエス様。私の霊をお受けください」と言って、安らかに、死ぬことができるのです。

 人はだれでもみな、安らかに死んでいきたいと思っていますが、いったいどうしたらそんな安らかな死を迎えることができるのでしょうか。奈良にぽっくり寺というお寺があるそうですが、ここにお参りすると、苦しまずにぽっくり死ねるということで、連日、各地から参拝人がバスを連ねて、押し寄せてくるそうです。ある時、このぽっくり寺に来たおばあさんが、お参りをすませた後で、バスの所へ返る途中の参道で脳卒中で倒れ、あっという間に亡くなってしまいました。それを見て一緒にお参りに来た人が、「ぽっくり寺もいいけれど、こんなによく効くんだったらお断りだ」と言ったそうです。まったく身勝手ですね。

 「安らかに死を支える」という本を書かれた医師の柏木哲夫先生は、これまで多くの臨終に立ち会い、様々な死を見てきたけれど、平安な死を迎える人がいれば、苦しみ、もだえながら死んでいく人といろいろいるけれど、その決めては何かといったら、人は生きてきたように死んでいくということでした。
 その本の中に73歳になられたひとりのご婦人の話が載っております。この方は直腸ガンが肺に転移し、すでに死期は目前でした。しかし、この方はクリスチャンで、死を全く受容しているかのようでした。召される一週間くらい前のことです。柏木先生が病室を訪れると、にこにこした顔で「先生。もうすぐイエス様に会えそうです。あと一週間くらいですかね。」と言われました。この方はもう死を受容しているなと思ったので、「そうですか。近づきましたか」と平静に語り合える間柄でした。
 その後、できるだけ毎日病床を訪ねるようにしていましたが、亡くなる二日前に訪問した時も、「先生。明日かあさっての感じですよ」とにこにこして言うと、「私にはわかります。目をつぶると天国が次第次第に近づいてくるんです。感謝ですねえ。」と言うではありませんか。しかし、まだイエス様のことを知らないご主人のことが気になるようで、「先生。一つだけお願いがあるんですけれども、聞いてもらえますか。」というので、「ええ、私にできることなら喜んでお聞きしますよ。」と言うと、「実はこの場で主人のために祈ってください」と言うのです。何とかしてご主人を導きたかったのですができなかったので、何とかご主人が神様を信じて救われてほしいと思われたのでしょう。そこで柏木先生が、その場で祈りました。「神様。Kさんはもうすぐあなたのみもとに帰ろうとしています。どうか数日の間、体の苦しみがなく、平安に守られますように」と祈り、「今、一番気がかりなのは、ご主人の救いのことであるとはっきりと言われました。どうか、あなたが働いてくださってご主人を救ってください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。。アーメン」と祈ると、そのとき、隣にいたご主人が生まれて初めて、柏木先生の祈りに合わせて「アーメン」と言ったのです。その声を聞いたKさんの目からは涙がボロボロと流れ出ました。そして柏木先生に向かって「先生、ありがとうございました」と心から安心したように言いました。
 やがていよいよ臨終という時、徐々に薄れていく意識の中でKさんは、「天国が見えてきました」と静かに言って息を引き取られました。そこにいた人みんなが感動しましたが、特にその様子を見ていたご主人が感動し、その後教会へと通い始め、二ヶ月後には洗礼を受けたのです。
 人生の巡り合わせというのは不思議な者で、その後ご主人も一年とたたないうちに肝臓ガンになられました。自ら進んで柏木先生に主治医になってほしいと言われたので、診察をしたところ、その時には肝臓のほとんどがガンに冒され、腹部はかなり膨張していて、腹水がたまっている状態でした。そこでご本人に告げた方がいいと思ってお呼びしたところ、本人の方から「先生。ガンなんでしょ。」と言われました。「死ぬことは覚悟してますから、できるだけ苦しまないようにお願いしますね」と淡々と言われました。そして数日後、家族全員を連れて、自分が葬られる教会の納骨堂を見に行くと、遺書をしたためて入院されました。
 ある日、柏木先生が病室を訪問し、「どんな具合ですか」と聞きますと、「先生。もう長うないと思います。でも心に不安はありません。家内と一緒の所へ行けるんですから」。と言われました。そしてその言葉通りに、十日後に亡くなられました。それはとても平安な臨終だったと言います。
 この時、柏木先生は思ったそうです。信仰が本人に与える力は何と大きいことか・・・と。いつも自らが生かされていることを感謝し、人生の道、死ぬ時期、死に方をゆだねきった人生というものがどれほど平安に満ちたものなのかを見せていただいた死であった・・・と。

 クリスチャンにはみな、このような死に方が備えられています。ステパノが「主イエス様。私の霊をお受けください」と祈ったように、私たちの霊のすべてを支配しておられるイエス様にすべてをゆだねることができるのです。愛するイエス様のところへ行けるという喜びがあるのです。ステパノのこのことばには、そうした彼の信仰が溢れていたのです。

 Ⅲ.敵のために祈ったステパノ

第三に、敵のために祈ったステパノの姿です。60節をご覧ください。「そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた。」

 ステパノが最後に祈ったことばも、イエス様の時と似てますが、いくらか違いがあることがわかります。まずイエス様が「父よ」と祈ったのに対して彼は、「主よ。」と言いました。また、イエス様が人々の罪を赦していただく理由として、「彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と祈ったのに対して、ステパノは、情状酌量の理由を述べていない点です。いったいどうしてでしょうか。どうして彼はそのように祈ったのでしょうか。

 おそらく、イエス様はすべての人の心を知っておられるお方でしたから、人々が無知の罪を犯しているということがよくわかっていましたが、ステパノの場合は、はっきりわからなかっのだと思います。そうしたはっきりしないことをあたかもそうであるかのように、自分の観測で物を言うのはよくないと思ったのでしょう。彼はただ、「この罪を彼らに負わせないでください」と祈ったのです。しかも、ここで「主よ」と言っていることからもわかるように、イエス様こそ人の心の奥底までも知ってさばかれる方であられるということを信じ、この方にすべてをおゆだねしたのです。しかも、そのさばき主には、赦しがあるということ恵み深い事実を信じていたのです。

 私たちは、日本人の死の通年から見て、この時にステパノが自分のことを祈らないでむしろ他人のために、しかも敵のために祈ったという事実に驚きを感じます。いったいだれが死の間際にこんな祈りをささげることができるでしょう。いったい彼はどうしてそのように祈ることができたのでしょうか。それは、彼が自分の死については既にちゃんと済ませていたからです。もちろん、私たちも自分の死については、理屈の上では済ませているつもりです。しかし、実際に死を迎えるときになると、心は迷い、信仰は動揺し、あわてふためいていろいろな迷信に走ってしまうということも少なくありません。ステパノが自分の死について解決していたというのは、そうした頭の中の理屈とか、口先だけの信仰によるものではなく、とうにイエス・キリストの福音の確かさを確信し、心底から解決していたからなのです。私たちも、人のために祈って死ねるとしたら、それは私たちが福音の確かさによって、自分自身のことを完全に解決している時だけなのです。あの偉大な神学者のアウグスティヌスは、「もしステパノが祈らなかったら、サウロは回心していなかっただろう」と言いました。58節を見ると、このとき青年サウロの足もとに、ステパノの着物が置かれたとあります。彼はステパノの殺害に加わったかどうかわかりませんが、少なくてもこの時点ではまだ神の敵でした。そんなサウロがキリストに捕らえられて回心し、やがてキリスト教の偉大な伝道者となっていくわけですが、そのためには、このステパノの祈りがなければなりませんでした。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」この祈りが、やがてサウロの回心へとつながっていくわけです。ここでのステパノの最後の祈りの一言も、むなしく地に落ちることはありませんでした。私たちも、死においても隣人をキリストのもとに導いていくことができるように、自分の救いというものに対して確信を持ち、解決していなければならない。イエスを救い主として信じ、ステパノのように、「主イエス様」と祈れるものでなければならないのです。

 こうしてみると、ステパノが見事な祈りをして殉教の死を遂げることができたのは、彼に栄光のみ姿を表してくださった主イエス・キリストがいたからだったのです。主イエスがおられるならば、明日も怖くはありません。死も怖くありません。キリストが、私たちの罪を負い、十字架にかかってあがないを成し終えてくださったのですから、私たちはその主イエスに向かって「私の霊をお受けください」と祈ることができるからです。主イエスが、罪深い私のために救い主となって死んでくださったからこそ、私たちもまた隣人のためにこう祈ることができるのです。「この罪を彼らに負わせないでください。」それはよみがえりの主イエスが、今は神の右の座にいて、とりなしていてくださるからです。私たちにとって必要なのは、この主イエスを見上げることなのです。

 皆さんは、今、どこを見ていらっしゃいますか。人は見るものによって言動が変わると言いましたが、その通りです。もし、皆さんが、十字架で死んでよみがえられ、今も生きておられる主イエスを見上げるなら、天を見上げるなら、そこにどんな悲しみや困難があっても、そのすべてを主イエスにゆだねて祈ることができるのです。

 キリスト教史上最初の殉教者となったステパノのは、生きるにしても死ぬにしても、そのことを生涯をかけて証ししました。それゆえに彼は真の意味で「冠」となったのです。どうか、皆さんもステパノのようにただ天を見上げ、そこに立っておられる救い主イエスを見てください。そして、手を差し伸べて迎えてくださる主に感謝しつつ、この地上での生涯を主を証していく者でありたいと思います。