きょうは「前進し続ける教会」というタイトルでお話したいと思います。先週はクリスマス礼拝でしたので使徒の働きをお休みしましたから、きょうは、先々週の続きとなります。先々週のところでは、キリスト教を迫害していたサウロが奇跡的に回心した出来事を学びましたが、きょうの箇所は、その回心したサウロが、その後何をしたかが記録されてあります。そして、その結果どうなったのかが31節にまとめられ、次のように記されてあります。
「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進しつづけたので、信者の数が増えていった。」
教会のわざは、何の理由もなしに進展していくものではありません。進展していくにはそれなりの理由があるはずです。それがこの「こうして教会は・・」ということばに表れているのです。つまり、サウロが回心した後に行ったこと、そして、彼を取り巻く教会の動きの中に、教会の平和と前進、増加の秘密が隠されているのです。では、どのようにして教会は前進していったのでしょうか。
きょうは、そのことについて三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、ダマスコで回心したサウロは、イエスが神の子キリストであると、大胆に宣べ伝えたことです。第二のことは、そんなサウロを受け入れた教会についてです。彼はキリストの弟子たちの仲間に入ろうと試みましたが、みなは彼を弟子だとは信じることができなかったので、なかなか受け入れることができませんでしたが、そんなサウロをバルナバという人物が引き受け、使徒たちのところへ連れて行ってくれたので、彼は弟子の仲間入りを果たすことができました。その結果教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数が非常にふえて行きました。ですから第三のことは、主を恐れかしこんで生きようということです。
Ⅰ.イエスは神の子、救い主
まず第一に、ダマスコでキリスト教に回心したサウロが、イエスこそ救い主であると大胆に宣べ伝えたことにつて見ていきましょう。20,21節をご覧ください。
「これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。『この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。』」
「これを聞いた人々はみな」の「これ」とは、20節にあるように、サウロが、イエスは神の子であると宣言しているのを聞いて、ということです。サウロはアナニヤに祈ってもらうことによって目からうろこのような物が落ちて見えるようになると、ただちに、諸会堂で、イエスが神の子であると宣べ伝え始めました。イエスが神の子であると記されてあるのは、使徒の働きの中ではここだけです。主イエスと同時代に生きていた人は、来るべきメシヤは神の御子であると信じていましたから、このサウロの宣言は、イエスこそ父なる神と同じ性質を持っておられたひとり子の神であり、父なる神と永遠の交わりを持っておられながら、その神を啓示されたお方という意味でした。22節には、「しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して」いたとありますが、同じ意味です。キリストとは、神の油注がれた王、メシヤ、救い主という意味ですから、それはイエスこそ神の性質を持っておられた救い主であるという信仰告白だったのです。よくイエス・キリストという名前を名前と名字のように考えておられる方がおられますが、実はそうではなく、キリストというのは称号で、神の油を注がれた王、救い主という意味です。ですから、イエス・キリストというのは、イエスこそ神の子、救い主であるという信仰告白なのです。旧約聖書に精通していたサウロにとって、キリストという称号がどういう意味であるかというくらいは十分承知していましたから、彼はこれを好んで使っていたのでしょう。以前は、まさかイエスがキリストであるなどと全く考えも及ばなかったので、そのように主張していたクリスチャンを本気で潰しにかかっていたのですが、ダマスコで目からうろこのようなものが落ちて、はっきりと見えるようになった彼は、イエスこそキリストであることがわかり、逆に、それを伝えたのです。それにしてもなぜ彼は、そんなにもすぐに、また、熱心に宣べ伝えたのでしょうか。
第一にそれは、これまでの長い間、キリスト教に反対し、きわめて熱心にクリスチャンを迫害していたからです。彼の迫害歴からすれば、ステパノが殉教したときのことを筆頭に、数知れぬ犠牲者が、教会には出ていたのです。それほど教会に反対していた者が、キリストに捕らえられ、回心した以上、神の前にも、人々の前にも、それまで以上の熱心さをもって、自分の立場が全く変わったことを、ことばと行動をもって、示す必要があったのでしょう。
もう一つの理由は、何よりも彼の中に、そのように伝えずにはおられない喜びがあったからでと思います。それが信仰です。隠しておけるほどの小さな喜びなど、信じるに値しません。本当に信じ切ったほどのものであるならば、人に伝えずにはいられなくなるのはが普通ではないでしょうか。それは彼自身が、Ⅱコリント4:13で、「『私は信じた。それゆえに語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。」と言っているとおりです。私たちの信仰そのものに、そうした性質があるのです。
このことについては、旧約の預言者アモスが、次のようにおもしろいことを言っています。
「獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。」(アモス3:8)
ライオンがほえたら、ぎくっとしない人がいるでしょうか。いません。それは反射的な反応なのです。神のことばをいただいた者が語り出すというのはそれと同じだというのです。神のことばをいただいたのなら、黙ってなどいられません。もし黙っていようものなら、とどめていようものなら、どうなりますか?エレミヤは次のように言いました。20:9です。
「私は、『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じこめられて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」
どういうことかというと、もし神のことばをいただきながら語らなかったとしたら、疲れてしまい、精神衛生上よくないということです。そのことばが心のうちで、燃えさかる火のようになり、しまっておくのに疲れ果ててしまうからです。ですから、これを無理に押しとどめようとするのは不自然で、難しく、健康にもよくないというわけです。神のことばを語るということはそれほどに、救われた人にとっては反射的で、自然なことであり、健康的なことなのです。
なのに、私たちがなかなかキリストを宣べ伝えることができないのは、どうしてなのでしょうか。恥ずかしいという思いがわいてくるからです。変な人だと思われたら恥ずかしいと思ってしまう。まあ、元々変な人なんだからそんなに気にしなくてもいいのですが、だれでもそういう思いがわいてきます。実は、サウロにもそういう思いがあったようです。ですから27,28節のところに、彼が「イエスの御名によって大胆に語った」と記されてあるのではないでしょうか。福音を伝える働きには、こうした大胆さとか、勇気といったものが必要だったからです。ローマ1:16でも彼は、「私は福音を恥とは思いません。」と言っていますが、なぜこんなことを言っているのでしょうか。「私は福音を誇りと思います」と言えばいいのに、わざわざ、「私は福音を恥とは思いません」と消極的に言ったのは、彼の中に福音を恥と思う思いがあったからではないでしょうか。パウロほどの人でも、福音を恥ずかしいと思う思いがあったということに、私たちは慰めを感じます。そうした中にあっても彼は、恥ずかしいと思う思いを押さえて、大胆に語る努力をしたのです。
中には、福音そのものにはコンプレックスを感じてはいないけれども、どのように話したらいいのかわからないということから来る恥ずかしさがある方もおられるでしょう。22節には、「しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた」とありますが、この「証明して」ということばは、結びつけるとか、組み合わせるという意味です。伝道というのは、イエスがキリストであるという命題を、旧約聖書の預言とイエスの出来事とを一つ一つ結び合わせ、組み合わせて立証していくことなのです。ですから、そんなに難しいことではありません。どんなに口べたな人にでもできるという希望があります。雄弁によってではなく、聖書のことばを読み聞かせればいいのです。
かつて私が神学校で学んでいた頃、仙台にキャンパスクルセードの働きをしていた韓国人の宣教師がお話をするというので、どんな話をするのかと思って聞きに行ったことがあります。この方は金圭東(キム・ギュドン)という方で、後にウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会の韓国部礼拝から独立して、「ヨハン教会」という教会を創設した方です。「ヨハン教会」というのは、淀橋の「淀」と韓国の「韓」という字を韓国語で読んだ名前です。
しかし、キム・ギュドン先生の話というのは、旧約聖書を何の抑揚もなく、淡々と話すだけで、特におもしろくないどころか、聞いていますと、だんだんと眠くなってくるのです。ところが、最後にその話がキリストへと結びついていくのです。まさにここでサウロが話していたように、イエスこそキリストであると論証していたわけです。
そうしたキム・ギュドン先生の働きは大きく広がって行き、今では日本全国に広がっているほど大きな成長を遂げています。ですから、別に流暢にお話できなくても、雄弁でなくても、イエスがキリストであると論証できれば、すなわち、聖書のことばを読み聞かせすればいいのです。これならできそうですね。
実際、サウロも、「ますます力を増して」証明した、と言われてように、そのように語っていれば、だんだんと慣れてくるだけでなく、少しずつ聖書にも精通して来て力を増し、大胆にもなれるのです。このように伝道することは自分が聖書の知識を増し、力も増していくという、まさに一石二鳥の成長法でもあるのです。回心したサウロがただちに、イエスが神の子、キリストであると宣べ伝えたので、教会は前進して行ったのです。
Ⅱ.仲間に入ろうと試みた
第二のことは、彼が仲間に入ろうと試みた点です。26~28節をご覧ください。
「サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べ伝えた様子などを彼らに説明した。それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出入りし、主の御名によって大胆に語った。」
回心したサウロがしたもう一つのことは、彼が、弟子たちの仲間に入ろうと試みたことです。26節を見ると、ダマスコで力強く伝道していたサウロを殺そうとしていたユダヤ人たちの陰謀を知ると、彼の弟子たちは、夜中に彼をかごに乗せ、町から脱出させ、エルサレムまで運びました。エルサレムに着いたサウロは何をしたでしょうか。彼は、弟子たちの仲間に入ろうと試みたのです。このことは既に、彼がダマスコで回心した直後にも見られた行動です。19節には、サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちちもにいた、とあります。サウロは、何とかして教会の仲間に加えてもらおうと試みたのです。教会の側には、まだサウロが回心したことを信じることができず、スパイとして潜入したのではないかと警戒する動きもあって、仲間に加えていくことにはかなり慎重で時間もかかりましたが、それでも彼は、教会の誤解と偏見や、警戒心がとけるまで、忍耐強く仲間に入ろうと努力をしたのです。彼には、ダマスコで伝道した結果、彼の弟子もできていましたが、それでも決して自分たちの分派を作ろうとはせず、あくまでもその仲間に入ろうとしたのです。
一方、教会の側の態度にも感心させられます。27節を見てください。大迫害者サウロを仲間に入れることに慎重だったのは、教会として当然のことでしょう。しかしその中にあっても、何とか仲間に入れようとした人物がいました。誰ですが?バルナバです。バルナバは、エルサレムの教会がサウロを警戒し、仲間に入れることに慎重だった時に、彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、ダマスコで彼にあったことや、彼が救われてからダマスコでしたことなどを説明して、仲間に入れてくれるように説得したのです。この「引き受けて」ということばは、「手をとる」というまことに情のこもった世話のことです。しょうがなくて連れて行ったのではなく、心から受け入れ、温かい気持ちで、彼を仲間に入れようとしたのです。このバルナバのように、クリスチャンとクリスチャンが一致して仲間になることを助けようとする仲介の働きは、実に大きな働きであります。
それだけではありません。バルナバのとりなしを聞いたエルサレムの使徒たちも立派でした。28節を見てください。彼らはバルナバの紹介状を信用しただけでなく、サウロがエルサレムの教会において自由に出入りできるように心を開いて彼を受け入れたのです。彼らには、このサウロを自分たちの仲間に入れることに対して、少しのためらいもありませんでした。サウロが自由に出はいりしていたという事実は、彼らがサウロに全く心を許せるほど受け入れていたという証拠でしょう。
このように回心したサウロの側にも、また、仲介したバルナバの側にも、そして、教会の使徒たちや弟子たちの側にも、実に強い仲間意識が見られます。彼らにとって回心した信者が、一匹おおかみで信仰の旅を続けるというようなことは、全く考えられないことでした。回心したならば、どんなにきらわれのけ者にされても、その仲間に入ろうと試みていかなければなりませんし、また、もしその人が回心したということがわかるならば、どんな人であろうともその仲間に迎え入れ、自由に交わり、助け合っていかなければなりません。主が救いに召してくださった主のしもべを、だれひとりさばかない、はじき出したりはしないといった心の広さ、温かさが、当時の教会にはあったのです。いったいなぜこのような心の広さや温かさがあったのでしょうか。それは彼らがみな、主を恐れていたからではないでしょうか。主を恐れかしこみながら歩んでいたからなのです。というのは、みことばにそのように勧められているからです。
「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」(ローマ14:4)
あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。さばかれるのは主ご自身です。しもべが立つのも、倒れるのも、それは主人次第なのです。主が立たせようとしている人を倒すことは、主のみこころではありません。主のみこころは、私たちが互いに愛し合うことであり、互いに建て上げることです。それが31節の「築き上げられ」ということばに表されています。これは家が建て上げられる時に使われることばです。教会は、どのようにして建て上げられていくのでしょうか。それは主のみこころに従うことによってです。自分の意見や好みや感情といったレベルにとどまっていることによってではなく、あくまでも主のみこころに立つことによって、互いに愛し合い、築き上げられながら、平安を保ち、聖霊に励まされて前進していくことによって、建て上げられていくのです。要するに、教会の一致と前進は、私たちひとりひとりの主イエスの信仰と服従によってもたらされていくものなのです。
Ⅲ.主を恐れかしこみ
ですから第三のことは、みんなで主を見上げ、主を恐れかしみながら、前進していきましょう、ということです。31節をご覧ください。
「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」
こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行きました。こうしてというのは、これまで見てきたように、キリスト教を迫害していたサウロが回心するや「ただちに」、キリストを宣べ伝えたことと、教会が、要注意人物と思われていたサウロを迎え入れたということによってです。しかし、それは、ただ単にサウロが教会に加入したからということではなく、サウロと教会の態度に示された考え方や信仰の本質があったことの結果なのです。つまり、サウロも教会も、教会は建て上げられ、前進していくものであるということを信仰によってしっかりと受け止め、主を恐れかしこみながら歩んでいたということです。このことが正しく理解されているならば、つまらない偏見や、狭い了見で仲たがいしている暇などないのです。結局のところ、教会が前進し、信者の数が増えて行くというのは、ひとりひとりが主に対してどのような信仰をもって歩んでいるのか、どのような考えて方を持っているkかによって決まるのです。
であれば私たちは、ますます神様のみこころを求め、この神のみこころに従って生きることが大切です。教会の交わりにおいては、年齢の違いや、性格の違い、考え方の違いなどがあって、必ずしも自分の思うように動いていないと感じておられる方もいるかもしれません。しかし、だからと言ってそこからはじき出てはいけないのです。サウロのように、その仲間に入ろうと努力していかなければなりません。また、そういう人を見て、あの人は自分とは違うからと言ってはじき出してもいけない。バルナバのように、その仲間に入れようと労をとっていくことも大切なことです。いずにせよ私たちの中に、教会は建て上げられ、前進していくものであるということを覚えながら、必ずそうなると信じて、主を恐れながら歩むことが求められているのです。
「健全なる肉体に、健全なる精神が宿る」という有名なことばがありますが、このことばをそのまま解釈すると、健康な体を持っている人にしか、健康な精神は宿らないということになります。しかし、それは違います。健康な体の人でも、健全な精神を持っていない人がいますし、逆に、健全な体でい人でも、健全な精神を宿しておられる方がいるからです。
このことばの出所を調べてみると、どうやら元々の意味が正しく理解されていないことがわかります。この言葉を最初に言ったのは、1世紀のローマの賢人、ユヴェナリスという人ですが、実は、これは祈りの言葉だったのです。彼はこう祈りました。
「神よ、健全なる肉体に健全なる精神を宿らせ給え。」
つまり、体が丈夫な人、病気一つしたことのない健康な人は、体の弱い人の弱さや痛みなどに対しては意外と鈍感なことが多いのです。だからそういう弱い人の弱さが分かるような心を私にも与えてください、という祈りだったのです。たぶんこのユヴェナリスという人も健康な人だったのでしょう。
「神様、私に健康な体を与えて下さって感謝します。でも同時に私の中に、人の弱さや痛みの分かる謙遜な心、健全な心も与えてください。」
彼はこのような意味で祈ったのだろうと思います。ですから、このもともとの意味は、「健全なる私の肉体に、健全なる精神も宿らせてください」という祈りの言葉です。
それでは、健全な精神とは、どんな精神でしょうか。それはまさに「主を恐れる心」、主を恐れかしこんで生きることではないでしょうか。主を恐れかしこむとは、何も神様が怖いといった恐怖の心のことではありません。畏敬の念と言ってもいいでしょう。あるいは、心から神を愛して神に従いたいという思いともいえるでしょう。これが主を恐れかしこむということです。そして、このような心が教会を建て上げ、教会に平和をもたらし、聖霊に励まされるので、前進していくのです。
アメリカの大リーグのナンバーワンピッチャーで、スーパースターだったランディージョンソンは、今から7年ほど前の絶頂を迎えていた頃にクリスチャンになりましたが、ある時、彼がこう証ししました。
「今から3年ほど前に、非常に辛い経験をしました。私の父が亡くなったのです。当時私は、クリスチャンになろうかどうか迷っていました。しかし、父の死によって決心がつきました。その時、私はこう祈りました。主よ。私の命を捧げます。野球場の中でも外でも、あなたの栄光を現すような生活をさせてください。』と」
そして彼はこう言っています。
「私たちの生涯におけるたった一つの道、それは主に従って歩む道である。」 彼はシーズンオフになると、子どもたちを集めて野球を教え、そしてイエス・キリストのすばらしさを証ししています。あの健全なる肉体に、まさに健全なる精神が宿ったのです。主を恐れる心が宿ったのです。主を恐れる心が私たちの中に宿ると、私たちの魂は力をもらいます。そして、驚くほどのみ業が現されるのです。それは人生のどんな困難な山も登ることができる力です。教会も、主を恐れてかしこみながら生きるなら、こに大きな力が宿ります。初代教会はそういう教会でした。そしてそれは私たちの模範でもあります。私たちも主を恐れかしこみ、主に従い、聖霊に励まされながら、前進し続けていきたいと思います。