きょうは「目からうろこ」というタイトルでお話したいと思います。18節に、「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。」とあります。サウロとは、クリスチャンを迫害していた急先鋒のような人でした。そのサウロがクリスチャンを迫害するためにダマスコに向かっていったとき、そこで主イエスと出会いました。「あなたは、どなたですか」という問いかけに対して主は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」とお答えになられたのです。そのイエスを信じる人たちを捕らえては牢屋に投げ入れていたサウロにとって、そのことばはどれほど衝撃的なことばだったかわかりません。彼はその主イエスとお会いしたとき地に倒れ、何も見えなくなってしまいました。そして、同行していた人に連れられてダマスコに入ったのです。
一方ダマスコに、アナニヤという弟子がいましたが、あるとき主イエスがこのアナニヤに現れ、ご自分のみこころを示されました。それは、「まっすぐ」という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねるようにということでした。主は、いつでもすべてことをお膳立てしてくださいます。サウロの知らないところで働いていてくださり、彼の目が開かれ、立ち上がることができるように用意しておられたのです。そのアナニヤに祈ってもらうことによってサウロは、目からうろこのような物が落ちて、再び見えるようになりました。それは以前の見え方とは全く違う見え方でした。救い主イエス・キリストによって新しく生まれ変わった目で、物事を見ることかできるようになったのです。
きょうは、このサウロの目からうろこが落ちて、目が見えるようになったことを通して、三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、神に焦点を合わせてということです。神様から「まっすぐ」という街路に行き、そこでタルソ人サウロを尋ねなさいと言われたアナニヤは、一瞬ためらいました。それはこのサウロがクリスチャンを迫害していた人物だったからです。そのアナニヤがサウロの元に行くようになったのはどうしてでしょうか。彼が人間の見方、考え方によってではなく、神の見方、考え方を持つことができたからです。いわば神に焦点を合わせたからでした。第二のことは、その結果です。私たちが神に焦点を合わせて生きるとき、神はご自身の御業を現してくださいます。神様は神に敵対していたサウロを救いへと導き、彼を福音の使者として用いられました。ここにキリスト教史上最大の伝道者が誕生したのです。ですから第三のことは、祈りなさいということです。すべは祈りによって導かれていきます。アナニヤが神に焦点を合わせることができたのは彼が祈っていたからであり、またサウロが変えられたのも、彼が祈りの中で神様のみこころを求めていたからです。祈りこそ私たちの目が開かれ、神に用いられていくために必要なことなのです。
Ⅰ.神に焦点を合わせる
まず第一に、神に焦点を合わせることです。10~16節までをご覧ください。
「さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、『アナニヤよ』と言われたので、『主よ。ここにおります』と答えた。すると主はこう仰せられた。『立って、「まっすぐ」という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。』しかし、アナニヤはこう答えた。『主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。』しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。』」
クリスチャンを迫害するために、いきりたっていたサウロは、ダマスコまで出かけて行きましたが、ちょうどダマスコの町の近くまで来たとき、主イエスと出会い、捕らえられてしまいました。一方、ダマスコではというと、主はアナニヤという弟子に現れ、ご自分のみこころを示しながら、そのご計画を着々と進めておられました。
このアナニヤという弟子は、聖書の中にはここにしか出て来ない人物で、サウロの回心の時にだけ用いられた器です。もちろん、これだけのことをした器ですから、忠実に証しをしていた信仰者であったに違いありません。彼がどれほど信仰に歩んでいた人であったかは、主が幻の中で彼に、「アナニヤよ」と呼びかけられたとき、彼がどのように答えたかを見ればわかります。彼は、「主よ。ここにおります」と答えています。これは、その昔アブラハムに、また、モーセに、そしてサムエルに語りかけられたとき、彼らが答えたことばと同じです。自分の名前を呼ばれて、「はい、主よ、ここにおります」と答えることのできる人は、「主よ。どんなことがあっても、あなたにお従いする用意ができています」という意志の表れであり、いつも信仰によって、神様の前を歩んでいる人です。アナニヤは、まさにそういう人だったのです。
そのアナニヤに対して主は、「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。」と言われました。この「まっすぐ」という街路は、今でもダマスコにあるそうです。「ダルブ・アル・ムスタキム」と呼ばれていて、ダマスコの町を東西に走っている大通りで、1,800メートルもまっすぐに走っているため、このように名付けられたと言われています。この「まっすぐ」という街路に行くようにと、主は言われたのです。いったい何のためでしょうか。そこにサウロという人がいて、彼は、アナニヤという人が入って来て、自分の上に手を置くと、再び目が見えるようになるのを、幻で見ていたからです。
しかし、さすがのアナニヤも躊躇します。なぜなら、このサウロこそ、エルサレムで多くのクリスチャンを苦しめてきた人であり、ダマスコに来たのも、「あなたの御名を呼ぶ者たち」、すなわち、クリスチャンを迫害するためだったからです。そのサウロが、いったいどうやって回心するようなことがあるでしょうか。そんなことは考えられないことです。そこでアナニヤはそのように主に申し上げると、主は次のように言われました。15,16節です。
「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
そのような危惧を抱いていたアナニヤに対して、主は「行きなさい」と言われました。なぜそのように言われたのでしょうか。なぜなら、「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器」だからです。あの人は、クリスチャンを迫害するために来たひどい人で、あんな人が救われるはずがないと考えるのは、ちっぽけな人間の経験に基づく知恵にすぎないことであって、主のお考えでは、そうではないのです。主は、そんなサウロを選び、ご自身の御名をすべての人たちの前に運ぶ器として選んでおられるのです。人間はいつも、自分の経験ですべてのことを割り出して考えるもので、なかなかその枠から抜け出すことができませんが、神様はそうではありません。神様は、そのようなちっぽけな枠に縛られずに、自由に考え、行動することがおできになる方なのです。この方は、人間的には全く救われる可能性がないようなサウロさえも捕らえ、彼をその名を宣べ伝える器に変えることがおできになるのです。
これが神様のなさることです。神様は、私たちの思いや考えといったものをはるかに超えて偉大なことをなされます。大切なことは、そうしたちっぽけな自分の考えや感情に縛られるのではなく、神様に焦点を合わせ、神が何を願っておられるのかを知り、それに従って行くことです。
今年ももうすぐクリスマスがやって来ます。神が人となってこの世に来てくださったということは驚くべきことです。ある人が言いました。それは人間が豚以上になることだ・・・と。全く聖い、聖なる、聖なる、聖なる神が、私たちと同じような肉を取られたのですから。しかし、このクリスマスが実現するために、どうしても見過ごしてはならないことがあります。それは、主イエスの母マリヤを妻として受け入れたヨセフの信仰です。処女マリヤが身ごもるなどということがどうして起こるでしょう。お産の専門家に聞いたら笑われてしまいます。そんなことは生物学的にあり得ない・・・と。それは生物学的にだけでなく、人間の常識を越えたことです。はじめヨセフもそう思いました。そして、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密にさらせようとしたのです。そんなヨセフがなぜ彼女を妻として受け入れることができたのでしょうか。それは、彼が神の言葉を聞いたからです。彼がこのことで思いめぐらしていたとき、主の使いが彼に現れて言いました。
「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているのは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスと名付けなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:20-21)
そこで彼は、眠りから覚めると、主の使いが命じられたとおりに、その妻を迎え入れたのです。それは人間の常識を越えたものでしたが、そうした人間の常識を越えた神のみこころに焦点を合わせ、それに従ったとき、すばらしい神の御業が現れたのです。
それは私たちの人生も、教会も同じです。自分の考えや思いにとらわれるのではなく、神のみこころに焦点を合わせて生きることです。たとえそれが自分の考えや感情に合わないことであったとしても、神様のみこころに合わせて生きるなら、私たちの思いをはるかに超えたすばらしいことを、神様はなさってくださるのです。では、このアナニヤに、神様はどんなすばらしいことをしてくださったでしょうか。17~19節をご覧ください。
Ⅱ.目が見えるようになったサウロ
「そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。『兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。』するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。」
主のご命令のとおりに、アナニヤがユダの家に行くと、そこにサウロがいたので、アナニヤは、彼の上に手を置いて祈りました。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです」と。
ここでアナニヤはサウロを「兄弟」と呼んでいます。クリスチャンを迫害するために遠いダマスコまで追いかけてきたサウロは、教会にとっては最大の敵であったはずなのに、そのサウロを彼は「兄弟」と呼んだのです。教会に来るとよく・・兄とか、・・姉とかといった呼び方をしますが、それは霊の家族としての親しみを込めてのことです。アナニヤはここでサウロをその兄弟と呼んだのは、彼がそうなるべき人であることを示されていたからで、それを受け入れていたからでしょう。この時すでに、アナニヤの中にはサウロに対する人間的な見方、思いは無くなっていました。
さて、アナニヤはサウロに対して「兄弟」と呼びかけると、自分がここに来た理由を語ります。それは、「あなたの来る途中、あなたに現れてくださった主イエスが、あなたの目が再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」これは何のことかというと、サウロが救われ、こころの目が開かれるために遣わされたということです。「目から鱗」ということわざがありますが、それは聖書のこの箇所から来ています。あることをきっかけとして急に物事の真相や本質がわかるようになることです。この「うろこ」ということばは英訳を見ると「fish scales(うろこ)」と書かれています。目からうろこが落ちるようなことがあるのかと、ある人はこれを医学的に調べ、これはきっとかさぶたみたいなものが落ちることだとか、白内障のことだなどと言った人がいますが、そういうことではありません。実際にサウロの目から何かの物質がボロッと落ちたのではなく、今まで見えなかったことが見えるようになった。その見えなかったものとは何かというと、霊的な真理です。サウロが迫害していたイエスとはだれなのか。この方こそ、聖書に約束されていた救い主、キリストであったということがはっきりわかったということです。ですから、ここでアナニヤは「あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです」と言っているのです。サウロの場合、肉眼が開かれることが、霊の眼が開かれることを象徴的に表していたのです。神様は、この時まで闇の中に生きていたサウロの人生を180度変え、回心に導き、キリストの喜びの証人へと変えてくださったのです。 私たちも、聖書のみことばの光に照らされるとき、目からうろこが落ちるという経験をすることがあるのです。
さて、目からうろこが落ちる経験をしたサウロはどうなったでしょうか。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいたかと思うと、ただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝えました。クリスチャン、サウロ、伝道者パウロの誕生です。あれほど神に敵対し、教会を迫害していたサウロが救われたのです。それはまさにアメージングです。驚くべきことです。それはおそらく、創価学会の指導者がクリスチャンになるようなもので、考えられないことです。私も、これまで何度か他宗教の方に伝道したことがありますが、なかなか困難です。世界宣教でも、共産圏やイスラム圏に伝道するのが難しいと言われているのがわかります。ましてユダヤ教の律法学者として、それなりの地位にあったサウロが回心するということはなかなか考えられないことでしたが、そのサウロが救われたのですから、本当
に驚きです。いったいなぜこのようなことが起こるのでしょうか。
「それは、人にはできないことですが、神には、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10:27)
それは人にはできないことですが、神にはできるのです。神にはどんなことでもできます。ですから、自分のちっぽけな考えや思いを捨てて、神のみ声に従わなければならないのです。アナニヤにとってサウロに会うということは相当の勇気が必要だったと思いますが、彼が自分の思いや感情にではなく、神のみこころに焦点を絞って生きていたからこそ、このような偉大なことが起こったのです。
私たちに必要なことは、アナニヤのように、いつでも、どこでも、どういう形でも主に用いられる者となるために、備えていなければならないということです。
では、どのようにして備えていたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、祈りなさいということです。
Ⅲ.彼は祈っています
もう一度10節を振り返ってみましょう。このアナニヤが神様からみ声をいただいたのはいつ、どんな時だったでしょうか。それは彼が祈っていた時でした。ここには、主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたことが書かれてあります。彼が幻を受けたのは、彼が祈っていた時のことです。神様はアナニヤが祈っていたとき、ご自分のみこころを示してくださったのです。クリスチャンとは、祈りを通してすべきことを聞き、行動する人です。祈る人に主は、偉大な奥義を見させてくださるのです。
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたの知らない大いなることをあなたに示そう。」(エレミヤ33:3)
とあるとおりです。
それはサウロも同じでした。11節を見ると、「そこで、彼は祈っています」とあります。サウロはダマスコにいた三日間、何も飲み食いしませんでしたが、それは、彼の食欲がなかったからではありません。彼が飲み食いしなかったのは、祈っていたからだったのです。すなわち、サウロはダマスコにいた三日間、断食して祈っていた。その祈りの中で、アナニヤという人がやって来て、自分の上に手を置くと、目が見えるようになるということを、幻で示されていたのでした。サウロもアナニヤも、共に祈りの中で神様に導かれていたのです。このように、祈る人に神様は、ご自身のみこころを示し、導いてくださいます。そして、決して救われることがないと思われたサウロが救われるという、すばらしい御業をなさってくださるのです。ですから、私たちは神様のみこころを知り、そのみこころに従うために、祈らなければなりません。そのときに主は、私たちがすべきことを示し、導いてくださるのです。
紀元354年、キリスト教最大の神学者アウグスティヌスが、アフリカのチュニジアで生まれました。彼の名は、昔の皇帝にちなんで、アウグスチヌスとつけられました。父はその地方の中産階級の地主で、死ぬ少し前にキリスト教に改宗。母モニカは熱心なキリスト者でした。両親はアウグスチヌスの出世を願ってせっせと勉強させ、その上で、身分の高い家からお嫁さんを迎えて一門の繁栄をはかりたいと考えていました。いわゆる”この世の幸福”を追いかけていたのです。 父の死後、アウグスチヌスは16歳になって、勉学のため、ひとりで、遠くの大きな町カルタゴへ行きました。しかし、その時代の性的にだらしない空気を吸って、たちまちに乱れた生活になり、ある身分の低い女性と同棲を始め、2年後には子供も生まれたのです。その上、あろうことか、マニ教に入信してしまったのです。母モニカは頭をガツーンと殴られた思いになりました。自分のそれまでの、この世的な信仰、虚栄を追う生き方の悔い改めを迫られたのです。
マニ教は一見キリスト教に似てはいたのですが、その本質は、新興宗教でありました。ですから、母モニカは、息子の所に押しかけ、何度も言い聞かせ、マニ教から引き離そうとしました。しかし、息子はいくら言っても聞き入れませんでした。それが母モニカの信仰を冒涜するものにすら思えたので、食卓をともにすることを拒否したりもしました。モニカは、自分のこれまでのいい加減な生き方を悔い改めつつ、息子の立ち返りを、涙ながらに祈りました。毎日毎日、足元の地面がぬれるほどに、涙を流して祈りました。
ある時、夢の中で、大きな大きな三角定規を見ました。その上にモニカが立っていると、輝くばかりの、晴れやかな青年がやってきて、にこやかに語りかけてきました。「モニカよ、なぜ泣いているのか。」と。そこでモニカが「息子の命が滅びるのを嘆いているのです。」と答えると、「安心して、よく見なさい。」というのです。そこでじっと見ると、大きな定規のはるか彼方の向こうの方に、小さい小さい人が立っているではありませんか。それはわが子アウグスチヌスのようでした。「あなたの立っている定規の上にいずれ彼もいるようになるでしょう。」と彼は言うのです。それで、少し希望が出てきて、慰められました。
それでも、現実の事態は一向に良くなりません。そこでモニカは教会の司祭の所に行って、頼みこみました、息子に会って、マニ教の間違いをさとしてくれるように、と。すると、その司祭は、自分の体験を語りつつ、「今はそのままにしておきなさい、そして、主にひたすら祈りなさい」と言うのです。しかし、その言葉で安心できないモニカは、涙をながしながら、なおもその司祭に強くせがみました。すると、それを不愉快に思ったのかこう言いました、「さあ、帰りなさい。大丈夫。このような涙の子が滅びるはずがありません。」と。この言葉は天から響いたように、モニカには聞こえたのでした。
それから9年間、息子は、マニ教にとらわれたまま。明けても暮れても変わる気配がありません。モニカには、息子が坂道を滅びに向かって下っているように見え、いつ立ち返るだろうか、と、嘆きつつ、祈り続けていました。
そのうち、ある日、アウグスチヌスはマニ教の有名な指導者がカルタゴにやってくるというので、会いにでかけました。しかし、会ってみると、雄弁ではあっても、大事な点で無知であることがわかり、幻滅したのです。そこで、彼は、ローマへ行こうと計画したのです。
母モニカはそれを伝え聞き、”ここでローマへやってしまったら、息子は永久に失われるのではないか”と恐れました。そして、ひどく嘆き悲しみながら、”ここは、是が非でも、息子を自分の町に連れ帰ろう”と堅く決心して、カルタゴの港に来ました。そして、彼を見つけて激しくつかまえて、”さあ、いっしょに帰ろう”と説得し、”帰らないなら自分も付いて行く”と言い張りました。それで困ったアウグスチヌスは、「今度、良い風が吹いて船が航海できるようになるまで出かけない、今夜は遅いので泊まろう」と嘘をついて、船着き場近くの、有名なキプリアヌス祈念堂に宿泊しました。ところが彼は、夜中にひそかに起きて、母を置き去りにして、早朝に出帆した船でローマに向かったのです。
朝になって目を覚ましたモニカは、息子がいないことに気が付き、カルタゴの港を、船から船へと、息子の名を呼びながら探し回りました。しかし、アウグスチヌスの乗った船はもう見えなくなっていたのです。モニカは悲しみのあまり、狂気のようになって、いつまでも泣き叫んでいました。
ローマに着いてから、アウグスチヌスは多くの立派なキリスト者と出会い、霊の眼が徐々に開かれていき、聖書の真の意味を理解できるようになっていきました。その後、仕事の都合でミラノに移り、そこであの有名な司教アンブロシウスに出会い、教えられ、聖書の語りかけが胸にひびくようになりました。しかし、そうなると、並行して、彼の中で、信じたい心と現実の悪い思いと間で戦いが起こり、苦悩が深まってきたのです。
ある日、アウグスチヌスは下宿の裏庭に出て、悪い肉欲に抵抗できない自分の弱さが、つくづくとイヤになり、悲しくなり、木陰で倒れていました。すると、塀の向こうの隣りの家から、歌うような調子で、繰り返し「取って読め~、取ってよめ~」と言う、少年か少女のような声が聞こえてきたのです。このようなわらべ歌は一度も聞いたことがない、「その意味は何だろう?」と考えた次の瞬間、彼の顔色は変わりました。「そうだ!これは、聖書を開いて読め、という神の命令に違いない」と察したのです。彼は立ち上がって、すぐに部屋に入り、いつもの聖書を取って、さっと開いて、最初に目にとまったところを読みました。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはなりません。」(ローマ13:13,14) それ以上は読もうとは思わず、その必要もありませんでした。ここを読み終わった瞬間、安心の光が心の中に注がれ、疑惑の闇が消え失せてしまったのです。
このとき母モニカがミラノに来ていたので、彼は、早速そこへ行き、この回心を打ち明けました。すると、母は喜びのあまり泣き出し、大声で、”神様ありがとうございます”と感謝したのです。 彼が、受洗準備を経て、洗礼へと導かれたのは、それから間もなくのことでした。 このとき、アウグスチヌスは33歳。あのモニカが涙ながらに祈り始めたときから17年が経っていました。長い苦しい道のりでしたが、涙の祈りは確かにきかれたのです。
それから、アウグスチヌスは、いろいろと思案した結果、アフリカに帰ることにして、ローマの港オステイアまで来たのですが、モニカはそこで急に亡くなくなりました。もう何の思い残すこともなく、感謝に満たされて、大安心を得て、天に召されたのでした。
その後、アウグスチヌスは、たくさんの書物を著し、神学と哲学に素晴らしい貢献をして、史上最大の神学者になりました。モニカの祈りは特大の実を結んだのです。
このような涙の子が滅びるわけがありません。涙して祈る祈りは、必ず答えられるのです。それがあの母モニカのように17年の歳月を要するような祈りかもしれませんが、神様は私たちの祈りに答えて偉大なことをしてくださるのです。アナニヤが祈りの中で主から幻をいただいたように、また、サウロが祈りの中で目が開かれる経験をしたように、私たちも祈りの中で神様からすべきことを教えられ、その示されたことに従うことによって、偉大な神の御業が現されていくのです。だから祈ってください。主が皆さんの人生にも、すばらしい御業をなしてくださるようにお祈りします。