使徒の働き7章44~53節 「まことの神の家」

 きょうは「まことの神の家」というタイトルでお話したいと思います。48節に、「しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。」とあります。では、いと高き方は、どこにお住みになられるのでしょうか。それがきょうのテーマです。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません」(6:13)という理由で訴えられたステパノは、そうでないということを弁明するために異例とも思えるような長い説明を始めました。まず彼は、彼らか信じていた神とはどのような方かについて、アブラハムから始まったイスラエルの歴史を通して語ると、話はモーセの物語へと移りました。すなわち、あのモーセが指し示していた実体こそキリストであり、このキリストに従う満ちこそ神の道であるということでした。そして話はいよいよクライマックスへと入ります。すなわち、エルサレムにある神殿こそ神が住んでおられる聖なるところであって、それに逆らうことを言うことは間違っているということなに対して、ステパノは、そうではないと言ったのです。というのは、神様は偉大な方であって、人間が手で造ったような家にはお住みにならないからです。そのように「この神殿が・・・」と神殿に固執して彼らこそ、神のみこころから離れ、神に逆らっているのだと言いました。このことは、単に神殿がどうのこうのということ以上に、私たちの信仰の中心とは何なのかについて改めて教えていると思います。すなわち、律法ではなく福音であるということです。福音の恵みに立ち、その恵みに生かされることが神のみこころであるということです。

 きょうはこの「まことの神の家」について三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、あかしの幕屋についてです。まことの神の家はエルサレムに神殿ができるずっと前から、既に幕屋を通して存在していたという事実です。第二のことは、まことの神は手で造られた家に住まわれる方ではないということです。第三のことは、ではまことの神はどこに住まわれるのか。まことの神は、へりくだって、神とともに歩む人の中に住まわれるということです。

 Ⅰ.あかしの幕屋があった

まず第一に、幕屋について見ていきたいと思います。44,45節をご覧ください。

「私たちの父祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた命令どおりに、造られていました。私たちの父祖たちは、この幕屋を次々に受け継いで、神が彼らの前から異邦人を追い払い、その領土を取らせてくださったときには、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ついにダビデの時代となりました。」

 ステパノは、彼が律法と聖なる所とに逆らっているという訴えに対して、律法の中心であったモーセが指し示していた実体こそキリストであったということを説き明かすと、次に、聖なるところに逆らうことを語っているということについて、この聖なる所である神殿に固執することがナンセンスであることを示すために、モーセの時代に既に存在していた荒野について語ります。44節には「私たちの父祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋があった」と言います。それはエルサレムに神殿ができた約400年前のモーセの時代のことです。それは、神がモーセに命じて造らせたものです。その時代に既に神殿の原型となった幕屋が存在していたというのです。どこに?荒野にです。であれば、どうしてエルサレムにある神殿に、それほど固執する必要があるのでしょうか。神様はいつの時代でも、どこにでもおられる方です。あのアブラハムがメソポタミヤにいたときに御声をかけて召し出されましたし、ヨセフの時代にも彼とともにおられた方です。そして、モーセの時代には、荒野にあかしの幕屋を作るように命じ、それを通して彼らとともにいてくださった方です。であるなら、どうしてエルサレムにある神殿にそれほど固執する必要があるでしょうか。

 そもそも幕屋とは何でしょうか。幕屋とはその昔モーセの時代に、神がイスラエルの民の中に住むために造られたものです。出エジプト25:8には、「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」とあります。神様はイスラエルに十の戒め、十戒を与え、その掟を守るなら、彼らとともにいて、彼らを守り、必要のすべてを与えてくださると約束されましたが、その律法に従わないのなら、彼らをさばかれると言われました。けれども、神の命令を完全に行える人などだれもおりません。私たち人間は罪を犯さずには生きていけないほど弱いものです。たとえ自分では律法を守っているかのようであっても、神の基準からみたら全く不完全な者にすぎません。たとえば、十戒には「殺してはならない」とあります(出エジプト20:13)。私たちのだれが、この戒めを破っていると思っているでしょうか。人を殺している人など、ほとんどいません。したがって私たちのだれもが、この戒めを破っているとは思っていませんが、神の基準から見たら違うのです。この「殺してはならない」と神が言われたことばの真意は、実際に人を殺したかどうかということではありません。マタイ5:21,22を開いてみましょう。このところでイエス様は、このことばの真意を正しく教えてくださいました。

「昔の人々に、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者には、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

 ああ、何ということでしょうか。私たちは燃えるゲヘナに投げ込まれなければなりません。なぜなら、私たちは実際に人を殺すようなことはしていなくても、よく「ばか」というからです。私もこどもが小さい時に、こどもが人に向かって「ばか」なんて言うのを聞いてよく言いました。「なんで人に向かってバカって言うの。それはとっても悪いことばだから使っちゃだめだよ。バカ」そうなんです。私たちは神様の基準で見たら、とても神様のみこころにかなう者ではありません。神のさばきを受けて滅んでいかなければならないような罪深い者なのです。しかし、あわれみ深い神様は、そんな私たちが十戒を守ることができないことを十分承知のうえで、彼らが滅びることがないように、彼らとともに住まわれる道を用意してくださいました。それが幕屋だったのです。人々はそれによって聖なる神様に近づく方法を学ぶことになったのです。

 そしてここには「あかしの幕屋」とあります。この幕屋が「あかしの幕屋」と呼ばれているのは、神のあかしである十戒が書かれた二枚の石の板が収められた箱が置かれていたからです。それは契約の箱とか、あかしの箱と呼ばれていました。ですから、幕屋全体も「あかしの幕屋」と呼ばれていたのです。それから、この幕屋のもう一つの呼び名は、「会見の幕屋」「会見の天幕」でした。神がこの幕屋での礼拝を通して民と会見してくださるという意味です。イスラエルは、この幕屋で神を礼拝するとき、何一つ神の像を見ることはできませんでしたが、神と会見することができました。どのようにしてでしょうか。神のあかしのことばによってです。そのことばによって彼らは、神がともにおられること、神とはどのような方なのか、神が望んでおられることはどんなことなのかを知ることができたのです。

 ステパノは、それが荒野の時代に既にあったと言いました。38節を見てください。モーセはすでに荒野において、「シナイ山で彼に語った御使いや私たちの父祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです。」この集会ということばには米印があります。下の欄外の説明には、これは「エクレシヤ」ということばだと記されてあります。「エクレシヤ」というギリシャ語は「「教会」のことです。ステパノは、このモーセの時代にすでに教会があったと言ったのです。なぜなら、教会とは生けるみことばを聞き、そこで神と会見する所だからです。たとえ荒野であっても、そこで生けるみことばを聞き、神と会見できるならば、それは教会なんだと彼は言ったのです。皆さん、教会とは何でしょうか。私たちは「教会」という言葉を聞くと、高い塔がそびえ立ち、中は美しく飾られた建物を創造しますが、それは教会堂であって教会ではありません。教会とは神のあかしを聞くことによって、神と対面させていただく所、神と会見するところです。いま、私たちはこうして神のことばにに触れ、神のあかしを聞くことによって、神と対面している。まさにこの教会の現実の中に置かれているのです。昔、イエス様の弟子であったアンデレは、兄弟シモンに会ったとき、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言って、彼をイエス様のみもとに連れて来ましたが(ヨハネ1:41)、そのように、私たちも「神とメシヤに会って来た」と言えるようなものでなければ、それは教会とは言えないのです。「どこに行って来たんですか」「はい、教会を見学してきました」では教会とは言えないのです。神が会見してくださったあかしの幕屋の中心に、神のあかし、神のことばが置かれていたように、教会の中心にはいつも神のあかしであるみことばが置かれ、みことばが語られなければならないという理由はそこにあるのです。その神の幕屋が次々に受け継がれ、ヨシュアの時代に今彼らが住んでいるカナンの地へと入って行き、ついにダビデの時代に入り、そこに神殿が建て上げられたのです。どういうことかというと、確かにモーセの時代に幕屋にあった幕屋はポータブルで一時的なものでありましたが、そこで神のあかしが語られ、神が会見してくださったいたのなら、それはエルサレムに建てられた神殿に勝るとも劣らぬ立派な神殿であっということです。それがモーセの時代からすでに存在していたという事実は、エルサレムの神殿にそんなに固執する必要はないということを物語っていたのです。

 Ⅱ.いと高き方は手で造った家には住まわれない

第二のことは、まことの神は、手で造られた家にはお住みになられないということです。46~50節までをご覧ください。

「ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。『主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、どこか。わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。』」

 ステパノは、神殿崇拝に対する彼らの熱を冷やそうと、それがいかに間違った考えなのかを神殿そのものに対するこれまでの歴史の流れから説明を企てようとします。次に彼が取り上げたのは、ダビデが願い求め、ソロモンの時に建てられた神殿そのものについての話です。ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めましたが、神のために建てたのはソロモンでした。ここで彼が言いたかったのはどういうことかというと、神殿というのは絶対的に必要なものではないということです。だって、別にソロモンの時代まで待つことができたんでしょ。本当に必要だったなら、そんなに待つことなんてできなかったはずです。何としてもダビデの手で造りたかったでしょうが、そのダビデは神様から「造れ」と命じられ、発案をしただけで、実際に建てたのはその子ソロモンでした。ソロモンの時代まで待っても、イスラエルの神礼拝そのものにはそれほど影響を与えなかったとたしたなら、そんなに重要なものではなかったはずなのです。

 もう一つのことは、そのソロモンがこの神殿を建てたときに言ったことばです。ステパノはソロモンが神殿を完成しそれを神様に捧げた奉献の式で祈った祈りを引用し、「しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。」と言いました。ソロモンは神殿が完成したとき、天の神に向かって手を挙げ、次のように言いました。

「しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高きあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです。しかしわが神、主よ、しもべの祈りと願いを顧みて、しもべがきょう、あなたの前にささげる叫びと祈りをお聞き下さい。あなたが『わたしの名をそこに置く』と言われた所、すなわち、この宮に向かってよる昼あなたの目をお聞きください」
(I列王記8:27,28)

 ここでソロモンは、たとえその神殿が人々の目を奪い、息も止まるような立派な建物であったとしても、いと高き神を入れることなんてとてもできないと告白しました。いと高き方は、天も、天の天も入れることのできない偉大なお方なのです。

 埼玉で伝道している友人の牧師が開拓伝道をして間もない頃、近くの木工所の部屋を借り、三日間の特別伝道集会を開いたことがありましたが、そのときに来られた講師の先生が、「聖書に書かれてある神様は、天地を造られた方であって、、一年に一度みんなにかつぎ出されて、御神酒(おみき)をぶっかけられて喜んでいるような方ではありません。」というと、その木工所の主人も話を聞きに来ていて、急に不機嫌になられ、「明日から集会所を貸すことはできない」と言い出しました。その木工所では祭りのための御神輿(おみこし)を作っていたからです。友人の牧師は何とか説得して集会を続けることはできましたが、意外にも人は、そうした小さな御輿に神が宿っていると本気で考えているのです。しかし、真の神様は、人が手で造ったような家に住むことができるような方ではないのです。天も、天の天も入れることができないほど偉大な方なのです。

 それは、預言者が語ってきたことでもあります。49節と50節を見てください。これはイザヤ書66章1,2節からの引用ですが、ここでステパノは、いと高き方が住まわれる家とはどのような家なのかを次のように言いました。

「主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所は、どこか。わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。」

 ステパノはここで、いと高き方が住まわれる家は、天地にはないと言いました。なぜなら、神様はあまりにも偉大で、大きいため、天も、天の天も、まして地も入れることができないからです。もし入れようとしたらどうなるでしょうか。はみ出してしまうのです。ちょうど育ち盛りの中学生が、前に来ていた洋服を着たときのようにです。何とか入れようとしても、きつくて入りません。手はつんつこてん、足はすねがまる見えで、おなかのところにはおへそが突き出てしまうことになるでしょう。それと同じように、天の天も、地の下にも、どこにも、まことの神を入れることはできないのです。

 Ⅲ.へりくだった心砕かれ、神のことばにおののく者に

 では、まことの神がお住みになられるのはいったいどんな所なのでしょうか。この49節と50節はイザヤ書からの引用であるということを申し上げましたが、実は、このイザヤ書を開いてみると、イザヤ書66章1,2節の全体から引用したのではなく、前半部分からの引用であったことがわかります。ちょっと開いてください。ここには、「天はわたしの王座、・・・・わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。」という言葉の後で、次のように記されてあります。

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

 ステパノがどうしてこのことばを引用しなかったのかわかりません。尾山令仁先生は、その注解書の中で、この頃にはそれを聞いていたサンヘドリンの人たちやリベルテンの会堂に属する人たちの怒りがピークに達していて、今にも彼を殺そうとしていたので、最後まで引用できなかったのではないかと言っています。早く結論を言わなければならないと思っていたステパノは、この箇所をスキップして、結論である51節からのことばに移ったのではないかと言うのです。私はこう思うのです。おそらくステパノはこれを言う必要がなかったのだと思います。それは聞いている人たちにとって十分承知の話だったからです。そんなことを言わなくても、もう既に彼らが神と聖霊に逆らっているということを、ステパノは十分伝えていたので、わざわざ言うまでもなかったのだと思います。

 しかし、エルサレムの宮である神殿についてそれほど知らない私たちにとっては、神様がどこに住まわれるのか、まことの神の家とは何なのかをみことばからはっきりと知ることは大切なことだと思います。そしてそのみことばが、こう言うのです。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」と。皆さん、神様が住まわれる所は、この被造物のどこにもありません。ただへりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者の中にあるということです。へりくだって心砕かれ、神の救いであるイエス・キリストを信じて心に受け入れ、新しく造り替えられたクリスチャン一人一人の中におられるというのです。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、」(Iコリン6:19)

 これはものすごいことです。天も、天の天も入れることのできない全能の神が、キリストを信じる人たちの心の中に、聖霊を通して住んでくださるというのですから・・・。これが神様の御業なのです。そのために神は、今から2000年前に御子イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。それは御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。罪によって神との交わりが絶たれ、そのままでは永遠の滅びるしかなかった私たちが神との関係を回復し、永遠に神とともに生きることができるようになるためです。それがイエス・キリストでした。キリストは何の罪もありませんでしたが、私たちのために罪となり、身代わりとなって十字架で死んでくださり、三日目によみがえられました。それは御子を信じる者がいのちを得るためであります。このキリストにあって私たちは、神の臨在、神との交わりをいただくことができるのです。ですから、キリストは「インマヌエル」なる神として生まれてくださったのです。インマヌエルとは、「神ともにおられます」という意味です。このキリストによって私たちは罪が許され、神がともにいますという聖書の約束が実現したのです。そして、ペンテコステの後に、神は約束の聖霊を信じる一人一人の心に注いでくださり、いつも、いつまでも、ともにいてくださるようにしてくださったのです。ですから、大切なことは、へりくだって心砕かれることです。心砕かれて悔い改め、この方を救い主として信じて心に受け入れることです。そして、この方のことばにおののくこと、この方のことばを恐れ、敬い、従うことなのです。そういう人たちこそ神の家であり、神がともにいてくださる所なのです。

 なのに彼らはかたくなになって、その神のみこころに背きました。51~53節です。彼らは父祖たちと同様に、聖霊に逆らって、この正しい方、救い主、イエス・キリストを十字架につけて殺してしまったのりです。神に背いているのは自分ではなく、あなたがたの方です。彼らこそ心と耳とに割礼を受けていない人のように、神のみこころを悟らないで、聖霊に逆らっていたのです。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

と言われました。また、「わたしを見た者は父を見たのです」(ヨハネ14:9)

 イエスを通して神に会う道こそ、神がご計画しておられた道であり、へりくだって心砕かれた者の道なのです。もしイエス様を信じないで、まだ自分勝手に生きようとしているなら、それはこのユダヤ人たちとほとんど変わりません。かたくなで、聖霊に逆らっていることになるのです。ですから、神の救いであるイエス・キリストを信じてください。そうすれば、全能の神が、あなたとともにいてくださるのです。あなた自身がまことの神の家になるからです。また、キリストは私たちを律法から解放するために死んでくださったのに、まだ自分の力で何とかしようと、律法に縛られた生き方をしていることがあるとしたら、それはこのユダヤ人たちと同じです。パウロは、

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)

と言いましたが、大切なのは、割礼を受けるか受けないかということではなく、愛によって働く信仰だけなのです。神の礼拝にすべてをゆだね、この聖霊に導かれた歩みなのです。

 覚醒剤を使用して逮捕され実刑を受けたK兄は、刑務所の中で妊娠中の奥さんとも離婚し、子どもの顔を見ることもなく、すべてを失うことになりましたが、そんな中、服役中に聖書と出会い、福音に心を開くようになりました。やがてイエス様を信じ、刑を終えて、心を悔い改め新しい出発をするために、さっそく教会に足を運び、リハビリも兼ねて、ホームレス伝道の手伝いを始めました。
 しかしK兄は、救われた後の薬物の後遺症やフラッシュバックなどに苦しみました。これからの生活の不安や、奉仕のストレスなどから、苦しくなると覚醒剤が恋しくなりました。そして、とうとう誘惑に負けて、売人を見つけ、久しぶりに薬を打ったところ、古い習慣が再び彼をとりこにしました。クリスチャンになったのに、罪の生活に舞い戻った自分に絶望して、彼は泣き崩れました。
 そんな中で彼が教えられたことは、自分は罪に対しては全くの無力な人間であるということ。そして、神様を信じていると言いながら
聖霊に自分自身をゆだねていなかったということでした。クリスチャンになっても、自分の力に頼って聖霊にゆだねていなければ、いつでも罪の生活に引き戻されるということを、体験的に知ったのです。祈りの中で聖霊がK兄に触れてくださり、罪の生活をやめられてないで苦しんでいる彼をも神がどんなに愛しておられるかを知って、彼は幼子のように、罪深いままの自分をありのままに御前に差し出しました。そのとき、深い聖霊の愛といやしを体験し、彼は本当の意味で薬物から解放され、自由になったのです。大切なのは、無新しい創造です。愛によって働く信仰だけなのです。もし、律法に縛られ、自分の力で生きることがあるとしたら、それは神が願っておられることではありません。すべてを神に明け渡し、聖霊の恵みの中に生きることこそ、神がともにおられ、神が住んでくださる所なのです。

 ですから、心をかたくなにしないでください。キリストを信じ、キリストが語られることに聞いてください。そうすれば、神の恵みがあなたの心を支配し、キリストにある自由と解放を享受することでしょう。それはあなた自身が神が住まわれるまことの家だからです。