使徒の働き9章32~43節 「イエス・キリストがいやしてくださる」

 新年あけましておめでとうございます。新しい年も主を見上げ、神にある希望を仰ぎながら、歩んでまいりたいと思います。きょうは「イエス・キリストがいやしてくださる」というタイトルで、主イエスによっていやされた二人の人の姿から、主イエス・キリストのいのちに生かされることの幸いについてご一緒にみことばから学びたいと思います。きょうお話する三つのことは、まず第一に、中風で8年間も床についていたアイネヤがいやされたことから、イエス・キリストがいやしてくださるということです。第二のことは、病気で死んだタビタが生き返り、起き上がった出来事から、イエス・キリストが起き上がらせてくださるということです。そして第三のことは、だからキリストのいのちに生かされながら歩んでまいりましょうということです。

 Ⅰ.イエス・キリストがいやしてくださる

 まず、32~35節までをご覧ください。

「さて、ペテロはあらゆるところを巡回したが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。彼はそこで、八年間も床についているアイネヤという人に出会った。彼は中風であった。ペテロは彼にこう言った。『アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。』すると彼はただちに立ち上がった。ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返った。」

 ここに再びペテロが登場します。彼は8章25節でサマリヤの地を後にして以来、しばらく姿を見せていませんでしたが、ここに再び登場してまいります。教会への迫害者であったサウロがダマスコへの途上で劇的な回心を遂げ、使徒の働きはいよいよペテロからサウロにバトンタッチしていくのかと思いきや、ルカはこの9章後半から10章にかけて再びペテロの姿を描きます。それはパウロによる本格的な異邦人伝道の前に、ペテロの果たした役割を私たちに印象づける目的があったかったからでしょう。サママリヤを去ったペテロは己の召しに従い、福音を携えて「あらゆる所を巡回し」ては、様々な地方にいた信仰者たちを励まし、教え、導いていったのです。きょうの箇所に登場するルダ、サロン、ヨッパというのはいずれもエルサレムから北西に進んで行った所に位置している町々で、やがてペテロの行程は地中海の北の港町カイザリヤへと進んで行くのでした。

 そのようなペテロの伝道旅行の最中に、彼はルダという町で一人の人物と出会います。それは、中風で8年間も床に着いていたアイネヤという人です。そのアイネヤに向かって、ペテロはこのように言いました。

「『アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。』すると、彼はただちに立ち上がった。」

 そこで起こった出来事の大きさに比べて、実に淡々とした描写です。聖書の中には実に多くの奇跡物語や癒しの記事がありますがその中でも実にあっさりとした書き方で、ずいぶん拍子抜けしてしまう書き方のように感じます。がしかし、だからといってこの出来事が何か軽々しいことや、簡単な出来事であったわけではありません。むしろこのような簡潔な表現の中に、一番明らかにされなければならないことが十分に語り尽くされているのです。それは何かというと、イエス・キリストがいやしてくださるということです。すなわちこのいやしの主人公は、主イエス・キリストご自身であられるということです。ペテロは言いました。「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を取り上げなさい。」ここでペテロは、あたかもイエス様ご自身が今、アイネヤに触れて下さっておられるかのように振る舞っているのがわかります。

 第一に、ペテロは「アイネヤ」とその名前で呼びかけています。それはちょうどかつてイエスご自身が失われた人ザーカイを捜し出してくださった時のようです。だれからも顧みられなかったザーカイに向かってイエス様は、「ザーカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(ルカ19:5)と呼びかけられました。そのとき彼がどんなにうれしかったかは、彼が急いで降りて来て、大喜びでイエスを迎えたということばからわかります。人は自分の名前を呼ばれることに特別の喜びを感じます。それはその人に愛され、喜ばれ、受け入れられていると感じるからです。そのように名前を呼んだペテロのことばに、彼は主イエスの愛を感じたに違いありません。

 第二に、イエス・キリストがあなたをいやしてくださると語ったことです。すでに十字架につけられて死なれ、よみがえられて今は天におられる主イエスが、あたかも今アイネヤに触れて下さっておられるかのように、ペテロはアイネヤをいやしてくださるのは他ならぬ主イエス・キリストご自身であることをはっきりと示したのです。このことばには、いやしてくださるのはイエス・キリストであり、彼にはいやす力があるというペテロの信仰が表れています。

 第三のことは、それだけでなくペテロがここで「立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」と語っていることです。それはかつて同じようにイエス様のところに中風で寝たきりの人が運ばれて来た時と同じようにです。その時にはあまりにも大勢の人で家の中に入ることができなかったため、4人の友人たちはその家の屋根に上り、屋根に穴を開け、そこから病人を寝かせたままイエス様の前に吊り下ろしましたが、その中風の人に向かってイエス様は、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」(マルコ2:11)と言われました。それと同じようにペテロは、ここでこの中風の人に向かって「立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」と言ったのです。それはペテロの頭の中にきっとあの時の出来事があって、それを思い出していたからでしょう。しかしそれだけでなく、アイネヤの中に何とかしていやされたいという願いを植え付けるためでもあったのではないかと思います。だれでも8年もの間床に着いていたらそれがあたりまえであるかのように思ってしまい、いやされたいという願いさえも消え失せてしまうものです。そうした人にとって必要なことは何かというと、主イエス・キリストはいやすことができる方であると信じ、自分で寝床を整え、自分で立ち上がっていこうとすることです。そのような意欲があるならたとえそれで体がいやされなくても問題ではありません。問題は体が病気になることによって心までも病気になってしまうことです。そういう意欲までも失せてしまうことです。そういうことがないために大切なことは、ペテロがここで言っているように、主イエスにはいやす力があることを信じ、自分はその主のいやしを信じて立ち上がっていこうとする姿勢です。

 さて、ペテロがそのようにアイネヤに語りますと、彼はどうなったでしょうか。34節にはその結果についても端的に記されてあります。「すると彼はただちに立ち上がった。」すると彼は「ただちに」「たち上がった」のです。何という神さまの御業でしょうか。最近は、引きこもりや鬱で、5年も10年も立ち上がれないでいる人が大勢いると聞きます。しかしそのような人々がこの中風の人のように立ち上がることができたら、どんなに感謝なことでしょうか。いや、できます。イエス様にはそれができるのです。そしてこのイエス様の御業は聖霊の時代である今日も、聖霊なる神によって、教会を通し、主にある聖徒たちを通してイエス・キリストご自身の御業と何ら変わることなく、続いているのです。イエス様にはそのような力があるのです。

 Ⅱ.タビタ。起きなさい

 次に、起き上がったタビタについて見ていきましょう。36~39節をご覧ください。

「ヨッパにタビタ(ギリシャ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。ところが、その頃彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたりのところへ送って、『すぐに来てください』と頼んだ。そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。」

 続いてペテロはヨッパの地で、もう一人の人と出会います。それはタビタという女の弟子です。ここにはギリシャ語でドルカスという名前であったと紹介されていますが、それは彼女が異邦人教会の間でそのように呼ばれていて、覚えられていたからでしょう。ドルカスとは「かもしか」という意味で、旧約聖書では美しさややさしさ、すばやい者の比喩として用いられています。彼女にはそのような愛らしい、きびきびした美しさがありました。それは彼女が、「多くの良いわざと施しをしていた」という言葉に表れています。

 そのドルカスが病気で死にました。すると人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いたのです。なぜでしょうか。一般的にユダヤ人は、人が死にますと、その日のうちに埋葬したといわれています。それは亡骸を長時間放置しておくことが、故人に対して不敬であると考えられていたからです。人は土から取られたのだから早く土に返すことが故人に対する礼儀であり、たましいは既に神のもとに帰ったのに、肉体が生ける者の地に留まっているのは、故人に対する冒涜、遺族にとっては恥であるとされていたのです。なのに彼らは、タビタが死んでもすぐに葬ることをしませんでした。それはルダにペテロがいることを聞いていたからです。ルダはヨッパに近かったので、そこにペテロがいると聞いていた弟子たちは、ペテロのもとに二人の人を送り、「すぐに来てください」と頼んだのです。

 するとペテロは、迎えに来た人たちといっしょに出かけていきました。ペテロが到着するとどうでしょう。彼女は既に死んで屋上の間に安置されていました。もう既に死んでしまったのに、いったい彼らはなぜわざわざペテロをヨッパに迎えようとしたのでしょうか。もしかすると、自分たちによくしてくれたタビタの葬儀に際して、ペテロ先生を招き、みことばを中心とした神礼拝をすることが彼女の葬りにもっともふさわしいと考えたからかもしれません。しかし、それ以上に人々は、ペテロがルダでアイネヤをいやされたことを聞いて、ペテロに何かの奇跡を期待したいたのではないでしょうか。このように何かの奇跡を期待するにせよ、みことばの慰めを期待するにせよ、神にある望みを仰ぎつつ、神を見上げ、神に期待するということは大切なことです。この新しい一年が、このヨッパの人たちのように、常に神を仰ぎ、神に期待する一年であるようにと祈ります。

 さて、ペテロがヨッパに到着すると、彼らは屋上の間に案内しました。するとやもめたちはみな泣きながら、彼のそばにやって来て、ドルカスがいっしょにいたころ、彼女が作ってくれた下着や上着の数々をみせました。この「見せる」という言葉は「自らみせる」という意味で、「この上着」、「この下着」と言って見せたということです。おそらく彼らは、ペテロに、「今着ているこの下着、今身につけている、ほれ、この上着も、彼女のおかげです」と言って、涙にくれながら見せたのでしょう。ドルカスは病気で死にもうこの地上にはいませんが、生前彼女がした多くの良いわざと施しは、こうした人たちの心に深く刻まれ、彼女が死んでからも彼女の回りに多くの人たちわひきつけ、捕らえて止まなかったのです。まさにヘブル11:4に、「彼は死にましたが、その信仰によって、今なお語っています。」とある通りです。教会の歴史は、このように主に忠実に従い、主の愛を分かち合って生きた多くの信仰者たちの愛の証によって刻まれていくのです。41節を見ると、彼女が生き返った後に家族が出てきておりませんから、もしかすると彼女は結婚もしていなかったか、それとも結婚はしていたものの夫に先立たれ彼女自身もまたやもめであったのかもしれません。そんな中でも彼女はその生涯を主イエスと主の教会に捧げ尽くし、貧しいやもめたちのために、苦しんでいる人々のために、多くの良いわざと施しを通して献身的に奉仕していたのでしょう。彼女の周りで涙を流す人々の姿が、彼女の献身の生涯がどれほどのものであったのかを表しています。

 けれども、アイネヤを病の床から立ち上がらせた主イエスは、この主の弟子タビタ、ドルカスを過ぎ去った過去の証人のままで終わらせことをなさいませんでした。40,41節をご覧ください。

「ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そして遺体のほうを向いて、『タビタ。起きなさい』と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。」

 屋上の間に到着したペテロは、みなの者を外に出すと、ひざまずいて祈りました。そして死んでそこに横たわっていたタビタに向かって、「タビタ。起きなさい」と言いました。すると彼女は目を開け、ペテロを見て起き上がったので、ペテロは手を貸して彼女を立たせました。このペテロのやり方は、かつて会堂管理者ヤイロの娘が死んでしまったとき、主イエスが彼女を生き返らせたやり方とそっくりです。(ルカ8:41-56)。主イエスがその家に入られると、ペテロとヨハネとヤコブ、それにその子の両親以外のほかは、だれもいっしょにいることをお許しにならず、みんなを外に出されました。それから、ここで言われた言葉もそっくりです。主イエスは「タリタ、クミ」、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。さらに、主イエスが彼女を立たせたとき、手をとって立たせられましたが、それも同じです。何もかもそっくりなのです。

 しかし、一つだけ違いがありました。しかもその一つの違いはこの奇跡の根幹にかかわる大きな違いです。それは何かと言うと、主イエスはご自分の力で娘を生き返らせたのに対して、一方のペテロは、ひざまずいて祈り、主に願ってから「タビタ。起きなさい」言っている点です。つまり、主イエスの「タリタ、クミ」は、「わたしが立たせるから、少女よ、起きなさい」と言われたのに対して、ペテロの「タビタ、クミ」は、「主が立たせてくださるから、タビタよ、起きなさい」という命令でだったのです。そういう意味では、アイネヤを立ち上がらせたとき、ペテロは彼に「アイネヤ。イエス・キリストがあたなをいやしてくださるのです」と言いましたが、この奇跡はそれと全く同じ内容だったわけです。それはどういうことかというと、この奇跡を行った主人公はペテロではなく主イエスご自身であられたということです。主イエスには人を立たせ、死人の中から生き返らせるほどの力があるということです。ペテロではありません。主イエスです。主イエスは会堂管理者ヤイロの娘を起き上がらせた時と同じように、ペテロを用いて彼女にいのちを取り戻させ、ご自身がかつて死者の中から初穂としてよみがえられたように、彼女をその床から起き上がらせなさったのであります。

 Ⅲ.キリストのいのちに生かされて

ですから第三のことは、キリストのいのちに生かされてということです。42節をご覧ください。

「このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。」

 これはペテロがタビタを生き返らせた目的です。このことがヨッパ中に知れ渡りますと、多くの人々が主を信じました。「今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。」とあるように、また、「しかり。彼らはその労苦から解き放たれて休むことができる」とあるように、タビタにとっては死のかなたでいこわせていただいた方がずっと幸せなことだったのに、なぜ生き返らされなければならなかったのでしょうか。それは、そこに彼女の死を嘆き悲しむ人たちがいたからです。彼女なしには教会が大きな傷手を被るからです。ですから、ペテロはタビタが生き返った時彼女を彼らに見せたのです。(41節)これまで主に忠実に仕えてきた生涯を突然の病によって終え、今はただ人々の思い出の中でしか生き続ける存在でなかったタビタ。永遠の希望のない世界では、結局のところ、人の生涯は決して死の現実を乗り越えることができませんが、そんなタビタを主イエスが再び死の床から起き上がらせてくださることによって、単に人々の思い出の中に生き続ける過去の人としてではなく、今生きておられる主イエス・キリストのいのちによって生かされることの恵みと力を証しする人として、死の絶望の中から再び起き上がらせられたのです。

 それはアイネヤの奇跡も同じです。35節を見ると「ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返った。」とあります。中風で8年間も寝たきりの生活をしていた彼は、将来に夢も希望も持てず、ただ人々の慰めや気休めの言葉にすがり、人々の助けや施しを当てにして生きるほかない者でしたが、そんなアイネヤを主イエスが立たせてくださることによって、それを見た多くの人に希望をもたらすことになりました。それは、主イエスは私たちをいやすことができる方であるという希望です。

 しかし、それはアイネヤやタビタだけではありません。彼らを立ち上がらせ、起き上がらせた主イエス・キリストは今なお、聖霊を通して、あるいは主の復活の証人たちを通して、その証人たちの周りにいる人たちをもこのいのちに生かすことがおできになるのです。聖書が語り続けてやまない良き知らせ、福音のメッセージ。それは主イエス・キリストを信じることによって人はまことのいのちに生きることができるということです。罪の中に死んでいた私たちの心が、タビタのようにもう一度生きる者とされるのです。さまざまな病気や悩み、傷によって縛られたいた私たちの心が解放され、アイネヤのように立ち上がることができる。そのスタートはどこからでも始まります。たとえそれが絶望と死の床からでも、主イエスを信じるなら、人はこのいのちによって絶望の床から立ち上がり、死の床から起き上がることができるのです。そのことを見て、そのことを聞いて、多くの人々が主に立ち返り、主を信じたように、この朝、皆さんにもぜひこのいのちを受け取っていただきたいと思うのです。そして新しく始まるこの一年が、主によって生かされる一年であっていただきたいと切に願うものです。